#4「紙一枚の仮契約」
「……俺では彼女を幸せにはできないと思っている。わざわざ俺を選ばずとも、他にもっとふさわしい人間がいたはずだ。……そうだアズ、彼女には輿入れの打診が来ていただろう。本人が望んだとはいえ、横からかっさらってしまうのではまずいんじゃないのか?」
僅かな望みを託し、過去に聞いたような話を持ち出してみる。だが、追い詰められつつあるメタに返されたのは、僅かに不平を帯びた視線一つだった。
「全部とっくに破談になっているよ。せっかく優秀な研究者になったのに、慣れた研究所から引き剥がして今更外の家庭に放り込もうなんてお互いにとっても良くない。きみがそれをどこまで理解して言ったのかは知らないけど、外のしきたりとは違うんだ。モルフォから生活を奪うつもりかい」
「そんな、そんなつもりでは…… しかし、そうか……」
『生活を奪う』というアズールの言葉は重く響き、メタは安易な思いつきで口を開いた自身を恥じた。身を置く環境が急変することの苦痛は、他でもない自分自身がよく知っていた。
「……悪い、アズールの言うとおりだ。浅慮だった」
「わかってくれた? 今の話、モルフォには黙っておくよ。まあ、この先、研究者になったモルフォを選んで家に迎えようって人は流石に出てこないと思うから安心して」
「ちょっと待て、どういう意味だ……?」
言外の否定的なニュアンスが感じられて、メタはちょっと眉をひそめる。モルフォはメタの特別だ。結婚という男女間での結びつきをメタは避けようとしたが、それも特別であるからこそだ。
「どういう意味って、言葉通りだよ。腕利きのクローン技師がほしければ呼ぶ方法なんていくらでもあるし、S型第二世代の人間がほしいならクローン技師より呼びやすい立場の人がいくらでもいる。モルフォは優秀な技師だけどね、だからこそかな? 外に根を下ろして家庭内で役割に殉じるのにはもう向かない」
それは『外』の誰かとはもう結婚させられないという宣告であったのだろう。もの言いたげな目が向けられてメタは居心地の悪さを感じたが、アズールは責任の所在を問いはしなかった。
思えばアズールはずっと自身の伝手でモルフォを信頼の置けるものと結婚させようとしていた。それを遮り、自立を促してモルフォに就職を勧めたのはメタだ。そのことに関してはまぎれもない自業自得で、メタは思うように転がらなかった運命の歯車に始末をつける必要があった。考え込むように顔を伏せたメタに何を思ったのか、アズールは大事な話の間でも握り続けて離さなかったペンを置いた。そうしてメタの肩に手を回し、元気づけるように軽く叩いた。
「元気出しなよ。別に研究職に就きながら同僚と結婚する人間なんていくらでもいるんだし、きみがふさわしくないなんてモルフォは少しも思ってないよ」
だから困っているんだろうが、とは流石に言わなかった。メタは伏せた顔の影で奥歯を噛む。
「マリッジブルーには早いけど、環境変化に不安はつきものだ。次のひと月で関係を進めておくといいよ。忙しくて困っちゃうな。書類はこっちで頃合いを見て出しておくから」
何気なく投げかけられた言葉に、メタの思考は一瞬止まる。遅れて、今度の結婚が決定事項になってしまったのだと気がついた。既にアズールはペンを握り直して書き物に戻っている。おそらく、さっき言っていた推薦状だ。何をどう推薦するともわからないが、メタとモルフォの両者がいかに添い遂げるにふさわしい人間かという題で、嘘一歩手前の美辞麗句がずらずら並べられているに違いない。
「待て、俺……俺が? モルフォと?」
「他に誰がいるんだ。指輪だって貰ったんだろ? 双方にとっていい機会じゃないか。本人たっての希望なんて名誉なことだよ。選び選ばれるなんてのは誰にでも許されることじゃない」
「それはわかっている、そんなこと……わかっている、が……」
俺がこんな結末を望んでいたとでも言うのか。今それを問うたなら、目の前の男は屈託なく頷いてみせるのだろうと思われた。メタは鈍る思考を強いて解決策を探す。来るはずのなかった機会に、何をすべきかわからない。今から、落としどころを見つけることなんてできるのだろうか?
「……もし、仮にだ。ここで頷いたら、俺はこれから何をすることになる?」
「お、やる気だね。手続き自体は申請一枚書いて終わりだ。その後にはお披露目式がある。二人の新たな結びつきを周知して確定させるんだ。誰を呼ぶか決めとかなくちゃね」
もし契約を破棄し、全てをご破算にしようというのなら、タイムリミットはそこまでだ。メタの葛藤を余所にアズールは楽しそうに続ける。
「今は……そうだね。とりあえず入籍だけして、式は後からやればいいよ。なんなら入籍もあと回しで良いかもしれないね。仲介を立てない今風の結婚はみんなそうだ。かけ違いがあるといけないから慎重にやる」
企みを見透かされたような気がして、メタは内心気まずく思った。だが、アズールがこういう話をするときは大体が単なる事実の羅列だ。メタは怪しまれないよう、平静を装って聞き返す。
「……アズール。それって、掛け違いがあれば途中で話が白紙になったりするってことか?」
「うん? ああ、やっぱり変な感じだよね。まあ、よっぽどのことがあればって感じかな? 僕らは相手に合わせられるけど、外の人同士ではそうもいかない。その点、きみは運が良いともいえる。低くない確率でうまく行くし、低確率の例外だって弾けるんだ」
アズールの声はにこやかだ。ならば、とメタは考える。目指すは『低確率の例外』だ。結婚ではない着地点が見つかれば最良、暮らしぶりに幻滅したモルフォが離れていけば、最悪の事態だけは避けられる。メタは過去に別れたパートナーのことを考えた。交際はいつも拒絶と別離によって終わる。求婚を白紙に戻したいと思っているのに、拒絶されるのは怖かった。深い部分を知られたくない保身の心と、モルフォを自由にしたいという願いが淡く綯い交ぜになって心を揺らす。ともあれ決断は急務だった。手を打たなくてはならない。それは、二人のより良い未来のために。
「……そうだな、それで、いこう」
「じゃあ、気が変わらないうちにサインしてね」
目の前に紙が一枚差し出される。ありふれている、それでいて特別の契約用紙だ。既にモルフォの名前は書いてあり、残る空欄は二つ。メタは欄を確認し、ゆっくりと己の名前を書いた。手元に戻った紙を指さすアズールは、二回頷いて残った保証人の欄にサインした。
「オッケー。じゃ、次に帰ってきたときにまた様子を聞くことにしよう。あー、もう、疲れた疲れた。嫌になっちゃうなあ」
枠の埋まった契約書類を丁寧にしまうと、机の上に詰まれていた紙束をざっと揃える。アズールはそれを置いてあった鞄に丸めて放り込み、立ち上がってその辺の引き出しを次々に開けた。中から袋飴の一つ二つがつかみ出され、複数ある上着のポケットへ淀みなく詰められていく。よく入れた引き出しを覚えているな、と思っていると、アズールは片手につまんだ袋を開けながら振り向いた。
「そういえばメタは知ってる? さっきの話、S型の絡まない婚姻の話題でね、婚約までいったけどご破算になったってペアの噂を研究所内で聞いたよ。偶発的なマッチングに頼る外の人は大変だね」
流し込むと形容するのが正しいような勢いで白い飴玉を口に突っ込む相棒を見ながら、メタはなんと声をかけようか迷い、結局のところなにも言えずにいた。アズールの聞いた噂の当事者はおそらくメタそのひとであったし、歯にあたってガジャゴジャと音を立てる飴や、他に楽しみがないとでも言うように飴を頬張るアズールへ、言えることなど何もないような気がしたからだ。
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