記憶なんてそんなもの……。

大学時代に、人称によって読者に想像させる登場人物の出自は変化する、という旨の講義を受けた記憶がある。なにせ、十年近く以前のことなので、散らかった机の中から、当時の資料を探すのも難しい。ただ、何となくそんな記憶があるということだけは確かだ。

記憶とは薄れいくものなのだ。僕が一生懸命に学んだことですら、磨り減って摩耗していくのだから、自分が自分を名乗る際に用いる人称の理由など、忘れてしまっても当然なような気がする。それが習慣になってしまっていたら、なおのこと理由などどうでもいいこととして、日々の生活のうちに埋もれてしまうだろう。

でも、きっかけや理由は確かにあるのだ。この小説に仄かな温かさを感じるのは、登場人物の辿ってきた歴史がおそらく明るいものだ、と予想されるからなのだろう。自身を愛称で呼ぶことを当たり前にしている人物。それをたしなめない人物。この小説の中に登場する人々の善良性を感じさせる。そっと包み込むような優しさが読み取れる。血が通っているといってもいい。何気ない日常の一コマだが、それを掘り下げて理屈に繋げようとしない所が魅力的だ。