厨房の白い秘密

oxygendes

第1話

 料理人は運んできた荷物を準備台の上に置き、厨房を見回した。

 五台並んだコンロ、下準備された食材が並んだ調理台、食器や食材の並んだ棚に大型の冷蔵庫と冷凍庫。全てが一年前と変わってないように見えた。そしてそれは、子供の頃の見慣れた光景からほとんど変わっていないものだった。


 彼は調理台に並んだ食材をひとつひとつ調べていった。今日の料理の材料として使えるものかどうか。厨房にあるものは何でも使ってよいと言われていた。ただし冷凍庫だけは開けてはならないとも。理由は教えてもらえなかったが、冷凍の食材を使うつもりはなかったので別に支障はなかった。

 厨房の食材はどれも良質で新鮮なものだった。彼はしばらく思案し、麺とスープ、そしていくつかの食材以外は厨房のものを使うことを決めた。


 料理人は荷物を解いて、スープの入ったペットボトル、新聞紙に積んだ野菜、乾物の入った食品保存袋、そして保冷ケースを取り出した。コンロの前に立ち、一番と二番のコンロに寸胴鍋をかける。一番のコンロの寸胴には水をはり、二番のコンロの寸胴にはペットボトルのスープを注いで火をつけた。


 調理の下準備にかかる。まず野菜からだ。持参した包丁で野菜を刻んでいく。白菜や椎茸はそぎ切り、人参、筍は一口大の薄切りにした。莢豌豆は持参したものを使う。筋を取って両端を切り落とした。

 次に食品保存袋から二種類の乾物を取り出した。彼が味の決め手として選んだものだ。フードプロセッサーで切り刻み、さらにすり鉢であたってなめらかなペースト状にした。 


 お湯が沸騰した寸胴鍋に麺を投入し、軽くかき混ぜる。中華鍋を取り出し、三番のコンロにかけて油をなみなみと注いだ。


 続いて肉と魚介の下処理にかかる。豚肉は一口大に切り、かまぼこはそぎ切り、貝柱は庖丁を水平に動かして薄切りにした。保冷ケースから活き海老を取り出すと、しっかり体をつかんで頭をもぎ、殻を剥いて背わたを取った。頭と殻は網に乗せて四番のコンロであぶり、スープに加える。


 油の温度が上がったのを確かめ、一気に仕上げにかかる。野菜を網杓子に載せ。油に投入。網杓子でかき混ぜ、すぐに掬い上げる。油通しだ。鍋の油を油入れに移し、玉杓子で少量の新しい油を継ぎ足してコンロにかける。豚肉を炒め、さらに海老と貝柱を加えた。軽く塩胡椒し、油通しした野菜とかまぼこを加えてかき混ぜる。

 寸胴のスープを掬い、漉し器を通して中華鍋に注ぐと、ジャッと言う音とともに油がはねた。その中にペーストをスープで溶いて加える。白濁したスープの味見をし、調味料を玉杓子で掬い入れて、味を調整した。

 麺の茹であがりを確かめ、網杓子で掬って、中華鍋に入れる。一度煮立たせてから、麺と具材を深皿に盛り付け、中華鍋のスープを注いだ。これで課題の料理の出来上がりだ。


 料理人は料理を厳しい表情で凝視した。これが料理長に一年間の修業を審査される一皿になるのだ。具材の位置を箸で少しだけ直し、お盆に乗せて、料理長の待つ客席ホールに向かった。


 店の内装は白を基調とし、柱と梁に赤い装飾が施されていた。円形のテーブルが十卓以上並んでいる。この日は定休日で、店内にお客の姿は無い。一番奥のテーブルで料理長が彼を待っていた。コックコートに身を包み、長い髪を白い布でまとめている。その前に料理を運んだ。


「料理長、この一年、修業と工夫を重ねてきました。審査をお願いします」

 料理長は料理を見つめ、そして視線を料理人に向けた。

「盛り付けはいいわね。味はどうかしら」

 レンゲで掬ってスープを口に含む。箸で具材のいくつかと麺を一口、口に運び、ゆっくり噛みしめる。念入りに咀嚼してから飲み込んだ。


「この味わいを出しているのは胡桃と落花生そして海老ミソかしら?」

「はい。味に厚みを出すために加えています」

「いい工夫ね。去年よりおいしくなっていると思うわ」

「ありがとうございます」

 それでも料理人の表情は緊張したままだ。


「それでどう? この味なら私の審査をパスできる、そう思っているの?」

「それは……」

 料理人は口ごもった。

「料理長にはまだ及びません。でも、そこいらで腕自慢している料理人には決して負けてないと……」

「なかなかの自信ね」

 料理長は微笑んだ。

「じゃあ、一年ぶりに私の料理を食べてみる?」

「は……い」

 料理人は不承不承に返事する。避けられない結末に向け、自分が追い詰められていることを自覚していた。それでも断ることはできなかった。


「お願いします」

「すぐ作るから待ってなさい」

 料理長は一口しか食べていない料理をテーブルの上に残し、厨房に消えた。


 五分ほどして、料理長が料理を持って帰ってきた。見た目は料理人のものとあまり変わらない。白濁したスープに色鮮やかな具材と麺が盛られている。


「さあ、どうぞ」

 料理長に促されて、料理人は箸をとった。具材と麺をスープとともに啜り込む。具材と麺の香りが鼻に抜け、スープの旨みが口の中いっぱいに広がった。濃厚な豚肉の旨みや舌に染み込むような貝類の旨みなど、いくつもの味が複合して奥深さを醸し出している。口の中にとどまらず、体全体が幸福感に包まれていた。

 料理人は夢中になって噛みしめ、飲み込む。箸を止めることができなかった。麺と具材のすべてを一気に平らげ、スープを一滴残らず飲み干した。空になった皿をテーブルに置いた時、もう無いのかと言う悲しい気持ちにとらわれる。


「感想は?」

 料理長の言葉に料理人は顔を上げ、空っぽの皿とほとんどが残っている自分の料理を見比べた。

「すみません。自分のいたらなさを改めて思い知りました」

「そんな事を言ったら、今年の審査は不合格になるけど、いいの?」

「はい、仕方ありません」

「じゃあ、審査はここまでね」

 料理長は頭に巻いていた白い布をほどいた。


「おかえり、大輔。今日は頑張ったわね」

「ただいま、母さん。でもまだまだだよ」

 料理人ははじめてリラックスした表情になった。


「袋町のお店はどうなの? お店の皆さんとはうまくいっている?」

「うん、良くしてもらっている。先月からはマスターが休み番の時は看板料理のフライパンを振らせてもらえるようになった」

「すごいじゃない。頑張りなさいよ」

「ああ」

「今日は泊まっていけるの?」

「いや、明日の仕込みがあるからね。今日はもう帰るよ」

「そう……、年に一度の審査の時だけじゃなく、もっとまめに家に帰ってきなさいよ」

「うん、考えとく」


 そう言うと、料理人は手早く荷物をまとめ、そそくさと引き上げて行った。


「まったく……。男の子ってどうしてあんななのかしら」

 一人残された料理長は、テープルで愚痴をこぼしていた。

「自分一人で大きくなったような顔をして、母親がどれだけ心配しているかわかっちゃいない。年に一度くらい、家に泊まっていきなさいよ」


 テーブルには二つの皿がおかれたままになっていた。一心不乱に食べていた大輔の顔を思い出す。


「私の料理に感激していたけど、あの味が特別なのは自分にとってだけってことに、いつかは気が付いちゃうんでしょうね」


 料理長は、厨房の冷凍庫とその一番奥に入っているクーラーボックスに思いを巡らせた。クーラーボックスの中のビニールパック、凍結した白い塊が彼女の料理の隠し味だった。


 大輔が生まれたのは、彼女がこの店を開いてすぐの頃だった。開店直後で多忙を極める中、乳飲み子を店に連れてくるわけにはいかず、託児所に預けた。店で仕事をしている間も容赦なく張ってくる乳房を自分で絞ってビニールパックに詰め、家に帰ってから大輔に与えていた。母乳が豊富な体質で、飲み残した分をもったいないと思って冷凍保存していたのだ。

 それが大輔にとって特別な調味料であることに気付いたのはたまたまだった。大輔が小学生の頃、家でシチューを作った時、いたずら心で冷凍保存していた母乳を加えたら、彼はおいしいおいしいと言って鍋一杯のシチューを一人で平らげてしまった。

 母乳は人が生まれて初めて味わうもので、約一年はそれで命をつなぐ。母乳は味覚の根源であり、絶対のものなのかもしれなかった。

 そんなことがあったので、彼女は年一回の審査を始めた時から、冷凍庫に保存していた母乳を隠し味として使った。効果はてきめんで大輔は彼女の料理を特別なものと思い、勝ち目の無い挑戦を続けてきたのだ。


「まあ暫くはあの子の目標でいてあげましょうか。それが幻に過ぎないとしてもね」


 料理長はテーブルの上の大輔の料理を手元に引き寄せた。


「せっかくの大輔の料理だもの。じっくり味わって食べないともったいない、もったいない」


 彼女はそれから時間をたっぷりかけて、自分の息子が作った料理を味わう至福の時を過ごしたのだった。


       終わり

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