白鳥になりたい四胡
増田朋美
白鳥になりたい四胡
寒い日だった。今さっきまで暖かかったのに、一雨降ったあと急に寒くなった。まあ、こうなってくれれば季節が正常に動いてくれていることになるのだが、それにしてもなんだか急に寒くなるのもおかしいなあと思ってしまうのだ。
今日は、製鉄所では、何人かの利用者がきていて、思い思いに勉強したり、仕事をしたりしていたのだが、その中で唯一人、中庭で楽器の練習をさせてくれといったものがいた。彼女の名前は、瀧ゆりで、楽器はチェロである。なんでも、数日後に行われるコンクールに出場するらしい。曲目は、サン・サーンスの白鳥である。本来ピアノ伴奏がつくのだが、今回は無伴奏で出場するのだと彼女はいっていた。
「もうそろそろ、お休みされたらいかがでしょうか。朝からずっとやってらっしゃるから。」
買い物から戻ってきたジョチさんが、彼女に声をかけた。
「えっ。もう、そんな時間なんですか?」
とぼけたように答える彼女。同時に杉ちゃんが、食堂から、
「みんな、ご飯だよ!」
と言ったため、お昼の時間が来たことがわかった。
「さて、食事にしましょうか。食事はしないと、皆さんいけませんから。しっかり食べましょうね。」
と、ジョチさんが言ったため、みんな食堂へ行った。お昼ごはんというと、お楽しみ感覚で楽しむ人が多いが、それでも、心の栄養として、好きなものを食べる時間でもあるのだ。
「今日は一体何を作ってくれたの?杉ちゃんが作ってくれる料理は、何でも美味しいから、食べられちゃうわよ。」
と、利用者の一人がそう言うほど、杉ちゃんの料理は、美味しいのだった。
「今日は、先日もらってきた焼きそばだよ。」
杉ちゃんが答えると、
「やった、焼きそば!」
べつの利用者が喜ぶほど、焼きそばは人気メニューでもあった。こういうふうに、杉ちゃんのような、毎日の献立を考えるのが苦ではない人が作れば、なお美味しく感じるのだろう。そうでないひとが作ったものの場合、どうしても作るのが面倒臭いという精神が食べ物に出てしまい、食べる人も、嫌になる事がある。
「おうそうだよ。まあ、皆もたっぷり食べろや。」
そういわれて、杉ちゃんは、焼きそばをたっぷり盛り付けたお皿を利用者に渡した。利用者たちは、いただきまあすと言って、すぐに食べ始めた。お互い顔を見合わせて、美味しいねえと言っている人たちも居る。これを、ご家族と一緒にやってくれればよかったのになあと思われる人もいるが、まあ、それをネチネチ考えていてもしょうがないので、そのことは、だれも口にしなかった。
その中に、あの瀧ゆりさんも居たが、美味しそうな顔はしていなかった。ただ、与えられたものを食べている家畜のような感じで、好き嫌いはないのだが、その代わり、何もいわないのもおかしいような気がする。
「ごちそうさまです。」
ゆりさんは、機械的な食べ方で焼きそばを食べて、お皿を杉ちゃんに渡した。
「はあ、残さず食べてくれるのはいいけどさ、美味しいとか、まずいとか、そういう感想は無いのかな?」
と、杉ちゃんが言うのであるが、
「結構です。食べ物なんて、何を食べても同じでしょ。私は、コンクールの練習がありますので、直ぐに戻らないと。」
と、彼女は言って、また中庭に戻ってチェロを弾き始めた。焼きそばを食べ終えた杉ちゃんはおかゆのうつわを持って、水穂さんに食べさせようと、四畳半にやってきた。水穂さんは、四畳半のふすまの隙間から漏れてくる、チェロの音を聞いていた。
「どうしたの。そんな顔しちゃって。」
杉ちゃんがからかい半分でそう言うと、
「いえ、あの人、あんなに練習して、大丈夫なのかなと思いまして。」
水穂さんはちょっと不安そうに言った。
「確かにやりすぎではあるよなあ。お前さんがそういう事言うんだから。」
杉ちゃんが答えると、
「あんまりやりすぎて、体を壊さないといいんですけど、彼女はとにかく、コンクールで一番を取ることに執着しているようで。」
と、水穂さんは言った。
「はあ、まるで、昔の自分を見ているようで、か?」
杉ちゃんが、急いでそう言うと水穂さんはええと小さい声で言った。
「それなら、水穂さんも、昔の自分にさようならしような。はい、これ食べるんだな。」
杉ちゃんは、カラカラ笑って、お匙を彼に差し出した。水穂さんは、仕方無さそうな顔をして、それを受け取った。
「よし、もういっぱいだべろ。」
と、杉ちゃんにお匙をまた差し出され、水穂さんはお匙を受け取って中身を食べるが、それを杉ちゃんにすぐ渡して、
「ごちそうさまです。」
というのだった。
「なんだよ。二口でもういいとは言わせないよ。それでは、体力もつかないじゃないかよ。ほら、頑張ってもう一回たべよ。」
と、杉ちゃんが再度お匙を受け取ろうとするが、水穂さんは、もういいと言うのであった。それではいかんな、どうしたら、食べてくれるのかなと杉ちゃんが考えていると、
「こんにちは、竹村です。クリスタルボウルのセッションに来ました。」
そんな声が玄関先で聞こえてきた。そういえば今日は、竹村さんのクリスタルボウルのセッションを、予約していた事を杉ちゃんは思い出した。まもなく、ゴロゴロと台車を押している音が聞こえてきて、竹村さんが、もっとも重度な患者さんのために作られたクリスタルボウルである、クラシックフロステッドボウルを持ってやってきたのがわかった。しかし、今回のお客さんは、竹村さん一人では無いようである。もうひとりの人間が、歩いてくる音がするのだ。
「さあ、どうぞお入りください。今日は、クリスタルボウルの演奏だけではありません。今日は、四胡奏者を連れてきました。そのコラボセッションといたしましょうか。」
と、竹村さんに促されて一人の男性がはいってきた。
「こちらの方は、四胡奏者の勝呂正さんです。今日は、一緒にコラボしてくれるというので、来ていただきました。よろしくおねがいします。」
と言って、竹村さんはその男性を紹介した。勝呂さんと呼ばれたその男性は、ちょっと頼り無さそうなところもある雰囲気だったが、でも真面目そうな顔つきをしていた。
「四胡か。確か、モリンホールとはまた違う、モンゴル独自の楽器だったよな。ちょっと泥臭くて、素朴な音がする低音楽器だ。僕は影山杉三で、こっちは磯野水穂さん。よろしくね。」
杉ちゃんがそう言うと男性は、
「勝呂正と申します。名詞も何も持っていませんが、どうぞよろしくおねがいします。」
と、杉ちゃんに向かって頭を下げた。その間に竹村さんは、7つの重たいクリスタルボウルを、水穂さんの前に設置した。中庭では、ゆりさんが、まだチェロの練習を続けている。
「おーい、ゆりさん。今から竹村さんが演奏を始めるからさあ、ちょっと、練習は取りやめにして、一緒にクリスタルボウルを聞こうや。」
と、杉ちゃんにいわれて、ゆりさんは、嫌々ながらチェロの演奏を止めて、水穂さんの近くにやってきた。そのとき、ケースから四胡を出して松脂を弓に塗っている勝呂さんを見て、
「あら、この人はだれなんでしょうか?」
と聞いた。
「勝呂と申します。勝呂正です。よろしくおねがいします。」
と頭を下げる彼に、ゆりさんは、あらそう、とだけ言った。
「今日は、面白い楽器を聞かせてくれるんだって。まあ、ここで一緒に聞いてみようぜ。」
と、杉ちゃんにいわれて、ゆりさんは、ため息をついた。竹村さんが、じゃあそれでは行きますよと言ってマレットを取り、ゴーンガーンギーンとクリスタルボウルを奏で始めた。それに合わせて、勝呂さんが、弓を取り、四胡という楽器を弾き始める。中国の二胡を知っている人であれば、その二胡の糸巻きが4つある楽器ということで、すぐに分かると思う。二胡よりも大型の楽器で、胴は蛇革であることは共通しているが、それよりも音が低く、大体チェロと同じくらいの音域であった。音色もチェロに近いが、それをもっと、人間、悪く言えば素人が歌っているのに近い音であった。それが、美しいという音ではなく、素人臭いのが、楽器に気取っている音ではなく、身近な人が歌を聞かせてくれているように見せるのが、奏者の技術だと思う。二胡や四胡といった楽器の持ち味は、そこであると思う。
四胡は複雑なメロディを奏でられるが、クリスタルボウルは7つの音しか出せない。竹村さんが1つのクリスタルボウルを叩くのと同時に、勝呂さんは即興でメロディを奏でている。二人の息はぴったりだ。大体16小節くらいのメロディを奏でると、竹村さんがまた別の音を出して、勝呂さんに別のメロディを出すように促している、という作業だが、クリスタルボウルと、四胡のコラボは、素晴らしいものであった。
30分間、作業をして、演奏は四度クリスタルボウルを叩いて終了した。杉ちゃんも水穂さんも、ゆりさんでさえも、大きな拍手を送った。
「いやあ、素晴らしい音じゃないですか。クリスタルボウルの梵鐘のような響きと、四胡の素朴な歌声のような音が、うまく調和してとても素敵でした。これからも、ヒーリングバンドとして、頑張ってください。応援していますよ。」
水穂さんがみんなを代表して感想を述べた。
「まあ、言ってみれば、テノールというより、民謡歌手みたいだね。でも、それが癒やしの音色になれるという事がすごいよ。」
杉ちゃんもそういった。
「でも、東洋の楽器は、低音楽器が少ないといいますが、チェロみたいな音域を持っている楽器があるんですね。日本の楽琵琶なども、低音楽器なのかもしれないですが、ソロを受け持つことはほとんど無いですし。」
水穂さんが音楽家らしくそういう事を言った。
「確かに、東洋の楽器は、低音で美しく歌うということは、苦手分野だよな。日本の楽器でも、中国の楽器でもそうだよね。その中でも、この四胡というのは、例外的な楽器だね。」
と杉ちゃんが言う通り、東洋の楽器は低音域が苦手であった。伴奏楽器として用いられることはあるが、メロディを奏でられる例は少ないだろう。そういう意味では貴重な楽器と言える。
「ええ、そうですね。チェロとよく似た楽器というのは、なかなか例がありません。」
勝呂さんは、それをすぐに認めた。
「どうして四胡なんて珍しい楽器を始めようと思ったんですか?」
と、水穂さんがそうきくと、勝呂さんはちょっと恥ずかしそうな顔をして、
「はい、実は、一度、捕まった事があったんです。捕まったと言っても、一年程度で出てきましたけど。まあ、したことがしたことですから、仕方ないですよね。でも、それをきっかけに、今までやったことのないものにトライしてみようと思って、それではじめました。」
と答えたのであった。
「はあ、お前さんは一体どうして捕まったの?僕達、だれにもいわないから、つっかえて居ること、話してしまえよ。」
と杉ちゃんが言った。杉ちゃんという人は、答えが出るまで質問を続けてしまう人でもあった。
「ええ、ただ、どうしても痛みが取れなくてそれで、薬屋でバファリンを思わず盗ってしまったんです。」
と勝呂さんは言った。
「そうか、なにか、精神疾患でもあったのか?」
「ええ。何をやっても異常を発見できなくて、いっそ異常を見つけてくれたほうが幸せなんじゃないかと思うくらい、体が痛かったんですよ。痛みで、長時間立ってることもできなくて、仕事もできなくなって、家族には何を怠けてるんだと怒鳴られるし。もうどうしたらいいのかわからないくらい悩みました。それで、最近の夏は、信じられない暑さが長く続きましたから、同時に痛みが更に強くなったような気がして、もう我慢できなくて。それで思わず、薬屋でバファリンを盗ってしまいました。ご、ごめんなさい。そんな事言っても、許されることじゃないことはわかっています。でも、そうするしかなかったんです。」
勝呂さんが涙を浮かべてそう言うと、
「いやあ、そういうことは、もうしょうがないことだ。もしかしたら、それは、四胡に出会うための、前祝のようなものだったかもしれないぜ。だからそう思ってさ、これからも生きていこうな。そうやって生きていけば、きっといい人も見つかるよ。そういうことは、事実を曲げちまってもいいと思う。それは人間にできることだぜ。」
と、杉ちゃんが、そういう事を言った。事実にはどうするかを考えれば良いと豪語していた杉ちゃんが、こんな事を言うのは意外中の意外だった。
「人間は、どうしても敵わないことってあるよ。災害なんかそのいい例だろう。犯罪もそれと同じような所あるよ。だから、無理やりいい方へ事実を曲げちまえ。それで、お前さんは、新しい目的が得られたんだから、いいじゃないかと思え。それくらい、お前さんの演奏はうまかったぞ。」
「ええ、僕もそう思いますね。確かに、生きていれば、一つや二つ消し去りたいけどできない事もあるでしょう。でも、それは背負って生きていかなきゃならないですし、杉ちゃんが言ったとおり無理やりいい方へこじつけて生きていかなければならないことだってあると思います。」
「水穂さんの口からそんな言葉が出るなんて、すごいことですね。それは、ちゃんと、受け取ってくださいよ。水穂さん自身にも、そう言ってやらなくちゃいけませんよ。」
竹村さんが、療術家らしくそういう事を言った。それを黙って聞いていたゆりさんは、何故か怒りを溜め込んでしまったらしくて、思わずバン!と畳を叩いた。
「黙っていれば何を言うの!犯罪者を無理やりこじつけて生きろですって!よくそんな事言えるわね。そんな犯罪者に、音楽に参加してほしくないわ。犯罪者は、音楽に参加したら、音楽は汚れるわ。音楽はそういう人のために用意されているものじゃないわよ!」
「うん、まあそのとおりだな。だから、彼にはチェロという楽器は与えられずに、四胡という泥臭い音色を持つ楽器が与えられた。きっと、この音では、音域は同じでも、白鳥は弾けないんじゃないかな。もしかしたら、白鳥というより、カラスというべき音楽になるかもしれない。」
ゆりさんに、杉ちゃんは、そういう事を言ってなだめたが、
「いいえ、音楽はそういう人のためにあるものではないわよ!そういう人は、音楽に触ってはいけないのよ!音楽は汚してはいけないじゃないの。音楽はそういう立場の人のためにあるものじゃないのよ。犯罪者なんて、音楽をやる資格なんか無いじゃないの!それは当たり前のことよ。そういう人と一緒に、してもらいたくないわね!」
「まあそうかも知れないけどさ。」
杉ちゃんは、そういう事を言ってなだめるのであるが、ゆりさんは、怒りが収まらない様子だった。
「でも、西洋音楽と言うものが一番勝っているという序列は、つけちゃいけないと思うけどな。そういうことは、許さないじゃくてさ、そういう人も居るんだな、くらいに考えておくことにしておくのが、一番じゃないかな。」
「そういうことって、ありえるのかしら?それではいけないというか、線引きをしなければいけないのではないかしら。」
「ありえるっていうか、現実にそうなっているわけだから、それについてどうするかを考えるだけでそれ以外何も無いよ。」
ゆりさんに杉ちゃんはいった。勝呂さんが、申し訳無さそうに、杉ちゃんを見ているが、
「そういうことなら、一回白鳥を二人で弾いてみな。違いがよく分かるからさあ。四胡は、いつまでも四胡で、チェロにはなれないってよく分かるから。」
と、杉ちゃんが無茶なことを言い始めた。そんな事、と、ゆりさんは思ったが、水穂さんが、布団からよろよろ立ち上がり、ピアノの蓋を開けたので、これはしなければならないと思った。ゆりさんは中庭に行ってチェロをとった。それと同時に、勝呂さんも、四胡を再び構えた。
水穂さんが静かにサンサーンスの白鳥のイントロを弾き始めると、二人は静かに演奏を開始した。確かに、洗練されたチェロの音と、素朴で民族的な四胡の音は、同じ低音楽器であっても、ぜんぜん違う音でもあった。同じメロディと奏でているのに、ぜんぜん違う音楽のように見えた。かろうじてピアノがそれを支えてあげているような、そんな感じの音楽でもある。これから、いろんな楽器が発掘されて、共通言語のようになっている、西洋音楽をだれもが演奏するようになるんだと思うけど、それにまつわる劣等感を何とかすることは、大きな課題だと思われた。ただ、一緒に演奏すればいいのかというだけでは無いはずだ。
演奏し終わると、杉ちゃんが大きな拍手をした。勝呂さんは、ありがとうございますといって、軽く頭を下げた。ゆりさんは、まだ嫌そうな顔をしていたけれど、
「音楽ってすごいですね。言語と違って、違う楽器でも、音楽さえあれば、枠を軽々と飛び越えることができるんですね。」
と、水穂さんにいわれて、そうかもしれないと思い直した。
「うまいやつがやれば、経歴とか肩書も関係なくおんなじものをやれるってのがすごいよ。」
杉ちゃんの意見も同じであった。
「だれでも、本物にありつける学問ですよね。それで誰かを癒やしてやることもできるんです。それは、やっぱり音楽と言うものがそういう性質を持っているのでしょう。」
いつの間にか、クラシックフロステッドボウルを台車にのせ終わった竹村さんが、杉ちゃんたちの話をまとめるように言った。
「いいじゃないですか。犯罪者であれ、だれであれ、音楽を楽しむことはだれだってできますよ。」
「そうそう、竹村さんいいこと言う。それでいいんだよ。それで。」
と、杉ちゃんが言った。ゆりさんは、そうねと考え直してくれたようだ。水穂さんは、静かにピアノの蓋を閉めた。そして、四胡奏者とチェリストは互いの顔を初めて見ることができた。それは、なんとも言えない、不思議な体験でもあった。
白鳥になりたい四胡 増田朋美 @masubuchi4996
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