赤い糸と緑の指輪

真摯夜紳士

赤い糸と緑の指輪

「味が分からない人に、娘はやれんな」


 美香みかと付き合い始めて二年半。やっとの思いでプロポーズを申し出て、全てが順風満帆じゅんぷうまんぱんに進んでいった。

 そう――彼女の家へ出向き、ご両親に挨拶するまでは。


「え……?」


 互いに自己紹介を済ませ、和やかに談笑した後のこと。

 定番の「娘さんを僕にください!」と頭を下げたまま。お義父さんから放たれた一言に、僕は思わず耳を疑った。


「聞こえなかったかな?」

「い、いえ、聞こえていました」


 僕は慌てて背筋を伸ばす。

 白髪交じりのナイスミドル。落ち着いたトーンと、眉間に寄ったシワの感じからして、冗談を言っているとは思えない。

 味が分からない人に娘はやれん。僕は明確に、結婚の条件を突き付けられたのだ。


「ちょっと、お父さん!」

「お前は黙ってなさい。これは大事なことなんだ」


 割って入ろうとした美香を制して、お義父さんは淡々たんたんと続ける。


「これでも見る目はある方でね。少し会って話しただけだが、君が好青年だということは良く分かった。美香が気に入るわけだ。けれども、交際と結婚では話が違う」


 背中に汗がにじむ。心臓が嫌に速く鳴る。


「君……確か庄司しょうじくんと言ったかな。我が家は代々、食品に関わる仕事をしていてね。美香から聞いた話では、君は『官能検査員』だそうだが」


 正しくは品質保証部の検査員。有り体に言うと、視覚・味覚・嗅覚で望んだ通りの商品になっているかテストする人のことだ。別部署に居た美香に一目惚れしたのも、食品サンプルの検査中だった。


「娘の未来を思うのなら、父親として試す権利はあるだろう」


 結婚相手に仕事の能力が備わっているのか。そう聞くと真っ当なことを言われているように思う。


「話は分かりましたが……僕は何をすれば?」

「母さん、準備してくれ!」

「はいはい。もう出来てますよ」


 台所の方から声がして、お義母さんが姿を見せた。穏やかで上品そうな見た目とは裏腹に、手にはカップ麺――あれは『赤いきつね』だろうか――を持っている。

 割り箸と一緒に僕の前へ置くと、お義母さんもテーブル席に着いた。


 既にフタは開けられていて、美味しそうな香りを乗せた湯気が立ち上っている。

 自然と四人の視線が、赤いきつねに集まっていく。どういう状況なんだ、これは。


「庄司くん、君は赤いきつねを食べたことがあるかい?」

「ええ、数える程度にですが」

「では赤いきつねが四種類あるのも?」

「……いえ、それは初めて知りました」


 ごくり、と。食欲か緊張か分からないつばが、喉元のどもとを通った。

 なるほど、そういうことか。


「と言っても、変えているのは粉末スープだけでね。北海道、東日本、関西、西日本向けと、それぞれの舌に合わせてある。庄司くんには、を当てて欲しい」


 湯気に当てられていたからか、こめかみに汗が伝っていった。

 四種類の何味か。確率にして四分の一。うどんや蕎麦そばの出し汁において、関東と関西で味付けに違いがあるのは知っている。関東は濃口、関西は薄口だ。けれども、それだけのヒントで正解まで導くのは不可能に近い。

 そもそも僕は、以前に食べた赤いきつねの味さえ覚えていないというのに。


「安心してくれ」そんな僕を見かねてか、お義父さんは「勝負はフェアでないとな。味の説明くらいはさせてもらうよ」と付け加えた。


 助かった。それなら、まだ勝機はあるかもしれない。

 お義父さんは、まるで台本でも読むかのように商品を紹介してくれた。

 北海道向けは鰹節かつおぶし利尻りしり昆布を利かせた出汁。

 東日本向けも同じ鰹節と昆布出汁だが、北海道向けより塩分が高い。

 関西向けと西日本向けは、昆布・鰹節・煮干などの雑節ざっせつ出汁。


 こうして説明されると、ざっくり東西で味が別れているのが分かる。関西向けと西日本向けに至っては原材料が変わらないのだそうだ。つまり三分の一で正解する。もっと言えば、西向けだと分かった段階で、結果が決まったようなものだ。


 結果――結婚。美香と幸せな家庭を築く為にも、ご両親の許可はあった方がいい。何より美香を悲しませたくない。

 僕は心配そうに窺う美香に、そっと笑いかけた。彼女は僕を信じて、頷き返してくれる。多少ぎこちない笑みだったかもしれないが、お陰で勇気を貰えた。


 いいさ、官能検査員としてのプライドも賭けて、やってやる。

 箸を二つに割って、僕は「いただきます」と手を合わせた。


 大きなお揚げに、コシのありそうな白い麺が彩り豊かだ。

 出汁を一口すすると、爽やかな鰹節の香りが鼻孔を抜けていった。舌先に残る昆布の風味と甘み。

 美味しい。今のカップ麺は、ここまで美味しくなっているのかと、改めて思わされる。ああ……こんな状況でもなければ、一息つきたいところだ。


 僕は器を置いて、今度は色を確かめてみた――いのだが、麺が邪魔をしている。出汁の色合いを正確に知る為にも、無い方がいいか。


 ずぞぞ、ずぞぞぞ。

 リビングに、僕の咀嚼そしゃく音だけが響く。もっちりとコシのある麺が、それを余計に際立たせた。

 誰も何も喋らない。気まずいなんてものじゃないぞ。味に集中しなくちゃいけないのに、テーブルマナーまで見られているかのようで。

 駄目だ、そうじゃない。目的を思い出せ。今だけの恥なんて忘れてしまえ。


 一通り麺を食べ終えて、ようやく出汁の色が分かった。黄金色というよりかは茶色に近い。

 東西の違いは醤油の濃さ。比較対象は無いのだけれど、塩分の量と透明度からして、北海道か東日本向けなんだろう。これは大きな前進だ。


「庄司……分かりそう?」

「ああ。絞り込めてはいるよ」


 ひりついた空気に耐えかねたのか。美香は目を閉じて、祈るように指を交差させた。そこで輝く婚約指輪のエメラルドは、彼女の誕生石。早く安心させてあげたい。

 問題は、この赤いきつねが北海道向けか東日本向けか、だ。お義父さんの説明では、北海道向けは利尻昆布を使っているのだとか。おそらく北海道で採れる昆布なんだろうけど、聞き覚えもなければ、味にも覚えがない。


 参った。行き詰まりか。

 他に何か、ヒントなんて――


 うつむきかけた瞬間、僕の目に『とある文字列』が映った。

 赤いきつねの器。パッケージに書かれた、赤い文字。そこには原材料が記載されている。

 やましい物でも見たかのように、僕は咄嗟とっさに顔をそむけた。


 どういうことだ? いや、当たり前なんだろうけど、それじゃあ試験にならないじゃないか。不正、カンニングもはなはだしい。あるいは、婚約相手を試すなんてのは建前で、本当は許してくれてるんじゃないか?

 僕は……恐る恐る、お義父さんの方に目を向けた。表情一つ崩さず、じっと僕を観察している。やっと気付いたか、というような安堵あんどの感情も、そこには含まれていなかった。


 深呼吸して、頭を働かせる。これは結婚への最終試練だ。大事な娘を嫁に出すかどうかという引き際で、お義父さんが卑怯な手段を受け入れるんだろうか。

 僕は冷静に、赤いきつねのパッケージを回した。


 やっぱり、そうか。

 大きな文字で『W』と書いてある。これはWest(西)のWだ。明らかに僕の舌が出した答えとは違う。要するに、このパッケージは引っ掛けだ。味で判断しなかった卑怯者を見分ける為の罠。


 危なかった。もし、この原材料を信じていたら、僕は東日本向けを選んでいただろう。

 とはいえ、これで振り出しに戻ったわけか。もう一度、考えなければ。


「庄司くん」


 今まで黙っていたお義父さんの声に、はっと顔を上げた。


「は、はい!」

「食事中に不躾ぶしつけで申し訳ないのだが……お揚げが残っているのが、気になってね。それも、こだわりの具材なんだが、嫌いなのかな?」

「あ、いえ、そういうわけでは」


 お義父さんなりに気をつかってくれたんだろうか。確かに、少し冷静にならないと。

 お揚げを箸で持ち上げる。出汁を吸って、ずしりと大きな重さが箸先から伝わってきた。お義父さんの言う通り、赤いきつねの代名詞を放っておくのも、失礼な話だ。


 じゃくり。滴り落ちそうな出汁と、お揚げのハーモニー。容易に歯で噛み切れる、柔らかい食感。

 だけれど、これは――


 不一致の一致。噛み合わない歯車だからこそ、糸口が見えてくる。

 頭の中で、全ての答えが出揃った。それでも二者択一の賭けだ。


 僕は箸を置いて、「ありがとうございます」と頭を下げた。


「庄司くん。何味か分かった、ということかな」

「ええ、この出し汁は……の、東日本向けですね?」


 予想外の答えだったのか、驚きに目を白黒させる美香。そして、お義父さんは満足気に頷いた。


「ちょっと二人で話をしよう。縁側に来てくれるか」

「もちろん、お供します」


 僕は席を立ち、呆気に取られていた美香の肩に触れて、その場を後にした。

 日が暮れそうな庭先で、お義父さんは「よっこらしょ」と縁側に腰掛ける。


「庄司くんには簡単すぎたかい?」

「とんでもないです。難しかったですよ、かなり。お義父さんがヒントをくれなければ、最後まで分かりませんでした」

謙遜けんそんかな。まあ勝負はフェアにしたいからね。何味の出汁、なんて言い方をしたのも、今思えば敵に塩を送っていたのかもしれん」


 例えまで食品で、なんだか笑ってしまう。あれと美香の指輪を見ていなかったら、緑のたぬきまで辿り着けなかっただろう。


 お義父さんは立ち上がって、僕の真正面で頭を下げた。


「すまなかった。試すような真似をして」

「そんな、頭を上げてください! 僕の方こそ、ヒントを貰わないと答えられないなんて、不甲斐ないです」

「いいや、無茶を言ったのは私の方だよ。だから謝らせて欲しかったんだ。母さんと娘の前では、情けなくて見せられんがな」


 お義父さんは苦笑して、再び縁側に座って遠くを眺める。


「庄司くん。カップ麺とは違って、嫁が作る味噌汁は毎日味が違うんだ。だけど君になら、その意味が分かってもらえると思う」


 娘を、よろしく頼む――そう言って、お義父さんは、また頭を下げた。

 僕は涙を落とさないように、一番星に「はい!」と叫んだ。

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