第2話 坂の下、虎の声
多少下ったところで、左に折れた坂道の先が見えました。坂の終わりはかなり下のほうでしたね。
そこには先ほどの柳をすかした向こうに川が右から左に流れており、この僕が下っている通りとT字でぶつかる、川に沿った道もありました。
その道には川のへの侵入を防ぐべく、坂道と同じような紅白のガードレールがありました。
郊外だけどちょっと田舎のような感じで、川はそう広くはなく、大きな石が川べりにいくつもあり、その合間にも柳が数本植わっていました。
空は青く、白い雲が浮いていて天気もよく、風がいいかんじで柳の葉をゆらしていました。
「これは怖い夢だったはず…」
僕は坂の途中で不思議に思いました。
「坂を下りたらどうなるのかな…」
それは未知の世界でした。
「あのまままっすぐ煙草屋の脇を抜ければあのいつもの虎に会う」
「でもそれだけ…怖いけれど…」
「この坂を下りて、あの川にでたら、他の何かに出会うかもしない」
突然それが無性に怖くなりました。
恐ろしくなりました。
虎以上に怖いものに会うかもしれません。
それなら…。
虎に会うだけ、僕はそちらを選択しました。
交差点にもどれば、恐ろしいが、すでに知っている虎に会うだけでこの悪夢は終わります。
振り返り坂を上りました。
坂道なのに、夢の中なのに、その時はうまく上がれたのでほっとしました。
左に曲がります。
いつもの虎が僕を睨んでいます。
僕は初めて虎に言いました。
勇気なのか、虎を見てまさか安心したのか、でも怖いのに不思議です。
「君は怖いけれど、こっちにした」
虎は睨むだけで何も返しませんでした。
その後も何度も同じ交差点に夢の中で立ちました。
坂を下って行こうと思ったことはありません。
なんとなく嫌な予感がするのと、虎に会うだけのほうを選び慣れてしまったから。
安定志向というのかな、冒険は怖くて。
とにかく、悪夢はここを過ぎると終わるので、僕はこの場所に来ると少しだけ、ほんの少しだけ安心しました。
この夢を見る頻度はかなり減り、数年に一度、そして今はもう十年見ていません。
悪夢を見てもこの交差点に出ることはなくなってしまいました。
悪夢自体もあまり見なくなりましたね。
最後にこの夢を見たのは娘がまだ小学生のころ。
その前も五、六年見てなかったので、おそらく結婚してからは二度しかみていないのですね。この二十年で二度だけということになります。
僕はその交差点に立ちました。
この交差点に立つということは、今の夢は悪夢だったのだな…
そんな気がした記憶があります。怖い夢との認識がほとんどなかったのですね。
確かに多少怖かった感じでしたが、
”こんなことは初めて”でした。
勿論夢の内容は忘れました、少しだけ怖かったような感じだけが残っていました。
僕は歩いて交差点を渡ります。
真ん中くらいにいくと、いつもの虎が見えました。
あいかわらず立って僕を見ています。
僕と虎との目の高さはほぼ同じくらいです。
とにかく早くすり抜けるため、でも、今度こそなにか脅されるかもしれないと思い、慎重に虎に近づいていきました。
彼は僕をこれまたいつも通り睨みつけています。
僕は視線を彼の表情に向けながら、ほぼ真横まで行きました。
彼は瞳だけを僕に向けています。
顔は交差点の方向です。
彼の口がわずかに動きました。
低い声だけど思ったほどではなく、かなり小さい声で、ほんのわずかに聞こえた“感じ”がしました。
口の動きとその小さい声は僕にはこんなふうに聞こえたし、思えました。
「またか…」
またか…。
“また来たのか”
呆れている感じ。
“また来たのだな”
久しぶり、また来たな、そんな感じ。
両方ともとれる話し方、声、表情でした。
初めてのことです。
「うん…」
僕はうなずきました。
それがいけなかったのか夢は覚めました。
これが今のところ交差点に出て虎に会った最後の夢です。
虎が睨む以外のことをした最初で最後の夢です。
今のところですけれど。
同じ夢を何度も見るというのは、なにか意味があるのかもしれません。
調べたことはないです。
ですが一度くらい、あの虎には合って少しでいいので話してみたい気持ちもします。
「君は誰なんだ」
と訊いてみたいですね。ただし怖いから距離をおいて。
あと、左の坂道。
たぶんもう下りることはないでしょう。
引き返してよかったなと思っています。
歩道にも入らなくてよかったと思っています。歩道は暗かったですから。
川を見たときになんとなく嫌な予感がしたのです。
あの下に何があるのでしょうね、何と出会うのでしょう。
もっと虎以上に怖いものが出てくるかもしれないし、あるところまで行くと引き返せなかったかもしれません。歩道に入ったら出られなかったかもしれません。
柳が揺れていました。青い空と白い雲を背景にゆったりと揺れていました。
了
怖い夢と虎と @J2130
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