虚空のアヴァン
憂杞
上
薄桃色の雨が降っている。
寝室の窓から朝景色を見た俺は、着替えもせずに裏口から軒下へ出た。庭一面の土にはらはらと落ちてくるのは、無数の花弁である。それらは一帯に影を落とす西の更地を背にして、一つ一つが淡い光を放っていた。
俺はポリ袋を持った両手を正面に突き出し、その大口を開いて迎えた。幸い、今は穏やかに風が吹いている。花弁は風向きに沿って袋の中へ吸い込まれてくれる。
袋の外へこぼれた花弁は、たちまち土に溶けて消えていく。まるで海原に落ちた雫のように跡形もなく。
庭の奥で蝶が飛んだ。
その周囲からも別の蝶達が次々に飛び立つ。きっと羽休めのためにこの庭を訪れたのだろう。送り出すようにけらが鳴く。肥えた土の匂いが漂う。この場に息衝く自然は皆、全てが生き生きと感じられた。
俺は視線を落とし、袋に花弁が溜まっていく様子を見守りながら、呟く。
「お恵みに感謝します……アヴァンの民よ」
空高くを見上げる。流れる白雲のその先を。
そこには大陸が浮かんでいる。
花弁が降り注いでくる西の方角——敷地外に広がる西の大地一帯を覆うように、巨大な岩から成る大陸が上空で静止している。
遥かなるアヴァン大陸の東端には、癒しをもたらす花の樹が植わっている。見上げたところで根に似た岩肌の他に何も見えないが、この島で有り余るほどの奇跡を起こす花弁と樹の存在は、誰もが認めていた。花弁は春夏秋冬も昼夜も問わず、毎日絶えることなく降り続けている。
やがて袋の中身が満杯になると、俺は追加の袋を取りに戻ろうと回れ右をする。
そこで、背後からこちらを見ていた息子に気付いた。
「ハルト、起きてたのか」
パジャマ姿のまま寝ぼけ眼で見てくる息子に、困り気味になりながらも声をかける。ぽかんと開いた口はそれに応えることなく、うわ言のようにいつもの言葉を発した。
「……あゔぁん。おそらのくに」
開いたままの裏口へ、そよ風に吹かれたように近寄ろうとする息子を、俺は片腕で遮った。
「駄目だ。庭に出たら危ないから」
静かに裏口を閉める。奥に窓が一枚あるだけの台所が、ほんの少し暗くなった。
「それより着替えて待っていなさい。朝ごはんは後で作るから、食べたらすぐ母さんに会いに行くぞ」
息子は呆けた様子で裏口の戸を見つめていたが、しばらくすると頷いて言った。「あさごはん、きょうもめだまやきある?」
「もちろんだ」俺は不器用に笑って応えた。
東町に通じるひらけた道路へハンドルを切り、二十分ほど走って十三階建ての総合病院に着いた。早いもので内外の修築はおおかた済んだらしく、白い外壁が晴天の下で眩しく照っている。
屋外駐車場に愛車を駐め、荷室から花弁を詰めた袋の山を降ろしていく。そこへ、アスファルト上を転がる軽い音が聞こえてきた。入り口から事務服を着た女性受付員が台車を押して歩いてくる。
「いつもありがとうございます、レンリさん。運びます」
「こちらこそ。乗る分だけで結構です」
そのまま院内に入ると、奥の廊下から白衣を着た職員が来て会釈をした。こちらの青年は半年前からここで働き始めた調剤師だという。俺が手に持った花弁入りの袋を彼に渡すと、受付員と二人で下りエレベーターに乗って行ってしまった。
俺は見送ると息子とともに面会手続きを済ませ、最上階にある個室へ向かった。妻が入院している病室である。
「キズナ。……調子はどうだ?」
静かに戸を開けて入室する。ベッドに入って窓の外を見ていた妻は、こちらを振り向くなり優しく微笑んだ。彼女の淑やかながら明るい印象は出会った当初から変わらず、いつでも包み込まれるような安心感を与えてくれる。
「うん、おかげさまで。今日も花びらを取ってきてくれたんでしょう?」
妻は真横にある床頭台の引き出しから錠剤のシートを取り出した。中に控えている長円形の錠剤は、全てがあの花弁と同じ薄桃色をしている。
アヴァンの花弁には触れた生物の体を癒す不思議な力がある。疲労回復を促すだけでなく、細胞に作用することで傷の治りも早めてくれる。俺を含む西付近の数世帯が病院に花弁を持ち寄ることで、多くの命が救われているのだと妻から幾度も聞いた。
ただし、花弁は一部の樹脂以外に触れると溶けてなくなってしまう。袋の中に集めた花弁もそのままでは一日ももたない。常温に晒すのはもちろん、冷凍庫に入れても翌日には空になっている。
その欠点を解消するために、総合病院の地下には専用の製薬設備が作られた。そこで必要成分を抽出し固形化することで、花弁はもう半月ばかり保存が効く薬剤に生まれ変わるのだ。
「ああ、まあ。不足しているとの連絡はないか?」
「全然。むしろ余って堆肥に回されることが多いみたい」
「そうか? どうりで道中の草木が育ってたわけだ……」
花弁の治癒作用はあらゆる動植物に効果がある。ゆえにその需要は医療面に留まらず、干ばつや冠水が起これば車で一時間かかる農場へ届けることもある。最近はあまり声がかからない気はしたが、妻が言うように病院が余りを譲っているからだろうか。
首を傾げる俺をよそに、腰のすぐ隣あたりを見下ろしていた妻が、悪戯っぽく猫のように笑った。
「それより、ハルトっ。久しぶりっ」
「ひさしぶり!」
呼ばれた息子もまた奔放な猫のように、ぱたぱたとスリッパの音を立てて妻のもとへ駆けていく。五歳になっても相変わらず母に対しては甘えん坊だ。抱き合う二人の笑顔はあまりに眩しく、思わず息を漏らしてしまう。
妻が言うには、今日のように三人が揃う日ほど待ち遠しい時はないという。俺は花弁を持って毎日この病院に行き付けているが、息子は保育園に通うため日曜日しか妻に会えないのだ。最初は週に一度のことで大袈裟だと苦笑したものだが、彼女が毎日過酷なリハビリに励んでいることを思えば無理もないのかもしれない。
それほど家族との時間が安らぎとなるならば――俺が妻から奪ってしまった本来の自由は、どんなに貴重なものだっただろうか。
「きゃっ! ……ちょっとハルトー、くすぐったいよー」
急な悲鳴に驚いて見ると、息子がベッドの真ん中にうつ伏せで乗りかかっていた。まだ癒えていない上腹が圧迫されていることを想像し、俺は慌てて叱咤する。
「おいハルト、母さんは怪我をしてるから……」
「いいのいいの、元気そうで何より……けほっけほっ!」
苦しそうに噎せながらも、妻は顔を綻ばせている。
息子はそのまま腹這いでベッドを横切り、向かい側の窓がある壁際に立った。スリッパを履き直すとこちらを振り返ることなく、食い入るように窓の外の遠いところを一心に見つめる。俺と妻も一緒になって外を眺める。
薄桃色の花弁と大陸が、遠くに見える。
「ハルトのアヴァン好きは母譲りかもな」
「また言ってる。この子は私以上よ」
俺からすれば五分五分である。アヴァンにより近い場所にいたいがために、病室の最上階を特別に所望したほどなのだから。
けれど実際のところ、息子の抱く好意は妻とは違うものだろう。保育園の先生が言うに、アヴァンの不思議さにそそられる子供は多いらしい。命を直接救われた妻とは違って、花弁の薬性もよく知らないであろうハルトもまた、無重力の謎に興味を引かれる一人に過ぎないのかもしれない。
一方で俺は、今でもアヴァンを見るたびに胸が痛む。可能ならすぐにでも存在を忘れてしまいたいくらいに。
「おとうさん」
不意に呼ばれて視線を下げた。
こちらへ向き直った息子は――いつの間に本立てから抜き取ったのか、両手に馴染みの深い絵本を抱えている。つぶらな両目がまっすぐに俺を見上げる。
「おにわでまめのきがそだてば、あゔぁんにもいけるようになる?」
絵本の表紙にはタイトルが大きく書かれている。『ジャックと豆の木』。息子が年少の頃からよく読んでいた童話だ。息子はこの絵本を読むたびに、必ず雲の向こうのアヴァンを思い浮かべていた。
妻が居た堪れないといった目で俺を見る。
俺は無言で首を横に振って返した。自分がどんな表情をしていたかは分からないが、妻は一瞬だけ悲痛に眉をひそめた後、息子に向けてそっと笑みかけた。
「ハルト。それはおとぎ噺の中のことでね、本当は豆の木はそんなに大きく育たないし、人がお空へ上っていくこともできないの」
ごめんね、と妻はあやすように言って、息子の頭を撫でた。息子はされるがままに頭を下げている。
――いずれお父さんが豆の木を造ってくれるわ。
初めて息子が『ジャックと豆の木』を読んだ時を思い出す。今みたくアヴァンの名前を口にする息子に、妻は可愛がるように冗談を言った。大人げなかった俺は言葉の軽薄さが癇に障り、怒鳴り声を上げてしまった。
――言っただろ。もう製造業はしないと決めたんだ。
それ以来、妻は口をつぐむようになった。俺はまだ当時のことを謝っていない。再び同じ冗談を言われることばかり恐れて、それきりにしてしまっている。
病室が静まり返った折を見て、俺はぎこちなく口を開く。
「そろそろ、帰るよ。あまり長居はできないから」
「……ええ。また、明日ね」
妻は寂しそうに微笑んだ。
窓際に回って息子の腕を引こうとすると、妻から離れまいと反対の手がシーツを掴んだ。仕方なく抱き上げておんぶをしてやると、途端に大人しくなる。こうされれば敵わないと体が覚えてしまったのだろう。
「ばいばい、ハルト」
妻は個室の戸を閉める間際まで、笑みながら手を振っていた。
息子は下りエレベーターに乗る直前まで、名残惜しそうに妻がいる部屋の方を見つめていた。
我々がアヴァンの東部を破壊したのは、今から六年前のことである。
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