最終話(裏) 田端明里の自信


 太一はまだ自分を見てくれる。少なくとも、田端明里はそう思ったのだ。






 朝の公園。


 明里がいつもの時間に家を出ると、すでに一人、公園で待っている人物がいた。


「あ、明里、おはよう」

「おはよう昴」


 少し影のある笑顔で明里を迎えてくれたのは昴だった。


「俺が荷物持つよ」

「あ、うん。ありがとう」

「よっと、じゃあ行こうか」

「そうだね」


 自分から荷物を預かってくれた昴が歩き出す。


 明里もその背中に続き、そしてすぐに振り返った。


 近所の公園。


 朝、学校に行く時の集合場所。


 以前までは、ここにもう一人の幼馴染がいた。


 早く来た者は他の二人が揃うまで待ち、三人揃ってから登校していた。


 けれど、もうその必要はない。


 その一人はもうここに集まることなんてないのだから。


 きっと、もう家にはいないだろう。


 毎日朝早く家を出て、ある人物を迎えに行っている事は明里も知っていた。


 だからもうここには来ないのだ。


 明里が止まっている間に昴とは距離が出来てしまっていた。


 それでも、明里は別に急ぐことなく歩き出した。




「あっ、と、オレがそっち歩くよ」


 通学路の途中。


 明里を気遣うようにして昴が車道側に移動した。


 昴は自らの身体で明里を車から遠ざけようとしてくれていた。


「大丈夫か明里?」


 微笑みかけて来る昴の瞳は、今は明里だけを映していた。


 少し前までは、どんなに望んだとしてもその瞳に明里の姿が映ることはなかったというのに、今ではこの瞳はいつでも明里だけを見てくれている。


 幼馴染をまるで道具のように扱い、己の利益のためだけに利用しようとする傲慢な昴はもういない。


 今の昴は、明里が頼まなくても自ら鞄を持ってくれるし、こうして明里を気遣うように車道側に立つようになった。


 少し前、昴は自分を見失っていた。


 感情に振り回されて暴走した昴に、明里も酷い事をさせられた。


 だが、昴は変わったのだ。


 以前までの昴はもういない。


 今の昴は自ら明里を気遣い、明里に尽くしている。


 こんなにも、見違える程に昴は変わった。


 あの日から……。



 あの日。


 それはもちろん、太一と上埜由貴が付き合い始めた日の事だ。


 明里はあの日の少し前から由貴と協力して動いていた。


 感情がグチャグチャになり、自分の気持ちが分からなくなりかけていた時、由貴から接触されたのがきっかけだった。


 その時の由貴の印象は明里にとっては最悪だったが、それでも明里は由貴が持ってきた話しを無視する事は出来なかった。


「私に協力してくれたらさ、赤羽君と付き合わせてあげるよ」


 明里は由貴からそう言われた。


 由貴のもの言いは頭にきたし、何よりも幼馴染三人だけの大切な時間を壊された事もあって、明里は初めから由貴が嫌いだった。


 厳密に言えば由貴のせいとも言い切れないのだが、明里からすれば全ての元凶は由貴だった。


 だから明里は初め、由貴の話しなど聞く気もなかったのだが、それでも先ほどの言葉には食いついてしまったのだ。


 明里は、自分の気持ちを確かめたかったのだ。


 あの時明里は揺らいでいた。


 長年自分の中にあった大切な想いが、根底から消えかかり、考えた事もなかった新しい想いが台頭してきていたのだから。


 長年一途に昴を想い続けて来たのは、明里にとって密かな誇りだった。


 昴に惹かれて寄って来る女は、この十何年の間にごまんといた。


 そして、その全てを昴は相手にせず、寄って来た女たちは全て涙を流す事になった。


 初めの頃は昴が告白を断るたびに、ほっと安堵していた明里だったが、ある事に気が付いたのだ。


 昴にフラれた女たちは、その後別の男と付き合っていた。


 明里はそれが不思議で仕方なかった。


 あの人は昴の事が好きだったはず。


 それがどうして他の男と楽しそうに寄り添っているのだろうか。


 昴への気持ちは嘘だったのだろうか。


 訳が分からなかった明里は悩んだ。


 そして、ある結論を導き出すことになる。


 明里が導き出した答え、それは、自分以外の女たちの気持ちが、軽くて尊さのないものだったという事。


 口では好きだと言いながら、何かのきっかけですぐに心変わりするような汚い感情。


 だからこそ、相手にする価値もないと昴は断ったのだろうと、明里はそう思うようになった。


 さらに、そんな軽い女たちと自分は違うと明里は自尊心を感じていた。


 自分はどんな事があっても昴が好きで、だからこそ昴のために尽くすことができる。


 自分はそんな綺麗な心を持った尊い人間なのだと、明里はそう思うようになった。


 それでも中々勇気は出せず、告白なんてする事は出来なかったが、常に傍で昴を支え続ける自分が明里は好きだったのだ。


 だからこそ、あの時の明里は自分のアイデンティティが揺らいでいる事をすぐには認められなかった。


 きっとこれは一時の気の迷いで、自分の気持ちはしっかりと綺麗で尊いものだと思い込みたかったのだ。


 だから明里は、由貴の計画に協力した。


 昴を手に入れ、昴も自分を見てくれるようになれば、あの時の綺麗な自分を取り戻せると、明里はそう考えたのだ。


 それからは由貴と連絡を細かく取り合い、昴と太一を演技で騙した。


 由貴を突き飛ばした時だけは本気も本気でやり、少し清々した明里は、もう少しで昴が手に入ると思うと興奮していた。


 やっと、自分の一途な想いが実るのだと……。


 そうして迎えたあの日。


 明里は昴をホテルの一室に呼び出した。


 そこは由貴から指定された場所で、明里も詳しくは知らないが、由貴の顔がきくホテルらしかった。


 事前に由貴が話しも通していたのだろう。高校生の男女が二人で来ても怪しまれる事もなく部屋には入る事ができた。


 昴を連れて来るのも本当に簡単だった。


 由貴から頼まれてと伝えれば、朝からよからぬ妄想を膨らませてボーっとしていた昴は何も疑う事なく明里についてきたからだ。


 ホテルに呼び出されて興奮していた昴は一人で色々と想像して盛り上がっていたのだろう。


 あの頃の傲慢さに輪をかけて強気だった。


「いきなりホテルなんてな、まぁ俺の魅力に気付けば、上埜さんだろうとあっという間ってわけだ。明里もそう思うだろ?」

「……そうだね」

「ところでその上埜さんはいつ来るんだ?」

「もうすぐよ。色々と準備があるみたいだから、ここで待ってて欲しいって」

「あぁ~、まぁ女の子はな。身体を綺麗にしたり色々気を遣うもんな」

「そう、なのかもしれないね」

「ところでさぁ、明里はなんでまだいるの? 明里は上埜さんから俺を連れて来るように頼まれたんだろ、ならもう帰ってもいいよ?」

「……まだ頼まれてることもあるから」

「ふぅ~ん……あぁ、あぁなるほど、そういう事ね!」

「え、何が?」

「いやぁ、明里も俺たちのお楽しみに混ざりたいのかなって気付いたんだよ。明里なんてずっと俺と一緒にいたんだからさ、俺に惚れてないわけないもんな」

「……あはは」

「ん~でもなぁ、俺は最低でも上埜さんくらいの身体じゃないとちょっとなぁ……まぁ明里がどうしてもっていうなら、幼馴染のよしみで使ってやってもいいけどさ、ちゃんと上埜さんの後だから、そこは我慢しろよなぁ」


 明里はこの時、またぶれ始めている自分の気持ちに気づかないふりをした。


 明里は昴との会話を切り上げて、端的に役割にだけ集中した。


 昴を椅子に縛り付けるのは、明里が考えていた以上に簡単だった。


 そこだけが上手く行くか心配だったというのに、由貴がそういうプレイが好きだと言えば、昴は喜んで明里の言う通りにしてくれた。


 そんな昴を見て、明里は自分の中に浮かんできたある想いも、また見ないようにした。



 それからは、概ね由貴の計画通りだった。


 昴は画面越しに由貴が太一に身体を開く様子を見せつけられ、これ以上ないほど尊厳を踏みにじられていた。


 罵られ続けた昴のプライドは、それはそれはあっけなく崩れ去り、床に顔を擦り付けて泣いていた。


 最後に由貴の誘導もあり、明里に縋りつきだした昴。


 もはや太一への劣情を我慢できない様子の由貴との会話を切り上げた後、明里は自分の脚元に這いつくばる昴をじっと見下ろした。


 さっきまで明里を道具のように扱っていた昴が、今ではこれ以上はないというくらい情けない姿で泣き付いてくる。


 その光景は、由貴から伝えられていた通りだった。


「ぽっきりと心を折ってやれば泣きながら縋りついてくるから。後は田端さんの好きにすればいいよ。あの自意識過剰が泣き付いてくるんだからさ、田端さん征服感でゾクゾクするんじゃない」


 由貴はそう言っていた。


 状況的には恐ろしい程その通りになった。


 だが、一つだけ由貴の言葉には嘘があったのだ。



 明里は、縋りついてくる昴を見ても、もはや何も感じなくなっていた。


 明里は静かに昴の拘束を外し、そのまま泣いている昴を家に帰した。



 こうして昴は自信をなくし、明里に依存してくるようになった。


 明里から見ても昴は確かに変わった。


 すっかりと態度が小さくなり、以前は見下していた太一を怨んではいるが、それ以上に怯えている。


 何をするにも明里に確認をとってくるようにもなった。


 以前は由貴しか見ていなかったのに、今では昴は明里しか見ていない。昴は二人を避けるようにして生活していた。


 常に昴が傍にいる毎日。それは明里が望んでいた毎日。




 そのはずだった。


 昴が自分だけを見てくれるようになった今でも、明里は別に昴と付き合ってはいない。


 どうしてか明里はそんな気になれなかったのだ。


 困った明里は少しだけ頑張ってもみた。


 昴を育ててみる事にしたのだ。


 あの日以来、たしかに昴は変わったが、その変化は簡単に言ってしまえば気が小さくなっただけだった。


 だから態度が改善されただけで、急に気遣いが出来るようになったりしたわけではなかった。


 明里は昴に色々と行動を仕込んでみた。


 先に来て相手を待つ。


 自分から鞄を持つ。


 車道側に立って庇う。


 今朝見せた昴の行動は、全部明里の仕込みだった。


 明里に言われた事は従順にこなす昴。


 元々の風貌も相まってそれらしくは見えるのだが、それでも何か違うと明里は感じていた。


 歩きながら、明里はふと疑問に思う。


 いったい何と違うのだろう。自分は何と昴を比べているのだろうかと。


 明里はあの日から、ずっとその疑問の答えを探していた。


 そして、昴の行動を通して、やっと答えを見つけたのだ。


 明里が教えた動作を昴がするたびに、本物との違いが如実に表れる。


 明里が本当に求めている本物の姿が、はっきりと浮かび上がって来る。


「……あぁ、やっぱり、そうだよね」

「え、どうしたんだ明里?」

「何でもないよ。それより昴、もう鞄はいいや、返して」

「え、そうなのか? 持ち方が不味かったか?」

「ん~ん、そんな事じゃないの。ほら、返して」

「あ、あぁ、ごめん。はい」

「あと、もう車道側を歩かなくてもいいから」

「わ、わかった。えっと、じゃあどこを歩けばいいんだ?」

「別にどこでもいいよ。私の傍じゃなければ」

「あぁ……え? ちょっ、ちょっと待ってくれ明里、それってどういう事なんだ?」

「簡単に言うと、もういらないって事かな」

「ぇ、ぇ、いらない、いらないって、俺が?」

「うん。もう昴はいらないや」


 明里が笑顔でそう伝えると、昴は目を見開いて固まった。


 明里は今度こそ気が付いたのだ。


 自分が本当に求めていた人が誰だったのか。


 明里に縋りついてきた昴は、単に慰めて甘えさせてほしかっただけだった。


 つまりは愛をもらいたかっただけで、昴から明里に何もしてくれないのは、根本的には変わらなかった。


 だから明里が仕込んだ動作も、ただの作業にしか感じない。


 あの人が明里に向けてくれていた。心からの気遣いや愛情がそこにはないのだ。


 そして明里は、そんな偽物に我慢できなくなった。


 失くしてしまった本物を、ぽっと出てきて奪い去って行ったあの女から取り返したくなったのだ。


 明里は認めた。自分が決して理想の綺麗なお姫様ではないのだと。


 明里が軽いと馬鹿にしていたその辺の女と同じ、いや、それ以下かもしれないと。


 もう自分を美化する事を止めた明里には、昴への気持ちなどゴミのようなものに成り下がった。


 こんなものに固執していた自分が馬鹿らしくなった明里には、昴を捨てる事になんの躊躇いもなかった。


「いや、待ってくれ明里! 俺の何がダメだったんだ? 教えてくれ! ちゃんと言われた通りにやるから!」

「それ」

「え、なに?」

「それがもうダメなんだよ。太一の足元にも及ばないよね、昴って」

「あぁ、や、止めてくれ! その名前を言うな! 俺は、俺はあんな奴に負けたわけじゃ」

「負けてるよ昴。圧倒的だもん。だから上埜さんは昴に見向きもしなかったんだよ。あ~あ、私も馬鹿だったなぁ。今更気付くんだもん」

「いやだ、俺は、おれはあいつより上で、上のはずで……」

「下だよ。足元にも及ばない。少なくとも今の私にとってはね、あと上埜さんもそう思ったから太一に夢中だったんだよね」

「やめて、お願いだからやめて、おれを捨てないでくれ、明里」

「……もぅ仕方ないなぁ」

「ぁ、ぁ、ぁあ、明里!」




「何度も言わせないでよ。もう昴はいらないの」


 明里は昴の肩に手をおいて、優しく微笑んだ。


 子供に言い聞かせるように、優しく、丁寧に、貴方はもう必要ないと、分かりやすく教えてあげた。


 昴は、もう何も喋れなかった。


 ただ泣きながら、身体を丸めて地面にうずくまった。


 明里はそんな昴にはもう毛ほどの興味もなく、一人で学校に向かった。



 学校には、もうお目当ての人物がいた。


 太一だ。


 すぐに太一に触れたかった明里は、だが、そうする事が出来ない。


 太一の傍には常に由貴がいるからだ。


 教室だというのに、由貴は太一を自分の膝の上にのせて抱き着き、太一の身体のいたる所に手を伸ばしている。


 その光景を見せつけられ、明里は唇をかんだ。


 血の味を感じながら、すぐにでも太一に触れたいという想いを必死に我慢する。


 今正面から挑んでも由貴には勝てないからだ。


 今の太一は由貴に身も心も支配されているだろう。


 あの日の状況を由貴は太一に都合よく伝えているはずだ。


 幼馴染の二人からはもう相手にされないと。


 今までの心の支えを失った太一は、唯一残された由貴に飛びついただろう。


 そうなると、もう太一はあるもので我慢して、他に目を向けなくなってしまう。


 それは長年一緒に過ごして来た明里には分かっていた。


 だからこそ、自分だけにのめり込んでくれる太一を由貴は欲しがったのだろう。


 明里は由貴が自分に似ていると思った。


 きっと由貴は今、最高のパートナーを手に入れてご満悦だろう。


 一生離れて行くことのない、自分だけに都合のいい相手。




 だが、太一に未練が残っていたとしたら、いったいどうなるだろう。


 太一が由貴に傾倒しているのは、もう幼馴染の元に戻れないと思っているからだ。


 もう自分には由貴しかいないと思っているから、太一は由貴の元を離れない。


 だが、そんな太一に明里から声をかければ、まだ戻れると分かれば、きっと太一は戻って来るのではないだろうか。


 

 何せ明里は太一の初恋の相手で、太一はずっとその気持ちを引きずっていたのだから。


 明里は、太一に酷い言葉をかけた事すら問題にならないと思っていた。


 太一はまだ自分を見てくれる。少なくとも、明里にはその自信があった。




 すっかりと辺りが暗くなった時間帯。


 明里はとある場所で立ち尽くしていた。


 もちろん準備はもう済んでいる。


 一度家に帰った明里は入念に自分の身体を洗い、下着を変えてここに来たのだ。


 一層厳しくなった寒さをものともせず、明里はただひたすら待ち続ける。


 学校では、由貴が傍にいる時では、明里に手だしは出来なかった。


 なら、どうすればいいか。


 そんな事は簡単だった。明里はあの人の家を知っている。必ず帰って来る場所を知っている。


 しかも、都合よくそこは明里の家のすぐ近くだ。


 由貴と交わしていた約束も、明里にとってはもうどうでもよかった。


 いらないものを押し付けて来たあの女には、明里は何の義理も感じていない。


 明里の眼にはもうあの人しか映っていないのだから。


 そして、待ち人はやってきた。


 待ち焦がれたその姿を瞳でとらえた明里は最高の笑みで手を広げ、戸惑う彼を出迎えた。







「待ってたよ、太一」

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いつも僕を助けてくれた親友の初恋 ~親友の好きな人と、目立たない僕なんかが付き合うことになった理由~ 美濃由乃 @35sat68

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