彼女は無慈悲な僕の女王

паранойя

彼女は無慈悲な僕の女王

 降りしきる雨の下、僕は死を迎えようとしていた。

 恐怖と寒さからガタガタ歯を鳴らし、雨に薄れる自分の血を見ながら、『これじゃあもう助からないな』なんて考えて。


 憐れむような表情で、少女が僕を見つめていた。戦乙女の清らかな手は僕の血に穢され、もうすぐ自分の師を手にかけたという罪までもを背負う事になる。政府お抱えの聖女候補筆頭にして、僕を死の淵に追いやった張本人。僕の教え子。


 何か声をかけようとしたが、刺し貫かれた肺はタイヤのスキール音みたいな音を立てるばかりで役に立たない。その滑稽さに思わず笑って、せり上がってきた血で僕は溺れた。


 これから僕は消える。意識は解れてばらばらになり、ただ死んだ蛋白質だけが残るだろう。


『わたしたちはね、死を体験する事ができないんだよ』


 ふと、いつか耳にしたアンジェの言葉が思い出された。眼前の聖女候補とは対極に位置する、不道徳と死に偏執していた機械好きの女の子。彼女の言葉はウィトゲンシュタインの物だったと、今なら分かる。


 僕は彼女みたいに賢くなかったから、死を理解してもなかったし覚悟もなかった。愚鈍と慣れ。死なざるを得ないから死ぬ。それも急速に、キューブラー=ロスが提示した五段階を辿る暇もなく。


 血を失い過ぎた心臓がゆっくりとペースを落とし、脳細胞が徐々に機能を低下させてゆく。

 そうして、僕は死んだ。


 ◇


 そうしていつものように、僕は眠りから目覚めた。

 臨死体験に対する生理反応として拍動が跳ね上がるも、異変を検知した中央管理システムが速やかに通常の活動へとペーシングを行い、僕の機械仕掛けオルタナの心臓は落ち着きを取り戻した。


 視界の右上に時刻表示を呼び出す。午前二時四十五分、まだ夜と呼べるであろう時間帯。僕の腕を枕代わりにすやすやと眠るアンジェを起こさないようそっと抜け出し、顔を洗うべく洗面所へ向かった。


 洗面台に栓をして水を溜めて、ある程度になったら顔を漬ける。十秒、二十秒……そうしていると酸素が欠乏し、危機を察知した脳が一気に覚醒する、気がした。僕はずっとこうして顔を洗っている。子供の時から、まだ不眠症などとは無縁だった頃から。


 滴る水もそのままに鏡に映った自分の顔を眺める。頭蓋の眼孔を連想させる影のような隈、抑鬱的な沈み込んだ表情、見慣れた自分の顔。

 試しに笑ってみると、継ぎ接ぎしたパッチワークみたいな左の頬が上手く動かなくて、酷く引き攣った笑顔になった。


 ふと白いシャツの右肩辺りが赤く染まっているのに気付いて捲ってみると、この前負った傷が再び出血してガーゼから溢れ出していた。短い眠りの間にひっかけでもしたのだろうか。


 ガーゼを剥がして水に浸し、血が溶けだすさまをじっと眺めた。最初細い煙のようだった血は途切れ途切れになり、金魚みたいに泳ぎ回り、やがて水に消えた。


 金魚。


 その言葉を意識する度に、僕が十八歳の時に起きたある事件を思い出す。

 桜が咲き始めた魔術学校四年生の春。クラスで飼っていた金魚が死んだ。


 きらきらと虹色に光る水面に五匹の金魚が浮かび、可愛らしい口を開けたままエアポンプから発生する水流でくるくると廻っていた。それが発覚したのは五限目が終わってすぐで、どうも昼休み頃に誰かが油でも垂らしたらしい。


 すぐさまクラスは大騒ぎ。民主主義国家を形成する一員らしく、厳正なる学級会が一時間に渡って開かれた。五匹の金魚の命がカリキュラムの六限目を潰すほど重かったのかどうかはともかく、六限目は学級会になった。

 

 様々な、社会が求める常識的な範囲で様々な意見が飛び交い、最終的に『犯人捜しはやめよう』というところで一応の着地を見せた。誰か一人を責め立て理由を問い詰めるのではなく、皆で悲しみを分ち自省を促そうというわけだ。


 しかし実際のところは、金魚の水槽に油を垂らそうなどと考え、あまつさえ実行するような異常者が誰かなんて知りたくなかったのだろうと思う。自ら進んで無知である事、それが現代の美徳だから。

 それからすぐに水槽は撤去され、新たに生き物が持ち込まれる事は無かった。


 僕は金魚殺しの犯人がアンジェだと睨んでいる。飛び級で魔術学校に入ってきてしばらくの、まだ十三歳かそこらだった彼女だと。


 あの頃の――いや、今も――彼女は生き物の死に強い関心を寄せていた。どういうわけか、特に僕の死に関しては。

 

 あれは金魚殺し事件の一年前。僕が何時ものように学校の屋上で煙草とコーラを味わっていた時、アンジェはふらりと現れて僕の姿を認めるやいなや、にへらと笑みを浮かべて囁いた。


「いーけないんだぁ」


 そしてこう言った、一本ちょうだい。


「嫌だよ。この一箱にどれだけ苦労したと思う?」


 合法的に煙草を入手できる大人でさえ月に一箱しか購入できない現代において、未成年がそれを手にするのは大変な労力が必要なのだ。僕は夜な夜な寮を抜け出しては不良や堕落した大人たちを殴り倒し、あくせく煙草をかき集めていたというのに。


「じゃあ一口吸わせて? 見返りに本貸してあげる。お利口さんなキミなんかは絶対読ませてもらえないヤツ」

「……どんな本」

「ゲーテ、若きウェルテルの悩み」


 アンジェは鞄から一冊の本を取り出し、僕に手渡した。


「主人公が人妻に恋しちゃってね、叶わぬ思いに絶望して自殺するの。当時それを模倣して同じように自殺した人が沢山いたんだって」

「酷いネタバレを喰らったよ」


 僕は苦笑してみたものの、一応の内容は知っていた。

 しかし読んだ事はない。世界が少しばかり親切になってから駆逐された無数の本の一冊だから。


 言葉は人を殺す。僕のような純血の魔術師はどうせ死ぬなら戦場で死んで貰わねば困るのだ。最低限投資した莫大な政府資金分は戦って、殺して、それから死ね。国家が僕に求めているのはそんなところ。だから余計な思想に感化されて自殺でもされるとたまったものじゃない。あまりに強大な力を持った魔術師は国家に管理されるべきだと、社会の大多数はそう思っているようだ。


「アナーキストクックブックもあるよ。ウィリアム・パウエルって人が書いた、とっても面白いやつ」

「爆弾とかクスリの作り方書いてる本だろ、それって。読んだ事無いけど、そういうのは保安委員会学校アカデミーで習ってるから」

「そっか、そうだよね。世界がこんなに滅茶苦茶になっちゃっても、どうすれば効率よく沢山の人を殺せるか勉強してるんだったよね」


 言葉の持つ辛辣さとは裏腹に、アンジェの口調に少しも責めるようなところは無かった。

 しかし実際彼女の言う事は正しい。人類がその歴史上初めて同類以外との戦争を経験した現在においても、未だに銃口を突きつけ合い、さてどこに新たな国境線を引いたものかと定規片手に世界地図とにらめっこしている連中は大勢いる。


 さて、遅かれ早かれ僕もそんな連中の片棒を担ぐわけだが、どう答えたものだろう。困惑を浮かべる僕を見て、アンジェははっとしたようになり、


「ごめんね。キミの事、悪く言うつもりじゃなかったの」

「いいよ、分かってる。事実だしな」

「元気出してよ、暴力的なキミはとってもカワイイんだから」

「分かってるって……ほら、一口だけだぜ」


 僕は指先で煙草をくるりと回し、雛鳥のように小さな口を開けて待つアンジェに咥えさせた。彼女の頬が僅かに窄まり、赤い灯が勢いを増す。様々な有害物質が彼女の身体に取り込まれ、それ以上に空気が汚されてゆく。

 

 ほどなく彼女は激しく噎せ返った。肺にまで到達できなかった白い煙がぼふんと吐き出されて、紫煙のまましばらく宙を彷徨う。彼女は僕の手からコーラを奪い取ると、缶に残っていた半分を一息に飲み干した。


「まっず。なんでこんなの吸ってるの」

「気管が苦しい感覚が好きっていうか……何でだろうな」

「マゾヒスト?」

「違う……多分」


 自分がマゾヒストなのかサディストなのか、九年間の義務教育はそんな事を教えてくれない。


 煙草を吸うと胸が苦しくなり、ピンクの灰がタールで黒く染まり、血管が収縮して立ち眩みがする。マヤ文明が残した偉大な遺産は旧世界の高級嗜好品となり、今やあらゆるメディアでその存在を禁じられた。


「社会へのささやかな反抗か、カッコつけかも」

「死にたいんだよ、キミは」


 アンジェはきっぱりそう言ってのけた。呆気に取られる僕をよそに彼女は続ける。


「キミは窒息して死にかかってる。特別だ特別だって大切に育てられて、自分が無価値だって事を忘れさせられようとしている。それはとんだ思い上がりだよ」

「自殺だなんて馬鹿な……」

「人間も吸血鬼も混血種バスタードも、みんな歌って踊るだけのこの世のクズ、最後は朽ち果てるだけの有機物なの。キミはそれを知ってるのに、知らない事にされてる。知っちゃいけないって思わされてる」


 アンジェは『若きウェルテルの悩み』が入っていた鞄から銀色の物体を抜き出し、僕に握らせた。

 驚く事に、それは拳銃だった。


「こんなのどこで」

「わたしが作ったの。9mmマカロフ弾、装弾数七発」


 武骨な金属を繋ぎ合わせたような形状はFP-45にも似ていたが、各部の仕上げは滑らかで造りもしっかりしていた。自家製拳銃の中ではかなり上等な部類に入るだろう。


 僕はとっさにそれを無力化テイクダウンしようとした。弾倉を抜き、薬室から銃弾を排出し、スライドを引っこ抜こうとした。これで何をするつもりだったか聞くのは、それからでも遅くないはずだ。

 

 しかしアンジェはさっと僕の手を優しく掴み、不作法を咎めた。


「死んでよ、今ここで」

「なんだって……」

「キミは自分が無価値だって教えてくれる人間を探してて、それがわたしなの。キミが自殺すれば、それはキミにあれこれ指図する大人達を皆殺しにするのと同じ事なの」


 ごく自然に僕は銃口をこめかみに突き付けていた。そうじゃない、とアンジェは頭を振る。


「口に咥えるんだよ。そうすればしくじらない」


 しくじらない、という言葉の意味――確実な死。

 アンジェは親指を立てて、僕に見せた。

 

「脳幹って部位、この親指くらいの大きさの組織が、脳が発する電気信号を身体に伝える中継点。今銃口が狙ってるのはそこ」


 引き金を引いた瞬間に起きる事を考えてみる。

 頭蓋骨を破壊した弾丸は上下左右いずれかに少しばかり角度を変えて、激しく横転タンブリングして七割がた脂肪で構成された柔らかな脳組織をかきまわし、反対側の頭蓋骨から出て行くだろう。


 なるほど、死だ。

 目前にすると確かに怖い。


「できるよね?」


 そう甘い声が耳元で囁かれた時、僕の声帯は意思を離れて、「できる」と出力していた。

 アンジェには人間を導く才能があり、僕には隷属の才能があった。


 その身を焦がすようなカリスマにこそ、僕は惹かれていたのだ。


 ほどなく僕は引き金を引いた。撃針が雷管を叩くカチン、という金属音。

 

 僕の意識は継続している。

 しくじった、と僕は思った。


 弾が出なかった。


「あはっ、ツイてるね」


 薬室から弾丸を取り出して検めると、雷管の中心にしっかりと撃針の跡がある。機能を果たさなかったのは銃弾の方であり、拳銃に問題は無かった。つまり不発弾ミスファイア。冗談みたいな確立を引いて、僕は生き残った。


 そこで初めて、僕は絶対的な死の恐怖に捉われた。

 力が抜けてへたり込み、背中に冷や汗が伝う。


「どうだった?」

「怖かった……すごく、怖かった」


 僕は教育の過程であらゆる死体を見てきた。

 大剣で胴から真っ二つにされ、ピンクの臓物を露わにした死体。機関砲で木端微塵に破壊され、一メートル四方に散らばった死体。白リン弾で真っ黒に焼き焦げて、筋肉の収縮で胎児みたいに丸くなった死体。死体が辿る腐敗のありとあらゆる過程を学んだ。


 死を学び未知から既知にする事で恐怖は克服されると聞いた。


 じゃあこれはどういう事だ?

 僕は小鹿のように震え、今にも泣き出しそうじゃないか。


「わたしたちはね、死を体験する事ができないんだよ」


 困惑する僕をよそにアンジェは微笑を浮かべ、くるりとターンした。沈みゆく夕日を浴びた彼女の銀髪が、雪のように輝いた。


「あの壁の向こう」


 僕たちの視線の先には巨大な防壁が聳えている。異世界からの侵略者と核の放射能に汚染された世界アウターシティと、正常で親切な世界インナーシティとを分ける境界線だ。


「アウターシティでは下らない理由で人々が殺し合ってる。向こうじゃ誰もが等しく無価値なの」


 再びアンジェはターンして、僕に向き直った。

 夕日を受けた彼女は、アレクセイ・サヴラソフが描いた絵画のように美しく、叙情的な神秘さを纏っていた。


「大人になったら、壁の向こうへ連れて行ってあげる」


 ◇


 それから五年の月日が経ち、アンジェの美しさを除いて色々なものが変化した。

 彼女は立派な反社会的犯罪者となり、僕は左腕と両眼を失って魔術師ですらなくなった。


 壁の向こうに根を下ろして、金と引き換えに人を殺したりしながら生きている。


 あの後起きた大きな戦いを経て、アウターシティは急速な発展を見せた。

 大きなビルが幾つも立ち、鮮やかなネオンが街中を彩り、セントラルヒーティングで多少は過ごしやすくなった。溢れかえった犯罪者はお互いを殺し合い、遂に煙草は外側でも月に一箱の取り決めになって、年中寒くて雪が降るけど、僕はここがそれなりに気に入っている。


 僕はリビングに行って、ソファにどっかと腰を下ろした。


 手元に現れたパネルで窓のスモークを解除して外が見えるようにして、電子煙草の違法リキッドを吹かす。これは以前から見られた傾向だが、世界のあらゆる物が代替手段オルタナにとって変わられたのも変化の一つだろう。


 民間では勿論、軍事レベルでもそれは起こっている。人体と機械の融合という一つの極致に至った一部の戦闘機パイロットを除いて航空機は無人化し、直接的な陸戦で無人兵器が矢面に立つ場面も多くなってきた。人工筋肉と培養動物生体脳の融合体であるウォードッグが、無人機UAVと共同で何処かの砂漠でテロリストとドンパチやっている事実は多くの人の知るところだ。


 そして遂に、僕の身体にもオルタナが入った。


 外見でそれと分かるのは左腕と両眼くらいだろうが、心臓やら筋肉やら見えない部分でも高度に制御された人工物が埋め込まれていて、そのお蔭でどうにか生きているのだ。


 僕に埋め込まれているのは、最先端とされている軍用グレードミリタリーの更に上をゆく一点物の特注品マスターピースだ。

 主に炭素繊維とチタンで構成された漆黒の義肢には、非公開の最先端技術が惜しみなく投入されている。その価値は一部の連中の目を眩ませるに十分らしく、噂では僕の死体を狙っている奴らがいるとかいないとか。


 別に死体をどう扱われようが構わないが、パーツ取りの為に殺されるのは御免こうむりたい。そもそも手に入れたとして、そんじょそこらの木端技術者連中の手に負えるとは到底思えないけども。


 トゥールビヨンみたいに精巧な僕の左腕だが、尺骨の上あたりには小さなメンテナンスポートが設けられている。これが工場生産品なら、メンテナンスフリー素人は触るなとか、生産会社のサービス部門へ通じるアドレスなんかが印字されているのだろうが、僕の左腕には製造番号がなく、アンジェの署名すら見当たらない。


 しかし触れられる部分があれば触ってしまうのが人間の性で、手持ち無沙汰になった僕はメンテナンスポートを開けられないかと何度目かの挑戦をした。

 正方形のポートは特殊工具SSTを必要とする四つのビスで固定されていて、僕はこれに一致しそうな工具が売られているのを見た事がない。


 しかしメンテナンスポートは薄っぺらく、ナイフの切っ先を押し込めば梃子の要領で開けられそうに思える。僕は折り畳みナイフの刃を展開し、切っ先を――


「いーけないんだぁ」


 その甘い声を聞いて、僕は悪戯を見咎められた子供のようにびくりと震えた。


「キミの義肢は職人が調律したバイオリンみたいに精巧なの」


 アンジェは僕の隣に座ってナイフを奪い、僕の頬を小さく切りつけて、流れ出る血を指で掬い取った。


「自分で弄ったってロクな事になんないよ?」


 その血を舐めとり、アンジェは妖艶に笑う。その眼はぼんやりと赤く輝き、静かな怒りを示していた。


「悪かった。もうしない」

「あはっ、分かればそれでいいの」


 返されたナイフを折り畳み、僕は頬の傷に触れた。

 そこには傷なんて無かった。僅かに残された血痕を除いて、皮膚を切られた痕跡が消えている。

 

「治しといたよ。急に切ってごめん」

「いいよそのくらい。誰もさがには逆らえないんだ」


 創造主なる存在は、一体何を考えてアンジェに人体を修復する魔術など与えたのだろう。博愛精神に満ちた聖人のような奴にならまだしも、人体を切り刻んだり命を奪ったりする事に昏い悦びを見出す人間がそんな力を得て何をするか、それは火を見るより明らかだ。


 案の定、アンジェは持って生まれた才能を最大限に活用し、アウターシティの無慈悲な夜の女王として君臨している。脳に残虐性や暴力性を抑制する器官があるのなら――ちょっと骨相学的な論法だが――彼女のそれは人より機能が弱いかそもそも存在していないのだろう。

 

 僕は今でも、ミルクレープのように一層また一層と“めくられた”男の無残な姿を思い出せる。

 僕は今でも、手足合わせて二十枚しかない爪を百回以上剥がされた男の悲鳴を思い出せる。


 もしも僕が彼女に拷問される羽目になったなら、僕は迷わず舌を噛み切るに違いない。その数秒後には元通りくっついていても驚きはしないけれども。


 不意に左腕が撫でられる感覚を覚えて眼をやると、アンジェが義手の黒い外装を撫でていた。

 どうかしたのか、と僕は聞く。


「さっきメンテナンスポート開けようとしてたから、どっか悪いのかなって」

「それは……ただの興味本位だよ。腕は何も問題ない」

「そ、ならいいけど。気付いたらベッドからいなくなってるしさぁ」


 そのせいで眠りが足りない、とでも言うように、アンジェがくっと背筋を伸ばした。二つの豊かな膨らみがパジャマを押し上げて、ほっそりとしたくびれが露わになる。


 こうして朝を待つのは珍しくないが、大抵は僕一人きりで外を眺めるかただ目を瞑って過ごす。今更沈黙が苦になるような関係ではなかったけれど、何となく夢の話をしてみようと思った。


「夢を見たんだ」

「東部戦線か、それとも冬季大攻勢とかの?」

「いや、僕が死ぬ夢だ」


 僕は多くの激戦区をくぐり抜けたが、それでもシェルショックPTSDなんかとは無縁に過ごせている。任務の性質上魔物よりも人間を多く殺したが、僕の精神は少しも病んでいない。

 突発的な攻撃衝動や不安や不眠に悩まされ、薬も幾つか飲んでいるけど、僕はどこも悪くない。


「夢は脳が見せるんだろ。電極とかナノマシンでさ、夢を見ないように出来ないのかね」

「確かに、脳へ外部から働きかけて活動を制御する技術はあるよ。でもね、わたしはキミの脳にオルタナを入れたくなかった」


 死の淵に落ちた僕を救ったのは、他ならぬアンジェだった。

 『魔術師の肉体はあらゆる外的侵襲を受け入れない』という科学的に立証された理論をどうやって躱したか定かではないが、彼女の魔術とサイバネティックスの卓越した才能が不可能を可能にした。


 しかし、脳だけは手が加えられていない。長期の酸素欠乏に晒されて灰色になった脳細胞は、代償機能促進ナノマシンという前世代的で成功率の低いやり方でどうにか生き延びている。


「技術的に困難だった、とか?」

「確かにそれも否定できないね。魔術師の脳を制御するって試みはずっと前から存在してたけど、成功例は全くと言っていいほど無いし、手法もまちまちで確立されてない。それに……」


 僕は静かに続きを待った。アンジェがしばしば会話の中に沈黙を挟むのは、思考速度に声帯が追いつかないからだ。


「……怖かったんだと、思う」

「怖かった?」

「うん。キミがキミじゃなくなるのが、その暴力的で不合理な脳がわたしの想像の範疇に収まっちゃうと考えると、怖くて脳に触れられなかった」


 脳が様々な機能を持ったモジュールの寄り合い器官であると証明されてから、脳細胞だけを他の細胞と比較して特別視する理由は無くなった。

 脳の特定部位への損傷が人格に影響を及ぼすという事実は、およそ二百年前にフィニアス・ゲージがその身を持って証明している。


「前から思ってたが、以外とロマンチストなんだな」

「リアリストだよ、わたしは。少なくともそう在ろうとしてる」

「いいじゃないか、ロマンチストでも。人はパンだけで生きるわけじゃない」


 僕がそう言うと、アンジェは少しムッとして、


「半分は人間じゃないもん」

「まあそう言うなって」


 吸血鬼と人間のハーフに、元魔術師のサイボーグ。社会に居場所がない混血種バスタード二人、僕たちの現在いまは必然だったのかもしれない。


 僕たちはソファに並んで座ったまま、しばらく外を眺めていた。サイバネティックスメーカーの巨大飛行船が高空をゆっくりと旋回し、重く垂れた雲にメーカーロゴを投影している。人体の神秘を暴いた超人間主義者集団のシンボルは、心臓を模る精巧な歯車細工。民間グレードシビリアンの分野ではトップシェアを誇る、赤羽工業の所有機だ。


 あの飛行船を見る度に、僕は焼け落ちるヒンデンブルグ号の姿を連想する。あれに対空ミサイルを撃ち込めば、社会はどんな反応を見せるのだろう。


 燃え盛る街が見たい。人体が破裂する際に生じるピンクの霧をもう一度見てみたい。塹壕に住み着いた猫みたいな大きさの鼠、準備砲撃の後に降り注ぐ肉の破片、熱帯の果実にも似た腐敗臭――首筋を撫でられた。僕を思考の渦から引き揚げたのは、やはりアンジェだった。


「わたし、寝るね」

「ああ……おやすみ」

「うん。キミも寝た方がいいよ」

「努力はする」


 寝室へ戻るアンジェの背を見届けて、僕は座ったまま眼を閉じ、電子煙草を口にした。

 乾燥マンドレイクを精製したリキッドは爽やかな香りで、神経の昂ぶりを鎮静してくれる。


 僕はそうして脳内の戦火から逃れ、静かに朝を待った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼女は無慈悲な僕の女王 паранойя @paranoia-No6

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ