赤いきつねを注がれて
林きつね
赤いきつねを注がれて
『そば処 トラ』
ここへはわんこそばを食べにきた。ご存知だろうか?
一口のそばが食い終わる度に次々と皿に放り込まれ、それがこちらが満腹になるまで続くという岩手県名物だ。
以前出張で岩手を訪れた時、あまりにもその"プロの御業"としか言いようがないその光景に、目を奪われそれ以来脳裏に焼き付いて離れない。
そんな御業が、こんな都心で食べれると聞いて急いで会社には嘘の体調不良を申告し、食べにきたわけだ。
席に案内され、今か今かと待っていると、厨房ののれんを潜り、浴衣姿の美しい女性がお盆の上に一つのカップをのせてやってきた。
その女性はうやうやしく私の横に膝をつけて、ペリリと子気味のよい音を立たせながら、プラスチックの蓋を全て剥がす。
そして、湯気を立てるその白く細い麺を既に用意されていたお椀へと移す
食べる。
カップからお椀へと移される。
食べる。
カップからお椀へと移される。
食べる。
移される。
食べる。お揚げを。
移される。
食べる。
移される。
食べる。かまぼこを。
移される。
食べる。
なくなる。
そして、別の浴衣姿の店員さんが持ってきたカップを受け取り、優雅な所作で一センチほどあける。そして予めそばで沸かしてあったお湯を注ぎ、ゆっくりと蓋を閉めて、その上に重し置いた。
そして、私に向けてゆっくりと一礼をした。
「五分、お待ちください」
──いやおかしいだろうが!!!
なにこれ?! 最初からずっとおかしかったけども。私も呑気に情景描写してたけども。
いや、俺はわんこそば食いに来たんだけど、なんで一回一回ちっさいお椀にカップ麺注がれてんだよ。
途中お揚げとか入ってきてたし、かまぼこ一枚だけ入れられても困るし、あとそもそもそばじゃなくてうどんじゃねえかこれ!!
「ちょ、ちょっとおねえさん」
「如何されましたか?」
「如何もクソもないです。あの、これ、なんだその……なに?!」
「なに? とは」
なんでわかんねえんだよ。
こちらを見つめる女性の目は、どこまでも済んでおり子供の頃にみたどこまでも続く海のようだった。
「わんこそば、注文しましたよね俺」
「はい、承っております」
「うん、じゃあもう説明しなくてもなにがおかしいかはわかると思うんだけど。というか全部なんだけど」
傍らでは五分に設定されたタイマーが一秒一秒時間を刻んでいる。
その異常性をどう思っていたのか、こちらの指摘を受けてハッとしたようにその女性店員は深々と頭を下げた。
「申し訳ございません、お客様。私どももわんこそばはテンポが大事ということは理解しております。しかし、予め用意しておくと麺が伸びてしまい、美味しい状態でのご提供が出来なくなる。そういう判断から、一つ一つ、丁寧にお湯をいれさせて頂いております」
…………だから?!
いや数多ある気になる点でそこ一番どうでもいいわ! いやどうでもよくはないけど、でもそもそも大前提として――ああもうなんだこれ! どうか悪い夢であってくれよ!
「いや、あのねおねえさん。まずなんだけど、これなに?」
「赤いきつねです」
「ですよね?! なんで俺わんこそば食べにきて赤いきつね食わされてるんですか? せめて緑のたぬの方にしろよ」
「――貴重なご意見、ありがとうございます。早急に相談の元メニューに反映させますので、お待ちください」
「あー、やめてやめて。取り入れないで。ご意見を取り入れないで。まずもってカップ麺なのがおかしいから」
「――お客様」
「なんです?」
「他のお客様のご迷惑になりますのでもう少しお静かに」
「ああ、ごめんなさい」
すげえ真っ当な理由で怒られちゃった。大人になってこういうぐうの音も出ないことで怒られるの一番へこむよね。
じゃなくてね、うん。怒られてる場合じゃないのよ。被害者度合いでいえば断然俺の方が上だから今。
わんこそば食いに来てなぜか赤いきつねが出来上がるの待たされてるわけだから。
状況が特殊すぎて感情の正解がわからないけども。
「このメニューがご不満、ということでよろしかったでしょうか?」
「いやそれはそうなんですけど……」
「この白く細い見た目からは想像もつかないような噛みごたえある麺と、麺を引き立てる味と鮮やかな色をしたスープ。そしてなんと言っても魅力はこのお揚げ。一息ですすった時の心地良さは何事にも変え難い……そんな赤いきつねのどこがご不満か僭越ながらお教えいただけないでしょうか」
「いや急に凄い喋るな?! 俺も好きですけど今はわんこそばを食べたくてね」
「好き or 嫌い?」
「うるさいな。好きとか嫌いでいえば好きなんですけども」
「dead or alive?」
「やかましいわ。なんで急に命かかったんだよ」
『ピピピピピピ』
「なんだうるせえな、五分たったのかよ」
なんだかよく分からない状況のまま鳴り響くタイマー。
――うん、よし、帰ろう。
「あの、おねえさん。申し訳ないんですけど俺もう帰りますね」
「……」
「あの、もしもし?」
「……」
「帰りますよ? そんでタイマー鳴ってますよ?」
「……」
さっきまであんなに流暢に喋っていたおねえさんが返事もしないどころかピクリとも動かなくなった。
まるで石像のように――
「まさか……」
そんな馬鹿な。とは思いつつも、そっとおねえさんの首に触れる。その感触はあまりも冷たく、糸が切れたかのようにそのままだらりとおねえさんは倒れた。
「し、死んでる?!?!」
なんで?! なにが?! 俺わんこそば食いに来ただけなんだけど?!
カップうどん食わせれて人が死んだんだけどなんで?! どういうこと?!
「お客様」
混乱する俺の肩を、そっと叩く誰かが叩いた。それは、先ほど新しい赤いきつねを持ってきたあの店員さんだった。
「知りたいですか?」
「え、なにが?」
「彼女がどうして死んだのか、知りたいですか?」
「え、あ、はい、まあ、知りたいです」
では――と、その店員さんは俺の前に足を畳んで座り、ゆっくりと語り始めた。
「このお店――そば処トラは昭和62年に創業し、それ以来皆様に美味しいお蕎麦を届けてまいりました。しかし、時代の流れと共に経営陣の内ゲバ、そして材料費の高騰もあり、段々と品質が落ちて、当然客足も遠のいていきました。
しかし、あわや廃業の危機に瀕したこのそば処を、すんでのところで救ってくれたとある企業があったのです。
それが――東洋水産さんなのです。以来、せめてもの恩返しとして、このお店では赤いきつねの他にも、様々な東洋水産さんの商品を、お出しさせて頂いているのです」
「へえ〜…………」
…………今そっちじゃないなあ?!?!
納得できるかどうかは別として、死人が出る前に聞きたかったわその話!
なんで死んだのかの方が全く解決してねえし。
「おわかり頂けましたか?」
「頂けてないです。え、なんで死んだんですかあの人?」
「それは詮無きことです」
いや詮あるだろ。めちゃくちゃあるだろ。人が死んでんだぜ??
「まあ、変わりはいくらでもいますし」
「急にブラック」
「赤いきつね……緑のたぬき……黒いとら……うっふふふふふふふ」
「いや一つも面白くないです」
なんだこの女狂ってんのか。
呆気に取られていると、狂った女は所作だけは優雅に立ち上がった。
「お会計ですか?」
「――あ、はい。お願いします」
うん。もうなんでもいいから帰ろう。寝て忘れよう。強い酒たらふく飲んで寝よう。
「千円になります」
「じゃあ、千円ちょうどで」
「二十円のお返しになります」
「なんでだよ」
まあいいや。もうこの程度のこと気にならなくなってきた。
「スタンプカードはお作りになられますか?」
「いらないです」
「……」
「あれ? おねえさん?」
「……」
「もしもし? え、ちょ、嘘でしょ?」
「……」
え、なんで?! また死んだ?! なんで?! たったままで?! お会計の最中に死んだの?!
「――あぁ、すみません寝てました」
「いや、寝てたんかい!」
「またのお越しを心よりお待ちしております」
「二度とくるか」
赤いきつねを注がれて 林きつね @kitanaimtona
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます