下 決別

 寒くて暗い場所と、みすぼらしい姿の老爺。それが、僕が微かに憶えている幼い頃の世界の全てだった。

 捥げそうなぐらい悴んだ手足を必死に擦りながら、手元が見えるのがやっとな暗闇の片隅で、僕はただ膝を抱えて。そうやって日々が過ぎるのをただ耐えていた。偶に現れる老爺の話が、唯一の娯楽。

「いつか貴方が下等な人類を滅ぼし、新たな世界を創るのです」

 ただし、その話はあまり面白くはなかったけど。

 老爺は人間を随分と嫌悪していたけど、当時の僕は老爺ぐらいしか生き物を知らなかったから、人間を嫌悪する理由なんて皆目見当もつかなかった。

 人間によって無残に殺された亜人達の話や、人間がどんな恐ろしい兵器で亜人の国を滅ぼした話を聞いても、それがどれだけ『悪』であるかなんて、『善』すら理解できなかった僕には、風の音と変わりなかったんだ。

 そうやって段々と生き物としての感覚が消えていく中で、暗闇に真っ白なものが迷い込んできた。それは美しい毛並みの狐だった。

 そっと彼に触れると、とても温かくて。僕は生まれて初めて、誰も傷つけない涙を流した。惨めな気持ち以外の感情によって流す涙は、ただしょっぱかった。善悪の判断が、ようやく理解出来た気がした。

 僕は、その日から毎日暗闇をかき分けてやって来る彼を大切にした。老爺に与えられる唯一の食料である肉を半分にして分け合うと、彼はお返しと言わんばかりに木の実を持ってきてくれる。僕は勿論、彼とそれを分け合った。甘い木の実は、とても美味しかった。

 意思疎通のできない彼に友情を抱いていたのを理解したのは、本を読むようになってからだ。その感情を知るには、あまりに遅かった。

「いけません。貴方は孤高でなくてはならないのです」

「このような存在に情けをかけるなど、言語道断です。これは弱い。貴方には必要ありません」

 べちゃりと、老爺によって冷たい地面に投げ捨てられた彼の毛並みは、赤黒くなっていた。

 誰かのための涙も害を与えない事、そして『死』を、僕はその時初めて知った。

 冷たくなってしまった彼を、嗚咽を必死に抑えながら食べた。美しかった冬毛を飲み込み、皮を噛み千切り、真っ赤な血を啜り、まだほんの少し温もりが残っていた柔らかな肉と臓腑を咀嚼し、骨を噛み砕いて、食べた。

 何の下処理もしていない彼の死体は、とても食べにくかったけど、それでも僕は食べた。地面に捨て置かれ、血肉が乾き、骨となるぐらいなら、僕が全部食べてしまう方がその綺麗な姿をずっと保てると思ったから。それが僕なりの彼の弔いだった。

 側にいた老爺は、そんな姿を何故か褒め称えた。老爺も骨さえ残さず食べられたかったのかもしれない。だけど、もう尋ねる事はできない。彼の死後からしばらくして、初めて僕を外に連れ出して塵芥街を訪れた老爺は、ジルに首を捩じ切られ、雷に打たれて死んでしまったから。


 いつも不安だ。僕の所為で、関わったもの全部が死んでしまうんじゃないかって。ジルにわざと怒って、決別するべきだ。マーニを上層に追い返した方が、彼女は幸せなんだ。そうやって、何度も他者との断ち方を考えた。

だけど、我儘で臆病者な僕は、どうしてもその決断ができないんだ。




 夢から醒めると、眠っているジルの顔が視界一杯に広がった。こうやって静かだと凛々しい見た目の青年なのに、言動が無頼漢な所為で台無しになってしまうんだ。

 さてと、雨はすっかり止んだみたいだし、瓦礫山に行こうか――……。


 あれ、マーニは?

「……マーニ? マーニ、いないの? マーニ! どこにいるの!」

「うっせぇな……。朝っぱらからなに騒いでんだよ」

「マーニがいない!」

「あぁ? 上に戻ったんじゃねぇのか」

「そんな、……それは、ありえる、けど」

「あんなの此処にいたって泥水啜る生活に堪えられねぇだろ」

「そう、だけど」

 たしかに、そうだ。此処で惨めな日々を送らなくたって、マーニは上層で暮らせる。それで、よかったんだ。

「今日は『雨』の日だろ。むしろ、あの世間知らずにあんなの見られなくて良かったんじゃねぇの」

「……うん」

 呆然としながら支度をして、銀の森の側にある小屋とは真逆に位置する瓦礫山に向かうと、もう『雨』は始まっていた。

 バラバラと昨日の雨のように降り注ぐガラクタ達。この雨が、歯車街の住人から『雨の止まない街』だと皮肉られている所以だ。

落ちてくる場所が高ければ高いほど、綺麗な物ばかり。上層の人間は、望まなくても沢山の物を手に入れられるから、壊れる前に飽きて窓から捨ててしまうらしい。

 ガチャンと鈍い音を立てて足元に転がったのは、宝石で装飾された首飾り。人間はこういう物で自分の価値を示すんだとか。けど、この街ではそんなの何の意味がない。齧っても美味しくない、ただの綺麗な石。

「落ちてくるぞ‼」

 誰かの大声によって、協調性なんて言葉が存在しないはずの住民達は『落ちてくる』と合唱しながら一斉に瓦礫山から離れる。それは、迷惑そうでありながらも、悲しい事に期待に満ちていた。

 数秒後、酷い衝撃音と共に、瓦礫山の中央にある何も置かれていなかった場所に、

 住民達はすぐさま死体に群がり、嬉々としてその身包みを剝ぐ。

……この瓦礫山の物達のお陰でどうにか日々を過ごせている僕でも、どうしてもその行為は受け入れ難かった。

「兄ちゃん、行かないの?」

隣から尋ねてくる声によって目を凝らすと、いつの間にかエルフの少年がいた。

頬に付着した機械油を煩わしげに服の袖で拭いながら、此方を見上げてくる彼の緑色の瞳は、ただ不思議そうな色合いを見せている。

「大人は、みんな行ってるよ? 兄ちゃんは、大人なのに、行かないの?」

「……得られるのは、宝石と布と、数枚の貨幣だけだよ。君は欲しい?」

「うーん、いらないな。大人は、あの綺麗な石はすごいんだって言うけど、飾るだけで何の役にも立たないし。カヘイって、お金でしょ? お金なんて、この街で使わないのに、どこで使うの?」

「歯車街で、人間のふりをして物を買うらしいよ」

「変なの。大人は人間が嫌いなのに、人間のふりをするんだ。それって、変だよ」

「そうだね。矛盾、しているね」

「ムジュン? 兄ちゃんって、難しい言葉知ってるね。ジルベルト兄ちゃんが言ってた通り」

「ジルベルト? あ、ジルか。何か言ってたの?」

「全然役に立たない本ばっかり読む変なヤツだって」

「アイツ……」

「でも、俺も本好きだよ。特に『マーニと竜の冒険』が」

「あぁ、僕も君ぐらいの頃には毎日読んでたよ。村娘のマーニが、実はお城のお姫様だって分かってからのお祝いパーティーが、羨ましくて」

「そうなんだ。俺は、この話の由来が面白かったよ」

「由来?」

「うん。マーニと竜が平和にした国は、実際に存在していて、二十年くらい前に人間に滅ぼされちゃったレンオアム帝国って国がそうなんだって。レンオアムは、その竜の名前で、国旗にもその竜の姿が描かれてたらしいよ」

 そうなのか。僕が気に入った歌も、物語も、その国のものだったとは。

「でね。竜は、墓守の魔女のケンゾクだったけど、世界も壊せちゃう竜を創った事で月の魔法使いに怒られた魔女は、竜を封印するってタテマエで洞窟の暗闇の奥底に捨てちゃったんだって。マーニがその封印を解いて、そのお礼に竜が冒険を助けてくれる約束をした事が、物語の始まり」

「捨てたって。墓守の魔女ってヤツは、責任感がないね。……月の魔法使いって、たしか海の魔女と一緒にこの世界を創ったって伝説がある魔法使いだっけ」

「うん。大昔は王国だったこの国を建国したって伝説もあるよ。ちなみに、墓守の魔女はレンオアム帝国を、海の魔女はこの国の隣にあるユクリアンを建国したんだって」

「すごいね。僕は世界や国の成り立ちなんて気にした事もないのに。君みたいな色んな事を知っている子を、先生って言うんだろうね」

「大袈裟だな。昔話が好きな俺の婆ちゃんが教えてくれただけだよ」

 つんけんした声でも、エルフ特有の長い耳を赤くしながら足先で地面をいじる少年。その姿のお陰で、マーニの事で強張っていた顔が緩んだ気がした。

 そうやって話している間に、住民達は身包み剥がしに飽きたらしく、中央には肌着を纏う死体だけが残っていた。

 近づいてみると、辛うじてそれは女性だと判別できた。潰れた顔でも、安らかな表情をしていたのが分かる。

「この人は、どうして此処に落ちたの?」

「病気だろうね。最近、変な病気が人間達の間で流行り始めてるから。ほら。彼女の肌、不自然に真っ白だろう? このまま放っておいたら、体の色が全部なくなって、消えてしまうんだって。何も遺らなくなってしまう前に、死にたかったんだろうね」

「治せないの? 人間には病院っていう、なんでも治せちゃう場所があるんでしょ?」

「何でも治せていたら、人間は不老不死の生き物になっているよ。今も人間は、僕達より脆いだろう?」

 瓦礫の中から、それなりに大きな布を引っ張り出し、飛び散った残骸をなるべく集めた彼女を布で包んだ。

 そして、瓦礫山の片隅に僕が設置した焼却炉に彼女を入れた。魔法が使えない人間が発展させた魔術とやらで作った炉は、着火剤になるべく大きな宝石を使うほど高温の炎が使える。今回使った首飾りは、どうにか彼女を骨にしてくれそうだ。

「どうして燃やすの?」

「ジルに聞いた事があるんだ。生き物は皆、死んだら肉体を捨てて、月の向こう側に行くんだって。こうやって燃やすと煙が出るから、空を昇る手助けになるかと思ったんだ。僕なりの、弔い」

「ふぅん。兄ちゃんって、ここの大人とは思えないや。やっぱりジルベルト兄ちゃんの言う通り、甘ちゃんだね」

「ジルはまた僕を馬鹿にする」

「違うよ、逆」

「え?」

 意味が分からなかった僕は、どういう事と聞こうとした。けどその前に、少年が何故か硬直してしまった。

 何かあったのかと、彼の視線を追う。……そこには、僕が貸した服を纏うマーニが、いた。

「エーギル」

「……マーニ?」

 瞬きをしたら、微笑む彼女が消えてしまうんじゃないか。そう思い、そっと彼女の頬に触れると、たしかに彼女はそこにしっかり存在していた。だけど――。

「髪、どうしたの?」

「切ったわ。はい、どうぞ。素敵なおうちに、泊めてくれたお礼よ」

 膝まであったはずの、今は項が露わになるぐらい短くなった髪をさらさら揺らしながら渡してきた小袋は、ずっしりと重たくて。中には、見た事もない量の貨幣が入っていた。

「姉ちゃん、髪を売ったんだね?」

「そうよ。私が売れる物は、ドレスと髪ぐらいだったから」

「良くない事だよ」

「どうして? 親切には、ちゃんとお礼をしないといけないわ」

「兄ちゃんは、全然嬉しくなさそうだよ。そういうの、有難迷惑って言うんだ」

「そうなの? エーギ、きゃっ、……エーギル? どうしたの? この子の言う通り、嬉しくなかった? ごめんなさい。わたくし、間違ってしまったみたい」

 安堵と、恐怖と、悲しみでぐちゃぐちゃになってしまった僕は、泣く事もできなくて。ただ、彼女を抱き締めていた。





「靴磨き、お願いしてもいいかな?」

 久しぶりに聞こえた夏風の声によって、ぼうっとしていた僕の意識は現実に引っ張られ、数か月経っても慣れない人間達の喧騒の片隅に戻った。

「ど、どうぞ」

 手に持っている道具が手から滑りそうになるのをどうにか堪えて、リントヴルムさんを椅子に促した。そっと、目を細めて見上げると、相変わらず夏空みたいに鮮やかな青の瞳が輝いている。

「ここ最近、歯車街で見かけなくなったと思ったら、上の街に来ていたなんて驚きました。話しかけるとすぐに逃げてしまうから、僕みたいな上層のものが嫌いなのかとばかり」

「僕みたいな底辺が、金稼ぎに上層の街で人間のフリをして靴磨きをしている姿は滑稽ですか」

「いいえ、素晴らしいと思いました。君はやっぱり、僕が見込んだ通りの子だ」

「僕は、何もできませんよ」

「今此処にいる事だけでも、僕にとって大きな進歩なんですよ」

 靴磨きの合間に、彼は変な話をしてくれた。人間と、そうではない存在が共存する世界の話。そんなの本当に可能なら、ジルは森で孤独に過ごしていないんだろうな。

「ようやく、計画が動き始めたんです。とても大変だった、彼がいなかったら――」

「そんな事を僕に話して、何が目的ですか」

 本題を促すと、頬を赤くして語っていた彼は微笑みながら小休止を入れた。その表情は、皆を幸せにするために生まれたと語っていた時のマーニの笑顔に似ていて、居心地が悪くなった。

「君も、その計画の一員になってほしい」

「僕には、そんなの無理ですよ」

「答えはすぐに出さなくていい。明日の朝に此処にいます。良い返事を、待っていますよ」

 チップだと言って、明らかに多過ぎる金額を渡してきた彼は、綺麗になったシングルモンクをカツカツ鳴らしながら去ってしまった。

 ……僕は、本当に何もできないのに。




「エーギル。帰ろう?」

「エーギル兄ちゃんがボケッとしている間に、俺達もう片付けちゃったよ。兄ちゃんも早く撤収しなよ」

 優しい声と、腰に手を当てながら唇を尖らせる少年によって、僕は慌てて靴磨きの道具を片付けた。

「レイニ、ずっと僕達と一緒にいて大丈夫なのかい? 君の家族とか――」

「俺だけだから大丈夫。家族はとっくの昔に飢え死にしたよ」

 まるで食事の献立の報告みたいに孤児だと答えたエルフの少年に、僕は何も言えなかった。まぁ、此処では珍しくもない話だ。

 そうやって答えあぐねていると、マーニが会話に入って空気を入れ替えてくれた。

「ぼくが誘ったんだ。一人でいるより、一緒にいた方が良いって」

 そう言った彼女は相変わらず綺麗な微笑み。ただ、何だかんだで一緒に暮らしているうちに上層の言葉遣いがすっかり抜け落ち、代わりに僕達の粗野な喋りが定着してしまった。彼女曰く、『郷に入っては郷に従え』らしい。……別に、変える必要ないと思うけどな。髪の件といい、行動がちょっと不思議だ。

「今日も靴磨きしてたのか? ご苦労なこった」

「ジルベルト兄ちゃん見てよ、三人でこんだけ稼げた」

「俺と比べたら蚊の涙だな」

 今日も洒落たコートを纏って現れたジルは、レイニが見せた稼ぎよりも多くの貨幣がずっしり入っているらしい袋を片手に鼻で笑ってきた。

 誰かの指示なんて受け付けないジルが、僕達が靴磨きを始めるよりずっと前から上層のどこかで仕事をしていたのは、ここ最近の中で一番の驚きだった。神出鬼没なわけだよ。そもそも、普段からあまり塵芥街にいないんだ。

「そんなに稼いでも、俺達が買える物なんて限られてるでしょ。程々でいいよ。ね、屋台行こうよ。あのしょっぱい肉入ったサンドイッチ食べたい。なんならジルベルト兄ちゃん奢って」

「はぁ? 自分で買えよ」

 ……マーニに大金を貰ったのが申し訳なくて、僕が唯一できそうな事でお金を返そうと思ったのに。結局皆一緒にやっているから、僕はダメだな。

「エーギル」

 マーニの声につられて、顔を隣へと向けると、顔に何かが乗った。……あれ?

「うん、よく似合っているね」

「君の顔が、よく見える」

「そりゃそうだよ、眼鏡をかけたんだもの。エーギル、ずっと目を細めて不便そうだったから、この前の靴磨きの稼ぎで買ったんだ」

「え⁈ そんな」

 彼女の、いつの間にか傷だらけになってしまっている手に丸眼鏡を返そうとした。けど、結局僕の顔に戻ってしまう。

「ぎゅっと眉間にシワを寄せていたら、お客さんが遠慮してしまうだろう? 投資ってヤツだよ。エーギルのためにも、ぼくのためにもなるの」

「そうだよ。エーギル兄ちゃんが一番上手に磨けるのに勿体ないよ。俺達知ってるんだからね。瓦礫山から拾ってきた靴で毎日練習してるんでしょ」

 えっ。皆が寝た時にやっているから、バレていないと思ってたのに、マーニ達にばっちり知られてたなんて……。

「あぁ、そういやお前昔から嬉しそうに小屋に持ち帰っては磨いてたな。靴屋でもおっ始める気かと思ってたが」

「じゃあ、靴磨きのお金溜まったら皆でやろうよ」

「俺はやんねぇぞ」

「靴磨きしてないジルベルト兄ちゃんは誘ってないよ」

「さっきから減らず口叩きやがって」

「……無理だよ。僕達が、店なんて持てるわけないよ」

 どうしようもない事実に、さっきまで止む気配のなかった会話はピタリと止んだ。

 あぁ、言わなきゃよかったな。そしたら、ずっと空想を楽しめたのに。

 リントヴルムさんの話が、本当に可能なら、こんな空想も、叶うのかな。


「随分と情けない姿だな。本当に君が、彼が選んだ候補なのか?」


 塵芥街への近道である、人気のない裏通りの途中。そこで道を塞ぐように佇んでいた男は、いきなり目の前の僕達に言葉を投げかけたかと思えば、すたすたと僕に接近してくる。それに僕は何もできず、その場に固まっていた。

 いや、怖かったんだ。僕は初めて恐怖を感じていた。虫が体中を這いずり回るような不快感と、ぐにゃぐにゃ歪む視界に堪えらず、倒れてしまいそうだ。

「まぁ、根性以外はそれなりのようだが、そこの銀狼族やエルフの方が役立ちそうだ。全く、汚いからと彼に候補探しを押し付けるんじゃなかったな。……ん?」

 ブツブツと聞きたくもない不快な言葉を呟いていた男は、秒針のような動きで唐突にマーニへと視線を動かした。

「なんだ。残り滓達より余程いいものがあるじゃないか」



「おい‼ 落ち着けって‼」

 気付いたら、僕は、ジルに羽交い絞めにされていた。

 それどころか、真っ青な顔のレイニは僕の脚に必死にしがみついているし、目の前には男じゃなくて両手を広げたマーニがいるし、えっと、僕は何をしていたんだっけ、どうして右手が痛いんだろ、ええっと――、

「だから、塵芥街から選んでくるのは反対だったんだ。常識が無い……」

 マーニの背後で蹲っていた男は、顔や口から血を流しながら、ふらりと立ち上がった。

 僕だ。アイツを傷つけたのは、僕なんだ。

「……もう、ぼくの、ぼく達の目の前に、永遠に、現れないで」

「お前たちが、そこの候補の側にいる限りは、無理だよ。あぁ、見物のつもりだったのに、とんだ怪物に出会ってしまったよ」

 悪態と共に、口内の血を地面に吐きかけた男はふらりと上層の街へと去って行く。

 僕が、皆の側にいたら、またアイツが皆の前に現れる?

 そんなの、





「エーギル兄ちゃん、どこ行くの?」

 背後からの声で、足が止まった。そっと振り向けば、瞳と同じ色の髪を、朝日に輝かせながら佇む少年がいた。

「ちょっと、上層に行かなきゃいけない用事を思い出して」

「こんな朝早くに? ……行っちゃダメだよ。昨日の、変なヤツの事気にしてるの? 大丈夫だよ。あんなヤツ、ジルベルト兄ちゃんが黒焦げにしてくれるよ」

「ジルに人殺しなんて、もうしてほしくないよ」

「じゃあ、俺が強くなるよ。エーギル兄ちゃんがうだうだ悩まなくてもいいように強くなるから。行っちゃダメ。マーニ姉ちゃんはどうするの。何も言わずに出て行って、流石の姉ちゃんでも怒るよ」

「じゃあ、強くなってマーニを守ってよ」

「うん! だから、家に帰――」

「その代わり、僕も強くなって帰ってくるからさ」

 前を向いた。そして、どんなに彼が声を上げても、決して振り返らずに走った。

 走って、走って、走って走って、あと少しで上層に辿り着くというところで、物陰から見覚えのある腕が伸び、僕の手首を掴んだ。

「ジル」

「行くな」

「もうムリなんだよ。君のお陰で、塵芥街にいられたけど、これ以上は皆に迷惑をかける」

「元からお前は迷惑かけっぱなしだよ」

「ごめん。けど、もう僕は君に助けてもらいたくないよ」

「……昨日のアイツは、魔法使いだ。魔法使いは、人間とは比べ物にならない屑のロクデナシ。自分以外の生物は退屈を紛らわすための消費物。お前は、そんなヤツに目を付けられてるんだぞ。お前が逃げても、マーニとは違ってロクに生きていけない。塵芥街にいた方がマシだ」

「そうしたら、マーニが狙われる」

「俺がどうにかしてやる」

「ダメだよ。君にはもう、苦労をかけたくない」

 どう言ったって、僕が先に進む気であるのを察してくれたらしい彼は、盛大な溜息を吐いた。

「死にたいと思うなよ」

「え?」

「他者なんて気に留めるな。お前はマーニの事だけ考えてろ。それがムリなら、塵芥街に戻れ」

 その言葉に返事はしなかった。手が離された僕は今度こそ止まらずに上層の街に出た。

 すっかり体に染み付いたルートを辿って、いつもの大通りに行くと、そこにはつやつや輝く車に寄りかかるリントヴルムさんがいる。

「君なら来てくれると思いました。さぁ、乗って。僕達の拠点に案内します」

 僕を視界に収めた途端に喜色満面となった彼は、背後にある扉を開けて僕を中へと促した。本から得た知識でどんなものかは知っていたけど、実際に初めて乗ると驚く事ばかりだ。

ずっと座っていても体が痛くならなさそうな柔らかい席におっかなびっくり体を沈ませていると、隣にいる誰かが鼻で笑ってきた。

「結局、来たんだね。全く単純というか、愚かなヤツだな」

「……なんで」

「なんで? 何で此処にいるか? それは彼と同じく、私がこの計画に関わっているからに決まっているじゃないか。……そう睨むなよ。どうせこれから嫌でも関わっていく事になるんだ。仲良くしようじゃないか」

 灰色や茶色にも見える、くすんだ緑の瞳に映る僕の顔は、折角の眼鏡が意味を成さないぐらい眉間に深い皺を寄せていた。

「あー痛いな。ぶん殴られた顔が未だに痛いのに、そうやって不快そうな顔をされる謂れはないよ。そっちは加害者、そして私は被害者だ」

「えっ! やっぱり昨日の傷は喧嘩だったんだね! どうして転んだなんてすぐ分かる嘘をつくのかと思ったら……‼ すまないね、彼は何かと失礼な態度を取りがちなんだが、悪いヤツではないんだ、本当だよ! 友人である僕が保証する!」

 前の席に乗り込んだ丁度に怪我の原因を初めて知ったらしいリントヴルムさんは、狼狽えたり怒ったりと百面相しながら僕に弁明してくる。だというのに、当の本人は頬杖をついて窓の景色を眺めているんだから呆れてしまう。

「早く戻ろうじゃないか。もう必要な物は確保できたんだし」

「また君は良くない言い方をして! 彼は協力してくれたんだよ」

「はいはい……。あー、次は高濃度の魔力を宿した目玉が欲しいな」

「えぇ? そんなの無理だよ」

「いや、可能だろう?」

 真夏の青空の如くキラキラ輝く色に、目を細めながら笑う男から視線を逸らすと、運転席にいる人間と鏡越しにぱちりと目が合った。

 夕焼け色の瞳が居心地悪そうに逸らされた直後、その人は初めて声を出す。

「後方から、一名来ていますが」

 その言葉に促されて後ろを向くと、そこにはマーニがいた。

「マーニ……⁈」

 ドア越しのくぐもった声で必死に僕の名前を呼びながら、窓を叩いたマーニは、ノブに手を伸ばした。けど、事前に運転手が鍵をかけてしまったから開くわけがない。

「エーギル!」

「出して! 出発して下さい‼」

 僕の指示に、運転手は目を見開きながらも車を出発させた。

 それでも、マーニは走って追いかけてくる。だけど、車の速さに追いつけなくなり、やがて遠ざかっていく。

「エーギル‼」

 微かに聞こえた声によって咄嗟に振り返ってしまったのを、すぐに後悔した。

 マーニが泣いている。僕の所為で、泣いているんだ。

「残念だな。あれも乗せれば良かったのに」

「二名は定員オーバーだよ。えっと、今回は無理だけど、また次回があります。その時にはもっと協力してくれる方々を集めたいと思っているから、しばしの辛抱ですよ」

 ムリに決まってる。隣のコイツがいる限りは、僕は皆に会えない。もしかしたら、一生会えないかもしれない。そう思うと、目の辺りに熱が宿った。


 ……いや、止めよう。僕は、もう泣かない。スラムの弱虫泣き虫意気地なしの底辺の僕と、決別するんだ。

 そうして強くなるんだ。またあの小屋に戻って、胸を張って皆に会うために。

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