中
その大陸は雲のようにどこからともなく流れ、島国の西端から領土の七割を覆う上空で止まった。
太陽の光が遮られた西の地は影に覆われ、日が経てば風化した岩が砂礫となって降り注ぎ、作物は健やかに育たなくなる。ゆえに西に住む人達のみならず、作物を仕入れてきた東町の住民達も困窮した。
初めこそ不思議がられたアヴァン大陸は、次第に人々の精神を擦り減らしていく。その末に誰もが大陸の存在に辟易していた頃、「これは天からの侵略だ」という権威者の言説が支持を集めた。いずれは大陸そのものが落ちてくるかもしれない。すぐにでも排除しなければ自分達の命がない。——それが半強制的に人々の総意となった。
我々はアヴァンの存在を敵と見なし、実力行使に踏み切った。下からの砲撃により大陸の破壊を試みたのだ。
重工業に携わっていた俺は高い製造技術を買われ、大砲を売り出すことで破壊活動に加担した。俺の子供達は軍隊の号令により高らかに哭き、東部から着実にアヴァンの陸地を壊していく。
被弾により陸から離された岩盤は、重力を受けて島に襲いかかる落石となった。いくら厳重に安全確保をしようと犠牲者は絶えない。それでも一挙に島の大半を潰されるよりは良かった。音を上げ中止を呼びかける一部の民を黙殺し、破壊は続く。
岩以外のものが落ちてきた時、我々はアヴァンに人が生きていることを初めて悟った。
これを転機に中止を求める声は増えたが、上層部はさらなる破壊を命じた。殺戮を続けることに非難が浴びせられようと砲撃は止まず、折り重なった骸の上から岩盤が降り積もる。もはやアヴァンが侵略か否かは二の次だった。我々は奪ってしまったものの重さに、目的を果たすことで報いようとしていたに過ぎない。
けれど俺は、顧客がいかに人道を外れようと、受注した通りに大砲を造り続けた。連日、朝から翌日まで働き詰め、従来とは比べものにならない高利益を得ているうちに、善悪の区別を付けることは放棄していた。
俺はただ、家族を養うことだけを考えていた。二ヶ月後に息子の出産を控える妻を苦労させないために、息子が心置きなく勉学に励むために、できる限りの稼ぎを得る。ただそれだけを、俺が製造という仕事にかける意義としていた。
妻がいる東町の病院が倒壊した時、全ての意義が崩れた。
現場付近へ視察に来ていた俺は、多くの死傷者が出た事故の惨状を目の当たりにした。避難指示を怠った区域にある総合病院に落石が直撃し、中にいた患者や医師達が等しく瓦礫の下敷きとなったのだ。
その内に倒れ伏す妻もいた。右の肺や肝臓が潰れるほどの重傷である。かろうじて子宮が無事だったことはせめてもの幸いと言えたが、無我夢中になってその身から瓦礫をどけてもなお、手遅れな状態であることは明らかだった。
俺は無力だった。どうしようもなかった。ただ絶望に暮れるしかなかった、その時である。
一陣の風が吹いた。
風は澄んだ匂いとともに、ひらめく花弁を連れてくる。その一片が妻の頬に触れると、ぴくりともしなかった口から苦しげな呼吸が聞こえた。妻が息を吹き返したのだ。
俺は急いで花弁が多く降る場所へ妻を運んだ。近くに足を負傷した外科医もいたため、肩を貸して応急処置を頼んだ。おかげで妻の顔色は次第に良くなり、やがて穏やかな寝息を立てた。
俺は安堵の涙を流しながら、家族を救った全てに感謝を述べた。
アヴァンの欠けた東端から降り注ぐ薄桃色は、暖かな光を放って見えた。
この奇跡から数日後、我々はアヴァンの破壊を取りやめた。癒しの花の樹を保護するためという名目で、俺を含む島民の大多数が賛同したことだ。アヴァン東部の欠落は島のほぼ中央までに留まり、我々は西の大地を捨て置くことになったが、名も知れぬ者達の命には代えられない。
妻は遠い東の婦人科に引き取られ、困難を極めながらも息子を産んだ。以後はそのまま療養に専念し、三年すると修築が進んだ総合病院に戻された。花弁の樹の近くに身を置くべきだからという判断である。
俺は樹の下に簡素な家を建てたのを最後に、職を手放した。
兵器製造の役目より解き放たれてから、振り返ることはいくらでもあった。我々の利己主義から推し進められた自陣の破壊は、アヴァンの人々にはどう映っただろうか。彼らは我々の真上に位置することで権利を侵し、報復を受けることを望んだだろうか。
アヴァンが我々に仕掛けた侵略とは、ただそこに在ることの他にあっただろうか。
争いに駆られる我々に、アヴァンはむしろ薄桃色の慈悲を返した。
アヴァンは雲の上の大陸。何人もその聖域に踏み入れられない。踏み入れたとしても、踏み入ってはならない。何人もアヴァンの平穏を、侵してはならない。
いつからかそんな歌が、島じゅうで歌われるようになった。
俺も同じだ。これ以上誰とも争いたくない。ただ自分と妻の子供を愛していたい。
見上げれば今日もまた、アヴァンからは花弁が雨のように降り続いているのだから。
*
あれから東町の人達にはいつもお世話になっている。総合病院をはじめ方々へ花弁を届け回るうちに、その御礼と言って家を空ける間に息子を預かって頂けたり、獲れたての野菜を分けてくださったりと、親切な人達が増えていった。庭に落ちてくる物を拾うだけでこうも感謝されるものだろうか。
男手一つでの育児は想像以上に難儀であり、周囲の助力なくしては続かなかっただろう。その甲斐あって、息子は無事に小学校へ行くまでになった。近隣に入学祝いを兼ねて礼がしたいと述べると、それぞれの家に招かれ御馳走を振る舞ってくださった。
時を同じくして、妻は自力で歩けるほどに快復した。しかし担当医の話ではまだ万全になったわけではない。そこで、妻はそのまま院内で事務職に就くと言い出した。これなら入院を続けているのと同じでしょう、という彼女らしい前向きな屁理屈である。今でも、週に一回の家族での見舞いは欠かしていない。
俺は町役場にて紹介を受け、土木工事のパートに就いた。担当区域は病院へ行く際にいつも通る道で、周辺に住宅や小売店を新設するための整地に人手が欲しいのだという。体力が物を言う仕事であり楽ではなかったが、息子が下校する前には上がれるなど待遇が良かった。施設の建設自体で声がかからなかったのは、俺の過去の務めを知ってのことだろう。実際、空を見上げるよりは地面を見下ろして働く方が気楽だった。
かつてほどの収入はないが、俺たち家族は慎ましく満ち足りた生活を送っている。
けれど、気掛かりなことが一つあった。息子のことである。
息子は小学一年生になったある日、自分が代わりに花弁を毎朝集めたいと申し出た。
「なぜ急にそんなことを?」訝しむ俺に息子はきっぱり答える。
「やりたいから」
「駄目だ。ハルトはまだ背だって低いだろう。効率が悪くなる」
「これからおおきくなるから!」
「言ったな? じゃあこれから沢山食べて運動して勉強もすることだ。分かったか?」
「わかったか!」
慎重になるべきところを勢いづいて許可してしまい、俺は身の安全確保を最優先で花弁集めを教えた。効率がどうのと言いはしたが、実際のところ同時期から医学会では新薬の開発が進んでいるらしく、花弁にはかつてほどの需要がない。そのこともあって息子可愛さに気を許してしまったのだ。
翌日すぐ妻に相談すると、「ハルトなりにお父さんを手伝いたかったのかも」と笑いながら言っていた。本人の態度からして憶測だろうと思いはしたが、万一その通りならば我が子の成長を喜ばしく思うべきだ。そんな浮かれ気分のせいで、クラスの他の子達が絶対にやらないであろうことを教えて良いのか? という、一番肝心な疑問を呈することは忘れていた。
しかし俺の心配とは裏腹に、息子は健康で真面目な子に育った。担任の先生が言うには集中して授業に取り組んでいるらしく、持ち帰ってくる国語や算数のテストもほとんどが満点を取っている。
すかさず報告すると妻は手を叩いて喜び、「ちゃんとご褒美あげなきゃ駄目よ?」と嬉しそうに言った。厳しくしすぎることの危うさを知る俺も妻に賛成する。仕事がない休日には要望通りに動植物園へ連れて行き、息子の好きなように過ごさせた。花弁集めのこともきっと大丈夫と思い任せきりにしてきた。そうして、つい甘やかしてしまっていた。
ところが三年生になった年の授業参観でのこと。教室の後ろや廊下から三十名余りの大人達が見守る中で、息子は算数の授業中に余所見をしていた。
息子はずっと窓の外を見ていた。担任のタイキ先生が黒板に式を書いている間も、他の子が発言している間も、息子は首を上に向けて外ばかり眺めている。
「ハルト、どこ見てるんだ?」
たまらず声を上げてしまった。
息子ははっとした様子で黒板へ向き直ってくれたが、その後ろ姿を親御さん方が続々と睨む。突き刺さる視線は見ているこちらが痛かった。
「ハルトくん、この式をどうやって解くか分かりますか?」
先生が落ち着いた声音で訊くと空気が和らぎ、計算式に注目が集まる。息子が「わかりません」と言うと、再び最初から解き方を教えてくださった。その後の息子は努めて黒板を見るようにしていたが、時折やはり外を気にする素振りを見せていた。
授業後、廊下へ出た先生に俺は頭を下げた。
「すみません、先生。ハルトは幼い頃からああで……」
慌てて口走った幼い頃とは、父母ともに手を焼くほどアヴァンに夢中だった頃のことである。息子は物心ついた頃から空を仰いでいた。その両目で捉えていたものは、いつだって同じ大陸である。
「ハルトくんはよほどアヴァンのことが気になるのですね」
先生も息子の執着に気付いていたらしい。教室の開いた磨りガラスから覗く先生につられ、一緒になって向こう側の窓の外を見る。
薄桃色の花弁と大陸が、遥か遠くに見える。
学年が上がったことで通う教室も上の階になり、距離が近付いたことで息子の気も引かれたのかもしれない。病院より倍ほど離れた校舎からだというのに、降りしきる無数の花弁は妙に鮮明に見えた。
周りの親御さん方が帰られる中で、先生が出し抜けにこんなことを言った。
「実は、小学五年の秋のことですが、うちの学校では校外学習へ行くことになってまして」
「校外学習、ですか?」
藪から棒な知らせに面食らった。それが通例であるとは分かっていたが、なぜ二年以上先の予定を今言うのだろうか。話を切り出そうとする先生は、何やら深刻そうに眉根を寄せている。
「その行き先というのが、ここから北東にある墓地公園でして。この地で亡くなったアヴァンの民一人一人が眠る場所です」
俺は言葉を失った。先生はこちらに向き直って続ける。
「その付近に講演会場がございまして、軍の元幹部である方が九年前——島の住民がアヴァンの破壊を望んだ当時についてお話をされます。起きたこと全てとまではいきませんが、少なくとも破壊のためにあなた達の兵器が開発され、大勢の犠牲者を出した事実は伝わることになるでしょう」
先生が講演をする話者の名前を言う。俺の元顧客の一人であるとすぐに分かった。教室内では息子が依然として空を見上げており、俺は今すぐにこの場から逃げ出したくなる。
「レンリさん。おつらいとは存じますが、私達と同じ過ちを子供達にさせないためには必要なことです。皆がいつまでも平和に生きていくためには、それぞれが平和の尊さを知っているべきなのですから」
言い終えてから先生は教室の壁時計を見ると、口調に普段の温かさを取り戻し、こちらに一礼して告げる。
「校外学習について詳しくは追ってご連絡します。それでは、私はこれから次の授業がありますので」
先生が職員室へ歩いて行った後も、俺はしばらく廊下で立ち尽くしていた。
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