春を惜しむ

小枝芙苑

全一話

 正治元年(1199)六月。


 昨年、新帝(土御門)が三歳で即位した。先の帝の関白だった近衛基通もとみちは、新帝践祚にともない摂政に任じられた。


 この正月には、関東の源頼朝が死去したという。彼によって滅亡した平家が、一門もろとも西海へ沈んだのは、もう十四年前になる。


 都の北にある雲林院へ向かう牛車の中で、基通は彼の人たちを思い出していた。


 父が平清盛の娘を正室として迎えた縁もあり、基通には平家の公達の中にもごく親しい友人が存在した。けれど――


(わたしのことを、さぞかし恨んでいることだろう)


 青春の日々をともに過ごした彼らを思い出すたび、苦い思いが込みあげる。基通はこれまでもしてきたように、それを静かに飲み下した。


 巳の刻(午前十時頃)に雲林院へ着くと、いっとき止んでいた雨がふたたび降りはじめた。絹糸のように降りそそぐ雨は、花を落として青々とした葉を茂らせる牡丹の群れに、やわらかな銀色の雫を落としている。


 足を止め、その様子をしばらく眺めていた基通は、平家滅亡の数年前に亡くなった養母を思った。


「――あの方が、お辛い目に遭わずに済んだのは、さいわいだった」


 今日は、養母が亡くなって二十年目の正忌日にあたる。基通はその法要のために、雲林院を訪れていた。


 ◇ ◇ ◇


 基通が七歳のとき、摂政だった父が二十四歳という若さで亡くなった。


 実母が存命だったにもかかわらず、父の正室だった清盛の娘が基通の養母になったのは、翌年のこと。


 その人は、まだ十二歳の少女でしかなかった。名を、盛子という。


「これから、仲良くいたしましょうね」


 童形の幼い基通を安心させるためか、ゆったりとほほ笑むその姿は、大輪の花を咲かせる華やかな牡丹を思わせた。薄暗い母屋のなかでも、彼女の周囲だけが銀砂を散らしたように輝いて見える。


 袿に施された豪奢な刺繍も霞むほどの気品と、武門の姫とは思えぬ清らかで愛らしい面差しに、八歳だった彼の心は殴られたような衝撃を受けた。


 目は盛子へ釘付けになったまま、もじもじと尻を動かす基通に、女房が小声で返事をうながす。そのとたん。彼は弾かれたように声をあげた。


「はい! よろしくお願い申し上げます。母上さま!」


 緊張のせいか、その声は不安におびえる子猫のように甲高く震えてしまった。


 耳まで真っ赤にして基通がうつむくと、盛子は「まあ、元気のよいこと」と目を丸くして、それから「いっしょにお菓子を召し上がりましょう」と、やさしく手招きをしてくれた。


 おずおずと盛子のそばへ寄った基通は、彼女から立ちのぼる甘い香りにいっそう心を乱した。それを誤魔化すように、次から次へと唐菓子を口へ運ぶ。


 うっかり詰まらせないかと自分を見守る盛子の視線を感じるだけで、頬が火照って味もなにもわからなかった。


 あのときの異様なまでの胸の高鳴りは、いまにつづく人生と、長い恋のはじまりを告げる合図だったのだと思う。


 盛子は幾重にも重なる花びらを持つ牡丹のように、その心にたくさんの抽斗ひきだしを持っていて、基通のどんなに些細な話題にも打てば響くような反応を示してくれた。


 ともに過ごす時間は楽しくて、うれしくて、基通は引き取られていた祖母の邸から、毎日のように盛子のもとを訪れた。


 やがて基通が十一歳になると、元服にあわせて妻を迎えることになった。正室に選ばれたのは盛子の異母妹で、白い肌がたいそう美しかった。


 しかし、盛子と変わらぬ年ごろの妻と夜を過ごすうちに、基通は妻のなかに盛子の面影を探そうと躍起になっている自分に気がついた。


 血のつながりがないとは言え、母と子である。母である彼女を求めようとする自分に動揺もしたが、さりとて抑えようとするほどに溢れる慕情はどうすることもできなかった。


(決して許されるものではないことも、充分にわかっていたというのに……。妻には申しわけないことをした)


 深夜、妻はわけもなく不機嫌になることがあった。おそらく、基通が自覚するよりも先に、鋭敏に夫の気持ちに気づいていたのだろう。


 妻と通じあえぬまま、基通が二十歳のときに盛子が亡くなると、本当に手の届かない人になってしまったのだという深い喪失感に苛まれた。


 そして同時に、道を踏みはずしてしまいそうになるほどの、激しく狂おしい想いからも解放されるのだと安心したのも事実だ。


 それ以降、数人の女たちとのあいだに子どもを儲けたが、とうてい基通が満たされることはなく、妻ともついぞ心からの夫婦になることはできなかった。


 彼女たちに対して、まったく情がなかったわけではない。ただ、いくら情はあっても、それは決して恋にはなり得なかった。


 盛子とはじめて対面したときのような、あの甘くて強い衝動はだれにも感じることができず、二十年が過ぎてもなお、彼女は色褪せるどころかいよいよ燦然として基通の記憶を鮮やかに彩っていた。


◇ ◇ ◇


 法要が終わっても、雨はまだ庭の樹々を濡らしていた。涙をこぼすように降る雨を、葉ばかりの牡丹がやさしく受けとめている。


「あの方のために、わたしは人前で泣くことができなかった」


 ぽつりと、基通は独りごちた。そして、しとどに涙を流す灰色の空へうらやむように目をくれると、庭から従者が遠慮がちに声をかけてきた。


家実いえざねさまから車紋くるまもん(家紋)についてのご相談がございましたが、いかがご返答なさいますか」

「――ああ、そのことか。そうだな……好きにするように、と」

「かしこまりました」


 従者が叩頭すると、基通はふと苦笑いをもらした。


(あの方を象徴する牡丹を、車紋に許すなど……)


 基通が牡丹をことのほか愛でていることは、邸のだれもが知っている。近衛家の車紋に牡丹の文様を――と、嫡子である家実が考えるのも無理からぬことだった。


 しかし、基通が牡丹に執着する理由は公けにできるものではなく、それを思えば許可することは控えたほうがよかったのかもしれない、とも思う。


 それでもなお許してしまったのは、基通が生きていく道を敷いてくれたのは、ほかならぬ盛子だったからだ。


「当主として、近衛家の存続をなによりも第一に考えなさい」


 生前の彼女は、基通にくりかえしそう言って聞かせた。


 父を早くに亡くした基通には、不幸にも摂関家当主として必要な有職故実が継承されなかった。しかしそのような状況でも、平家を後ろ盾にしている限りは摂政・関白の地位は約束されていた。


 幼いころより養母としてそばで見守り続けてきた盛子には、だからこそ未熟な基通が実のないまま一の人となることが危うく感じられたのかもしれない。


 実際、盛子が亡くなったその年に関白の地位に就くと、基通は無知ゆえに失態を晒すことも多く、周囲からは無能と評されつづけた。


 それでも基通は盛子の言葉に従い、ただ一途に近衛家を守ることに専念した。


 摂関家が政治の主導権を握っていたのも今は昔。関白である自分が無能であっても、上皇によってまつりごとは回ってゆく。それならば、いっさいの感情を捨てて潮目を読み、流れに身をまかせていればいい――そう、判断した。


 平家と反目する後白河法皇との男色も、都落ちする平家を見捨てたことも、恩義ある彼らの滅亡後すぐに賀茂詣を美々しく執り行ったことも、すべては近衛家の永続を願えばこそだった。


(あの方がわたしに遺してくださったのは、あの言葉だけだった。ただひとつだけ、あの方と交わすことのできた約束――わたしには、それを守る以外にどんな選択肢もなかった)


 盛子への想いだけが彼を動かし、また、すべての非難を甘んじて受け入れさせた。


 盛子が基通にどのような感情を持っていたのか、いまとなってはもうわからない。盛子とて、四つしかちがわない基通のことを、まさか心から息子などとは思ってはいなかっただろう。


 しかし、彼女は重なりあった花びらの奥深くへ隠すようにして、その本心を決して見せてはくれなかった。


(――願わくば、あの方とともに近衛家を守ってゆきたかった)


 歩むことのできなかった道と、この二十年の孤独をふりかえりながら、基通は湿った空を仰いだ。


「あの方は、わたしを褒めてくださるだろうか」


 恋も、友情も、流れるようにその指先をかすめていった己の半生に、基通は救いを求めるようにつぶやいた。


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