さいごまであげをのこすわけ
志馬なにがし
さいごまであげをのこすわけ
「おあげちょうらい」
大学を卒業してすぐこどもができて結婚した。右も左もわからないまま新卒として社会に揉まれ、上も下もわからないまま育児に追われた。
こどもには
どんなに残業しても朝は保育園に連れて行くし、妻もどんなに仕事が溜まろうが、家に仕事を持ち帰って凪咲を迎えに行ってくれた。
必死だった。
社会に慣れること。
父親になること。
「世話と育児は違うの!」
「なんで自分の子に愛情が注げないの!」
学生時代から付き合っていた妻とは、恋人どうしのころよりもたくさん
愛情を
起こして、食べさせ、着替えさせ、保育園へ送る。休みの日は、公園に連れて行き、見守り、だっこと言われれば
目まぐるしい日々の中、タスクをこなしている感覚だった。
妻のように、言葉が話せないこどもの話を
俺は
そう思うようになった。
またたく間に凪咲は二歳になった。
凪咲はつたない言葉で
俺はまだ凪咲との距離感を掴めずにいる。
「らむうをたべるのはだめなんだよー」
「よちよちしててみずもってくるね」
土曜日。
妻は休日出勤していて、俺は子守りをしていた。
凪咲はちいさな2DKのすみっこで人形と会話している。俺から話しかけるわけでもなく、遊び相手になるわけでもない。時間がきたら昼食にし、午後は公園で疲れさせ、昼寝の時間にいっしょに寝るだけ。そういう予定。
俺は冷たいのだろうか。
意味のわからない幼児語をうんうんうなづきながらままごとに付き合うことが愛情なのだろうか。正解な気もするし、違う気もする。妻は平然とそれをするだろうし、俺にはそれができなかった。親としての自覚はあるかと問われたら自信はない。
昼食どきになり、棚からカップ麺をふたつ取る。
赤いきつねひとつに湯を
俺の赤いきつねにも湯をいれ、凪咲をこども用の
「おあげ、おいしい?」
うんうん、とうなづく凪咲は、自分で食べるとフォークを奪ってきた。あげが好きなのかあげから食べていく。
あげからあふれる甘い汁に凪咲の口元とテーブルは汚れていく。
あーあーあー、とつぶやきながら、俺は自分の赤いきつねのふたを開いた。
湯気が上がり、ふわっとだしの香りが広がる。
俺は赤いきつねが好きだった。とくにあげの甘い味付けがたまらなかった。いつか、あげを山盛りにして食べたいほど、あげを愛していた。
うどんとあげを交互に口にして、甘味、塩味、甘味、塩味をくりかえし味わう。その食べ方が好きだった。
こどもの世話をしながらの食事は息つく間もない。さっと食べて、凪咲に食べさせよう。
めんを引き上げて、ずずっとすすると、凪咲がじっと俺を見てきた。
「どうした?」
凪咲が俺の赤いきつねを覗き込む。
そして、こう言ったのだ。
「おあげちょうらい」
くもりのない
「はは、赤いきつねからあげを取ったら素うどんになっちゃうだろ」
「あついから、ここで冷まそうね」
あれほどなにを話せばわからなかった娘に、するすると言葉が出てくる。
「手を伸ばしたらだめだって」
「そんなにあげが好きなの?」
「パパといっしょだね」
胸がはずんでやれなかった。
この感情の正体を、
わが子に与えることがこれほどうれしいものなのか。自分をさしおく感情などまったくない、ただただ、満たされていく感覚がそこにはある。
二枚目のあげをおいしそうに食べる凪咲を見て、胸がいっぱいになった。
俺は欠陥人間なんかじゃなかったんだ。
そうつぶやくと、視界がにじんだ。
「ないてるの?」
「泣いてないよ」
心配そうな凪咲のあたまを
ダイニングからちいさな2DKを見渡すと、窓から光がさしてカーテンが揺れていた。外からこどもの声が聞こえる。
こどもの声に、今日は休日だったな、とあらためて気づく。
「おいち」
「ん?」
「おいちいね」
凪咲はにんまりと笑った。
その笑顔を見ると、忙しい日々を忘れることができた。
◆
駅にいくと、凪咲は沈んだ表情で大型のトランクを引いていた。
車に乗り込む際、ちいさく「ありがと」とつぶやいたあとは、会話はない。
夜道は暗かった。
少し前までは飲食店が
世界的な
大学は全面的にリモート授業になり、授業についていけなくなった。
本人は必死だっただろうが、あっけなく単位を落とし、留年した。
もともと
留年で学費が余計にかかる罪悪感と、アルバイトで生計が立てられない現実に、どうせリモート授業ならと、凪咲は実家暮らしすることに決めたのだ。
都会で
「やっぱり私、中退してもよかったんだよ」
湿った声がとなりから聞こえた。
凪咲は助手席で窓の外を見ている。
「学費のことは気にしなくていいから、もうその話はもうするな。それよりマンションを引き払ってよかったのか? ワクチンで落ち着くかもしれないぞ」
「けどこれ以上迷惑かけられないし」
高校二年のとき、凪咲が進学先を決めたときは全力で応援してやりたいと思った。深夜までがんばるわが子がつかんだ合格は、涙があふれるほどうれしいものだった。
ようやくつかんだ花の大学生活。
これまでのがんばりを知っている分、実家へ帰る選択は
「おなかすいた」
ぼそっと凪咲がつぶやいた。
「食ってないのか?」
「バイト先にあいさつしていたから」
どこか飲食店に入ろうとしたが、どこも時短営業のために空いていない。
ふたりでコンビニに寄ることにした。
家に帰ると妻が凪咲を出迎えた。
コンビニで買った赤いきつねをふたつ出すと、「あなたは夕飯食べたじゃない」と笑われてしまった。
妻は湯を沸かして、ふたり分作ってくれた。それから妻は凪咲の部屋を片付けに向かう。
俺と凪咲がダイニングにて赤いきつねを食べていると、凪咲がこんなことを聞いてきた。
「おとうさんさ。私を産まないって選択もあったじゃない」
「どうした急に」
「若いうちから私を育ててくれて、そういうこと考えたことないのかなって」
凪咲は俺の目を見なかった。
迷惑をかけているとまだ凪咲の胸の奥ではくすぶっているのだろう。
俺は箸を置いて天井を見る。
ちいさな2DKからこの一軒家に越してから、もう十年以上経つ。
いろいろなことがあった。
うれしいこと、楽しいこと、つらいこと、腹が立ったこと。主に凪咲のことだ。
「産まないとか想像したことないなあ」
凪咲が家にやってこなかった人生など、考えたこともなかった。
右も左もわからないまま新卒として社会に揉まれ、上も下もわからないまま育児に追われた。
必死だった。
社会に慣れること。
父親になること。
しかし、家に帰り、凪咲の笑顔を見ると、心は落ち着いていられた。
「そうか」
凪ぐ海のような
「産まれてきてくれて、ありがとうな」
「どうしたの、急に」
「いろんなこと考えなくていいから、食えよ」
ありがとうは言われてきたかもしれない。
けど、俺から凪咲へのありがとうは少なかった気がする。
だから、ちゃんと伝えておこうと思った。
「おとうさんってさ、おあげをいつも最後まで残すよね」
「ああ、俺、赤いきつねは好きだけど、あげが嫌いなんだよ」
いつも凪咲が欲しがるから、つい癖になった食べ方だ。うどんだけ食べて、あげはちょうだいと言われるまで口をつけない。そんな食べ方。
へんなの、と大きな口で笑う凪咲を見て、胸が満たされていく。
「ねえ、パパ」
凪咲がちいさいころと変わらない、にんまりとした笑顔で言った。
「そのおあげ、ちょうだい」
こういうのを、幸せって呼ぶんじゃないだろうか。
- fin -
さいごまであげをのこすわけ 志馬なにがし @shimananigashi
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