第32話:帰還

 兼定たちは当初、東門から帰還する予定だった。

 だが馬を捨て、道なき道を進んでいる今、東門はあまりに遠過ぎる。待ち伏せに遭う危険もあった。

 西からの帰還がもはや不可能なのは言うまでもない。

 結局、兼定らが選んだのは北であった。

 北の城壁も門は無いが、まとまった軍が入り込めるような場所ではないから、敵の妨害を受けることなく城に近付けるだろう。

 崖のような斜面を下って、ようやく城壁の真下に到着した頃には、すっかり日が暮れていた。

 喜兵衛は城内の味方に呼び掛けた。

「誰かいるか!? 兼定様がお戻りだ!」

 早くも反応があった。

「その声は……喜兵衛様! ご無事でしたか!」

「ああ! それより兼定様を早く中に……」喜兵衛は気が逸っているようだった。「そうだ大砲! 大砲で城壁に穴を開けるんだ!」

「え!? 大砲で?」

 思わず聞き返す城兵。

 するとそれまで声一つ出さなかった兼定がクックックと笑った。

「喜兵衛よ。城に戻るのは二人だけだ。二人だけのためにそこまで派手にやる必要はあるまい。そこの者、縄梯子を持ってくるのだ」


 喜兵衛の肩に支えられながら生還した兼定を、先に帰還していた仁科基次らの武将が駆け寄って出迎えた。

 しかしその時にはもう、兼定は息も絶え絶えであった。

 急所の傷の手当ても碌にできないまま、力を振り絞っての逃亡劇であった。ここまで息が続いていたのは奇跡と言えよう。

 敷布の上に横たえられた兼定は、主だった武将たちとしばし言葉を交わした。

「もしあの時……私になど構わず、砲撃陣地を落とした時点で引き返していればあるいは……」

 地に膝をつき、震える声で言ったのは基次である。

 基次が別動隊として砲撃陣地を攻撃し、単独で陥落させたあと、兼定は基次と合流しに向かった。別動隊を敵中で孤立させないためである。

 結果として、それが命取りとなった。

 常軌を逸した魔術の前では、避けようのない運命だったとも言えるが、自分のために主君が命を落とすことになるのは、基次にとって甚だ不本意なことであった。

「私が、部下を見捨てるような男だと思うか?」

 兼定は薄く笑みを浮かべた。

「私が皇国軍を幾度も打ち破って来れたのは……多くの優れた部下に恵まれていたからだ。私の命があっても……お主を失っては意味がない」

「殿……」

「基次……お主は此度の戦で一番の手柄を立てた。そのお陰で明日以降の戦いに……望みを繋ぐことができる……なにを悔いることがあろうか」

 兼定は遠くを見るように目を細めた。夕日が沈みゆくような、静かな光だった。

「お主たちがいる限り……信濃は、強くあり続ける…………皆で手を取り合って……生き延びよ」

「殿!」

「兼定様!」

 宝永二十八年十月十五日――こうして、信濃の守護神として皇国の前に立ちはだかり続けた松平兼定は、ついに斃れたのであった。


     *  *  *


 志摩国――猿蟹城。

 海賊大名の異名を持つ九鬼家が築いたこの城は今、牙門家の支配から解放されて再び元の持ち主の元へ戻っていた。

 九鬼家の跡取りに当たる影狼はしかし、この城を離れる時を今か今かと待ち続けていた。

 任務として、九鬼家の血を引く者として、志摩の奪還に力を尽くしたが、影狼の関心はすでに別のところにあった。

 早く海の向こうに帰って、羽貫衆や気心の知れた仲間たちに会いたい。

 鴉天狗の汚名を雪ぎ、彼らが元の暮らしに戻れるようにしたい。

 今はそのことで頭がいっぱいだった。

 父影虎は戦後処理で忙しく、見送りには来れないが、志摩に残っていた仲間たちが出立の近い影狼のために料理を振る舞ってくれた。

「じゃじゃ~ん! 猿蟹城名物――猿蟹さるかに喧嘩けんか両成敗りょうせいばい!」

 料理を運んできたのは阿近神楽。志々答島の海賊を束ねていた陽気な女首領で、今は九鬼の家臣団に加わっている。

 出された料理は蟹を中心とした海鮮料理であったが、猿を模した盛り付けがされていた。

「猿の肉は入ってないぞ」

「蟹しか成敗されてないじゃん!」

 思わずツッコミを入れる影狼であったが、流石に地元民による地元料理というだけあって、味はなかなかであった。

「ギャー! 蟹の怨念だ~!」

 隣では神楽の手下の千代目乱馬が、蟹の棘が指にでも刺さったようで、猿のように喚き立てている。

 ちょっとうるさい人たちだが、これからしばらくお別れなのかと思うと少し名残惜しくもあった。

 食事を終えると、影狼はなにとはなしに海望楼へ出た。

 静かに一人で過ごしたかったのか、あるいは早く迎えが来ないか気になったのかもしれない。

「手紙……ちゃんと届いてるのかなぁ……」

 連絡用の鷹に手紙を預けてからもう一ヶ月ほどになる。返事の手紙もないから、だんだんと不安になってくる。

 鷹が手紙を届けるなどという話は聞いたことがないし、そのまま野生に帰ってしまったんじゃないか……

 高見もどこまで信用していいのか分からない。最初から帰らせるつもりはなかったのではないか……

 そんなことを思い始めた時である。

「ピュイー!」

 聞き覚えのある鳴き声が、不意に耳を打った。

 それから羽ばたきの音がして、欄干に鷹が舞い降りた。

「麟丸!? どうしてここに?」

 手紙を届けたはずの鷹が舞い戻ったことに驚く影狼であったが、続けてその頭上を大きな影が通り過ぎて行った。

 空を見上げると、巨大な鳥影が大きく旋回して、滑るようにこちらへ降りてくるのが見えた。

 翼を広げた姿はさながら扇のようである。

 石垣の上に降り立ったそれは、麟丸と姿かたちは似ていたが、大きさが桁違いだった。

 その背には人が乗っている。

 弥生時代に流行っていたらしいふざけた髪型の男が、鷹の背に座って優雅に笛を吹いている。

「高見さん!」

 それまで不安げな顔をしていた影狼の顔が、パッと華やいだ。

 この男こそが、影狼をこの過酷な任務に駆り立てた張本人であり、会合で人質にされそうだったところを救ってくれた恩人でもあった。

 底が知れずどこか恐ろしくもあったのだが、自然と笑顔がこぼれ出たのは、見捨てられなかったという安堵からだろう。

 影狼の笑顔につられるようにして、高見は笛の演奏を止めて微笑んだ。

「遅くなってすみませんね。大戦が控えているのでね、私もいろいろと忙しいのです」

「いえいえ……まさか高見さんが直々に迎えに来られるなんて」

「まあ言ってみれば……迎えの船を手配するより、私が直接迎えに行った方が早く安全で、効率的ですからね。行きは大丈夫でしたが、今は皇国の警戒も強まっているでしょうし、海から帰るのは危険過ぎます」

 そこまで言われて、影狼はふと鷹のことが気になった。

「この鷹……妖怪ですよね? 高見さんが操ってるんですか?」

「ええ。私も長いこと妖怪関連の研究をしているのでね。妖怪を飼いならすくらいのことはしていますよ」

「凄いですね……」

「厳密に言うと、この子は妖怪ではありません。言うならば……妖怪化した動物といったところでしょうか」

 それを聞いた影狼の顔が一瞬、強張った。

「……侵蝕獣?」

「? 知っているのですか?」

「はい。前に一度だけ、見たことがあるので」

 影狼の脳裏に浮かんでいたのは、妖派との闘争に巻き込まれる形で妖怪化した猫の姿だった。

 あまりいい記憶ではない。そのことを察してか、高見はまた別のことを切り出す。

「ああ、ついでに言うと、もう気付いているかもしれませんが」高見は巨大な鷹の首元を軽く叩き、「実はこの子、その小さい鷹のお母さんなんですよ」

「ええ!? これが、そんなに大きくなるんですか!?」

「さあどうでしょう。大きくなってみなければ分かりませんね」

 お茶を濁すように言って、高見はまた微笑んだ。

 と、そこへ――ドタドタと慌ただしい足音が近付いてきた。

「敵襲、敵襲! 者ども出会え出会え! うわっ! なにあのバカでかい鷹!?」

 この間抜けな叫び声は、やはり乱馬だった。神楽とともに大勢の兵を引き連れている。

 ややこしいことになる前に、影狼はブンブンと手を振って説明する。

「大丈夫だよみんな! この方が高見さんだよ! ちょうど迎えに来てくれたところなんだ」

「え? その変な髪型の人が……?」

 思わず不躾なことを言う乱馬。

「馬っ鹿お前、忘れたのか? 影狼がこうやって真似して笑かしてただろ?」

 と、美豆良みずらの真似事をして余計なことを口走る神楽。

「そうですか……私もぜひ見てみたいですね。影狼君の美豆良を」

「あ、いえ……そんな見るほどの価値はないのでお構いなく」

 高見の冷たい視線に気まずくなる影狼であった。


 急ぎ支度を整えると、影狼は高見と一緒に鷹に乗った。

「じゃあ行ってくるよ! 平山ひらやまさんにもよろしく伝えといてね」

 見送りに出た神楽と乱馬、それから今は留守にしている城代にも別れを告げる。

「達者でな! 少しの間だけだけど楽しかったぜ!」

「うう……うっ、うっ……オレというしょうもない人間がいたことを、向こうに行っても忘れないでね」

 大げさに涙を絞り出そうとしているらしい乱馬に苦笑しつつも、影狼は屈託のない笑顔を向けて言った。

「大丈夫、忘れないよ! こっちもこっちで大変だと思うけど、元気でね!」

 海風が吹き抜け、巨大な鷹の羽がわずかに揺れる。

 影狼は高見の背に掴まると、振り返りざまにもう一度大きく手を振った。

 鷹が空へ舞い上がり、猿蟹城はゆっくりと小さくなっていった。

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