#5「消毒薬と追加のテープ」

いくつもの飴の袋をぎゅうぎゅうと上着に詰め込んで、アズールは鞄を担ぎ直した。

「じゃ、僕はもう行くから。せわしなくて悪いけど、あとのこと頼むね」

「安心して行ってきたらいい、あなたが居ないのなら起きるトラブルだってたかがしれている」

「冷たいことを言うんだね。帰ってきたときはあんなに歓迎してくれたっていうのに」

嫌味をものともせず、ケラケラとアズールは笑う。声に合わせて青い色の髪が揺れた。メタはため息をついて首を振る。

「……流石に色恋沙汰は想定外だ。今回のことは一つ世話になったと思うが、くだらない話に付き合うつもりはない。今はちょっとの時間も惜しいんだろう。遊んでいないで早く行け」

肩を小突き、背を向けて立ち去ろうとしたメタは、出し抜けに白衣の裾を掴まれてつんのめる。なにをする、と叫んで振り向けば、アズールは弁解するようにへらっと両手をあげた。

「引き留めて悪いね。大事なことを伝え忘れていたからさ。僕がここを出て行ったら、なるだけすぐに石鹸で全身を洗ってほしいんだ。これは熱いお湯に浸かるんでも良いけど」

六十度で三十分以上、頭から爪先までね、と続けたアズールに、メタは露骨に嫌な顔をした。


「……俺に何をさせる気なんだ?」

その温度ならあんかにしようという様子でもないな、と言えば、アズールは意外そうに目を瞬く。

「この頃はあちこちで悪い病気が流行っているみたいでね。きみに発症の恐れはないし、僕がキャリアになっているとも思わないけど、感染経路になるとまずいから」

感染者も結構な人数が出ているらしくてさ、と天気の話でもするみたいにアズールは言う。それから思い出したように、今回の仕事もその関係だよと続けた。メタは眉をひそめたまま頷いた。

「事情はわかった、机も消毒しておこう。しかし、それで複製二課のあなたが呼ばれるのには納得がいかないな。特効薬でも作ろうっていうのか? 一般向けの薬品製造は三課の領分で、あなたの専門じゃないだろう」

クローニング研究所の課は三まであり、治験を通さない現場レベルの運用をのぞけば一課と二課に新薬開発の機能はない。不審に思うメタへ、確かにそうだね、とアズールは言った。

「まあでも今回は技術者じゃなくて被験者側の招集だから。生き残った人間のサンプルなんだよ、僕は身体が丈夫だからね」

ほら元気、と言ってアズールは力こぶをつくるような仕草を見せた。上着のポケットに詰め込まれた飴の袋が腕に押され、フラップを僅かに押し上げる。メタは眉間に手をやった。

「道理だな……」



一人になれば、先ほどまでの賑やかさは影もない。床を掃き清めてから消毒剤を撒く。言われたとおりに体を洗い、着ていた服も煮沸した。綺麗になった部屋で、さて、何をしたものかと思っていると、白衣を着たモルフォがやってきた。

「会いに来たよ、メタ。しばらくぶりかな……ちょっと待って、これなんのにおい? ここで何があったの?」

「なにって、別にどうもしない。消毒の匂いだろう。頼まれて掃除をしたんだ」

モルフォは床や壁を見てちょっと変な顔をしたが、そう、といって続きを促した。特に言うべきこともなかったので、メタは座ったまま近況を訊ねた。

「モルフォはこの頃どんな感じだ?」

「……一課の方? 祝祭の準備は終わって、あとは……どうかな、私にできることはなさそう。全くもっていつも通りだよ。今日は、何かあればと思って来たんだけど……」

ちょっと困ったような顔をしてモルフォは周りを見渡す。先ほどメタが掃除したばかりの部屋は、僅かに濡れているばかりでチリの一つもない。蛍光灯が僅かな音を立てる。がらんとした室内の静まった空気からは冷たいプールのような匂いがしていた。

「……ね、メタ。掃除って何をしたの?」

「床を掃いて、テーブルとドアノブを拭いたんだ。……もしかして二課の仕事を手伝いに来てくれたのか? とはいって、こちらも別段やることはないな……」

「ううーん、そんな気はしてた。あ、そうだ。これ、メタにプレゼント。持ってきたから一緒にどう?」

白衣のポケットから取り出されたのはテープだった。脳髄テープ。それは脳へと直に読み込ませ学習の期間を大幅に短縮する文明の利器。S型第二世代の優れた圧縮記録媒体はメタのもつ機械の脳さえ実現可能にした。メタは小さなカセットを受け取った。ラベルには『追加』の文字と識別番号らしき数字の羅列。


「これは?」

「若年層向けに配られたアップデートパッチだよ。配布対象者のリストにメタの名前はなかったから」

メタは言葉の意味を取りかねて、頭の中で二度繰り返す。それはつまり。

「……俺のために持ってきてくれたのか?」

「そう。私はもう使ったんだけど、メタはテープが好きだって聞いてたから興味あるかなと思って。一課からの借り物だからみんなには内緒ね」

唇に指を当て、モルフォは困ったように笑う。

「ありがとう、ちょっと開けてみていいか?」

「うん」

プラスチックのカバーを開け、テープの形状を見た。汎用の再生機にさして使う、ありふれた形のものだ。

「これは……古い方の規格だな。持ってきてくれたところ悪いんだが、このタイプは現行のものと作用機序が違って生身の脳じゃないと読み込めない。つまり、俺には使えない」

気持ちだけ受け取っておく、と言ってメタが返したテープを、モルフォは一瞥して懐に収めた。

「そっか、そういうのもあるんだ。余計なことしちゃったかな?」

「モルフォが……気を回してくれたことが嬉しいと思っている。ところで、なんのアップデートなんだ?」

メタが訊ねると、青い目は二度瞬く。少しの間、考えるような間があった。

「回ってきたお知らせにはワクチンって書いてあったかな。衛生観念と安全行動の補助用だって聞いているよ。他にも細かい調整が入っているみたい。巷で病気が流行っているって話、メタはもう聞いた?」

モルフォの言葉に、おや、と思う。

「アズールも同じことを言っていた。本当に流行っているのか……」

「うん。研究所じゃ発症者は殆ど出ていないけど、外は大変みたい。この追加テープも供給が追いつかないって」

メタはぎょっとしてモルフォを見た。正確に言えば、白衣の中にしまわれているテープの方を。

「そんなものを持ち出して大丈夫なのか? 足りていないんだろう」

「これは余剰分。ダメだったら持ってはこないよ。各所に複数個配るものだし、再生機があるならダビングだってできるよ」


メタは顔を曇らせる。ごく自然な流れで口に出されたが、本来テープのダビングは御法度だ。ノイズが乗ると読み込み不良の危険があるため、テープの改変、改ざん、およびテープの劣化を招く複製行為は固く禁じられている。だが、禁じられているのは実行者がいたからこそで、研究所という場にはその手の法整備に寄与した無法者がそれなりにいる。アズールの元を離れて職に就いたモルフォが、結局のところそちら側に取り込まれたのは誤算であった。苦い顔をしていると、気がついたらしいモルフォが少し慌てたようにいった。

「冗談だよ、一課でも事例集の読み回しはする。悪いことだってちゃんとわかっているよ」

「ならいいが。いや、いいのか……? わからなくなってきた……」

どちらにせよあまり聞きたくない台詞だったな、とメタは思う。

「法の話をしだせばきりがない。テープは元の場所に返してきてもらえるか? それがすんだら休憩にしよう。このあと、なにかしたいことは?」

「私が決めていいの? じゃあ、お祝いの日のための髪型を考えるから三つ編みにして。ここで待っててね、すぐ、すぐ返して戻ってくるから!」

モルフォはぱっと飛び起きると、待っていて、と再度言って部屋を出た。腰まで垂れる青い髪が靡き、白衣の裾がひらめいて視界から消える。タイトな長スカートに似つかわしくない全力疾走に気圧されながら、メタはモルフォが戻ってくるのを待った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

メタモルフォーゼ・インサート 佳原雪 @setsu_yosihara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ