ベッドから出たくない女子大生とメイド喫茶でバイトする友人が一緒にカップ麺を食べる話
赤猫柊
大学三年生になってから、目覚まし時計が鳴るより早く起きることが増えた。眠りが浅くて夜中に何度も目が覚める、いわゆる不眠症のようなものだ。特に明け方に起きた時は最悪で、天井の染みをぼんやりと眺めていると、やがてカーテンの隙間から光が差してくる。
そんな生活をここ数ヶ月ずっと繰り返している。
09:17。
目覚ましが鳴るまで残り13分。
私はデジタル時計のアラームをオフにした。
「……さむ」
十一月の朝は寒い。枕元に伸ばした手に冷えた体温計が触れた。私は舌裏に体温計を差し込みながら、今日の予定を思い浮かべた。
まず午前に一つ講義がある。出席日数に余裕がないからこれ以上欠席はできない。つまり何としても大学に行かないといけないわけだ。じゃないと学費を払ってくれている両親に顔向けできない。
検温終了の合図が鳴った。布団から顔を出すと、カーテンの隙間から灰色の空が見えた。雨模様だ。体温計の表示はたいして高くなかった。
ふと頬が冷たく感じて顔をぬぐう。あくびをしたわけでもないのに手のひらは濡れていた。
「……行かなくちゃ」
09:23。
ベッドから起き上がるタイムリミットにはまだ7分あった。
鳴り響くインターホンで目を覚ました。どうやら、知らないうちに眠っていたらしい。寝ぼけまなこを擦りながら時計を見る。
13:08。
講義の時間はとっくに過ぎていた。
眠りたい時は寝れないくせに、起きなきゃいけない時は寝てしまう。私らしいといえば私らしい末路だ、なんて思っているともう一度インターホンが鳴った。宅配の予定なんてあったかと考える私の枕元で携帯端末が震えた。メッセージの通知が浮かぶ。
『さいとう:家の前にいるから開けて〜』
画面を開いた瞬間、押し寄せてきた怒涛のスタンプ。画面越しでも騒がしい。
一言『待て』とだけ返すと今度は投げキッスのスタンプが大量に送られてきた。続けてインターホンが鳴らされる。
「……るっさ」
私はジャージ姿でのそのそとベッドから抜け出すと、四度目のインターホンが鳴る前にドアを開けた。
湿った空気と雨音が部屋に流れ込んだ。
「おはよ、小野っち」
「おはよ」
ピンクアッシュの髪色の女性がフリルの付いた傘を片手に立っていた。
「いや、まさかホントにいるとはね〜。ってか大学は? おサボり?」
「……まぁ、寝過ごした」
「へぇ、小野っちでもそういうことあるんだ。あ、傘ここにかけといていい?」
私がうなずくと、齋藤は「サンキュー」とつぶやきドアノブに傘をかけた。
齋藤の服装は華やかで、彼女が居るだけで味気ない部屋も少し明るく見える。
突然の来訪客に私は疑問を投げかけた。
「急にうちに来たりしてどうしたの。水曜っていつもメイド喫茶のバイトじゃなかったっけ」
「……いつもはね。今日は休み。小野っちの家の近くを通りかかったからなんとなく来ちゃった」
「私が家にいるってよくわかったね」
「わかってないよ。『どうせ大学行ってるだろうし、いるわけないよな〜』って思ってたし、ダメ元だったから」
「……そんなんでよく来たね」
「うち、運だけはいいからね。結果オーライ」
齋藤は鼻歌混じりにショルダーポーチをテーブルの上に置くと携帯端末を取り出した。
「もうこんな時間かぁ。小野っちはお昼食べた?」
「まだ。さっきまで寝てたから」
「ほう。では現役最強メイドの、この齋藤めが萌え萌えキュンキュンオムライスを作って進ぜよう」
「別にいいです」
齋藤は武士みたいな口調でつぶやくと、ご主人様の意向をガン無視してキッチンへ直行していった。どのあたりがメイドなのやら。
バタンと冷蔵庫の開く音に続いて齋藤の声が響いた。
「え〜、ちょっと、小野っち〜! 冷蔵庫ん中、卵どころか何もないんだけど! さすがの最強メイド齋藤ちゃんも無からオムライスは作れませんにゃ!」
「だから言ったじゃん。別にいいって。……まぁ、カップ麺ならあるけど」
「どんなの?」
「赤いきつねと緑のたぬき」
「うち、うどんがいい」
「はいはい、じゃあ最強メイドの齋藤ちゃんは赤いきつねね」
私はベッドの下からダンボールを引きずり出し、中からカップ麺と割り箸を取り出した。机の上に置くと同時に、齋藤が電気ケトルをセットする。こういう気が効くところはメイドらしいと言えなくもない。
お湯が沸くまでの時間。窓越しの雨音に包まれながら齋藤が口を開いた。
「そういえばさ。寝過ごしたって言ってたけど、こんなにのんびりしてていいの? 午後にも授業ってあるんじゃない」
「あぁ、うん……まあ、ね」
自分でも歯切れが悪いとわかる返事だった。
「…………なんかヤなことでもあった?」
「嫌なこと、か」
大学に友達はそれなりにいる。彼氏はいないけど、今はそこまで欲しいとも思わない。講義内容もそこまで難しくない。時々厄介な課題やレポートはあるけれど、それだって真面目にやっていれば期限内に普通に終わる。カフェのバイトも三年目ともなればそこそこ重宝されている実感がある。両親とも定期的に連絡は取っているし、高校の友達だって特に齋藤とは未だに付き合いがある。
どう考えても自分は恵まれている。
就活の時期が近づいてただ何となく大学に行けなくなっただけの私には、他人を納得させられる理由が何もなかった。
齋藤に語った寝過ごしたという理由さえ本当ではない。実際は講義が始まる時間までベッドの中で起きていて、強くなる雨に耳を澄ませていたのだから。
「――今日は雨が降ってるから、外に出たくないなって」
「……それだけ?」
「うん」
甘えるな、と。そう言われることを覚悟する。
「そっか……まあ、たまにはそういう日があってもいいんじゃない」
齋藤は高卒だ。私と同じ大学には通っていない。だから最近の私が大学をサボりがちなことを齋藤は知らない。
「……『たまに』じゃないかもよ」
「でも、小野っち中高どっちも皆勤賞じゃん」
「そうだけど。どういうこと?」
「多少サボったとしてもトータルで見たら誤差みたいなもんでしょ。なんならうちら二十年も生きてるんだから、一年くらいサボっても二十分の一だし」
だから全然大丈夫、と締めくくる齋藤。あまりの暴論を前に私はしばらく声が出なかった。
ボコボコとお湯の沸き立つ音が部屋に響く。齋藤が電気ケトルに手を伸ばした。
「よ〜し、それでは元気のないご主人様に代わってうちがラブパワーを注いであげますにゃ」
「普通にね」
「はいはーい」
お湯を注ぎ終わると齋藤は「おトイレ」と席を立った。赤いきつねの隣には五分にタイマーをセットした携帯端末が置き去りにされていた。
齋藤が離れて電気ケトルも止まった部屋は雨音しか聞こえない。ずいぶん静かだ。
しばらくして齋藤の端末がピロンと音を立てた。盗み見ようと思ったわけではないけど、目の前にあったのでつい通知が視界に入ってしまう。
『店長:先日に続き今日も無断欠勤ですか? これが続くと店としても非常に困……』
見間違いだと思った。
だって齋藤は今日はバイトが休みだと言っていたはずだ。困惑していると、水が流れる音がして齋藤がトイレから戻ってきた。
「あ、あのさ、齋藤。見ようと思ったわけじゃないんだけど、そこの通知が見えちゃって。その、大丈夫?」
「通知?」
齋藤は端末を手に取り、軽く目を見開いた。
一瞬の空白。
「……あぁ、うん、そっか、今日バイトあったのか……いやぁ、あはは、うっかりしてたなぁ」
そう言って笑う齋藤の表情にどこか既視感を覚える。
「やっぱ行かなくちゃ……だよね?」
「それはまあ、その方が印象はマシなんじゃない」
「ですよねー」
齋藤は乾いた笑みを張り付けながらショルダーポーチを手に取った。
通知にあった『先日に続き今日も』という文面が私の頭をよぎる。私には私の物語があるように、齋藤にも齋藤の物語があるのだろう。齋藤にしかわからない、齋藤だけの気持ちが。
ベッド横に設置された鏡に齋藤の「がんばるかー」と伸びをする姿が映った。自分に言い聞かせるような、なけなしの自己暗示。
あぁ。この表情は、大学に行くために身支度を整えている時の私と同じなんだ。
「あはは、小野っち邪魔しちゃってごめんね」
笑って背を向ける齋藤。その背中が小さく見える。
気づけば私は齋藤の腕をつかんでいた。
「……小野っち?」
振り向いた齋藤の理由を問うような視線に、私の喉が詰まる。
そうだ。私には理由がない。彼女を引き止めるに相応しい理由が。
「――カップ麺、作っちゃったから」
「カップ麺?」
「ほら、赤いきつねと緑のたぬき、私一人じゃ二つも食べ切れないし。だから、その、齋藤はここに居てくれないと……困る」
齋藤は、あまりにも自分本位ななセリフを吐く私をじっと見つめ、それから吹き出すように笑った。
「ぷっ、何それ! くふっ、ブハハハハっ!」
ゲラゲラ笑いながらショルダーポーチを放り出すと、両手で顔を押さえてその場にうずくまった。
「あーもうヤバいっ。いきなり何言ってんの小野っち。笑い過ぎてっ、なんか、涙出てきちゃったじゃん」
顔を隠したまま肩を震わせる。しばらくして齋藤はゆっくり顔を上げた。メイクはすっかり崩れていた。
私の端末でタイマーが鳴った。
「三分経ったみたい」
「よし、それじゃあ小野っちのためにも一緒に食べようかにゃ」
「いや、赤いきつねは五分だから、まだだけど」
「えぇー! なにそれ!」
「交換する?」
「それはヤ。うち、うどんがいいもん」
「なら大人しく待ってなさい」
「あっ、天ぷら! 一口だけでいいから、天ぷらちょうだい!」
「えぇ、どうしよっかな」
部屋の中に天そばの香りと私たちの声が充満していく。
止まない雨の音も今だけは聞こえなかった。
ベッドから出たくない女子大生とメイド喫茶でバイトする友人が一緒にカップ麺を食べる話 赤猫柊 @rorororarara
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