最初の一歩



「……本当に行かれるのですか? ハルトさん」

 空を見上げる僕の後ろから、ツバサさんが心配そうに訊いてきた。白いコンクリートで整地された作業現場には、すでに作業員の方々が数十名集まってきている。

 視線の先には、アヴァン大陸が昔と変わらずに在る。

 かつて我が家の裏庭だったこの空き地から、僕は三十年前に交わした約束を果たしに行く。正面には緑の塗装がされた鉄鋼の巨塔がそびえている。僕はこの『マメノキ』を上ってアヴァンの地上に辿り着く。

 マメノキの設計の大部分は、僕の父さんが手掛けてくれた。

 骨組みの形状は手足が掛けやすいように工夫されており、上層は接続されたレバーを倒すことでゆっくり伸びていく仕組みになっている。いきなり高い建造物を見える高度まで作れたとしても、アヴァンの人達はびっくりするだけだろうから。少しずつ近付く手段を用いたうえで、直接話すための僕が行かなければ意味がないのだ。

「だからって生身で上ろうとしますかね普通? 落ちる以前に酸欠で死にますよ」

 計画段階でそう苦言を呈したのは、僕の試みに厚く賛同してくれたツバサさんである。彼はアヴァンとの和解を公然と訴えた僕に影響されたらしく、学生時代から土木工学を学んで僕の仕事仲間になってくれた。

 身を案じてくれるツバサさんに、僕は端的に教えた。

「花弁の力を借りて行きます。疲労の回復も狙えますから」

 風はもうすぐ穏やかな向かい風になる。アヴァンへ上るために一番重要なのはおそらくタイミングだ。僕がマメノキを上り始めて、上の方へ来た時こそ花弁を浴びられるようにしたい。そのため時間ごとに誤差なく花弁が降る位置を何度も計算してきた。そのうえで、僕は花弁が降るタイミングに間に合う速さで上らなければならない。

 それでも花弁を浴びられない位置はどうしても存在するから、いつでも自分で摂取できるように、拾いたての花弁を集めた袋を背負って行く。軽量の酸素ボンベみたいなものだ。もちろん、僕自身も高地トレーニングを欠かしていない。

「色々と理屈は捏ねましたが、まだ理想論だと今も思います。せめて足に巻いたロープは解くべきでは?」

 ツバサさんが僕の右足首を指す。そこには頑丈なワイヤロープが括られており、後方で数名の作業員が適度に張れるよう握っている。このロープは、アヴァンの人達が降りていくための梯子代わりに使う。

「こちらはどうしても必要なんです。アヴァンの人達も下界を行き来できなければ、平等ではありませんから」

 確かに気休めに過ぎない物だけれど、重量が許す限り取れる範囲の方策は取りたかった。ツバサさんは苦そうに唸り声こそ上げても、直接反対してくることはもうなかった。

「失敗してあなたに何かあれば、奥さんや娘さんも悲しむでしょうね」

「そうですね。娘に格好悪い姿は見せられません」

 正面を向いたまま返すと、後ろからため息が聞こえた。……直前に不謹慎な発言をする癖は、後で少し注意した方が良いかもしれない。

 やがてツバサさんは、折れたと言わんばかりにおどけた調子で言った。

「まあ、それでこそですよ。後のことは我々に全部お任せください」

 僕は思わず笑みをこぼした。

 時間はまだ少しある。僕は一度だけ振り返って、持ち場に戻ろうとするツバサさんを引き止めた。不謹慎なのは僕の方かもしれないけれど、もしもの時のために一つだけ、今のうちに彼の誤解を解いておきたいと思ったのだ。

「ツバサさん。僕がここまで頑張ってこれたのは、アヴァンへ上るという夢のためだけじゃないんです」

「……どういう意味です?」

 首をひねるツバサさんに、僕は続けた。

「最初はアヴァンの人達を苦しみから解放したい一心で頑張ってきました。ですが、そんな固い義務感だけでは息が続かないことが分かってきたのです。僕が今でも頑張れているのは、ツバサさんや皆様に感謝しているからです」


 体が強張らないよう深呼吸をする。

 今更思い返すまでもないけれど、これからの挑戦には危険を伴う。万全に近い体制で挑むとはいえ、言ってしまえば僕も正直怖い。いくら夢のためとはいえ、できれば僕だって命までは賭けたくない。救いに行く相手の素性も何も知らないのに頑張るなんて、馬鹿らしいと思うこともあった。

 けれど僕には支えてくれた人達がたくさんいた。今でも味方でいてくれる人達もいる。

 父さんは悩みながらも僕の目指す道を認めてくれた。母さんは僕を守るために苦しくても耐えてくれた。ツバサさん達は技術で僕の背中を押してくれる。今やこの挑戦は僕だけのものではなくて、ごめんなさいを言うためだけのものでもなくなっている。

 生きて支えてくれる皆にありがとうと叫びたい気持ちが、頑張り続けるための力をくれる。

 約束したあの日よりも、強く思う。僕はアヴァンに辿り着きたい。悲しみから解放されたアヴァンをこの目で見てみたい。世界はもっと広げた方が、きっと楽しいだろうから。


 マメノキの骨に手を掛ける。

 僕は最初の一歩を踏み出した。



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虚空のアヴァン 憂杞 @MgAiYK

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