先生の言うことは正しい。もし未来にて些事に怒りを覚えたならば、以前の歴史を忘れて同じ暴力が起こりかねない。それを防ぐためには、誰もが争いの無価値さを理解している必要がある。

 俺自身の過ちも、いつか息子にこそ伝えるべきだと分かっていた。なのに、俺はその時をどうしようもなく恐れている。まるでこの世の終わりを目前にするかのように。

 誰もが憎しみや悲しみを乗り越えて変わろうとしている。けれど俺には、未だに心の準備ができていない。

 いつか俺の罪を打ち明けたら——息子は愚かな父を持つ自分を呪いはしないだろうか。

 俺は九年前から何も変わっていないのに。

 俺は本当に、息子の父親でいて良いのだろうか。

 目先の利益に目を眩ませ、妻子を死なせかけた父親の下で、息子は正しい道を歩めるだろうか。

 すくすくと大きくなっていく息子の横で、俺は一人取り残されたように虚しく在り続けている。


 それから、校外学習当日のこと。

 息子は高熱を出した。

 俺は朝早くから息子を総合病院へ送った。診察して頂いたところ、どうやら風邪らしい。粉薬を処方されお大事にと言われるとすぐに帰宅した。顔を赤くした息子は終始ぐったりと項垂れ、足取りもおぼつかない。心配した妻がしばらく院内にいるよう提案してきたが、そこまで世話にはなれないと言って断った。

「花びらは使わなかったの?」

 珍しく強い語気で妻に責められ、初めて花弁の存在を思い出した。袋も今日は持ってきていない。集める係を息子に任せてきたせいで忘れていた。確かに、花弁を使えば炎症の治りは早められる。ただ内科医の診断では、感染菌を抑えるために一日は休ませるべきだという。

 校外学習は休むことになった。

 俺は息子の体調を案ずる一方で、密やかに安堵していた。

 その感情がいかに滑稽かは自覚している。結局はすべきことを先延ばしにしたに過ぎないのだから。しかし、代わりにいつ息子に事実を伝えるかの見通しは未だ立たない。

 自宅に戻ると息子を子供部屋のベッドに連れていき、朝食後の薬を飲んで寝てもらった。俺はパートを休むことを連絡するために居間で電話をかける。俺が休みを取ることも息子が風邪を引くことも初めてであり、労りの声にお礼を返しているうちに長電話になってしまった。

 ようやく受話器を置いたところで、裏口の鍵を息子が持ったままであることを思い出した。花弁拾いの当番として施錠管理もすべきという教えから、息子は学習机の引き出しに鍵を仕舞っていたはずだ。風邪を早く治す花弁を集めるためには、いったん息子の元へ戻らなければならない。

 俺は忍び足で子供部屋に入り、固まった。

 ベッドに息子の姿がない。

 なぜ? 疑問ばかりが浮かび、すぐには動けなかった。少し経って向かいの自分の個室を覗いたが息子はいない。真っ先に考えついたトイレにもいない。玄関にも、居間にも当然いない。

 ふと気になって学習机の引き出しを開けてみると、鍵がなくなっていた。

 嫌な予感がする。理由が曖昧なまま緊張に身を震わせ、台所へ向かおうとした時だった。

 息子の悲鳴が聞こえた。寸分遅れて、がちゃんと物の割れる音。

 裏庭からだ。俺は慌てて裏口へ駆ける。最悪の事態が頭をよぎり、ほとんど冷静ではなくなっていた。

 アヴァンからは時折、今のようにが落ちてくることがあった。恐らくは住民の過失ゆえに。その多くは人の持ち物であったが、極稀に人自体が落ちて亡くなった例もある。何にせよ、空から頭上に落ちてくれば一溜まりもない。

 我が家の裏庭にも落としものが多く危険であるから、息子には軒下から外へ出ないよう幾度も言い付けてきた。

 なのに息子が叫んだということは——

 なぜ傍で見ていてやらなかったのだ。俺は今度こそ俺のせいで、家族を殺してしまうのか。

「ハルト!」

 戸を開け放つ。鍵は開いている。

 息子は庭の中心に尻餅をつき、空を見上げたまま放心の態をしていた。

 投げ出された爪先のすぐ前には、陶器と思わしき色鮮やかな破片が無数に散らばっている。

 やがて息子が恐る恐るこちらを向き、恐怖と発熱で汗まみれの顔を見せた。

「……ごめんなさい」

 低い声でそう呟くと、息子は重い腰を上げて軒下へよろよろと歩いてくる。

 一言叱ってやるべきだっただろう。しかし俺はただ横目で息子を見ながら、呆然と裏庭一帯を見るばかりだった。息子が無事だと分かってもなお、喜びより驚きが勝っていた。

「ハルト……何だ、これは」

 俺は庭一面を見たまま問いかけた。視界には陶器の破片ではなく、その周囲が映る。

 まるでジャングルの奥地だった。

 土だけの更地だったはずの裏庭に、覚えのない植物が幾つも幾つも茂っている。

 枝葉と同じ色の支柱に巻き付いた蔓草。赤と白の小さな花の群衆。隅で細い幹をこしらえた若木。土一面に広がった落ち葉の絨毯。

「どこからこんな植物を……」

「植物園の売店で売ってた」

 思わず疑問を漏らすと、息子が俯いたまま流暢に答えた。

「父さんが好きなものを買わせてくれたから。種を植えるところから始めたけど、花弁のおかげで普通より早く育った」

 奥でカーテンのように連なる蔓草をよく見ると、ほとんどが栽培用の豌豆エンドウだった。俺は幼い頃に息子が読んでいた絵本を思い出す。貧しい少年が大きな豆の木に上り、未知の国へ行く物語。

「豌豆を高く育てるには支柱を立てなきゃいけないんだって。育て方を書いた本は図書室に何冊かあった。……植物も生きているから無理には高くするなって、タイキ先生には言われたけど」

「タイキ先生が? いつから育て始めた?」

「三年生になった春から」

 俺が花弁集めを一任するようになった時期だ。あれから二年半もここで植物を育てていたというのか。

「僕は、どうしてもアヴァンに行きたい」

 息子が俺を見上げて言った。自分の耳が信じられなかった。あの童話が作り話だと幾度も聞かされたはずなのに、息子の声は毅然とした響きを持っている。

「だからって、なぜこんなことを? 落としものの落ち所が悪ければ、いずれは台無しになってしまうんだぞ?」

「それでもいつかは行けるようになりたい」

 割れ物が落ちて危険な目に遭ったことが嘘のように、息子は臆さずに言う。

「アヴァンが僕と母さんを助けてくれたから。それなのに、島のみんなでアヴァンを傷付けたって先生が言うから」

 ああ、そうか——息子は既に知っていたのか。

 子供の好奇心を甘く見ていた。息子は二年半もの間、どんな思いでアヴァンを目指した? 否、自分で花弁を集めると言い出したのは一年生の頃だったから、もっと長かったかもしれない。息子はどれだけの間、一人で抱え込んできた?

「父さんも、連れて行きたい」

 次に吐き出された息子の言葉には、子供のわがままのような切実さを孕んでいた。俺は何も言わず息子の声を受け止める。受け止めなければならない。

「父さんもアヴァンに行こう。アヴァンの人達にちゃんと会って、ごめんなさいって言いに行こう」

 俺は、父親を名乗ることを情けなく思った。何年も傍で過ごしてきたはずなのに、息子の成長にまるで気付くことができなかった。

 こんな愚人に何ができるというのだ。なけなしの才能を暴力のために使い、命を金の代償として見てきた俺が、何を以てすれば偉大な彼を支えてやれる? どうすれば、彼と同じ夢を見る自分を許してやれる?

 ……変わりたい。

 今やアヴァンにも助けられてばかりだ。いつか助けられるだけではなく、助け合えるようになりたい。見上げるだけではなく、越えられるようになりたい。

 俺達は変わろうとしているのだと、アヴァンの人達に伝えに行きたい。

「ハルト。いくら花弁の力があったところで、人が植物を伝って天へ上ることはできない」

 俺は上空のアヴァン大陸を見上げる。高度一〇〇四二メートル。俺が陸地に鉛弾を当てるために頭に叩き込んだ数字だ。

「先生が言うように育つ高さにも限界があるからな。絵本に描かれているようなおとぎ噺は、大抵が起こり得ない夢物語だ」

「でも、僕は……」

 そんな雲を超える高さを下界から目指すなんて夢物語だ。けれど——

「それらを実現させるための、物造りだ。ハルトは夢を叶えるために頑張れるか?」

 人は未来に無限の可能性を秘めている。次の世代を作っていく力も、歴史を語り継いでいく力も残されている。だから俺達はどこまでも夢を思い描ける。

「……頑張れる!」

 息子は目を輝かせて答えた。こうも弾んだ笑顔を見るのは初めてだった。

 風向きが変わり、向かい風が吹く。つられて舞い降りた花弁の一片が息子の頬を撫で、熱に苛まれた体をたちまち癒していく。俺と息子は澄んだ空気を胸一杯に吸い込んだ。

 薄桃色の雨が降っている。

 アヴァンは九年前から休むことなく、暖かな色の許しを乞い続けている。下界を知らないアヴァンの人々は、今でもかつて受けた業苦を恐れ続けている。

 我々が植え付けてしまった恐怖は、それぞれの意思で終わらせるべきだ。いつか同じ大地に立って、許しを乞うべきは我々の方だと伝えるべきだ。

 そして、願わくはアヴァンの民達と手を取り合い、ともに恒久の平和を守っていきたい。

 息子はまっすぐに立ち、晴れやかな面持ちで空を見上げた。その両目に遥かなる大陸を捉え、降り注いでくる花弁を見据えながら、呟く。

「いつもありがとう、アヴァンのみんな。そして——」

 待っててね。

 ハルトの決意を秘めた声は風に舞い上がり、遠い空へ溶けていった。


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