最終話(表) ④上埜由貴の――
「ゆ、由貴さん」
「ん、どうしたの太一?」
「いえ、その、流石にちょっと恥ずかしくないですか?」
「なんで? 全然恥ずかしくないけど?」
由貴は抱きしめている太一に頬ずりをしながら答えた。
場所は教室。
時は昼休み。
周りには普通にクラスメイト達が大勢いて、そんな中で自分の膝の上に載せた太一を、大切に抱きしめている由貴は相当浮いていた。
だが由貴は周りから集まって来る視線など気にしていない。
むしろ由貴は、周りに太一は自分の物だと見せつけていた。
友達にはもうとっくに周知済みだった。意外そうな反応を返されるのがほとんどだったが、由貴が心底太一に入れ込んでいることを見せつければ、皆余計な事を言ってくる事もなかった。
由貴を狙っているような素振りをしていた男子が焦って近づいても来たが、由貴はそういう男の前で、太一との関係を嫌という程見せつけてやった。
もう自分たちの間には誰も入っては来れないのだと、自分の全ては太一の物で、太一の全てが自分のものだと、由貴は着実に周りに浸透させていった。
その甲斐あってか、今では教室でこんな事をしていても単に注目を集める程度で、特に騒ぎになるような事もなくなった。
由貴が太一と抱き合っているくらいは、この教室の日常になりかけていた。
遠巻きに視線を向けられても、二人だけの世界を邪魔しようとする者はいない。
肝心の太一も、今や由貴の傍からひと時も離れようとしなくなっている。
あの記念日から、由貴は毎日太一と一つになっていた。
身体の内から湧き上がって来る情熱のままに太一を貪り、時には太一の劣情をその身体で受け止めた。
太一はすっかりと由貴の身体に溺れ、今こうして由貴に抱きしめられているだけで、心音がかなり早くなっているようだった。
顔を赤らめて恥じらい、それでも何かを期待するような視線を向けて来る太一。
由貴はそんな太一が可愛くて仕方なく、こうしているだけで幸せが溢れて止まらなかった。
「私たちもう恋人同士だよ。私からのハグなんだから喜んで受け入れてほしいなぁ?」
「いや、それは、嬉しいですけど、今は他の人に見られてるから」
「もぅ、顔真っ赤だよ太一……誰もいないとこに行きたい?」
「え、いや、もう昼休みも終わっちゃいますし」
「あちゃ~残念だったね。放課後まではお互い我慢かな」
「放課後は、その、またあそこに行くんですか?」
「そのつもりだったよ。あそこの個室はいつでも使えるから安心してね」
由貴が言った「あそこの個室」は、由貴が太一と初めて繋がったあの場所の事だ。
あのネットカフェは実は由貴の母親が経営している店舗で、由貴が記念日に使う場所として選んだのもそういう理由だった。
由貴は以前母親から、直接あの個室の使用権を貰っていたのだ。
離婚した後、諍いがなくなった母親は自分の行いを顧みる余裕を取り戻したのか、反省して由貴に頭を下げて来た。
由貴としては完全に見限っていたのだが、あれ以降罪悪感からか母親は由貴に甘く、何でも言う事を聞いてくれた。
それで恩を感じたり、親子としての愛情を取り戻せる程由貴は心がまともではなかったが、利用できるものは喜んで使わせてもらっている。
由貴の母親は他にもホテルなども経営していて、由貴はいくつか自分の権限で使える場所をもらっていた。
その中でもメインで使っているのが一番使い勝手のいいネットカフェの個室。今日も今日とて由貴はあの個室に太一を連れ込むつもりだった。
由貴は太一と身体を重ねる事が好きだった。
太一を自分の身体に溺れさせながら、由貴も太一に夢中になっていた。
だが、今の太一は嬉しそうな顔をしていなかった。
その表情を見て、由貴の中で少しの不安が芽を出し始める。
「ど、どうしたの太一? もしかして行きたくないの?」
「い、いえ、そんなことは、そうじゃないんです」
「じゃあ何かあった?」
言いよどむ太一を見て、由貴の不安が一瞬で大きくなる。
まさか太一は、もう自分の身体に飽きてしまったのだろうか。
もう別の物に興味が映ってしまっているのだろうか。
一度そう考えてしまうと怖くなって、由貴は太一を抱きしめる腕に力を込めた。
太一を手に入れる前は、こんなにも由貴の気持ちが不安定になる事はなかった。
太一の事を考えるだけで、由貴は子供のように一喜一憂してしまう。
それだけ由貴は太一に依存していた。
自分に太一を依存させ、由貴もそれ以上にのめり込んだ。
別に身体の気持ちよさだけで由貴が依存したわけではない。
由貴が自分でも思った以上に太一にのめり込んで行ったのは、ひとえに、太一と一緒にいる時間がそれだけ心地よかったからだ。
太一はいつでも由貴への気遣いを忘れなかった。
どんなに自分が疲れていても、どんなに自分が大変で忙しくても、それでも太一は由貴の事を気にかけてくれた。
太一にとって唯一頼れる相手である由貴を、本当に大切にしてくれるのだ。
太一は自分の身を顧みず由貴に尽くしてくれた。
由貴に嫌われないために、由貴に捨てられないように、そんな太一の焦りと依存を由貴は心地よく感じていたのだ。
幼い頃は、唯一の肉親である両親からまったく見てもらう事なく育った由貴。
由貴はいつも自分を見て欲しいと思っていた。
誰にでもというわけじゃない、自分が見て欲しいと思った相手に、自分だけを見て欲しかった。
そんな由貴の願望を太一は余すところなく叶えてくれる。
それを見込んで由貴は太一を手に入れたのだが、実際にそうしてもらえると、その心地よさは想像以上だった。
由貴は今、太一のおかげで満たされていた。
由貴にとって太一は麻薬とそう変わらない。
もう由貴は身も心も太一なしではいられなくなった。
だからこそ、太一が自分から離れていってしまうのが何よりも恐ろしかった。
「私に隠し事しないでよ、太一」
「あの、隠し事なんかじゃなくて、僕はその、由貴さんとまた前みたいに色々な所にも行きたくて」
ほんのりと赤くした顔を恥ずかし気に伏せた太一が小声でつぶやいた。
それを聞いた時、由貴は自分の顔がにやけるのを抑える事なんてできなかった。
「可愛い奴め、そんな事遠慮しないで言ってくれればいいのに」
「でも、由貴さんの気持ちを優先したかったから」
「いちいち嬉しい事言ってくれるなぁ。でも、太一とならどこでも一緒に行くに決まってるでしょ! どこか行きたいところある?」
「そう言われると、はっきりとはないんですけど……由貴さんはどこかありませんか?」
自分の想いを出しながらも、それでも由貴を優先しようとする太一。
そんな細かなところまで、由貴にはいちいち可愛く見えてしかたなかった。
「あぁ~、じゃあなんか食べに行く? 二人でディナーとかどうよ?」
「いいですね! あ、でも僕、情けないですけどあまり高いと払えないです」
「アハハ、大丈夫だって! ママに言えばいくらでもくれるからさ、二人でパーッと行こうよ!」
由貴がおーと拳を突き上げれば、太一も控えめに拳を上げた。
沢山のクラスメイトがいる教室の中、膝に太一を乗せたままの由貴には、この場にいる他の人間がまるで見えていなかった。
それだけ由貴は幸せな気持ちに浸ってた。
「太一ったら別に高いとこでもいいって言ったのに遠慮するんだから」
「あはは、でも流石に悪いですし、このファミレスも好きなんで」
「そうなの? お気に入りだったんだ?」
「はい、由貴さんと初めて放課後一緒に過ごした想い出があるので」
「…………いちいち可愛いこと言うのやめて」
「えぇ、僕は別にそんな」
放課後。
由貴は太一と駅近くのファミレスに入っていた。
ここは由貴と太一が初めて二人で入った店舗で、由貴はもちろん覚えていたけれど、太一も覚えてもらえているのが本当に嬉しかった。
もちろんあの時と同じで、今も隣同士くっついて座っている。
ご飯を食べさせ合い、恥ずかしがる太一に由貴が悶えたりと、気兼ねなく入り浸り、気が付けば外はもうだいぶ暗くなっていた。
「もうこんな時間ですね」
「あ~、早いなぁ……もう帰らないと不味い、よね?」
「そう、ですね。流石にこれ以上はって感じですね」
由貴が太一を手に入れた記念日、あの時由貴と太一はネットカフェで一晩を過ごした。
当然太一のスマホには家族からの連絡が無数に来ており、その時は由貴がチャットで適当に言い訳をしておいたのだが、後日太一は普通に怒られたのだそうだ。
それ以来、太一は一時的に門限が設けられてしまう事になったらしい。
由貴としては作戦通りに事を進められたのだが、太一の家族の方を気にかけていなかったのは反省点になった。
自分の家族を気にする思考を持っていなかった由貴には完全に盲点だったのだ。
今後は太一の家族の事も知っていかなければならないだろう。
もどかしい想いをしつつも、悪い影響を与える彼女だと思われないよう、由貴も今はまだこれでも自重していた。
名残惜しさに身を引かれながら、由貴は太一と一緒に電車に乗った。
混雑している電車の中で、太一と身体を寄せ合って立つ。
お互いの身体を何度も見ているというのに、太一は未だに由貴の身体が少しくっつくだけで身体をこわばらせる。
由貴はそんな太一の様子が愛おしくて、ついつい悪戯をしてしまう。
そうして、それなりに長いはずの電車の時間も、太一といると由貴にはあっという間に過ぎていくように感じた。
「あ、太一の駅次だね」
もう別れの時間が迫っている。
由貴は太一と離れるこの時、日に日に自分を抑えるのに必死にならなければならなかった。
もっと太一と一緒にいたい。そんな想いが溢れ出しそうになる。
まして今日は身体も重ねていない。由貴はいつもより自分を抑えるのが大変だった。
「今日はありがとうございました由貴さん」
「ん、なにが?」
「いえ、僕が他の所に行きたいって言ったので」
「いいんだよ。これからも遠慮しないでよね。二人でいろんなとこにいこ?」
「はい、楽しみです」
「太一、電車降りた後で変な女の人に声をかけられても付いて行っちゃダメだよ」
「あの、子供じゃないんですから」
「子供じゃないから言ってるの! 太一はいつも私の胸見てるから、おっきい女の人に声かけられたら危なそうだし」
「ちょっ、声が大きいですよ! ていうか僕なんかに声をかけてくる女の人なんていませんて」
「太一……絶対私から離れて行かないでよね」
「はい、僕にはもう、由貴さんだけなので」
「そうだ! 私が家まで送っていってあげようか?」
「あはは、流石にそこまでは」
由貴としては割と本気で言ってみたのだが、太一には笑って流されてしまった。
「じゃあ、キス」
「……はい」
それは帰る前のお決まりの儀式。
由貴は太一と離れる前、必ずキスをする事に決めていた。
人が沢山乗っている電車の中、恥ずかしがり屋の太一もすっかりと由貴に調教されていて、由貴がキスと言えば素直に目を閉じる。
それを見て由貴は一切遠慮のない口づけを太一におとした。
何十秒も息継ぎをさせず、太一の口内を舌でかき回す。
そうして電車のドアが開いた瞬間、同時に唇を離すのだ。
「また明日ね太一」
「……はい由貴さん。また、明日」
快楽に侵され、ボーっとした瞳の太一は、電車を降りてもそのまま由貴を見つめていた。
特に由貴が何も言わずとも、太一はいつもこうして由貴を見送ってくれるのだ。
由貴はそんな太一を見て満足していた。
熱に浮かされたような太一の瞳には、由貴の姿しか映っていない。
もうその瞳に他人が入ってくる隙間などどこにもない。
それが喩え、以前仲良くしていた幼馴染たちだろうとだ。
ドアが閉まり電車が発車する。
真っすぐ見つめてくる太一を、由貴も見えなくなるまで見つめ返した。
姿が見えなくなっても由貴の頭の中は太一で埋め尽くされている。
「……あぁ~、内緒で太一の家まで付いて行っちゃおっかなぁ」
今日、太一が自分にだけ見せてくれた様々な表情を思い出すだけで、由貴は身体の疼きを止められなくなりそうだった。
「うん。やっぱり次の駅で降りて追いかけちゃお、それなら走ればギリ追いつける、かなぁ?」
自分の欲望を抑えきれていない事を由貴は自覚していた。身体が疼くのだ。
由貴は今まさに幸せの絶頂にいた。
太一を手に入れてから、毎日が輝いていた。
自分だけを見てくれて、絶対に離れて行かない最高のパートナーを手に入れた。
これから太一と二人で過ごす日々は、由貴に今まで以上の幸福を与えてくれるだろう。
由貴はもう太一しか見えなかった。
そして太一も、もう完全に自分しか見ていない。
少なくとも、由貴はそう思っていた。
それが、上埜由貴の――慢心。
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