ベーゼンドルファー

増田朋美

ベーゼンドルファー

朝はよく晴れていたのに、もう曇ってきて、夜は雨になるとかそんな事が囁かれていた日であった。でかけても帰りは雨になるかなとか、多くの人が呟いていたが、中には全く気にしない人もいる。その日、静岡市内の小さなコンサートホールでは、マーシーの音楽教室の発表会が行われていた。杉ちゃんと蘭もその好で拝聴させてもらったのであるが、特に、目立ってうまいという人はいなかった。そんな中、一人の若い男性が出場した。

「エントリーナンバー9番、横山康さん、曲は、ドビュッシー作曲、ベルガマスク組曲より、前奏曲を演奏いたします。」

と、アナウンスが流れて、横山康さんという男性が演奏を始めた。なんだか芸人みたいな名前だったので、杉ちゃんも蘭も黙って彼の演奏を聞いた。名前に合わない曲を演奏するもんだなと思ったが、なかなか指さばきもよく、安定した演奏をする。杉ちゃんも蘭も、感心して彼の演奏に聞き入ってしまった。

そう感じたのは、杉ちゃんたちばかりではなかったらしい。周りのお客さんたちも、横山さんの演奏に拍手を送った。それ以降、何人かメンバーが出場したが、際立って上手い人は居なかったため、横山さんが事実上最もうまかったということになる。

演奏会終了後、杉ちゃんと蘭は、ホールのホワイエへ出た。ちょうど入り口のところに、演奏会の主催者である高野正志が、お客さんを見送っていた。杉ちゃんと蘭は、すぐに声をかけた。

「よう、マーシー。生徒さんたちみんなうまかったよ。あの横山っていう、ドビュッシーの曲を弾いたやつが、なかなかうまいと思ったね。ちょっと彼に話をさせてくれない?」

と、杉ちゃんが言うと、

「彼ならもう帰りましたよ。なんでも家に用事があるから先に帰りたいというものですから。」

残念そうな顔をして、マーシーは答えた。

「本当はね、ぜひ彼にその感想を伝えてあげられたらいいんですけどね。残念ながら、家にどうしても帰りたいようがあるようで、先に帰しましたよ。」

「ということは、かなりの訳ありということかなあ。大体早く帰るやつは皆そうだぜ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「ワケアリというか、ちょっと事情がある方なんです。でも、決して悪い事情では無いんですけどね。」

「はあわかったよ。まあ、そういう事もあるかあ。せっかくうまいピアニストを発掘して、サインを貰いたかったのに、残念だなあ。」

杉ちゃんがそう言うと、マーシーも苦笑いした。

「でも、杉ちゃんの感想は必ず彼に伝えておきますよ。彼のような、演奏ができる人は、めったに居ませんからねえ。それは、僕も認めますよ。本当は彼を、この教室の看板として、もっとコンクールとか出てもらいたいくらいなんですよ。」

「なにか、わけがあるんでしょうか。人にはいえない事情がおありなんでしょうか?」

と、蘭が聞いた。蘭という人は、どうしてもその仕事からか、弱い人を助けたいという気持ちになってしまうらしい。

「あんまり話したくないんですけどね。それを言ってしまうと偏見を持たれる方も居ますからね。」

マーシーはとりあえずそういう事を言った。

「だれにだってあるんだよ。人にはいえない悲しみが、か。まあ、その辺りは気にしないでおこう。」

と、杉ちゃんがそういうのであるが、理由を聞きたい人は、蘭ばかりではなかったらしい。杉ちゃんたちの近くに、一人の若い女性が立っていた。なにかマーシーに話したい素振りを見せているが、どうも怖くてできないという感じだ。それをみた、杉ちゃんが、

「何だ。お前さんも、なにかあったの?もしかして、入門希望?」

と聞くと、彼女は、ああ、ああ、すみません、と、戸惑ったような顔で言った。

「すみませんじゃないよ。入門を希望するなら、ちゃんとこの教室の主催者であるマーシーに言うんだな。そこはちゃんとしないとだめだぜ。」

と、杉ちゃんが言うと、彼女は、

「いえ、そんな、私は、全くピアノが弾けないんです。」

と答えるのみだった。

「でも、初めて習う方は、皆そうですよ。だれでもみんな弾けないけど、指導者がうまくやってくれれば、弾けるようになるものです。」

と、蘭が優しくそう話すと、

「いえ、私は、そんな、ピアノを習う資格なんてありません。ただ、その横山さんという方が、あまりにも素晴らしい演奏だったので、ご挨拶したかっただけで。」

と、彼女は言った。

「ピアノを習うのに、資格なんて必要ありませんよ。ただ、音楽が好きだという気持ちさえあればいいんです。それに、その横山さんと言う人だって音楽を習うきっかけを与える事ができたというのなら、喜ぶと思いますけどね。」

蘭は、そういったのであるが、彼女は、申し訳無さそうにごめんなさいといった。

「せめて名前だけでもお伝えしたいので、お名前を教えてもらえませんか?」

と、マーシーが彼女に聞くと、

「はい、矢崎と申します。矢崎陽子。」

と、彼女は答えた。

「わかりました。矢崎陽子さんという女性の方が、あなたを称賛していたと彼に伝えておきます。」

マーシーは手帳にやざきようこさんと書き込んだ。同時にホールのスタッフが、撤収時間になりましたと言ってきたので、マーシーも蘭も帰り支度を始めた。その日は、特に、その名前を意識することはなかったのであるが。

その、発表会が行われて数日後。

「えーと矢崎陽子さんですね。職業は、矢崎建設の社長の御婦人で、正確に言ったら、主婦と言うことですね。」

影浦は、彼女の問診票を見ながら、できるだけ優しく言った。

「安心してください。僕は、怖い医者ではありません。精神科というと変なやつが来るところといわれがちですが、皆さん、傷ついていて、優しい人達ばかりです。そこは大丈夫ですからね。それで、あなたの感じている症状についてですが。」

と、彼女の顔を見ながら、影浦は言った。

「はい。記憶が、曖昧です。」

矢崎陽子さんはいう。

「記憶が曖昧。それはどういうことでしょうか。記憶と言っても、大昔のことから、最近の記憶まで、様々なものがあります。その当たりを教えてくれませんか?」

「はい。自分の名前と住所はわかりますが、私がどうしてここに来て、その前後に何があったのか全く覚えていないんです。気がついたら、私は、先生の前に居ました。ですが、どうやってここに来たのか、私は、まるでわからないんです。」

そういう彼女は、おそらく解離性障害だろうなと影浦は思った。

「ご自身の生活史とか、だれと一緒に住んでいるとか、そういうことは思い出すことはできますか?」

と、聞いてみると、

「はい。私は、富士市の中野に住んでいます。家族構成は、夫と二人暮らしで、子供は居ません。夫は、富士市内で、建設会社をやっています。先日、夫と、会社の発足して、50年を迎えた式典に行きました。ですが、其時何をやっていたのか、どうしても思い出すことができないんです。」

と、陽子さんは答えた。

「わかりました。矢崎さん落ち着きましょう。記憶の一部が欠落しているのですね。無理して思い出そうとすると、精神が疲労してしまいますから。今はそれはやめておきましょう。」

「でも私、どうやって帰ったらいいのでしょうか。私、どうやってここまで来たのか、全然思い出せないんです。先生、そんなんじゃ家に帰れないって笑いますよね。」

と彼女は、慌てた雰囲気でそう言うので、影浦は、大丈夫ですと彼女を落ち着かせた。

「大丈夫です。とりあえず、タクシーをお呼びしますから、中野へ連れて行ってもらうことにしましょう。中野へ行ってみたら、住んでいた家が思い出せるかもしれませんよね?」

と、影浦は言った。

「ごめんなさいごめんなさい。今、思い出そうとしているんですけれども、その家がどんな家だったかとか、全然思い出せないんです。ああどうしよう、私、これではいつまで経っても家に帰れない、どうしよう、どうしよう、どうしよう!」

仕舞いには泣き叫んでしまう彼女を、影浦は、大丈夫です大丈夫ですと言って慰めた。

「そういう症状を出す方はたくさんいます。僕も、タクシーに同乗しますから、一緒に中野地区へ行ってもらって、そこで家の様子を思い出してもらうことにしましょう。あなたは、物忘れがひどくなったとか、そういうことじゃないですよ。ちゃんと、解離性障害という病名が着くんです。それは、全然悪事ではありませんので、それを恥ずかしがってはいけません。」

と、影浦は言って、看護師に頼み、気分を落ち着かせるための、強い安定剤を持ってきてもらった。そして、彼女にそれを飲むように言った。陽子さんは、わかりましたと言って、その液剤を飲み込んだ。

「大丈夫ですよ。それはただ、気分を落ち着かせるだけの薬で、眠気を催すことはありません。まずは、落ち着くことが大事です。陽子さん、スマートフォンを見せていただくことはできますか?」

影浦は、彼女にそう聞いた。彼女がそれを取り出すと、

「その中のフォトアプリを出していただけますか?その中に家が映っている写真を片っ端から出してみてください。」

影浦は指示を出した。彼女がそのとおりに、家が映っている写真を順番に出していくと、

「その家の写真の中で、あなたの自宅と思われる写真はありますか?」

と聞いてみた。しかし陽子さんは、

「はい。それがさっぱりわかりません。」

と、いう。普通の人なら、自分の家も忘れてしまったのかと呆れる人もいるかも知れないが、影浦はなれていた。

「じゃあ、その写真の中で、矢崎という表札がある家を探しましょう。」

と、彼女に言った。彼女はわかりましたといって、一生懸命探しているが、やはり見つからないらしい。確かにパニックになると、人間正確な判断ができなくなるものだが、彼女は数分して落ち着いてきてくれたようで、

「えーと、矢崎と書いてある家は、、、。」

という言葉を呟いてくれたので、影浦もホッとした。

「だめですね。私、表札を写してある写真がどこにもない。」

「そうですか。じゃあ、これからも、なにか思い出そうとして、パニックになってしまったときのための薬を出しておきます。それでは、しばらくしたら、タクシーを呼んで、中野へ行くようにしてもらいましょう。」

と、影浦は、そういう彼女を優しくなだめながら、次の患者さんがしばらく居ないので、良かったなと思った。

「じゃあ、こちらの処方箋を、薬局に渡してください。」

そう言って影浦は、処方箋を急いで書いて彼女に渡した。陽子さんはありがとうございますと言って受け取った。影浦は念の為、彼女についていてもらうように、看護師に言った。陽子さんは、看護師に連れられて、薬局へ行き、薬をもらった。その間に、影浦は富士市でも比較的障害者に対して寛大である、岳南タクシーへ電話し、事情を話してとりあえず中野地区へ行ってくれと頼んだ。理解してくれたタクシー会社は、すぐに一台送ってよこしてくれた。

「では、この人を、中野地区へ連れて行ってやってください。もし追加料金が発生するようであれば、僕が支払います。」

影浦は、彼女を後部座席に乗せて、自分も隣に乗った。運転手は、わかりましたと言って、タクシーを動かし始めた。しばらく、タクシーを走らせて、吉原本町通りを抜け、西富士道路を通って、ひろみインターを通り越して、いよいよ中野地区へはいった。影浦は、近くにあったコンビニの駐車場にタクシーを止めさせて、二人でタクシーを降り、陽子さんの手を取って、道路を歩き始めた。

「さあ、ここには、いろんな家があり、いろんな人達が住んでいますね。それでは、あなたの住んでいる家がどれなのか、ゆっくり歩いてもらいますから、思い出してもらいましょう。」

と、影浦は、陽子さんに、できるだけにこやかに言った。

すると、一人の男性が、一軒の家の前で立っている。その両脇には、杉ちゃんと蘭がいた。おそらく、移動するのを手伝ったのだろう。

「あれえ、影浦先生じゃないか?」

と、杉ちゃんにいわれて、影浦は、軽く会釈をした。

「どうしたんだよ。こんなところでタクシー走らせちゃってさ。」

「ええ、健忘の激しい患者さんです。家の帰り道を忘れてしまったというので、思い出していただきたくて。時折、こういう事もしなければなりません。」

杉ちゃんにきかれて、影浦はそう答えたのであった。

「そうですか。影浦先生も大変ですね。わざわざこんなところに来られるなんて。しかも、記憶喪失の患者さんなんて。」

蘭は、彼女の顔には見覚えがあるなと思いながら言った。

「あの、もしかしたらですけれども、矢崎陽子さんではありませんか?高野正志のピアノ教室で発表会があったときに、僕達おあいしたはずなんですけどね。車椅子なので、見たことがあると思います。覚えていらっしゃいませんか?」

そう彼女に蘭は聞いたのであるが、

「ごめんなさい。私、何も覚えてなくて。」

と、彼女は言った。すると、杉ちゃんが、

「残念だなあ。なんにも覚えてないなんて。お前さんの事に感謝して、こいつが花を持ってきたのによ。」

と、隣に居た男性を顎で示した。そこに居たのは、あのとき、ドビュッシーの前奏曲を弾いた、横山さんであった。

「こいつが、演奏したのも覚えていないのかな?」

杉ちゃんはもう一度聞くが、

「ご、ご、ごめんなさい。私、どうしたらいいのか全くわからなくて、どうしよう。」

と彼女はまた戸惑った顔をするのだった。それを見た横山康さんは、なにか納得したような顔をした。

「しっかし、なんでそんなに、最近の事を覚えていないほど、忘れっぽくなっちまったんだろうか。だって、嬉しいことは、覚えているはずなんだけどな。なにか大きな怪我でもしたか?その年で認知症とか、そういうことはなさそうだしな。少なくともお前さんは、おばあさんでは無いだろうし。」

杉ちゃんが腕組みをしてそう言うと、

「ご、ご、ご、ごめんなさい。ごめんなさい、どうしても思い出せない。どうしよう。なんで、この人が私の事を知っているのでしょう。」

と、彼女はそういうのだった。

「仕方ありませんね。まず、彼女には、催眠療法士の方にお願いして、記憶を取り戻してもらうことから始めましょう。杉ちゃんも蘭さんも、こういう場合は仕方ありません。おそらく、心因性の健忘症で、これがかなり重度なのだと思いますが、それが、非常に大きな理由があって、そうしなければならないんだと思うんです。」

「はあ、そうなのか。それは可哀想だな。じゃあさ、この横山康くんに、演奏して貰えれば、取り戻してもらえるかも。」

と、杉ちゃんが言った。蘭はなんていう突飛なことを言うのかと思ったが、杉ちゃんは、どんどんそういうことはしてしまえ、というように、どんどん横山さんを中にいれてしまうのであった。

「おい、ピアノを入れてある部屋はどこにあるだろうかな?」

杉ちゃんは、そう陽子さんに聞いた。

「居間にあります。」

と、陽子さんは小さい声で言った。全員、居間に行った。そこには、ベーゼンドルファーのピアノが置いてある。杉ちゃんは、困った顔をしている横山さんに、とりあえず、前奏曲を弾いてみてくれ、と言った。横山さんは、ピアノの前に座って前奏曲を弾き始めた。あのときの、発表会で弾いたのと同じ曲だと、思ってくれるだろうか?

「随分きれいな曲ですね。」

弾き終わってから陽子さんはそういった。

「お前さんは、その曲が終わった後、横山さんに声をかけようとして、主催者のマーシーのところまで行ったんだよ。それを思い出してくれないかな?」

と、杉ちゃんが言うと、

「わからないわ。それも覚えていないわね。私、ほんとに何をやってたんだろう。そんな、ピアノの発表会を聞きに行ったなんて、何も覚えてないんです。そんな事、私が本当にしたのでしょうか?」

と、陽子さんは言うのだった。これを冷静に観察していた影浦は、それはもしかしたら、単に健忘というものではなくて、解離性同一性障害というものの可能性があるのかなと思った。でも、そのことはまだ、彼女にはいわないことにしておいた。

「いえ、本当にしたんだよ。ここに居る横山さんはお前さんが声をかけてくれたことに感動してわざわざお礼に来たんだからな。それに、僕達も、同じ発表会の会場に居た。それは確かだぜ。だから、お前さんは、間違いなく、発表会の会場に居て、横山さんの演奏を聞いたんだよ。それは、ちゃんと考えろ。」

と、杉ちゃんがいうが、横山さんが、

「彼女には、僕の演奏を聞いたという事実だけ伝えていただけないでしょうか。僕も鬱になって、辛かったときがありました。そういうときって、だれにいわれても辛くて、どんな励ましも効力はなかったです。きっと彼女は、忘れたくても忘れられない事があったんだと思います。だから、そうやって記憶を消し去るしかできなかったのでしょう。」

と、それを止めた。

「だから、無理に思い出さなくてもいいです。ただ、平和な生活が一番の幸せですから。」

だったら、横山さんがお礼を言いたい気持ちは、どうなるんだろうと蘭は思ったが、横山さん本人は、それでもいいと言った感じだった。なんだかみんな納得していないけど、そういうことは、経験した人しかわからない辛さというものかもしれない。それは、杉ちゃんたちも、そうだよなあと思い直した。

「わかりました。では、陽子さんには、これから、失われた記憶を取り戻すために、治療を受けていただきます。今日は、とりあえず、横山さんの演奏を聞くことができて良かったということだけにしておきましょう。その前後のことは治療によって思い出せばそれでいいことにしておきます。」

影浦が医者らしく決断したように言った。蘭はため息を付いた。杉ちゃんと横山さんは、まあそうだなという顔をしている。すると、陽子さんが、横山さんにこういう事を言いだした。

「すみませんが、もう一度、前奏曲を弾いてもらえませんか?」





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ベーゼンドルファー 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る