第七部 極魔帝
その年、上杉と毛利が、織田信長を押さえようと動いた。それに呼応して、信長の臣下として働いていた武将、松永弾正が裏切った。信長包囲網へと動いたのだ。それは、信長も一目置く、博学にして名君とも、謀略の限りを尽くした悪人とも歌われた男の最後の賭けだった。天下の名城、安土城も、弾正が以前築城した田聞山城がお手本とされる。だが、果たして上杉謙信は途中で撤退、松永弾正は窮地に追い込まれた。味方は誰も無く、信長の嫡子、信忠を総大将として、明智光秀などの有力な武将が大和の真貴山城を取り囲んだ。松永弾正は、城に立てこもり、進退極まっていた。
その夜、真貴山城に織田信長の密使が訪れた。城主松永弾正は驚きの表情を隠せなかった。
密使との会見が終わると、家来の武将が飛び込んできた。
「殿、いったいどのようなことに? 上杉謙信の動きに合わせて織田家に謀反を起こしたわけですから、ただではすむまいと覚悟しておりました。」
「以前武田信玄上洛の際、謀反を企てた時は、あの田聞山城を取り上げられ、臣下一同団結して乗り越えました。殿、覚悟はできておりまする。なんなりとおっしゃってください。」
信長も一目置くという合理的な思考と才覚を持った戦国武将、松永弾正は静かに語った。
「今回の謀反に関して、国や城を取り上げられることも、誰かが首をはねられることも無い。」
血の気を失っていた家来たちの顔がさっと明るくなった。
「本当ですか、それはよろしゅうございました。」
だが、松永弾正は、表情を固くした。
「あわてるではない。条件がある。」
家来たちはきょとんとした顔で、弾正を見た。
「信長は、わしの平蜘蛛の茶釜が所望じゃ。」
家来たちが顔を見合わせ、ざわめきたった。
「それは、いったい?」
弾正は静かに茶を一杯飲むと、思慮深く言い聞かせるように告げた。
「まあ、おぬしたち臣下におとがめや心配はとりあえず無いということじゃ。下がって皆に伝えよ。武装を解いて、信忠に従え。きのうまで一緒に戦ってきた仲間じゃ。悪いようにはせんじゃろう。」
「殿、殿は、どうなされるおつもりですか?」
「案ずるでない。すぐ後で行く。早く皆に伝えるのだ。」
弾正は家来たちをひとまず戻すと、なにやら茶器を取り出し、腕を組んだ。
「もしや信長が、このわしのあらゆる邪気を封じる平蜘蛛の窯の秘密をしったか…。誰かが、信長に入れ知恵をしたか。やつはこのような名器をあらゆる場所から集めているという…。己が手にしていったいどうするつもりだ。ううむ、こんな時、明智天輪殿がいれば、…。ええい、もはや、これまで。」
松永弾正は、平蜘蛛の茶釜を持って、一人、天守閣に登った。
弾正は家臣たちが残らず城を出るのを確認すると、平蜘蛛の茶釜に爆薬をつめ、天守閣ごと爆死した。あとには何も残らなかった。この謎に満ちた名将の最期が、すべての始まりであった。
その日、夕刻が近づいた山里を未月はひたすら走り回っていた。
「おばばあ、みんなー。」
隠れ里の中央の広場に出ると、そのあまりのひどさに目を覆った。
「建物がめちゃくちゃだわ。いったい何が起きたの。」
あちこちの建物がえぐられたようにひしゃげ、剥ぎ取られたようにばらばらになっていた。
遠くで地響きと何かが崩れるような音が響いてくる。まだ、何かが続いている。
未月があちこちを見て回ると、物陰から大怪我をした男がゆらりと姿を現した。
「灯悟、大丈夫? いったい何があったの。隠れ里がめちゃくちゃだわ。」
すると灯悟と呼ばれた男は苦しそうな顔に笑みを浮かべた。
「塊王を呼び出したのさ。冥道衆のやつら、未月のほかにも魔神を呼ぶやつがいると知って、驚いてとっとと逃げ出したよ。じゃあ、俺はちょっと後始末に行ってくるから。」
「いいわよ、あとは私がやるから、少し休みなさい。」
だが、灯悟は、よろよろしながら歩き始めた。
「呼び出した者が、ちゃんと始末をつけるのが掟さ。そのぐらいのことは心得ているよ。それより、おばばを頼む。ちょうど仕事で皆が出払っているところを狙って来やがった。おばばは一人で封神屋敷にいる。大怪我だ。急いでくれ。」
「わかったわ。無理はしないでね。」
塊王というのは、ダルマのような心臓で呼び出す魔神だ。ごろごろ転がりながら、周りにあるものを破壊し、それを体に取り入れ、どんどん巨大化していく。敵の武具やよろいまで、自分の体に巻き込み、力に変えていく、とんでもない壊し屋だ。
「おばばー、私よ。未月よ。」
封神屋敷というのは、魔神を呼び出す神像を安置してある屋敷だ。見た目は大きな農家にしか見えないが、実は、二重、三重に魔具で守られている神聖な場所だ。
「うそ、こんなことって?」
安全なはずの封神屋敷の横の壁がぶち抜かれ、ぽっかりと大きな穴が空いているではないか。
「おばばー、おばばー!」
穴に駆け寄ると、屋敷の奥で小さな老婆が、なにやらごそごそと片付けをしていた。
「おばば、よかった、あとは私がやるから、早く横になって。」
するとおばばは手を止め、安堵の色を見せた。
「未月か。なんと早い。よくわかったな」
未月はすぐにかけよっておばばの怪我を診た。
「京でささいな妖怪騒ぎがあって、線香おばばを呼び出したら、まったく返事がないものだから、驚いちゃって。とんできたら、この騒ぎで…。」
打ち身と引っ掻いたような傷、けっこうひどい。よかった間に合って。
「黒雲とともに、空飛ぶ牛に引かれた牛車が降りて来てな、妖しい鬼姫が、神像を狙って来たのじゃ。それが、鬼姫の連れてきた、黒坊主がこれが怪力な上に、なかなかしぶとい化け物でな。牛頭馬頭や黒曜亀もよく戦ったんじゃが、危ないところじゃった。そこに灯悟が塊王を呼び出してくれてな。さすがの黒坊主も、鬼姫も逃げ出したのじゃ。」
「塊王はとんでもないからね。へえ、黒曜亀まで戦ったの。なかなかの相手ね。」
するとおばばは、庭のほうを指差してつぶやいた。
「黒曜亀は、また敵が来やしないかと、姿を消して庭におる。お前にも会いたがっていたぞ。」
「へえ、黒曜亀か、久しぶりね。」
未月が庭を見ると、小さな家ほどもある黒曜亀がゆっくりと姿を現した。
幾重にも重なる五角形の年輪、黒曜石のようなつやの亀甲が黒光りする。、小山のような甲羅を持つ巨大な亀が、やさしい目でこちらを見ていた。
「こっちが片付いたら行くからね。待っててね。」
その時、遠くで地響きとともに大きな叫びが聞こえ、やがて静かになった。
「灯悟ね。やっと塊王の封印に成功したみたいね。よかったわ…。」
未月はおばばを寝かせて傷の手当を終えると、がれきの方に歩き出した。
「派手にぶち抜かれたわね。でも、中はそれほど被害は無いみたいだけど。」
「黒曜亀が必至で守ってくれたからのう。だが、最初に一つだけ、神像が持っていかれた。」
「ま、まさか。あ、本当だわ。こ、これは…。」
神像の収められている棚の一角がぽっかりと空いていた。
「やつらは急いで、手当たり次第にそれをつかんだようなのだが、よりによって鎧空牙とは…。」
「なんてこと! 鎧空牙の能力もさることながら、極魔帝が…。これは面倒くさいことになったわ。」
おばばは横になったまま、小さな櫛を取り出した。
「塊王に襲われて、鬼姫が落として言ったものじゃ、この邪気をたどれば、きっと取り返せる。頼むぞ、未月よ。そうじゃ、五行童子を連れて行くがよい。こんな時、一番頼れる。極魔帝の件も心配じゃ。」
「うん、そうするわ。」
未月は櫛を受け取ると立ち上がった。
「駿河に仕事に行っている波流貴たちに連絡用の式神を送っておいたから。明日の朝にはここに来るでしょう。村を襲って、おばばたちをこんな目に合わせて…。皆が来たら、血判をもらって、、私、すぐに出発するわ。」
未月はてきぱきと片づけをはじめた。黒曜亀がそれを優しい目で見ていた。
その頃、明智天輪は、琵琶湖を臨む、小高い丘の上に来ていた。眼下にはキラキラ光る湖面、そして少し離れた高台に、異彩を放つ安土城が聳え立っていた。
天輪の後ろから、大僧正が進み出た。何を隠そう、あの三法師の一人、海の法師であった。
「わしの目の黒いうちにこんなことが起きるとはのう。どうじゃ、天輪、見えるか。」
天輪は、気迫をこめて胸の前で印をきった。そして安土城をじっと見つめた。
「ううむ、なんということ、一番上の天守閣のあたりに、邪気が集まり、吸い込まれていく。」
「やはり見えるか。」
すると天輪が、後ろにいるカザルス神父に尋ねた。
「カザルス殿、あの天守閣にも登られたとか。信長はいったいあの場所に何を置いたのですか。」
するとカザルスが、慎重に考えながら答えた。
「あそこにあったものといえば、高名な茶器と…、それからううむ。そうだ、不思議な形の石がありました。信長は、これは天下を治める神の石だと言っておりました。」
「神の石? 初めて聞く。いったいなんなのだ。」
海の法師がはき捨てるように言った。
「安土城に邪気を集めて、やつらいったい何をする気なのだ。信長は何をしておる。やつらに取り込まれてしまったのか。」
「うぬ? なんだこれは。」
天守閣を心眼でのぞいた天輪が、表情を固くした。
「光秀の異変ありの知らせで駆けつけたが、これは大変なことだ。すぐに戻って、作戦を立て直そう。」
その夜、明智光秀の居城坂本城に信長の弟、有楽斉がお忍びで訪れていた。
坂本城、ここは比叡山と琵琶湖に挟まれた平城で、比叡山の焼き討ちのあと、比叡山をおさえ、琵琶湖周辺の敵対勢力に睨みを利かせるために築かれた城だ。だがここは実は明智一族の坂本氏の里がある、明智・坂本にゆえんのある場所であった。
最近は、坂本天外なども出入りし、冥道衆を見張る拠点となりつつあった。
有楽斉は、窓から琵琶湖を臨み、つぶやいた。
「兄者の安土城と比べられるほどの名城だけのことはある。眺めも最高じゃ。光秀よ、人払いを頼む。」
「はは。」
有楽斉は平静を装っていたが、やはりどこかぴりぴりしたものを感じさせた。
外部には知られていないが、織田家の一大事なのである。
「…それで…、織田家の長男、信忠様、ご乱心の件だが…、調べはついたか?」
「はい、反織田の急先鋒として動き出した公家の近衛先光ををどうするかで、信長様と信忠様の間でおきた諍いが事件の発端です。諍いのしばらくあと、納得が行かない信忠様が、ことわりなしに、信長様の部屋に入ったとき、信長様の隣に、なんと「鬼」がいたそうです。信忠様の話では、毛むくじゃらで、黒い鎧に身を包み、人の言葉で、何かを話していたそうです。あわてて信忠様が、近くにあった刀を抜き、斬り付けると、黒い影になって消えたと言っていました。ところが信長様は、そんなものは元からいない、見ていないととぼけるどころか、刀を振り回した信忠様を乱心扱いして謹慎させてしまったのです。」
「それでは、兄者のほうが…。まさか!」
その言葉を聞いた光秀の顔が険しくなった。
「やはり、…。魔界の者か?」
光秀は、唇をかみしめ、ゆっくりとうなずいた。
「聡明で合理的な信長様のどこに、魔物の入り込む余地があったのかわかりませぬ。ただ、以前の隠し金の事件のあったあと、魔物はいる。わしは魔物を超えると言っていたのを覚えています。」
「まことか。確かめたのか。」
「実は密かに、明智天輪様を呼び、何も教えず、心眼で、信長様が天守閣にいる時に、遠くから見ていただいたのです。」
「で、兄者のそばに魔物がいたのか。」
「信長様のそばには、黒い鎧を着た、毛むくじゃらの魔界の者が見えると、確かにおっしゃいました。先ほども言いましたが、天輪様には、何も教えてありません。信忠様が見たものと、まったく同じで、鳥肌が立ちました。」
「それが真実なら!。なんということじゃ…。」
「そして、安土城の異変でござる。外に決して漏れないようにしておるようですが、原因不明の高熱にうなされる臣下が続出しているようです。その数、十数人。」
「わしも伝え聞いてはいたが、そんなにひどいのか? 安土城の異変か。これは、放っておくと、織田家の存亡にかかわることになるやもしれぬ…。で、解決策を考えたと言っておったが、何かあるのか。」
光秀はこっそりと短い書状を取り出した。
「どれどれ…。」
書状には、三つの方策がしたためてあった。一つ目は、密かに術者を安土城内に潜入させ、加持祈祷などで魔物を祓う。二つ目は、強力な結界の中に信長を招きいれ、魔物を祓う。
そして…。
「な、なんとおぬし、命をかける気か。」
「信長様にとりつくほどの魔物、やすやすとこちらの策に乗るとは思っておりません。」
書状を持つ、有楽斉の指が震えた。
「な、なんと、一つ目二つ目でだめなときは、おぬし、主君殺しの汚名を来て、兄者ともども魔物をを打ち滅ぼし、自らも果てると申すか。」
光秀はまっすぐに有楽斉を見た。その目に嘘はなかった。
「もちろん、織田家の行く末をすべて考えた上で実行します。なんにせよ、早くやつらの正体や目的を探り、最悪の方策を取らなくても済むように、命を賭ける所存です。」
本能寺の変はここに始まった。
そこは天空にそびえる城の中だった。銀狼は狼の素顔の上に兜をつけ、鎧をまとい、魔界の武将として、銀の屏風の前に座っていた。そこに三人の魔界の戦死がやってきた。
「おう、ついに我が配下の三強がそろったか。ご苦労であった。」
鋼鉄の体と俊敏さを併せ持つ、魔界の偲び鋼猿、魔界の軍師能面の千眼、魔界の職人玉天楼がそろって深々と頭を下げた。
「鋼猿よ。よく信長に近づくことができたな。」
「銀狼様のおっしゃる通りにしただけでございます。信長は、魔を封じ、神仏を超えると申しております。魔物も神仏も自在になる方策があると匂わせたら、風向きが変わってきました。」
「やつほどの男なら、それもできるかもしれない。でも、その前に完全にこちらの作戦を実行し、食らい尽くしてやるわ。どうじゃ、千眼よ。」
すると、魔界の算術士の異名を持つ千眼は、奇妙なそろばんのようなものをはじきながら答えた。
「天輪の配下の風水士や陰陽師がそろそろやってくる時期ですが、すでに手を打ってございます。やつらの式神も結界も役に立たないでしょう。」
銀狼はほくそ笑み、さらに言葉を続けた。
「さすが千眼、手が早い。それと、お前が計画して彩姫に行って貰った鬼流門の里だが、おまえの計算した通りの段取りで神像をつかんできたら、大当たりじゃ。鎧空牙という魔神、今回の計画にもってこいじゃな。」
「魔界算術と占術の応用でございます。あとは、玉天楼の腕の見せ所だ。」
すると上品な顔立ちの男が、静かに答えた。
「私が異世界に築城したこの白幻城の居心地はいかがですか。」
銀狼は、満足そうに答えた。
「ああ、最高じゃ。ところで、わしが頼んでおいた例の仕掛けはどうじゃ。」
すると玉天楼は、すっと立ち上がり、近くの襖を静かに開いた。その向こうには極彩色の屏風絵に彩られた大広間があった。
「よく、見てくださいな。」
そういって玉天楼は、静かに襖を閉め、呪文を一言かけた。
「おお!」
その途端、襖が銀色に光だし、開くとその向こうに、大きな滝とせせらぎに囲まれた、涼しげな広間が現れたではないか。さらに二度、三度と開閉するたびに、海を臨む御殿であったり、不思議な大輪の花が咲き乱れる庭園であったりしたのだ。
「いかがですかな。この天空の城の襖は、異世界のあちこちの城につながっておりまする。いざと言うときは、襖を通り抜けられれば、もう誰も追って来れないでしょう。」
銀狼は大きくうなずいた。
「さすが、玉天楼じゃ。完璧な仕事じゃ。」
だが玉天楼はさらに続けた。
「さらに、ここの襖は彩姫の御殿にも、京の街中にも通じております。」
「さすがだ。そういえば、光秀の手のものが、城の内部に魔物の手先がいるのではと探りを入れているらしいぞ。」
銀狼がそう言うと、鋼猿がうなづいて答えた。
「はい、われら魔界のものの尻尾をつかもうと、やっきになっておるようです。」
「ほんの少しでも悟られるでないぞ。我々が、どうやって城の内部のことを知ることができるのか。そして、この異界の城がどこにあるのか、決して知られてはならぬ。」
「はは。」
「ははは。目に者を見せてくれるぞ。。ははははは。」
天空の城に、銀狼の高笑いが響いた。
日が暮れてきた。未月は、人気の絶えた、山寺の物陰に潜んで息を殺していた。チャンスは一瞬しかない。
「線香おばば、どう、そろそろかしら?」
「うむ、東の空から、邪気が近づいてくる。心せい。」
未月はすばやく呪文を唱えた。つづらの中から、年の頃なら五、六才の男の子が飛び出してきた。
「頼むわよ。五行童子。」
未月の言葉に、男の子は黙って、にこっと笑った。やがて、東の空がおどろおどろしい赤い色に染まり、その中を、黒雲に乗った牛車が走ってきた。
「五行童子、炎であいつをここに引き摺り下ろすのよ。」
すると、童子は片手を上げて叫んだ。
「炎変化!」
すると、五行童子の体は、炎に包まれ、まるで火の粉が舞い上がるように、上空に飛び上がった。
「モーウウウウウ!」
炎の童子が、くるくると巨牛の周りを回りだす。炎に驚き、暴れだす巨体。牛車がガタガタ揺れ、やがて、ゆっくり地上に降りてきた。
「もどるのよ、童子。」
やがて、古寺の横につけた牛車の中から、あでやかな着物をまとった、美しい姫が現れた。
「何やつじゃ、わらわを襲うとは身の程知らずが!」
未月は、すかさず五行童子とともに進み出た。
「私よ。鬼流門未月。隠れ里から奪った魔神の神像を返してもらうわ。」
すると姫の顔が怒りにゆがんだ。
「おのれ、誰かと思えば、妹の敵! こんな場所で会うとはな。戦いは軍師の千眼に止められているが、、闘わないわけには行くまい。」
姫は小さな竹でできた虫かごを取り出すと、中から、黒いコガネムシを取り出した。
「いでよ、豪腕虫。やつらをひねりつぶすのじゃ。」
虫かごを出たコガネムシは、どんどん大きくなり、二本足で立ち上がるとともに、前足が太く、長くなり、あっという間に全身を黒い鎧に包まれた戦士となったのだ。
「望むところよ。こいつが、封神屋敷に大穴をあけたやつね。いいわ、五行童子、やっつけるのよ。」
豪腕虫は、やおら、その巨大な右手で殴りかかった。ちょこちょこ走って、逃げる童子。
二度、三度と大振りするがうまくかわされてしまう。だが、地面には大穴が開き、大木が倒れる。なんという怪力だ。
一発でも食ったら終わりだ。童子は逃げ続ける。
姫がキレた。
「おのれ、ちょこちょこと、動けなくしてやる。」
姫が手を振ると、蜘蛛の糸がすっと空中を流れ、童子の足に絡む。動きが止まった。そこを思いっきり殴りかかる豪腕虫。
「土変化!」
その瞬間、童子は、泥団子をつぶすように、ペッタンコになってしまった。そして、どこからか、子どもの笑い声が聞こえてきた。
「どこじゃ。」
腕を持ち上げても童子はもうどこにもいない。だが、その時、豪腕虫の足元の土が急に泥のように軟らかくなり、重い体がズブズブと沈み始めた。あわてて逃げ出そうとする豪腕虫、だが今度は泥が盛り上がり、二本の腕になり、凄い力で泥の中へ引っ張り始めた。暴れる豪腕虫、だが、あっという間に引き込まれ、腰まで泥の中に埋まっていた。すると今度は泥が固まり始め、身動きが取れなくなった。と、思う間に、土が目の前でもこもこと盛り上がり、童子の姿になった。
「金変化!」
今度は童子の体が、光り輝き、全身が金属のように硬くなった。
そして、身軽に走り出すと、豪腕虫の胸の鎧を一撃した。ズウンという思い響きとともに、豪腕虫の胸にヒビが入った。
「なんてこと。ありえない! ああ、なんてひどいことを! すぐに直してあげるから。戻るのよ。」
豪腕虫はもとの小さなコガネムシに戻り、虫かごに入っていった。
「さあ、神像はどこ? 教えて。」
すると、姫はものすごい顔で未月を睨むと言った。
「いやじゃ! もう、帰る。」
その時、姫の後ろで、銀の屏風が広がった。
「な、なんだこれは?」
すると銀の屏風の中から、気品のある顔立ちの男が現れ、丁寧に礼をした。
「彩姫様、玉天楼にございます。お帰りが遅いので、お迎えにまいりました。」
「ふん、とんだところで時間をくったわ。すぐわらわの御殿にもどる。」
「かしこまりました。」
そう言うや否や、銀の屏風の中に異世界の御殿が映り、姫も牛車も、男も、光に包まれると、吸い込まれるように、その中へと入って言った。
「しまった。追うのよ。」
だが、未月と五行童子が駆けつけたときには、屏風は元の銀色にもどり、そのまま折りたたまれて消えていった。
「異世界に逃げられたか。こいつは面倒な敵だ。」
未月は、しばらく腕を組んで考えていたが、やがてなにか思いついたのか。五行童子をつづらに戻し、足早に山道を降りて言った。
「まあ、それは大変だったこと…。よくご無事で。」
星照院は、奥の間で、二人の客人をもてなしていた。部屋の隅には、雄山と宗助が、腕を組んで、奏胤の話に聞き入っていた。
「どこでどう調べたのか、比叡山の私のいた僧房や、いつもお勤めしている本堂が取り囲まれ、火をかけられました。不条理なのは、近くの僧院に逃げ込んだ一般の信者や民衆まで、皆殺しにされ、首検分をされたということです。私は、嶺の法師様を逃がすために、変装し、やっとのことで下山致しましたが…。空を真っ赤に染め上げる灼熱の炎と人々の悲鳴が、胸に焼き付いて、今だ離れません。昨日のことのように思い出されます。」
雄山が、そっと聞いてきた。
「いったい、なんのために。信長は何を考えておるのだ。」
「確かに信長に歯向かった大名が比叡山に逃げ込んだことはありました。それがもとで信長が比叡山と敵対していたのは確かです。でもあのような蛮行は理解できません。私を狙っていたのは確かなようです。」
すると宗助がさっと話しに加わった。
「しかし、一人の人間を消すために、三万余の兵力を差し向けるでしょうか。」
「だからよくわからないのです。でもこれで一つ確かなことは、信長にとって、寺社はもう怖くない、神仏を超えたという事実を作ったということです。」
星照院が、眉をひそめ、繰り返した。
「神仏を超えた?」
すると今度は、天外が口を開いた。
「少し前まで信長はいろいろな敵に囲まれていた。足利将軍とも敵対し、かなり追い詰められていた。だが、あの隠し金の一件以来、銃を、種子島を一斉に買い足し、兵農分離、常戦部隊を作り上げ、すべてをねじふせてきた。あと身の回りの敵といえば、当面の敵は、楽市楽座を嫌う寺社であり、神仏なのだ。」
その時、宗助が急に立ち上がり、近くの戸をさっと開いた。
「あたたたた。」
隙間からのぞいていた久太郎が、倒れこんできたのだった。
「なんですか、はしたない。」
久 太郎は悪びれず、星照院に訴えた。
「星照院様の美しさに、ついに二人の恋敵が乗り込んできたのかと、心配していたんですよ。」
星照院は、厳しい表情で一喝した。
「おほん。この方たちは、そのような不謹慎な方たちではありません!」
「まったく、久太郎と来たら…。」
雄山が苦笑いした。
「星照院様は確かにお美しいが、そのようなことは考えたこともありません。」
天外がぶっきらぼうに答えた。奏胤は合掌し、軽くおじぎした。久太郎はしつこい。
「お美しいって、ほら、やっぱり…。」
「いいかげんに、およしなさい。」
そういう星照院の頬はほんのり赤くなっていた。
「久太郎、そのくらいにせんか。お市にお茶を持ってくるように言ってくれ。」
雄山がそういうと、久太郎は、調子よく部屋を飛び出して言った。
「へえーい。ちょっとお待ちを。」
「それで、今回はどのような御用でこの京に?」
「実は、今、天輪さまが調べているのですが…。またぞろ魔界の者どもが動き始めたようでして。ぜひ、鬼流門未月様のお力をお借りしたいと思いまして。」
すると、星照院がにこっと微笑んだ。
「やはり、大変なことが起きているのですね。さきほども、未月を訪ねて男の方が見えたんですよ。未月は急用で出ていますが、もうすぐ帰ると思います。」
すると雄山が二人に話しかけた。
「そうじゃ、やつのことはおぬしらもよく知っているはずじゃ。どれどれ、わしが案内しよう。」
「よく知っている?」
二人は首をかしげながら、ほくそ笑む雄山について、診療所の裏に歩きだした。すると日焼けした精悍な男が、いい気分で縁側に座っていた。
「おおい、先生、待ちきれなくて始めちまってるぜ。いやあ、うまい酒だなあ。」
「お、おまえ、雷刃丸! おお、権佐まで…。」
雷刃丸の後ろでは、巨漢の権佐が体を小さくしてお辞儀をした。
「まあ、難しいこと言わないで、とりあえず一杯いこうや。もう、しばらくは、飲めないかもしれないぜ。」
雷刃丸はそういうと、大きな声で笑った。
その日、安土城では祝いの宴が催されていた。武田軍を打ち破った功労者、徳川家康をもてなすためだ。接待役は明智光秀、宴の場所の選定から設営、料理や、細かい指示まですべてをまかされたのだ。信長を好きな場所、好きな時間に呼び出せる、最初で最後の機会であった。光秀は、この日に命を賭ける所存であった。
琵琶湖を望む安土城の庭園に、大掛かりな設営が行われ、中心に織田信長、徳川家康の席が設けられた。光秀は、密かに宴の四方に封印の結界を用意した。宴が盛り上がり皆のものに酒が入った後に結界を発動させる。たとえ魔物が封印され、一時的に信長が倒れるようなことがあっても、酒の上のことと済ます手はずであった。
光秀は、用意をする者をすべて息のかかった信頼できる者を使い、念には念を入れて表の設営も、裏の仕掛けも漏れのないように準備した。もうすぐ時間という時に、信長がぶらっと見回りに来た。
「どうじゃ、家康はああ見えてなかなかの舌の持ち主、宴の肴はうまく用意できたか。」
光秀は、すぐに食材のはいった桶を持ってこさせた。
「は、今朝、明石より届きました獲りたての真鯛にございます。」
ついさっき浜に上がったばかりのような新鮮な鯛が、見事だった。信長は、満足げにうなずいた。
「うむ、見事じゃ。頼んだぞ。」
そしてまた、ふらりと帰って行った。よかった、結界の仕掛けは見破られなかった。光秀は胸をなでおろした。そこに、入れ違いに有楽斉がやってきた。
「いよいよ、決行じゃな。今日こそ結果がでるとよいが。」
「はい、先日は密かに潜入させた風水師も陰陽師も原因不明の高熱にやられ、あえなく失敗しました。今日は、背水の陣のつもりで用意いたしました。」
「背水の陣か…、安土城の周辺はますますおかしい。急病人は増えるわ、格武将の間もぎくしゃくしておる。早く、結果を出さないとのう。」
やがて、時間となり、家康がやってきた。柴田、羽柴、滝川などの有力武将が出迎え、光秀が中心になって接待を行った。家康は例の隠し金を手に入れた件をどこにも匂わせることもなく、いつもどおりの腰の低さで応対していた。
そしていつもの森三兄弟と黒人のヤスケを連れて、信長入場。家康の労をねぎらい、言葉を交わした。光秀は、その隙に、配下の陣内を呼んだ。
「はい、すべて準備万端うまく用意ができてございます。後は、私目に合図をいただければ、すぐに結界を発動いたします。」
「うむ、では手はず通りに。」
やがて、壮麗な安土城を背に琵琶湖を望む宴の席に皆が顔をそろえた。
中心に信長と家康、周りを書く武将が固め、談笑が始まった。
しかし、見る限り、信長は昔と少しも変わっていなかった。あの長男信忠との乱心事件も、安土城の異変も事実なのに、聡明で気概にあふれ、生き生きと立ち振る舞っていた。
このまま何事も無く、すべてが終わってくれていたらどんなによかっただろう。最初は、信長の暴走を止め、場合によっては命を奪うために近づいた光秀であった。だが、いつしか信長の先見性、合理的な考えにすっかり魅了されていた。今も、生き生きと談笑する信長を見ていると、魔物騒ぎが夢のようであった。
「なんでも、織田様は天下の茶器をまた手に入れたとか。さすがでございますな。」
家康が、酌をしながら信長に語りかけた。
「地獄耳よのう。家康殿。あの松永弾正の爆死がなければ、天下の茶器のすべてをこの手にできたものを…。惜しいことをしたものじゃ。だが、近々それ以上のものが手に入る。そうなれば…。」
「そうなればとは…、どういうことでございますかな。」
「ふふ、今にわかる。今度天守閣に見に来るがよいぞ。ハハハハハ。」
意味ありげに笑う信長。今日は、どうやら機嫌は良かった。
だが、宴もたけなわの頃、事件はおこった。その時、確かに光秀は信長のすぐそばで邪気が発せられたのを感じたのだ。
「やはり、だが、なぜ、今? 結界の発動を急ぐか…。」
そのとき、例の明石の鯛が料理されて運ばれてきた。まずは、信長に運ばれ、かぶせてあった蓋がはずされた。信長は、朝、あの活きのいい魚体を見ていたので、楽しみに覗き込んだ。だが…、その顔はみるみる変わって行った。
「この鯛、皆に供することまかりならん。光秀、光秀はおるか。」
光秀は、蒼ざめて、急いで信長の前に進み出た。
「はは、光秀にございます。」
すると信長は、黙って自分の真鯛を光秀の前に差し出した。
「なんと!こ、これは?」
なんということ、あの見事だった鯛が、茶色く変色し、ぼろぼろになっているではないか。
「どう始末をつける? 客人や皆のものにこんなものを出せるのか。」
鯛からはとんでもない邪気が感じられる。先ほどの邪気はこれだったのか。だが、なんのために、こんな真似を?
「だから、どう始末をつける気かと聞いておるのじゃ。光秀!」
光秀は地べたに額をこすりつけ、消え入るような声で答えた。
「いますぐ、別の料理を用意いたします。」
一瞬静かだった宴がざわめきだした。まだほとんどの者は何があったのかさえわからない。すぐそばにいた家康も、どうしたらよいのかわからずおろおろしていた。
その時、信長が小さく、この場を抑えるためじゃ、許せとつぶやいたように光秀には聞こえた。ゆっくりと顔を上げた光秀の首筋に、信長の蹴りがはいった。
「あたりまえじゃ、たわけ者!すぐに容易せい。」
光秀は地べたを転がるように去って行った。信長は何事も無かったように、皆に酒を勧め、宴はまた、先ほどの明るさを取り戻した。だが、裏方につなぎをとって、光秀は愕然とした。まず料理は、ここに運び込まれるまでは、何の異常もなかったこと、そして、今の騒ぎの最中にまさかの事件が起きていたのだ。あの結界を発動させる打ち合わせをしていた配下の陣内が、頭から血を流し、震える声で、光秀に告げた。
「申し訳ありません。不覚でした。信長様と光秀様の騒ぎの間に、結界の仕掛けがすべて壊されました。気がついて、駆けつけると、何者かに後ろから殴られ、このざまでございます。」
「や、やられた。」
光秀は言葉を失った。先ほどの騒ぎの狙いはこれだったのか。
やがて宴は終了し、皆何事も無かったように去って行った。光秀はついに覚悟を決めたのであった。
「未月よ、じゃあ、こっちは任しといてくれ。いざとなったら仲間もすぐ駆けつける。そっちは頼んだぜ。」
雷刃丸の豪刀が背中で揺れながら、山道を下って行った。権佐の巨体がその後ろに続く。、
奏胤がたずねた。
「あの者、武芸の器は並外れておりますが、魔界の妖術をどういたしますかな。」
すると、未月がすぐ答えた。
「隠れ里から応援が行くはずよ。」
天外が雷刃丸の後ろ姿を追いながら言った。
「未月さん、今回はやけに慎重ですね。」
「それが…。」
未月の表情が厳しさを増した。
「今度の冥道衆の動きは、まったく無駄がなく、すきもない。裏の裏を読んで正確にことを進めている。今までとは違う…。偶然だと思いたいけど、強力な魔神の神像までも奪われてしまった。千眼…、そう千眼とあの鬼姫はいっていたわ。。」
「千眼?」
「軍師だと言っていた。厄介なやつがついたものね。、そのほかにも、異界を通り抜ける術者もいるわ。やつらも本気を出してきたわね。ただじゃ、勝てないわ。」
「異界へ通り抜ける? そんな術を!」
「そう、だからこんな山奥まで付き合ってもらうことになったのよ。」
うっそうとした古い森の中を登っていく。
「おーい、重蔵、そこにいるのはわかっているんだ。鬼流門だ、来ないならこちらから行くぞ。」
深い森の中につたの絡まる奇妙な大木があり、その高い幹に大きな穴がある。。
「本当にここでよろしいのですか。」
天外がその穴を見上げながらつぶやいた。
「あの穴からは邪気は感じられないが不思議な歪みがある。変化の術を使っているのでしょう。」
奏胤が落ち着いて話した。
「仕方ない。狛犬よ。」
未月がそういって口笛を吹いた。すると、二匹の狛犬が現れ、大木の幹を垂直に登り始めた。吠えながら穴に近づくと、どこからか重蔵の声がした。
「いきなり狛犬はやめてくださいな。わかりましたよ。狛犬を引っ込めてくれたら、お会いしますよ。」
「戻れ!」
もう一度口笛を吹くと、狛犬はもどって言った。すると、大木の幹に、螺旋階段が浮かび上がった。
「どうぞ、お入りください。」
未月は、二人に向き直り、こっそりささやいた。
「妖怪の親玉で、妖力が強いだけじゃなくて、とんでもないたぬき親父だから、ばかされないよう、気を抜かないでくださいね。」
螺旋階段を慎重に登っていくと、穴の前に出る。穴の中は不思議な空間で、宴会ができるほど広く、畳が敷いてあった。重蔵は、未月の顔を見たときはまだ余裕があったが、後ろから天外と奏胤がやってくるのを見て、肝をつぶした。
「ヒェー、風水剣士の明智天外と、密教の法師奏胤じゃありませんか。その筋では最強のお二人だ。なんでこんなところにおそろいで…。」
未月は座敷に上がりこんで、強気にしゃべりだした。
「あんたのところの妖怪が、京で悪さをしているみたいねえ。」
「へえ、そうですか。聞いてませんなあ。」
まったくこの親父は! この期に及んでそらとぼけるか。
「まあ、目くじらを立てないで、お茶でもどうですかな。」
重蔵が、手を叩くと、美しい女人が二人、お茶とお菓子を持って入ってきた。
「言っておくけど、この二人に色仕掛けの妖術は通用しないからね。」
女人はそうそうに引き上げた。
「祇園の通りに出た穴脅し、二条の御所に出た化け畳、じゃあ、こっちで始末していいのね。」
「へ、そこまでお知りで?」
重蔵の額に汗が光った。その途端、辺りが暗くなり、穴の入り口が狭くなっていった。
それに連れて、重蔵の影がだんだん薄くなって消えていく。
このまま閉じ込められるのか、それとも、逃げられてしまうのか。だが、未月たち三人は、落ち着いて、目配せをした。奏胤が、お経の巻物を、さっと広げると、部屋は明るくなり、天外が神刀朱雀を畳に突き立てれば、邪気を祓うきらめきで、逃げようとしている重蔵を照らし出す。
「重蔵、いいかげんにしなさい。」
重蔵は土下座の形で姿を現した。
「どうか命ばかりはお助けください。」
未月は、ここぞとばかりに詰め寄った。
「今すぐここに、穴脅しと化け畳を呼んでちょうだい。おとしまえをつけるわ。」
「はいはい、ただいま…。」
重蔵が何かごそごそ始めると、少しして、畳の真ん中に大きな丸い穴が開き、巨大な顔がにょっきり出てきた。さらに重蔵の乗っていた畳がふわりと浮き上がり、そのまま立ち上がった。でも不思議なことに重蔵は今までどおり座ったまま、真横になっても何も落ちないのだ。
「来たわね。穴脅しに化け畳。あんたたちに話があるのよ。」
未月が話し出したのは、意外なことだった。
天正十年六月、その夜信長は本能寺にわずかな手勢とともに宿泊していた。武田が滅び、上杉が弱体化した後、当面の敵は毛利だけ、先に出陣した羽柴秀吉を追う形で京都に来ていた。武装した明智軍一万三千が鎧の音を響かせ、近くを移動していた。
だが、明智軍が京に近づいた時、光秀の口から意外な言葉が出た。
「織田軍を狙うあやかしの者たちが、本能寺にある。これからそちらに向かう。」
「あやかしの者とは?」
「行けばわかる。もう先行の部隊がそちらに着く頃だ。」
「はは。」
本能寺のあたりは、静まり返っていた。このそばには南蛮貿易の基地があり、多量の火薬や銃が取引されていた。信長が宿を取ったのは、そのためであった。カザルス神父は、自国の小隊を武装させ、夜道を移動していた。本能寺のそばに近づくと、暗がりから奏胤がそっと顔を出し、手招きをした。
「カザルス殿、こちらです。未月さんは北門の方を見張っています。」
カザルスが兵士たちを配置しながら答えた。
「光秀殿の本体は、予定より早く、橋を渡ったらしい。中はどうかな。」
すると、数十人のお供をつれて一人の武将が、中から出てきた。信長の弟、有楽斉である。
奏胤やカザルスが頭を下げると、小声で告げた。
「今、わしが南蛮貿易の交渉と称して警護の者を連れ出す。中は、数人の手勢だけ。あとは食事や身の回りの世話をする寺の下働きだけでござる。光秀の大群の手を借りずとも、この先発隊だけで、魔を封じることができればよいのだが。今宵の策略は、織田家の嫡男信忠殿も知らぬのだ。おおごとにならなければそれにこしたことはないのだが…。成功を祈る。」
有楽斉はそういって、夜の闇へと消えて行った。
奏胤が、静まり返った本能寺の中を見ながら言葉を続けた。
「天輪、天外のお二人が、精鋭を引き連れて忍び込み、封印結界を準備したところです。」
「さすが、早い。これで、内部からの魔物は中の結界が、外からの魔物は…。」
「我々が、押さえ込みます。)
「そういえば、あの寂翠という陰陽師は…?」
「一度、協力するという旨はいただいたのですが、連絡が取れませぬ。独自の動きをしているようです。」
「ふむ、すべて予定通りに行ってくれればよいが…。我々だけで、魔物を追い出せれば、光秀が主君殺しの汚名をあえて受けることもあるまいに…。」
その頃未月は重く張り詰めた夜空を見上げながら、息を殺していた。
今夜、信長に伸びた魔界の影を断ち切ることができればそれでよし。だが、やつらのこと、これだけ大掛かりなこちらの動きに気がつかないはずはないだろう。どんな手をうってくるのか。空から魔物が襲ってくるのか、それとも、軍団が地から湧いて出るのか?。
不気味なのは、光秀からの報告で、いまだに信長の様子に変化がないこと、しかも、光秀の策の裏の裏をかいて、こちらの手の内がすべて読まれ、ことごとくつぶされているということ。敵はどこにいて、どこから襲ってくるのかさえわからない。
未月は、数多くの魔具と木火土金水の五行の変化術を持つ五行童子を控えさせ、じっと物陰に潜んでいた。
「天輪様、光秀様の本隊が、橋を越え、すぐそばまで来たようです。」
「うむ、重い鎧の音がかすかに響いてくる。よし、決行だ。鬼が出ても蛇が出ても、決してうろたえる出ない。」
天輪、天外が中心になり、本能寺の、信長の宿泊している建物の周りを取り囲んだ。
「いざ、行くぞ。。」
天輪が東を押さえ、天外が南から印を切った。北を窯元の玄武が、西を光秀の配下の陣内が受け持った。さらに配下の数人が取り囲み、小さな邪気も見逃すまいと目を見張っていた。
「封印結界発動! 外は、仲間が守っている、中に集中せよ。」
封印が発動したが、本能寺は静まり返ったままで、何の変化も起きなかった。
「おかしい。どういうことだ。」
手ごたえのなさに、天外が訝しんだ。だが、その時、本能寺の中で、叫びが上がった。
「火事じゃ、火がでたぞ。」
「な、なに?」
魔物の気配や邪気はまったく感じられなかった。だが、急に焦げくさい臭いとともに煙が立ち上り、建物の北側から火の粉が舞い上がった。
「お助けー!」
信長の身の回りの世話や飯の用意をしていた寺の下働きが、飛び出してきた。
「何事じゃ。天輪様、この者たちをどうしますか。」
「一箇所に集めて、見張って置け。気を抜くでないぞ。」
なんなのだこの火は? 少なくとも、こちらの誰も火をつけたりはしていない。下働きの者たちが急いで持ち出した荷物や家財道具が、あたりに散らばった。どうやら、本当の火事らしい。
「信長はどうするつもりだ。外に飛び出してくるのか。それとも中で果てるつもりか。」
炎は徐々に勢いを増し、大きな火柱が吹き上がってきた。いまだに中から邪気は感じられない。
「どうします、天輪様。、結界を解いて、中に踏み込みますか。」
「ううむ、やつらの手かもしれない。もうすこし様子をみるのじゃ。結界を解くでないぞ。」
火の粉が舞い踊る中、重苦しい空気があたりを包み込んだ。
火柱が上がったのを、外にいる未月も奏胤も見ていた。だが、表立った敵の動きはない。動いていいものかさえわからない。
「うぬ、かすかな邪気が…。ばかな! 結界の四人のあたりから?」
奏胤がわずかな変化に気づいた。しかし、おかしい、中からでも、外からでもなく、結界をつくる四人の術者辺りから邪気駕感じられたのだ。その時、天外が大声を上げた。
「ど、どうした玄武! 結界が、結界が破れるぞ。」
今まで集中していた結界が急に弱まり、乱れてきた。見れば北を押さえていた玄武が目がうつろとなり、ふらふらしている。
「天輪様…。」
大きな音がして、玄武はその場に倒れた。
「なにがあった。結界が破られた。天輪様!」
天外が、指示を仰いだ。天輪が厳しい表情で答えた。
「天外よ。わしは、これから陣内と中に踏み込む。あとの指示はお前が行うのだ。」
「天輪様、火が出ています。危険です。私が行きます。」
「結界が破られたのを見て、邪気が渦巻き始めた。お前の神刀で食い止めるのだ。あとを頼む。行くぞ、陣内。」
本能寺の火はますます大きくなったが、信長たちは、誰も出てこない。天輪は真言を唱え、陣内と中に踏み入った。
結界が破れたその途端、強力な邪気が、本能寺の中庭に集まってきた。未月は五行童子とともに、庭の中へと走り込んだ。見ると、一度集められた寺の下働きたちが、顔色を変えて走り出してくる。地面が激しくゆれ、大きな裂け目が現れ、中から黒い煙とともに何かが吹き上がってくる。
「どうして? 外から何もきていないのに? 中も結界で押さえられていたはず!」
逃げ惑う人々の間を縫って天外たちの方へ走っていく。地面の裂け目から、魔界の騎馬軍団が現れ、天外たちに襲い掛かっていく。。天外の神刀朱雀がひらめく。天輪たちを守ろうと少ない人数で必死に迎え撃つ。
「天外殿、お助けつかまつる!」
だが、未月が駆け寄ると、天外が叫んだ。
「奏胤が光秀の本体に応援を頼んだ。未月殿は、玄武を襲ったやつを突き止めてくれ。」
「承知。」
古びた鎧をガシャガシャ鳴らし、、裂け目からわらわらと湧いて出てくる、亡者の軍団。五行童子が金変化で未月の盾となり、その攻撃をはねかえす。猛攻をかいくぐり、未月は建物のそばで倒れている玄武のところに駆け寄った。
「こ、これは?」
小さな風呂敷包みから、タコの足のようなものが伸び、玄武の足に、そしてさらに伸びて、玄武の腹から胸へ食い込んでいた。
「氷結封印!」
未月が呪符を飛ばすと、そのタコの足は、みるみる凍ってひび割れ、ガラスのように砕け散った。
「玄武、玄武、しっかりして!」
玄武はうっすらと目を開けた。
「よかった。もう少しで命まで吸い取られるところだった。ね、玄武、教えて。この風呂敷包み、なんでここに落ちているの?」
すると、玄武は、苦しそうな息の下からつぶやいた。
「それは確か…。そう、さっき火事で逃げてきた寺の下働きが、私の目の前で転んで、落としたもの…。」
「寺の下働き? しまった、その中に、やつらの手のものが潜んでいたのか。今外に走って行く衆のに混じって、逃げ出したのか。」
だが、その時、時の声とともに、本能寺に大群が押し寄せた。ちりぢりになる魔界の騎馬軍団。光秀だ。光秀の本隊がやってきたのだ。
だが、それと同時に、本能寺の建物の中で、強い邪気が発せられた。
「天輪様!」
怒涛のように押し寄せる光秀軍、高く上がる火柱そして謎の邪気、。天外の叫びがむなしく響いた。
その時、本能寺の中から、人影が飛び出して来た。
「天外殿はおるか。中は皆眠らされている。早く、助け出すのだ。」
それは、陰陽師の寂翠だった。肩に陣内をかかえている。おともの黒子が、ふらふらしながら従っていた。天外が、光秀の配下とともに、本能寺の炎の中へと飛び込んで言った。森三兄弟や黒人のヤスケ、お付きの武士などが、次々と担ぎ出された。だが、天輪も、信長もどこにもいなかった。影も形もなかった。
「寂翠、いったい中で何があったのだ。天輪殿は、信長殿は、いったいどうしたのじゃ。」
天外の問いかけに、寂翠はただ首を大きく振るだけであった。炎は大きく燃えさかり、火の粉が雪のように降り注いだ。
圧倒的な光秀軍の前に、魔界の軍団は消え去って言った。
大騒ぎの中飛び出した、寺の下働きは、あちこちに逃げ惑っていた。その中の一人が別の方向へ走り出した。その男は、本能寺の中で火を放ち、逃げ惑うふりをして、結界の外に逃げ、その際、魔界の呪文生物を仕込んだ風呂敷包みを、わざと落とし、さらに魔界の騎馬軍団を呼ぶと、その混乱に乗じて再び逃げる不利をして外に出た。そして、今、頭につけていた布をはずし、なにやら走りながら呪文を唱えた。すると、だんだん背が伸び、肌が浅黒くなり髪型まで代わりだした。
その男は瞬時に黒人のヤスケに成りすますと信長が家督をを譲った長男、信忠のところへと橋って言ったのだった。
「信忠様、父上が、信長様が、明智の軍勢に教われたよ! 大変だよ。謀反だよ、光秀が卑怯な夜襲をかけたよ。卑怯だよ、味方のふりをして、油断させて襲い掛かってきたよ。ひどいよ。」
燃え盛る本能寺の前に、天外、光秀、寂翠、未月、奏胤、カザルスらが顔をそろえた。
「寂翠よ、それでは、天輪殿や信長様はいったいどうなされたのですか。お教え願いたい。」
天外が声を荒げた。
「中は最初、伽羅のような香りに満ちていた。」
「伽羅?」
「魔界の香であろう。その香りを嗅ぐだけで眩暈をおこし、深く吸えば気を失い、吸い続ければ死に誘う。結界が破れた時、不審に思った私は、連れの欅とともに中へと忍び込んだのだ。するとこの香りによって、信長をはじめ、中にいた者たちはすべてその場に倒れて昏睡状態であった。」
「なんのために?」
「運び出すためだ。私と欅の目の前で、何もないところに銀の屏風が現れ、中に広がる異界の中から一人の男が現れて、信長を抱きかかえ、連れ去ろうとしたのだ。」
すると未月が言葉を挟んだ。
「冥道衆の玉天楼だわ。あの時、中から感じた強い邪気に間違いないわ。」
「それでおぬしはどうしたのじゃ。」
「とっさに式神の呪符を差し向けた。人形遣いの欅も、カラクリ剣士団十郎を放った。だが、その男は鮮やかな扇を取り出すと、それで大きく扇ぎ返した。すると、扇に描かれた花吹雪があたりに舞い踊り、式神は力を失い、団十郎の呪符も剥がれ落ち、倒れた。さらに花吹雪とともに伽羅の香りが立ち込めた。しまったと思った時は、欅も眠りに落ち、危うく逃げられるところであった。ところが、そこに飛び込んできたのが、天輪たちじゃ。その玉天楼という男がこちらに気を取られてれているうちに、後ろから飛び掛り、陣内が扇を叩き落し、天輪殿が信長様を奪い返そうと。もみ合いになった。だがそれと同時に銀の屏風が閉じ始め、陣内ははじき飛ばされ、天輪、信長のお二人は、異世界の狭間に吸い込まれていってしまったのだ。銀の屏風がすべて閉じると、もうそこには何も残っていなかった。ただ…。」
「ただ…、なんじゃ。」
「異界を垣間見た天輪殿が最期に叫んでいた。天守閣だ、安土城の天守閣に来るのだ。…と。」
だが、そこまで話した時、光秀の配下が息せき切って駆け込んできた。
「光秀様、たいへんです。明智が主君殺しの謀反を起こしたといつのまにか知れ渡り、、信長様の嫡子信忠様が、二条の御所に兵とともに立てこもりました。」
「いつの間に、そのような事態に? ここから武士は誰も逃がしていないはず…。わかった、すぐにそちらに向かう。」
光秀は、足早に、兵とともに二条の御所に向かって言った。一万三千の大軍が、大地を震わせて動き出した。秘密裏に行うはずの作戦は、もう、どうにもあとに引けない事態に追い込まれてしまっていた。
天外が悔し涙を流した。
「なんということだ、ここまで用意をしておきながら、すべて裏をかかれた。信長様どころか天輪様までやつらの手に落ちるとは…。」
カザルス神父が言葉をかけた。
「しかし天輪殿は、言葉を残してくださった。嘆いていても仕方ありません。行きましょう。安土城へ。」
白幻城の天空の間の襖が開いた。時空の霧が渦巻き、その中から、黒人のヤスケが進み出た。部屋の奥では、魔将軍の銀狼が待っていた。
「ふふふ、わしの目にも見分けがつかぬ。邪気を封じ、気配まで成り代わる魔界の忍術の極みであったぞ。鋼猿よ。」
すると、黒人のヤスケの姿は、みるみる毛むくじゃらの鎧姿に変わっていった。
「お褒めの言葉、ありがとうございます。しかし驚くは、軍師千眼の運命算術。天輪、天外たちだけでなく、鬼流門や比叡山、そして明智の大軍まで、二重三重に取り囲まれ、もう、終わりかと思っていたのに、千眼の算術図の通りに動いたら、私一人で、裏をかくことができました。」
「しかも、やつら秘密裏にことを運ぼうとしたらしいが、もう、主君殺しの汚名は逃れようもない。しかも信長の遺体すらないということになると、やつらはどうでるかな。だが、運命算術にはいつも成と破があり、小さなほころびが、すべての算術を無にしてしまうという。心しておくがよい。」
「はは。」
その時、ふすまが銀色に輝き、渦巻く時空の霧の中から倒れこむように、信長を抱きかかえた玉天楼が入ってきた。珍しく着衣が乱れ、息が上がっている。
「遅くなりました。信長を連れてまいりました。」
「どうした、玉天楼、何を手間取った。」
「明智天輪と異界の回廊で戦っておりました。天輪は、異界でも平常心のまま、気を自由に操る強敵でした。」
「なに、天輪とな。で、きゃつはどうした。」
「はい、時空の歪みに誘い出し、異界流しにいたしました。」
「そうか、しばらくは、帰ってこれまい。よくやった。これで本当の作戦が始まるというもの。玉天楼よ、信長をここへ。」
「はは。」
ぐったりと動かない信長を自分の前に横たえると、銀狼は、小さな箱を取り出した。
それは堅牢な箱で、よほど大切なものが入っているようであった。
「天下を我が物にしよう、神仏を越えてすべての上に立とう、そのような強い野望がふつふつと伝わってくる。その野望を吸って、この箱の中身はおまえと一体となる。」
「もしや、その中身は…?」
鋼猿が身を乗り出した。
「そう、その、まさかだよ。この中身と一体となったとき、信長は、天魔王として復活する。魔の牙城となった安土城から再び兵を起こし、無敵の力で天下を握るであろう。あと数日、この信長を守り通せ。わしは、その間に、鬼流門の魔神を越える最強の魔物を用意しよう。安土城に誰も近づけるな。もう、誰にも邪魔はさせぬ。千眼、千眼よ、次の、魔界算術はできあがったか。」
すると隣の襖が開いて、大きな地図のようなものを持った能面の男が、足早に入ってきた。
「はい、遅くなりました。やっと書きあがりました。ご命令どおりの、信長が天魔王として復活するまでの運命算術書でございます。」
銀狼は、その算術所を手に取ると、じっくりと目を通した。
「ふむふむ、魔界の毒刺岩をつかうか。ほほう彩姫にも来てもらわないとな。なるほど、鬼流門の封じ手まで計算されておる。これなら、やつらといえども簡単にはいくまい。さすがだ。これで、最後の大勝負が打てるぞ。フハハハハハハ。」
銀狼は、そういうとその小箱のカギを開け、慎重にふたを開けた。中からは紫色の邪気が立ち上った…。
白幻城に今、新しい魔王が生まれようとしていた。
その頃、毛利攻めに行っていた羽柴秀吉は、用意していたような鮮やかさで、京に駆け戻っていた。
昼夜を問わず、大軍を走らせ、もう京まですぐのところまで来ていた。
「伝令、伝令でござる!」
伝令の早馬が、大軍の前に駆け寄った。
「止まれええ。羽柴様、伝令にございます。」
「うむ。」
大軍は、しばしの休みをとり、秀吉が進み出た。
「京のくわしい様子がわかったか。」
「はい、信長様のお宿の本能寺は全焼、信長様やお付きの者たちは行方知れず。」
「織田の家督を継いだ信忠様は、二条の御所で主君殺しの明智光秀を迎え撃ったが、かなわず自害されました。」
「そうであったか。」
秀吉は、少しの間、大軍を休ませると、懐から書状を取り出し、もう一度読み直し、しばし考えていた。
「どうやら、最悪の筋書きになったようじゃな。と、いうことは、光秀はこのあと、後始末をし、自ら命を絶つ…か。」
その書状は秘密裏に、光秀から届いたものであった。秀吉も、最近の安土城の不穏な空気や、不可解な信忠の乱心近親事件、魔物の噂、不気味な急病人のことは気にしていた。光秀が、この書状を持ってこっそりやってきたときは、ついに来るときが来たかと内心思っていたのだ。あの隠し金探しの時の魔物騒ぎは強烈であった。秘密で、魔物を打ち払えればよし、それが大事になれば、もみ消しの協力を請われ、さらに取り返しのつかない時は、自らを打てととのことだった。書状には、そのときの後始末や、最後には自ら命を絶つことなどがしたためてあった。そう、すべては、計画通り、秀吉はとんぼ返りを承知で、毛利攻めに向かっていたのだ。
「おい、伝令、光秀の軍は今どこにいる。」
「はは、安土城に向かったと…。」
「ふむ、やはり、予定通りか。」
「は?」
「もうよい、ご苦労であった。下がってよいぞ。」
しばらくして秀吉の大軍は、京へと動き出したのだった。
公家の屋敷が立ち並ぶ京の奥座敷に、小さな森に囲まれた社がある。今、、そこへ続く道を二つの人影が進んで言った。あの寂翠と従者の黒子、欅である。
「欅よ、いろいろ考えていたようだが、結局どのカラクリ人形にしたのだ。今回は、持っていけるのは一体だけ、しかも行き先は未知の国、生きて帰れるかどうかもわからぬが。」
「はい、芙蓉にございます。」
「ふうむ、いつぞや見せてもらった、おぬしが木の切り出しから、すべて手がけた初めての策だな。確か、おなごの形であったな。」
「はい精魂こめて仕上げました私の分身にございます。」
「なるほど、たしか身軽で、たおやかな動きができると聞いた。ちょうどいいかもしれぬ。頼んだぞ。」
「はい、命に代えましても。」
やがて、森の中に小さな社とせせらぎ、そして滝が見えてきた。寂翠は滝の裏側に入ると、秘密の修行場へと進んで行った。奥には、太古の鏡が鈍い光を投げかけていた。寂翠は滝の音を背に聞きながら、儀式の用意を始めた。
「欅よ、呼ばれるまでそこで控えておれ。」
「はい。」
欅は、つづらを脇に置き、顔を伏せ、待ち続けた。
欅は、公家や幕府の家臣たちの祝いや宴の席に出入りする人形使いの一族の出身。座長の一人娘だった。座長の龍刻は、天才の名をほしいままにする人形の作り手だった。公家の手厚い加護を受け、芝居の人形から等身大の姿写し人形、そして、カラクリを駆使した暗殺人形まで、取り憑かれたように作り続けた。肺病で死ぬまで、数十対を作り上げたのだ。だが、晩年は公家の勢力争いに巻き込まれ、龍刻の死後、一族は離散、欅も、酔狂な寂翠に拾われなければ、のたれ死んでいただろう。だが、父親の遺した数十対のカラクリを守り、その技を受け継いだ欅の非凡な才能に気づいた寂翠は離散した一族を呼び戻し、人形の一座を復活させた。さらに、欅と力を合わせ、式神とカラクリを会わせた人形を手がけてからは、二人の絆はさらに強くなり、一族も昔の繁栄を取り戻したのだった。欅は、自分を、一族を救ってくれた寂翠に大きな恩を感じ、さらに、自分の人形の業を認め、花咲かせてくれたこの男にどこまでも着いていこうと誓ったのだ。
寂翠はこの間の銀の屏風の男を思い出していた。いくら突然のこととはいえ、こちらの攻撃が通じなかった。あのまま明智天輪たちが来なかったら、どうなっていたのだろう。少なくとも私に勝つことはできただろうか。この借りは返さねばなるまい。そのためには…。
やがて、古代の鏡かに不思議な揺らめき蛾生じ、波紋が広がるように、何かがゆらゆらと広がり始めた。
「欅、参るぞ。」
「はい。」
そして、二人は揺らめく光の中へ、広がる異界の風景の中へと歩みだしたのだった。
安土城。琵琶湖を臨む信長の居城。六角形の外観、八角形の天守を頂く、その城は、西洋の大聖堂を模した吹き抜けのある天下人の城であった。天守閣の下に宝塔のある寺院と宮中から天子様を呼ぶ予定だった清涼殿を従え、すべての上にそびえていた。
「光秀様、無理です。もうこれ以上、安土城には近づけませぬ。」
光秀軍の足取りは重く、淀んだ空気が全軍を支配していた。偵察に行っていた天外と奏胤が厳しい表情で帰ってきた。
「天外殿城の回りはいったい…?」
光秀が進み出て報告を受けた。天外は大きく首を振った。
「全軍を、あの風通しのよい向こうの丘の上に退避させてください。ここは危険です。」
奏胤が言葉を続けた。
「安土城の周りは、荒れ果てた荒野のように変わってしまいました。大手門から天守閣まで続くまっすぐな石畳が、すっかり岩場のようになり、寺院や清涼殿の回りは、毒の霧に霞んでいました。あちらこちらに魔界の岩が突き出ています。そして、そこから強烈な邪気と毒の霧が噴出しております。光秀軍の兵士たちの体調がおかしくなり精神錯乱状態になるのも当然、近づくだけで生気を失い、体が重くなり、幻や幻聴に教われ、それでも近づけば、毒が回って死にいたります。」
「わかった、兵はすぐ退避させる。しかし、どうする。どうやって先に進む。」
奏胤と天外が視線を合わせ、うなずいた。
「私たち術者で、魔界の岩を一つ一つ封印していくしかありません。根気良く一つ一つ取り除いていけば、数日で、安土城に入城できるでしょう。」
「数日か…。ううむ、ぐずぐずしているうちにやつらの思い通りにならねばよいが…。」
「飛ぶ鳥が、毒気に当たって落ちるのを何度も見ました。無理は禁物です。魔界の岩がすべてなくなれば、兵もまた動かせます。」
すると未月が遠くから走ってきた。
「封印のための呪符と毒消しの薬草をを多量に手配しました。明日になれば、隠れ里の術者も応援に来ます。とりあえず、できるところから始めましょう。では、早速、封印に行きましょう。」
未月の足は、どうしても速くなりがちだった。急がねば、こんなところで足止めを食ってはいられない。未月の心の隅から離れないのは、盗まれた魔神の神像だった。魔神、鎧空牙の隠された力をやつらは知っているのだろうか。知っているとしても、それを使うことができるのだろうか。ともかく、やつらに時間を与えてはいけない。だが、時間だけが刻々と過ぎていく。未月は、魔界の荒野と化した安土城へと、向かって行ったのだった。
隠れ里を訪れていた雷刃丸と権佐は、早速目的地に向かって歩き出していた。鬼流門の一族が、数人、後ろに続き、異様な緊張に包まれていた。
「…てえと、その極星王というのは、そんなに強いのか。」
雷刃丸は、おばばに単刀直入に突っ込んだ。
「そうさねえ。あれは、魔神というより、精霊神の一人。最強の力を持つのは確かじゃな。」
雷刃丸は大きくうなずいた。
「だから、呼び出すのが、簡単にはいかないわけか。」
「その通り。平安の御世に一度姿を現しただけだと聞く。われらの先祖はそのあまりの力に驚き、簡単には呼び出せないように、召還の真言をを宝珠に封じ、さらにそれを七星神社という聖なる場所に奉じた。われら魔神を操るものは立ち入ることのできない聖なる場所じゃ。しかも数多くの精霊によって、堅く守られておる。われらの一族でもなく、精霊の試練に耐えられるものでなければ、この役は務まらぬ。」
すると、波流貴が、そっと言った。
「鬼流門の総帥である姉の未月が選んだのですから、間違いはありません。あなたなら…。」
「よせやい、俺はそんな立派なもんじゃねえ。ただ、頼まれたからは、できる限りのことをやる。もし、失敗したらそこにいる権佐でも誰でも頼んでくれ。俺より強いやつは仲間にごろごろいるからな。ハハハハハ。」
自然体で、変に力の入ったところはどこにもない。表情は明るく、やる気満々だ。
しばらく山道を降りると、開けた里が見えてきた。
「我らが行けるのは、掟でここまでじゃ。この道をまっすぐ行けば、七星神社に出る。そこの階段を上り、宮司に極星王の宝珠を貰い受けに来た、と言えば、精霊の門を開けてくれるはずじゃ。その門を一度くぐれば、あとは命の保障はできぬ。お気をつけなされ。」
「よっしゃあ、、じゃあ、行ってくる。じゃあな、権佐、、あとを頼むぜ。」
雷刃丸は、いつもと変わらぬ足取りで村の中へと進んで行った。
村の中では、子どもが犬とじゃれあって走り回ったり、赤子を連れた母親が庭先で忙しそうに働くのが見えた。一人の男の子が、雷刃丸のそばに走り寄り、にこっと笑いかけた。
「なんだ、おまえ、遊んでほしいのか。」
雷刃丸は、近くの草の上に止まっていたトンボを目にも止まらぬ速さで救い上げると、その尻尾を長い草の先に結びつけ、男の子に渡した。
「ほうらよ。おじちゃんは、今、忙しいんだ。これで遊んでな。」
男の子はにこっと笑って、草を紐のように振り回す。するととんぼがカラカラと飛び回る。男の子はにこっと笑い、走り出した。
しばらく歩くと、大きな森に囲まれた鳥居が近づいてきた。。苔むした階段を上ろうとすると、後ろで気配がする。先ほどの男の子が、いつのまにか着いてきている。
「だめだめ、あとで遊んでやるから、向こうで待ってな。」
男の子は何も言わず、そこで立ち止まってこちらを伺っていた。
鳥居をくぐると、石畳の向こうに社が見えてきた。白装束の宮司が出てきた。
「腰のものを下げたお侍が、何用ですか。」
「極星王の宝珠をもらい受けに来た。」
雷刃丸がそう言うと、宮司はたいそう驚いて、それから深くお辞儀をした。
「こちらでございます。」
宮司に案内され、社の森の奥に進むと、その奥の奥に大きな岩山が姿を現し、そこに大きな扉で封印された洞窟があった。宮司は注連縄をはずし、閂をあけた。
「お気をつけて。御武運を…。」
宮司はまた深く頭を下げた。雷刃丸は、息を整え、深い、洞窟の闇の中へと進んで行った。
「うお、な、なんだこれは!」
入った瞬間、地面が抜けて底なしの穴に落ちるような、上下がわからなくなるような時間がどのくらい過ぎたのか見当も付かないような、不思議な感覚に襲われ、雷刃丸は、膝をついた。
「な、なんだ、同じ場所か?」
暗いと言えども、先ほど狭い洞窟の中に足を踏み入れたはずなのに、真っ暗な闇の中、天井も壁もない、だだっぴろい空間に突き落とされたようだった。
ところどころに小さなかがり火が灯り、辺りがうっすらと浮かび上がる。気がつけば、先ほどの出入り口さえ、どこにもない。いったい、どうなってしまったのか。
すると、前方の闇の中から、菅笠をかぶった、白装束の集団が近づいて来た。杖についた鈴の音が辺りに響く。顔は真っ白で、面をつけているようだった。
「ここは、あなたのようなものが来るところではない。すぐに引き返しなさい。」
先頭の女人の面をつけたものが、言い放った。
「悪いが、極星王の宝珠をもらうまでは、帰るわけにはいかねえんだ。」
「ならば、命はない!」
菅笠が空中にとび鈴の音とともに、杖が、一斉に振り下ろされる。さっとかわして、刀で振り払うと、白装束は、闇の中に溶ける様に消えていった。
その時、後ろで気配がする。さっと刀を構えると、おびえる小さな影、なんとあの男の子が後ろにいるではないか。
「なんだ、おまえ、付いてきちまったのか。しょうがない、ほら、こっちへこい。ここいらはあぶねえぞ。」
男の子は、小走りで雷刃丸の袖の下にかけより、袖をしっかりと握った。
「ようし、とっととけりをつけて、ここから出してやるからな。」
雷刃丸は、男の子を連れて、ずんずんと闇の中へと進んで行ったのだった。
魔界の岩を封じるのは困難を極めていた。風を読み、風上からすばやく岩を取り巻き、術者たちで一つ一つ封印していく。だが、辺りに広がる邪気の強さに、続けていくつも封印などできず、予告なしに吹き上がる毒の霧の勢いを絶えず気にしながら、いざとなったらすばやく逃げなければならない。さらに急に風向きが変わろうものなら、毒を吸い込んであわてて担ぎ出されることもしばしばであった。運よく用意した薬草と奏胤の法術が効果を上げ、大事には至らなかったが、どの術者もぎりぎりのところで持ちこたえていた。
「未月さん、隠れ里から応援もやっと来たことだし、あなたは少し休んでいてください。」
奏胤がそっと言葉をかけた。
「でも、私だけ…。」
すると天外が叫んだ。
「きついのは皆同じだ。少しずつ交代でやらなきゃ、体が持たないでしょう。まずは未月さんから、どうぞ。」
「ありがとうございます。では、少しだけ休ませてもらうわ。」
未月は風上の丘の上にぬけると、しばらく倒れこむように横になった。まだ、半分以上残っている。しかも暗くなれば、毒霧の流れが見えなくなって、封印はまず無理だ。明るいうちになんとかせねば。気持ちだけが先に行こうとするが、体が続かない。
気になって安土城の方をみやれば、城の周りには、まがまがしい黒くもが立ち上り、城内からは、とてつもない邪気が発せられている。
「うん? あ、あれは!」
その時、鳥肌の立つような邪気を背中に感じ、振り向くと、見たことのある黒い雲が安土城の天守閣に近づいていた。空翔る黒牛に引かれ、絢爛豪華な牛車が現れた。
「彩姫? いったいなんのために!」
牛車は、黒い雲に包まれ、吸い込まれるように、天守閣に消えて行った。
するとその途端、安土城全体が暗くなり、凄まじい邪気が内に籠ったようであった。
「やつらの狙いは、いったい何なのか…。」
未月は、早々に立ち上がると、丘を降りて皆のいる魔界の荒野へと歩いて行ったのだった。
「いいか、たいがいのことならなんとかしてやるから、俺のそばを離れるのではないぞ。」
男の子は、黙って、雷刃丸の袖をぎゅっと握った。
その時、前方の地面のあちこちが光った。身構える雷刃丸。すると、まるで、樹木が育っていくように、緑色の揺らめく影が、地面から現れて、みるみる人間の形になった。光っていてよくわからないが、木の葉や枝のようなものをまとっている。
「なんだ。こりゃあ? 木のばけものか。」
雷刃丸は足元の石を二つひろって、さっと投げつけた。つるが延びて一つは叩き落され、もう一つは、つるでグルグル巻きにされて、粉々になった。
「こりゃあ、やばいぞ。坊主、いいか。」
雷刃丸は男の子をさっとおんぶすると、剣を片手に持ったまま走り出した。次々と迫ってくる緑の影。むちのようにしなり、蛇のように巻き付くつる、手裏剣のように飛び交う光の木の葉。それらをかわし、ぎりぎりでよけ、かいくぐり、すれちがいざまに突き飛ばし、足をはらい、つるを切り刻み、けりで吹っ飛ばし、さながら鬼神のように、ものすごい勢いで駆け抜けていった。緑の影は、力を失い、弾けるように消えていった。
「ふう、危なかった。お、またなんかきやがったぞ。」
その時、闇の奥からゴーッとうなるような音が響き、何かが近づいて来た。
それは、大蛇のように光の尾をたなびかせる、いくつもの輝く炎の玉だった。迫り来る炎の玉を身を伏せてかわし、横に飛んで裁いたが、炎の玉は、最後に四方に散り、一斉に襲い掛かってきた。
「しっかり、つかまってろよ、坊主!」
すると、火の玉に、トラや、ヒグマ、狼など猛獣の顔が浮かび上がり、大きく牙を突きたてた。だが、雷刃丸は、今度は少しもよけようとせず、豪剣を大きく振りかざした。
「グォオオオオオオオオオオ!」
豪刀一閃、すべての火の玉は砕け散って、闇の中に消えていった。だが、そのときの勢いで、男の子は降り飛ばされ、雷刃丸から離れてしまった。
「しまった! 坊主、平気か。」
だが、もう、男の子は戻ってこなかった。白い手が、男の弧の口と手をしっかりおさえつけていた。男の子は、ふいに闇の中から現れた、仮面の女によってつかまってしまったのだ。しかも、その女の後ろでシューシューという不気味な音が響いてくる。気がつけば、いつの間にか女の後ろに、大きなおろちが現れこちらを睨みながら、とぐろを巻いている。、
「ぼ、坊主―。」
「一瞬でもこの童を、おぬしから離したのが、命取りだったな。」
「その男の子に、なんの咎もねえ。関係ないんだ。離してやってくれ。」
「だめだ、どうしてもと言うなら、宝珠はあきらめてここから出て行け。そうすればこの男の子だけは返してやろう。」
すると雷刃丸は、豪刀を収め、即答した。
「わかった。もとはといえば連れてきちまった、俺が悪かった。責めは俺が負う。坊主を村に返してやってくれ。」
「よかろう。」
女は、男の子を放した。男の子は、とことこ走って、雷刃丸に手を差し伸べた。雷刃丸はその小さな手をそっと握って、にこっと微笑んだ。
「よかったな。俺がへましちまってすまなかった。もう帰れるぞ。」
だが、その時、男の弧の体は、光の糸がほぐれるように、光の粒となって、闇の中へと消えて言った。
「へ?」
その途端、また上としたがわからなくなるような、落ちているのか、上がっているのかわからない感覚に襲われた。
「私が、極星王の宝珠を預かる、精霊童子である…。」
そんな声が頭の中に響き渡った。気がつくと、先ほどの洞窟の入り口のそばに立っていた。洞穴の中は狭く奥に精霊童子と書かれた古い祠があった。
「こ、これは…。」
雷刃丸の大きな手の中に、何かが握られていた。手のひらをゆっくり開くと、光り輝く宝珠が握られていたのだった。
「宝珠…。あの坊主の手を握っていたはずだが…。」
雷刃丸は宝珠をぎゅっと握ると、静かに洞窟をあとにしたのだった。
ついに安土城の前の一番大きな魔界の石が封印された。その途端、辺りに地鳴りが響き、あちこちに突き出ていた魔界の石が、少しずつ地面に沈んでいった。
「やったぞ。おお、邪気が晴れていく。」
天外が叫ぶと、術者たちは、精も根も尽き果て、その場に倒れこんだ。丘の上に待機していた光秀軍が動き出した。さっそく安土城を攻め落とすのだ。術者たちがしばしの休息を取る間に、先陣隊が安土城の前に集まり始めた。中から魔界の軍が現れるのか、それとも…。しばしの緊張があたりを包んだあと、安土城の城門が大きな音とともに開き、勇猛果敢な先陣隊が突入を始める。中は薄暗く、兵も何も見当たらなかった。
「進めー、城を落とすのだ!」
光秀の掛け声に武将たちが、時の声を上げて、なだれ込む。だが、わずかの間に、その声は悲鳴のような叫びに変わっていた。
「いったい何が?」
と、見る間に、数人の武将が、命からがらかけだして来る。異様な音が追いかけてくる。見ると、人間の数倍もある巨大な影が追いかけて、迫る。それは、毒々しい大ムカデ、しかも、一匹ではない、床から天井から、壁から、いくつもの巨大な牙が、毒をしたたらせて、迫ってくるのだ。
「槍も刀も刃が立ちませぬ。」
さらに、二階の窓からは、巨大なキリギリスが飛び出す。よく見ると、その大きな顎で、何かを噛み砕いている。それは武将のカブトではないか。
先陣隊が、どんどん、撤退して外に飛び出し始める。中には鎧兜を引きちぎられた者、槍や刀を折られた者、ふらふらしながら、やっと駆け出してくる者もいる。
「虫です。化け物のように大きな虫が、何十、何百も城の中でうごめいております。」
「うぬう、引け、全員一度引いて、体制を整えるのだ。」
光秀は、兵たちを撤収させると、その魔界の巣窟と化した安土城の前に立ち尽くした。
「くそう、やつらどこまで…。」
すると、いつの間にやってきたのか、光秀の横に天外たち術者たちが姿を現した。
「やはり、まず俺たちで魔界の者を封じ込めないと埒が明かないようだな。」
「おぬし達、まだ休んでいないと…。」
「ああ、だがそうもしていられない。」
未月が進み出た。
「先ほど、あの天守閣に、虫使いの彩姫が入っていくのを見ました。あやつを倒さない限り、天守閣には登っていけないでしょう。」
「なるほど、でも、どうやったらいいのか。方法はあるのですか。」
すると奏胤が進言した。
「外から、密教の法力を使えば、やつらの力をいくらか弱めることはできると思います。」
そして、天外と未月が名乗り出た。
「こちらも、魔物の力を借りて、天外殿と一気に上まで駆け上ります。」
「しかし、二人だけであの中へ…。」
光秀が心配そうな顔をすると、天外が告げた。
「一か八かだ。どうなるのか俺たちにもわからない。万が一のときは奏胤殿に任せてある。あの陰陽師の寂翠も、鬼流門の波流貴殿も、用意が出来次第、応援にくるはずだ。」
「わかり申した。…御武運を。」
未月と天外は、すぐに身支度を整えると、開いたままになっている城門へと歩いていった。
中は薄暗く、荒れ果てた闇の中に何か大きなものが、うごめいてガサガサと音をたてている。
「五行童子!」
未月が取り出した小さな神像が、光ながら大きくなり、小さな童子が出現した。だが、その瞬間、巨大な大ムカデが飛び出し、童子に襲い掛かった。
「金変化!」
童子の体は光りながらさらに一回り大きくなり、光り輝く金属の体で大ムカデを押さえつけると、その巨大な牙を、がしっとつかみ、怪力で投げ飛ばした。
「朱雀、一文字斬り!」
天外の神刀朱雀がひるがえり、大ムカデを真っ二つにした。
「一気に駆け上るわ。重蔵のヒョウタンを使うわ。」
未月は腰につけていたヒョウタンを取り出すと、地面に向けて叫んだ。
「いでよ! 化け畳!」
未月が叫ぶと、地面の中から、畳が浮き上がるように姿を現したのだった。
「みんな、飛び乗って。」
未月が、五行童子が、天外が飛び乗った。すると、畳は未月の命令どおりに浮き上がり、宙を進み始めた。
「みんな体を低くして。やつらを突っ切って飛んでいくわよ。」
化け畳は速度を上げると安土城の闇の中へと滑るように飛んで行ったのだった。
「化け畳に足や体をつけている限り、ひっくり返っても、回転しても、逆さになっても、落ちることはないわ。でも、この上で飛び跳ねたりして畳から体が離れたりすると、、墜落するから、覚えておいて。」
未月がしゃべっている間にも、左右から天井から大ムカデが鎌首をもたげ、大顎から毒を滴らせ、襲い掛かる。その隙間をすれすれのところですり抜け、城の奥へと突っ込んでいく。滝を上るように、階段を駆け上がって行く。階段の上にいた背の高い大カマキリが、鎌を振り上げ、羽ばたきながら飛び降りてくる。
「シャアー。」
「で、でかい。よけきれない!」
未月が叫ぶと、天外が進み出た。
「まかせろ!」
宙を飛ぶ畳の上に立ち上がり、神刀を振り下ろす天外。切り落とされた二本の鎌が回転しながら壁にささり、真っ二つになった巨体が、左右に分かれて落ちていく。
だが、次の広間には、何匹もの大カマキリが、鎌を研いで、待ち伏せていた。
「しまった、。次の広間に抜ける入り口をふさがれたわ。」
大カマキリたちは、一箇所に集まると、鎌を振り上げ、塔のようにそびえたった。
「頼んだわよ、童子!」
童子は大きく叫んで、前方に飛び降りた。
「砂変化!」
だが、着地する前に、大鎌が、童子の体に突き刺さった。砂煙が立ち上り、童子の体は砂となって飛び散り、消えてしまった。その隙を縫って呪符を飛ばす未月。
「鎖の呪符!」
その途端、光の鎖が、四方八方に伸びてまきつく。
左右から迫ってきていた、大カマキリが、縛り上げられたように動かなくなり、さらに前方から飛び掛ってきた大カマキリの鎌が、瞬間に封じられ、床に突きささる。床に飛び散った砂は生き物のように流れ、集まり、また人の姿に戻ると、次の広間への戸を開け放った。
「童子、飛び乗って!」
化け畳はきりもみ回転をしながら、カマキリたちの巨体のすれすれをすり抜け、次の広間へと飛び込んで行った。
そこは巨大な吹き抜けになっていて、壁一面に極彩色の模様がごそごそと動きながら張り付いている、
「気をつけろ!毒蛾だ。」
天外が叫んだ。
「五行童子。流水の羽衣よ。体を伏せて!」
毒蛾が一斉に羽ばたき、毒の鱗粉を撒き散らした。
高い天井から、吹雪のように黄色い粉が降り注ぐ。
「五行童子、水変化。」
五行童子はみるみる流れる水に姿を変え、二人の上に覆いかぶさった。
畳に低く身を伏せた未月と天外の上に流れる水の幕ができた。毒をすべて畳の外へと流してしまう。
極彩色の羽ばたきの中、きりもみ飛行で化け畳が突っ切って行く。
襖を突き破り、通路を抜け、次の広間へ。そこは、畳の敷き詰められた大広間、そこに大きなカブトムシやクワガタがのそのそと動きながら迫ってくる。
「鎖の呪符!」
未月が呪符を飛ばす。四方八方に伸びる光の鎖。だが…。
「ば、ばかな!」
動きを封じられたのはほんの一瞬。黒い巨体が桁外れの力で動き出すと、鎖は、光の粒子となって飛び散った。なんという怪力だ。
「くそ。あの体じゃ、俺の刀も刃が立たないぞ。」
天外が、飛び掛ってきたクワガタを跳ね飛ばしながら叫んだ。
「一瞬の勝負よ。化け畳、あれを行くわよ。」
その時、化け畳が、ふわっと下に着陸した。
「大波畳返し!」」
その叫びと同時に、広間の数え切れない畳が、一斉に立ち上がっていく。
弾き飛ばされないように、あわてて、畳にとりすがるカブトたち。
「ウオオオオオン。」
化け畳がうなりを上げ、床を大きく振動させる。その途端、まるで大波が押し寄せるように、猛烈な勢いで、立ち上がった畳が見事に将棋倒しになっていく。足場を失った、カブトやクワガタがきれいに次々とひっくり返っていく。
「今よ!」
大混乱を縫って、再び飛び出す化け畳、襖を吹っ飛ばし、もうすぐ最上階だ。
「よくもここまで来られたものね。でも、もうおしまい。私の一番かわいい虫がお相手するわ。」
手前の部屋で待っていたのは、彩姫だった。
「ほうらどう。虹色の輝きは。」
そこの壁一面には、宝石のような玉虫が無数にへばりつき、妖しい光を放っていた。
ま、まぶしい…。妖しく揺れる光に、目がチカチカする。それだけではなかった、部屋の左右の隅にコオロギやキリギリス、そして蝉などの巨大な鳴く虫がいて、それが一斉にとんでもない大きさで鳴き始めたのだった。頭がガンガンするほどの音量だ。視覚も聴覚も、これでは役に立ちそうもない。そして、部屋の奥からゆっくり進み出た怪物がいた。
獰猛な大顎、広い視野、地上を高速で移動する羽ばたき続ける羽。俊敏で冷酷な殺し屋、化けハンミョウだった。虹色の光沢を放つ、美しい体からは想像できぬ、凶暴なオーラに包まれていた。
「死ぬがよい。」
彩姫が叫ぶと、低空飛行のまま、化けハンミョウがせまってくる。
「金変化。」
五行童子が、体を金属に変え、果敢に向かっていく。だが、いかんせん動きが早すぎる、前に後ろに、左に右に、自在に動いてかわし、大顎で五行童子をあっという間に投げ飛ばすと、一直線に向かってくる。
「氷結の呪符! う、しまった。」
未月の飛ばした呪符を鞭のような触覚で真っ二つに切り裂き、天外の神刀朱雀を大顎で弾き飛ばす。しかも、さらに反撃しようにも、玉虫と鳴く虫に邪魔をされ、集中できない。
「ほれほれ、疲れてきたみたいね。あがいても無駄よ。」
「未月殿、どうする。ここは拙者が…。」
天外が未月の耳元でどなる。
「まだ、奥の手は残してあるわ。童子、戻って。いでよ、穴脅し!」
未月がそう叫んで重蔵のヒョウタンを天井に向けると、天井に真っ黒な穴が開き、一つ目の奇怪な妖怪が顔を出した。空間に自在に穴を開け、通り抜けて人を脅す、穴脅しだ。
「上の最上階に抜けるわよ。みんなつかまって!」
広がる穴の異空間の中へ、化け畳ごと皆が舞い上がり、吸い込まれて行った。
化けハンミョウの凶悪な大顎がすれすれで空を裂き、彩姫の美しい顔が怒りにゆがむ。
ついに辿り着いたそこは、天守閣の最上階だった。
「こ、これは?」
「どういうことなの、ここは? 邪気がまったくない。」
そこは,八角形の銀色の壁に囲まれた、神聖な空間だった。中心に祭壇が設けてあり、魔法陣のような模様の中に、天下の名器と呼ばれる三つの茶器が配置され、その中心に、巨大な山脈をそのまま小さくしたような石があった。
その時、どこかで、呪文のような声がした。
「破邪光輪波!」
魔法陣の中から地鳴りのような音が響いた。
「こ、これは、みんな、急いで戻るのよ。」
化け畳と穴脅しは霧のようにかき消えて、重蔵のヒョウタンに吸い込まれた。五行童子は神像に戻ったと、次の瞬間、魔法陣から、衝撃波のような光が押し寄せ。未月と天外は吹っ飛ばされた。いったい何がおきたのか。顔を上げると、魔法陣の向こう側で襖が開き、二つの影が入ってきた。
「やはり、魔物を封じる光の波は、君たちには効かないみたいだね。あの妖怪どもは、命拾いしたな。」
「おまえは、」
「予定通り、魔界運命算術の計算の通りの到着でございます。」
能面の男が、何やら運命図をガサガサとめくりながら告げた。未月が、立ち上がると祭壇の後ろから、魔界将軍銀狼が進み出た。。
「さすがだな、千眼よ。おっと鬼流門よ、それ以上近づかないほうがよい。見ての通り、この風水の茶器と神の石によって、安土城の邪気はすべて、思いのままだ。この祭壇が損なわれると、邪気が一気に噴出し、このあたり一帯の人間の命はないだろうな。」
「くっ!」
はったりではないようだった。神の石の内部には、はかりしれない邪気が脈々と波打っていた。
「天守閣の横の清涼殿を見ただろう。信長はあそこに天子を住まわせ、自分に従わせるつもりだった。そして、この祭壇こそ、松永弾正らと争い、信長が命がけで集めたものだ。あらゆる邪気を吸収する神の石。邪気を押さえ、封じる天下の茶器。これらを使えば、邪気を集め、自在にできる。信長は戦国の世を終わらせ、、天子さえも従え、魔を封じ、神仏を越えようとしたのだよ。」
すると天外がはき捨てるように言った。
「その信長の野望を利用し、お前たちは何を企んでいるのだ。」
すると銀狼は笑いながら言った。
「すぐにわかる。時はもうすぐだ。だが、おまえたち二人はそれを見ることができるかな。」
「なに?」
天外が身構えた。
「軍師千眼よ。この二人の運命算術はどうなっておる。」
すると、能面の男が運命図を出しながら答えた。
「はは。天輪と同じく、異界流しの予定です。」
「成と破の星の数は。」
「成が二、破が二でございまする。」
「ふうむ、どちらも多いな。運命は激しく揺れながら流れていくなり。」
天外が、神刀朱雀を抜いた。
「わしら二人とて、黙って運命に付き合うわけにはいかぬ。」
だが、銀狼は、余裕たっぷりに答えた。
「無駄だ。もう、お前たちは、この最上階にきた時に運命を決められたのだ。」
「なに?」
その途端、八角形の壁が、銀色に光り始めた。
「なぜ、光秀に気づかれず、魔界の者がこの城に忍び込めたと思う。なぜ、家康の宴の時に、たやすく信長に近づけたと思う。この天守閣そのものが、異界のわれらの城につながっていたのだよ。見るがよい、われらの白幻城を!
すると、銀色の襖の向こう側に安土城とそっくりな魔界の城がそびえていた。というより、隣り合わせに建っている。だけではない。天かける橋により、魔界と安土城はつながっているのだ。その城の周りは雲海につつまれた、不思議な世界で、それが襖一枚隔てたすぐ向こうにあるのだ。
「われらは誰にも怪しまれずにことを運んだ。われらは、城から城に行き来し、信長にとりついていたのだからな。ハハハハハ。」
銀色の壁が再び光ったかと思うと、白幻城は消え、今度はそこにいくつもの異界の風景が現れた。
「風神嵐臨!」
銀狼が叫ぶと、突風が吹き抜け、未月も天外も一瞬にしてばらばらになり、異界の風景の中へと吸い込まれて行く。
「異界流しだ。時空の狭間を永遠に漂うがよい。」
「うぬう!」
とっさに天外は神刀朱雀を床に突き立て、踏みとどまった。そこにつかまり、ぎりぎりで踏みとどまろうとする未月。だがその時、突然、八角形の壁の一つが動き、奥から何かが飛び出してきた。
「いけませぬ、彩姫様。算術が狂いまする。」
千眼の悲鳴が上がった。飛び込んできたのは、あの化けハンミョウと巨大なカマドウマにまたがった彩姫だった。
「おのれ! 逃がすか。」
「彩姫様、お戻りください!」
銀狼が叫んだが、もう、どうにも止まらなかった。襲い掛かる化けハンミョウ、天外も、未月も、巨大な虫も、彩姫も皆、そのまま、異界の中へと消えて行ったのだった。
「玉天楼、おるか。」
すると、異界の一つから、すらりとした若い男が進み出た。
「ここに。」
「彩姫がまたいつもの調子で異界になだれ込んだ。軍師の千眼と戦術を練った上で、すぐ連れ戻すのだ。」
「かしこまりました。」
銀狼は千眼の運命算術図を見ながらつぶやいた。
「ううむ。二つの破のうち一つはしのげるか。もう一つの破とは? まあよい。こちらも全力で突き進むだけだ。邪魔者がいないうちに、最後の仕上げにとりかかるか。鋼猿、鋼猿はおるか。」
銀狼は叫びながら部屋をあとにした。
時空の狭間を、天外と未月は流れていった。あちこちで時空が渦巻く不思議な空間の中を、どこまでも漂っていく。
「未月殿、未月殿!」
天外の言葉に目を覚ました未月。
「すまぬ、天外殿。はやく、安土城に、白幻城にもどってやつらの野望を砕かないと…。」
だが、なぜだろう。体の力が半分も出ない。このままではどこまでも流され、漂うばかりか。だが天外は、無理に体を起こし、未月の体を揺り動かした。
「それがどうやら、見つかったようでござる。」
見れば、時空の狭間をを越えて、黒い影が迫ってくる。彩姫と化けハンミョウたちだ。
「見つけた、見つけたぞよ。おのれ、とどめをさしてくれる。」
未月はあわてて、重蔵のヒョウタンをとりだした。
「いでよ、穴脅し! 異界を突き抜けるのよ。」
ヒョウタンから飛び出た、穴脅しが時空の渦に飛び込み、そこに穴を開け始める。
だが、間に合わない、あっという間に羽音が押し寄せ、化けハンミョウの大顎が迫ってくる。
「天外殿、この穴に飛び込みます。」
急いで、穴に近づく未月、だがもうすぐそばを大顎が空を斬る。穴に近づきながら、神刀朱雀で応戦する天外。
穴に体を半分入れながら、未月が、手を差し伸べて叫ぶ。
「急いで!」
穴がだんだん閉じ始めた。
「逃すか!」
その時、彩姫の着物の袖の中からクモの糸が伸び、天外の腕や刀に絡まった。糸を手繰り寄せ、大顎の餌食にしようとする彩姫。
「天外殿おおお!」
閉じていく穴の中から、糸に巻き上げられ、宙を舞う天外が見えた。未月は穴をつきぬけ、異界の一つに落ちて行ったのだった。
「ここは…? やっと体の自由がきくようになったみたいだけれど…。」
そこでは、荒涼とした原野に土煙が舞っていた。どんよりと低く垂れ込めた雲の下、鎧の音とともに、鎧武者軍団が、移動していた。どれも立派な体格の男たちだったが、その鎧兜は疲れきり、旗指物はぼろぼろ、傷だらけであった。
「おぬし、どこから落ちてきた?」
一人の若武者が未月の前に駆け寄ってきた。みると額に大きな切り傷がある。答えられず、若武者の目を見つめ返す未月。若武者もしげしげと未月をながめた。
「なるほど、ここにくるだけのことはある。いくつも死地を越えてきたよい目だ。われらとともに戦おうぞ。」
「戦う?」
「おお、きたぞ、きたぞ。先に行っておるぞ。」
若武者は、生き生きと瞳を輝かせ、走って行った。
すると、荒野の向こうから、別の騎馬軍団が現れ、突進してきた。騎馬軍団の大将は白骨の化け物であった。激しい戦いの後、騎馬軍団が勝利し、去って行った。だが、その後で倒され、斬られ、踏みにじられた鎧武者軍団は、立ち上がり、叫びを上げた。すると、少しずつ体が、鎧が復元し、生き返っていく。そして、また荒野の中へと歩いていくのだった。
「ああやって、永遠に戦っているのか。ここは違う。穴脅しよ、次の世界へ抜けるのよ。」
穴脅しは次の世界への穴を開いたのだった。
その頃、彩姫のクモの糸を神刀朱雀でたち斬った天外は、その反動で時空の渦の中に飛ばされ異界の狭間へと吸い込まれていった。
「く口惜しや。だがお前ら二人、必ず探し出して、とどめをさしてくれるわ。」
彩姫の気配は遠ざかって行った。だが、天外が飛び込んだ時空のハザマではなぜか体の自由がきかない。ただ渦巻いている巨大な流れの中をどこまでも、どこまでも漂っていくだけなのだ。
「あ、あれは? 秀吉殿か。」
あちこちの渦の中に、絵巻物のように風景が浮かび上がってくる。まず天外が見たのは、朝廷に上がり、公家のような姿をした秀吉であった。
「なんだ、これは?」
意味もわからず眺めていると、次に見えたのは広い原野を駆け巡る、何万という大軍であった。東軍と西軍の戦いであるらしい。
「ありえない、見たこともない。これは一体難なのだ。」
次に、赤い鎧の武者の一群に追われて、誰かが逃げていた。
「家康殿?」
やがて、戦いは終わり、見たこともない町並みが広がっていた。
「大きな町だ。これも見たことがないな。おや、高僧が年老いた家康殿と歩いている。誰だ。」
さらに天外の知っているよりずっと華やかな京の都を、妙な履物をはいた男が歩いている。この男にいたっては、まったく心当たりがない。その男は、まわりの者から、竜馬、竜馬と呼ばれていた。おれは、このまま永遠にこの異界の狭間を彷徨い続けるのか。時空の渦の中に浮かび上がる絵巻物、天外はその中をどこまでも漂っていったのだった。
「なんなのだ。この絵巻物は? いったい私は、何を見ておるのだ。」、
すると、どこからか、その問いに答えるものがあった。
「それはおぬし、坂本天外に関わる未来の世界なのだ。」
「私に関わる未来?」
「どうやら、明智光秀は、歴史の影に消え、現在の居城、坂本城にいる明智の一族は、おぬしと同じ坂本と名を元に戻し、土佐に逃れ、そこで新に坂本一族を起こすらしい。」
「土佐に行くのか…、ばかな! いったい…。あ、あなたは。」
時空の狭間を漂う天外の前に、一人の人影が現れた。
「天輪様! ご無事で。」
そう、この自由のきかないはずの時空の狭間を、なんでもないように飛び回り、近づいて来た人影、それは、明智天輪であったのだ。
未月は穴脅しの穴を抜け、どこか暗い世界に落ちて行った。なぜか落下していく、どうにも止まらない。手を伸ばしても空を切るだけ。だんだん気が遠くなり、気がつくと、布団にくるまれて横になっていた。
「あら、未月さん、気がついたわね。」
「星照院様、え! ここは…。」
星照院の優しい顔が覗き込む。ここは、西妙寺の…雄山の診療所ではないか。
「大怪我だが、手当てが早かったから心配することはない。でも、まだしばらくは寝ておらんといかんぞ。」
雄山もやさしく笑ってすぐかたわらにいた。
「未月さん、夕べ、裏山のがけの下に倒れていたのよ。何か悲鳴を聞いたって、宗助が見回りにいって、見つけてくれたのよ。どうしたの、なにか大変なことがあったようね。」
「それは…。」
未月が言いにくそうにしていると、雄山が口をはさんできた。
「ほら、怪我人にいろいろ質問したらかわいそうだろ。」
「そうだったわね。ごめんなさい。もう、聞かないわ。ゆっくり休んでね。お市が、おねえちゃんのためにおいしい夕食をつくるって、はりきっていたわよ。」
「お市が…。うれしいわ。でも、こんなところで寝てなんかいられない。急がなきゃ…。」
しかし、起き上がろうとすると、雄山が、まだだめだと止める。わけを言って、星照院に頼んでも笑ってかわされてしまう。しかもそのうち、体がだるく、眠くなってきて、気力が萎えてくる。本当に大怪我をしているのだろうか。だとしたら本当に動かないほうがいいのだろうか。でも、やはり…。
「星照院様、お願いです。恐ろしいやつらがなにかとんでもない企みをしているのです。今行かないと、またたくさんの人々が、踏みにじられ、命を失うことになるでしょう。ここだって危なくなるやもしれません。お願いです。」
すると、星照院は未月の手を取り、強い口調で答えた。
「かわいそうに、でも平気よ。もしも、そんな恐ろしいやつらがやってきても、私たちが護ってあげるから。ええ、いざとなったら、遠くへ逃げましょう。みんなで、誰も敵の来ないところへと逃げればいいのよ。」
その言葉を聞いている間にも、未月の体は力を失い、だんだん気が遠くなってくるようだった。そうだ、もう戦うのをやめて、しばらくここで休んでいよう、今までがあまりに激しすぎたのだ。でも、その時はっと何かをひらめいた。未月はかっと目を見開いて、雄山の手を逃れ、跳ね起きて、部屋の隅まで駆け出すと、そこの襖を開け放った。
「やっぱり、あなた星照院様じゃないわね。」
襖の向こう側には、西妙寺ではなく、険しい崖が、切り立った岩山が広がっていた。
「本当の星照院様なら、苦しむ人々を見捨てて、自分たちだけ逃げることなどありえない。お前は何者なの。」
すると、星照院も雄山も立ち上がり、どんどん姿を変え、大きくなっていく。それとともに、部屋は暗い洞窟へとかわりった。そして、洞窟の奥から、黒い不気味な影が、いくつもいくつも押し寄せてくる。
「おのれ、いま少しで、生気をすべて吸い取り、われらの餌食になったものを…。」
星照院は、目も鼻もない大きな口がぱっくり開いた化け物に、雄山は、真っ黒な大入道に代わっていった。そして次々と押し寄せる化け物たち。ここは魑魅魍魎の巣窟だった。
「行くわよ、穴脅し!」
未月がかけだすと、崖のきわに、ぼっかりと大きな穴が開いていった。未月は、崖から飛び降り、穴の中に飛び込んだのだった。
天外の前で天輪が真言を唱えながら印をきる。
「…まだだ。時空の流れに逆らわず、心を自由にせよ。そして己の中に平常心を持つならば、異界流しの呪縛から完全に解かれるであろう。」
「はい。」
やがて、己を取り戻した天外は、あちこちで渦巻く時空の渦を見ながら質問した。
「天輪様、お怪我を? どうなされたのですか…。」
見れば、天輪の着物もあちこちがやぶれ、すそから見え隠れする手足は、大きな傷がいくつもついている。
「本能寺の奥の間で冥道衆の玉天楼という術者とやりあったのだが…。やつに無理やり異界流しにされ、魔界の怪物に危うく、餌食にされるところであったな。会えてよかった、天外よ。」
天輪は淡々と言っているが、瞬間、天輪の胸の辺りに、絵巻物のようにそのさまが映った。山のような巨大な怪物が時空の渦の中から現れ、、魔界に引きずり込まれ、深いくらい穴の中、何度も命を引きちぎられるような思いをしてきたのだった。
「ここはどういう世界なのですか。我々はどうしたらよいのですか。」
天輪は静かに答えた。
「ここは、阿修羅界、精霊界、魑魅魍魎界、魔界、人間界などのいろいろな世界のちょうど狭間にある、時空の迷路のような場所だ。この大きな時空の流れの向こうに、冥道衆の白幻城がある。」
天輪は胸の前で印を切り、空中の一点に集中した。
「おお、こ、これは!」
そこには、絵巻物のように先ほどの天守閣の魔法陣が映し出された。その中に周囲から凄まじいほどの邪気を集め、それを溜め込む神野石が見える。
「ここでは心の力がすべてだ。見るがよい、冥道衆でもとても手に負えぬほどの、邪気を集め、あの天下の茶器で、思いのままに封じ込めている。そして、さらに問題なのはこちらじゃ。」
そう言って、天輪はさらに心を集中させた。すると、白幻城の中に、大きな広間が見え、そこの台座の上に信長が横になっているのが見えた。生きているのか死んでいるのか見ていると、着物でかくれた左胸の辺りがどくどくと大きく波打ち、邪悪な気を体中に送っている。
「こ、これは?」
「やつらの狙いはわからぬ。だが、信長を復活させる気だ。魔王としてな。そして、あれだけの邪気を安土城に溜め込み、なにかとんでもないことをする気じゃ。なんとしてでも止めないと…。」
だがその時、天輪は胸を押さえて、うずくまった。やはり傷は深い。集中ができないのだ。
「行きましょう、鬼流門の未月殿も今頃白幻城に向かっているはずです。」
天輪と天外は時空のハザマにあるという白幻城に向かって進みだしたのであった。
(ううむ、天空に浮かぶ島の世界か…。ここにまちがいなさそうじゃな。)
冥道衆のアジトを突き止めようと、玉天楼の容器を追いかけ、異界にやってきた寂翠が見たのは、雲海の中に、大小の岩屋島が浮かぶ不思議な世界であった。
大岩が浮いているだけのものから、木々が茂ったもの、中には、泉が湧き出し池になり、底から天空の滝を作っている島もいくつかあった。そしてその奥に、ひときわ大きな岩が浮かび、その上に安土城と瓜二つの城がそびえていた。
「欅、あそこじゃ。やっと突き止めた。
大きな島と島の間は天空を走る石畳のみちでつながれていた。寂翠と欅は、静かに石畳の道を歩き出した。
「寂翠様、あちらを…。」
欅の指差す方を見ると、美しい羽衣をたなびかせた、天女のような人影が、上空から近付いてくる。
「うぬう、強い妖気を帯びている。心してかかれ。決して気を許すでない。」
「はい。」
やがて、天女たちは、すぐ近くの石畳に降りると、微笑みながら近付いてきた。寂翠は、扇を取り出すと、舞うように大きく虚空を仰いだ。
「風神の舞い。破魔の風!」
その途端、風が吹き上がり、天女たちの羽衣を噴き上げた。
天女たちは、苦しみはじめ、妙なる悲鳴を上げた。そして、もがきながら、みるみる姿を変えて行った。灰色の鳥の羽がはえ、クチバシが伸び、鋭い爪が、尾羽が生えていった。
「鳥の魔物か。」
天女たちは、人間と鳥の中間のような姿になり、苦しみながら、飛びかかってきた。
「芙蓉!」
黒子の欅の背負っていたつづらの中から、何かが勢いよく飛び出した。それは、乙女のカラクリ人形、芙蓉だった。支那の軽業師のようなあでやかな服、顔には布が垂れていて見えないが、欅と同じぐらいの背丈の、身軽なカラクリだ。
「寂翠様、お下がりください。芙蓉、旋風剣よ!」
カラクリ人形、芙蓉の両袖から金属音とともに、鋭い刃が伸びた。三羽の鳥女は、ある者は地を走り、ある者は空中を飛んで襲い掛かる。芙蓉はクルクルとトンボをを切り、二つの剣を竜巻のように振り回した。、
「ギャー!」
舞い上がる羽毛、空を切るクチバシと爪、一羽の鳥女が悲鳴を上げ、石畳の下へと転げ落ちていった。残りの二羽の鳥女は、一羽は上空に、羽を痛めた一羽はもがきながら近くの空に浮いた岩の上へと逃れた。
「クワー!」
鳥女たちは奇声を上げると反撃に転じた。羽をばたつかせると風が舞いおこり、無数の羽毛が毒針のようにこちらに飛んでくる。これでは、こちらの攻撃がとどかない。寂翠は、式神を使う用意をした。だが、欅は芙蓉に命令した。
「おまえなら、毒は関係ない。芙蓉、昇竜刃よ!」
するとまったく唐突に、芙蓉の両肩から、真上にむかって小刀が打ち出された。上空を舞っていた鳥女の羽を突き破り、鳥女は、フラフラと高度を下げた。
「蛇双鞭よ。」
そこを見逃さず今度は剣に代わり、両袖からヒュルヒュルと長い鞭が飛び出した。一瞬にして上空の鳥女をとらえ、引きずり落とし、とどめを刺した。そして毒の羽毛をものともせず、なんと、石畳から大きく飛び出したのだった。そして、空中に浮かんだ岩から岩へと飛び移り、離れた島へは鞭で枝にからめて飛び移り、あっという間に鳥女のいる島まで渡っていった。追い詰められた鳥女は、クチバシを振り上げ、そのワシのような爪をいっぱいに開き、襲い掛かってきた。毒の羽毛はカラクリに通じなくても、この強大な爪でつかみかかれば一撃逆転だ。しかも、鳥女は、足場の悪い、島の池の方から急降下してきた。
「クワー!」
だが、芙蓉は、まさかの水面を走り、爪を交わすと、そのまま背中に小刀を突き立てた。鳥女は池に墜落し、そのまま、天空の滝とともに水しぶきをきらめかせながら、落ちていった。
「なるほど、蓮の葉の上を飛び、水面を走ったか。あっぱれであったぞ。」
寂翠は、戻ってきた芙蓉に、そして人形使いの欅に、ねぎらいの声をかけた。
「しかし、あの城にいる玉天楼は、なかなか簡単にはいくまい。」
すると、黒子の欅が、顔の布を上げ、寂翠に言った。
「寂翠様、あの策略を試したいと存じます。」
「うむ、だが、気づかれれば命はない。それでもよいのか。」
「もとより。」
「よし、では参ろう。」
二人は、天空の城、白幻城へと歩き出した。
次に未月がやってきた世界は夜の森だった。
「うぬ、しまった!」
なんと閉じようとする穴脅しの穴の中から何かが続けて飛び出してきた。、毛むくじゃらの腕が四本もある大きなイタチのような化け物だ。化けイタチは、牙を剥いて、襲い掛かってきた。
「炎爆の呪符!」
大きな口の中で炎が燃え上がり、化けイタチは転げまわって、苦しがった。
「とどめだ!氷結の呪符!」
だが、化けイタチは、大きく飛び跳ねると、未月の呪符をかわし、木の上に飛び上がると、森の中に逃げ込んで行った。
「違う世界の化け物を持ち込んでしまった。まずい、私の責任だ。やつは、どこに逃げたのかいや、その前に、この世界はいったいどこなのだ。」
未月は小高い丘の上に立って、あたりを見回した。満月が昇り、青い月明かりにどこまでも森が広がっているのが見えた。不思議な白い影が森の奥に吸い込まれるように進んでいくのが見えた。気配を殺して、そっと後を追う。
「なんだ、この森は?」
風もないのに、ざわざわと草が波打っている。月に向かって咲き誇る淡い色の花から白い光が噴出し、蝶のように舞い踊る。大きな花が首をかしげながら、精妙な笛を吹く。
木々が月に向かって静かに歌をささやく。
さまざまな色の数えきれない光の粒子が、木々の間を飛び回って行く。
「この森は生きているみたいだわ。」
だが、その時、暗がりから小さな悲鳴が聞こえた。。さっと走り寄る未月。あの光る小人が、化けイタチにつかまり、今まさに、その顎に噛み砕かれようとしていた。
「氷結の呪符!」
「ウガォー!」
化けイタチの腕の一本が凍りつき、光の小人が、地面に落ちた。
「早く逃げなさい。」
光の小人はチョコチョコと駆け出して、森の奥へと走って言った。化けイタチはよだれを流して、怒り狂い、大きく飛び跳ねて今度は、爪を突き立てて襲い掛かってきた。小刀でそれをかわし、後ろにトンボをきった。すばやい、これでは、なかなか呪符を使うことができない。
「いちかばちかだわ。穴脅し頼むわよ。」
未月は、鋭い牙と爪を交わしながら、走った。そして、走りながら、呪符を地面に貼り付けて行った。着物のすそが破れ、そのうちだんだん交わしきれなくなってきた。
「邪気封印結界!」
未月が叫ぶと、四方に置かれた呪符が光り、その中にいた化けイタチの体から、白い煙が上がり、悲鳴が響き渡った。
「ギャウオオオオオオ!」
だが、化けイタチは、猛スピードで結界を突っ切り、よろよろしながら未月の前に飛んで出た。体から煙を噴き上げ、しかし、怒りは頂点に達し、今度こそ逃がさぬと、四本の腕と牙を剥き、襲い掛かった。だが、なぜか未月はまったく動かなかった。
「地獄に落ちろ。」
あと一歩で、化けイタチが未月を八つ裂きにするという直前、突然足元に大きな穴が開き、化けイタチは、地面の中へと飲み込まれていった。長い、尾を引くような叫びが、穴の中に響き渡った。
穴脅しの異界の落とし穴であった。
「ふう、危なかった。」
やがて、森の奥に行くと、光る小さな小人が、また一人、また一人、集まってきて、いつのまにか何十人も集まって、どこかを目指している。
未月が後について森の奥に進むと、底には、満月の光を照り返す小さな沼があり、その岸に大きな大きな老木がそびえていた。するとその老木の中から背の高い光る人がゆっくりと姿を現し、沼で水浴びを始めた。するとあちらこちらから集まってきた、光る小人が次々と澄んだ沼の中に入り、光る人と一つになっていく。
やがて光る人は数倍の大きさの輝く女神と鳴り、月の光の下に立ち、静かに歌を歌う。その歌声は、月の光のようにやさしく、森全体が歌っているように生き生きと力強い。
「いくら気配を消しても無駄です。あなたはこの森の上に、私の体の上にいるのだから。ここはあなたのようなものが来るところではありません。早く、お戻りなさい。」
光る人は、静かに未月を見下ろした。
「すみません。私は、時空の狭間のどこかにあるという白幻城を探しているのです。。」
すると光る人は、目をつむり、遠くの何かを感じ取っていた。
「あなたは、仲間を、私自身を魔物から救ってくれた。恩に報いましょう。ここは精霊界…。たくさんの異界の果てと果てが出会うところ、世界の狭間を流れる、光の大河のその向こう側にそれはある。」
「時空の狭間に…。」
すると、光る人のすぐそばに時空の渦が渦巻きだした。
「ここから行くのです。」
「ありがとうございます。」
未月は柔らかな月の光を背に、時空の渦の中へと進んで行った。
その頃、静まり返った安土城のまわりでは、奏胤らの手によって、大掛かりな結界が出来上がろうとしていた。
「先ほど最上階のあたりで爆発のような音が聞こえましたが、あれ以来静まり返ってしまった。天外殿と未月殿は平気でしょうか。」
光秀が奏胤にたずねた。
「わかりませぬ。ただ、心配しても仕方ありません。あの二人なら、まず大丈夫でしょう。こちらは、こちらの仕事をやり遂げるだけです。光秀殿が、天輪殿にひけをとらぬほどの風水の知識をお持ちで、とても助かりました。」
「わかりました。命をかけてやり遂げましょうぞ。」
安土城の四方には、大きな石のほこらが準備され、それぞれに強力な呪文がかけられた。なんといっても、この巨大な安土城すべてを浄化するというのだ、生半可なことでは歯が立たない。陣内も玄武も、灯悟も、残っていた術者たちは皆、光秀の陣頭指揮のもと、てきぱきと動きまわっている。
そこに、偲び姿で一人の武将が現れた。
「有楽斉殿、よく来られました。それで京の方の情勢はどうなっていますか。」
「それが、だれが噂のもとかわからぬが、信長は死んでいない、きっとそのうち挙兵する。その証拠に、遺体が見つからない。京都中の噂になっていて、誰も動こうとしない。こちら側につけようと画策していた細川もこれでは表立った動きはできない。」
「そうでありましたか…。やつらそこまで計算して信長様を…。しかし、本当の信長様は、今、魔界の者の手にあります。」
「な、なんと、それはさらに難しい局面に…。」
「とにかく、魔界の者を打ち倒し、やつらの野望を打ち砕くことに今は全力を尽くします。」
「嫡男の信忠殿が生きていればよかったのだが…。」
「信忠様には、生きていてほしかった。この光秀も、本能寺からすぐに、兵を連れて講和に向かったのです。謀反ではない。あなたを攻撃する気はないと。しかし、誰に扇動されたのか、おまえが裏切ったのは明白な事実、信じろというならば、父上を出せと、出せないなら嘘つきめ、成敗してくれると、攻撃を仕掛けてきて、私が駆けつけたときには、二条城の御殿で自害なされておりました。」
「そうであったか。いったい誰が、信忠様に主君殺しを吹き込んだのか? …残念なことをした。それで毛利攻めから飛んで帰ってきた羽柴秀吉の軍が、今兵力を蓄えて、お前を待ち構えておる。これは、そなたの筋書きの通りなのか。」
「はい、次に私が戦ったときが、死ぬ時でございます。でも、あの通り、安土城は魔物の巣窟。これをなんとかするまでは死にたくても、死ねませぬ。」
「うむ。」
有楽斉は、安土城を見上げた。その上空にはおどろおどろしい黒雲が渦巻き、その城門には、天外に切り捨てられた大ムカデが転がっていた。
「天輪殿のような心眼のない私の目にも、凄まじい邪気が伝わってくるようだ。これはまるで魔界の城のようだ。なんとかなるのだろうか。」
安土城は、巨大な邪気をその内側にうねらせて、そびえたっていた。
「光秀殿、ほぼ完成です。例の物の用意をお願いします。」
「承知。」
光秀は家来に大きな黒い箱を持ってこさせた。有楽斉が訝しげに覗きこんだ。
「これは…? 光秀殿、おぬしが種子島の名手だとは聞き及んでいたが…。」
それは、火縄銃というには、あまりにも大きな特別性の銃であった。
「これは、わが一族が総力を挙げて、鍛え上げた神銃飛龍。魔を祓う破魔弾や神秘の精霊弾を打つことのできる唯一の銃です。決壊発動とともに、天守閣に撃ち込みます。」
長い銃身がキラリと光った。飛龍の銃口は、まっすぐに天守閣に寸分の狂いなく向けられたのだった。
「銀狼はどこじゃ。天外と鬼流門はまだ生きておる。手を貸せ。どこまでも追いかけて、息の根を止めてくれる。」
異界の狭間に浮かぶ白幻城の襖が開き、興奮した虫使い彩姫が怒りに体を震わせながら飛び込んできた。
「銀狼! どこじゃ。」
だが、奥に歩み出た彩姫が見たのは、異様な冥道衆の姿であった。上座に向かって深く頭を下げる鋼猿、千眼、玉天楼、そして幽鬼丸、蝉空まで呼び出されている。その傍らで誰かにかしずく銀狼。そして上座には、すさまじいオーラを放つ人影が佇んでいた。
幽鬼丸が小声で彩姫にささやいた。
「うひゃー、ここは静かにしといたほうが身のためみたいすよ。」
「おぬしはいったい、誰じゃ。」
彩姫が叫ぶと、銀狼が小声で答えた。
「これ、彩姫様。失礼ではありませぬか。城の主の御前でございます。」
すると、その人影はきっと彩姫を見据えた。そう、誰でもない。信長、復活した信長であった。魔界の王の衣服をまとい、全身から禍々しいオーラを放っていた。
「なんじゃ、おぬしは。城の主だと。笑わせるでない。わらわは、認めぬぞ。」
するとその人影は、すっくと立ち上がり、彩姫を怒鳴りつけた。
「われこそ第六天魔王、信長である。従わぬ者はこの城から、すぐに立ち去れ。」
なんという威圧感。あの気の強い彩姫が、へなへなと膝まづき、頭を下げた。心は逆らっても、息ができぬほどの圧倒的な「気」の力に押さえつけられ、身動きができないのだ。
すると銀瑯が振り返り、底しれぬ笑みを浮かべた
「ついにその時が近付いたのだ。この異界の白幻城と人間界の安土城が一体となり、信長様が真の主となられる。神仏を越え、魔を従え、そして信長様は、すべての世界を滑る天魔王として君臨されるのだ。信長様、ご指示を。われらに命じてください。」
すると信長は、魔界の配下に、命令を下した。
「玉天楼、異界と人間界を重ね合わせ、我を安土城へと導け。彩姫は縄文で、侵入者を迎え撃て。やつらは探すまでもなく、この城にやってくる。鋼猿は、密偵として安土城の明智軍に潜入し安土の風水師、術者たちを押さえよ。幽鬼丸と蝉空は、非常事態に備えて待機じゃ。銀狼と千眼は、極魔帝を呼び出す最後の仕上げじゃ。よいな。」
「ははー。」
玉天楼が窓を開け放ち点に向かって呪文を唱えた。すると大きな地鳴りとともに城が震え、空に大きな変化が現れた。なんと、異界の空に浮かぶ太陽が、少しずつだが、翳り始めたのだ
「日食…?」。
「あの黒い影と太陽がすべて重なった時、この異界の城は人間界と重なり合い、安土に出現するでしょう。」
彩姫は、城門へと降りて行った。幽鬼丸は、蝉空とともに朧な光となって姿をけし、鋼猿は人間界への橋を渡り、そして、銀狼と能面の軍師、千眼は、運命算術の設計図を手に、天魔王とともにどこかへ消え去って行ったのだった。
その頃、雷刃丸は、未月の弟、波流貴とともに、安土に急いでいた。目の前に大きな川が見えてきた。
「今、一族のものが船を用意しております。少々お待ちを。」
「ああ、俺の仲間もこの辺で落ち合うことになってるんだ。ちょうどいい。」
二人は、しばしの休息をとった。
「…ってえと、この宝珠を持っていけば、片が付くわけかい。」
波流貴は慎重に答えた。
「その宝珠で呼び出すことのできるのは極星王、とても強力な魔神です。しかし、今回姉様が呼び出そうとしているのは、たぶん、極魔帝です。」
「極魔帝?極星王じゃ、ねえのか。」
「三体の魔神を合体させた究極の魔神…。極星王を魂とし、五行童子の精霊の力を肉とし、さらに鎧空牙を鎧として、合体した最強の魔神です。輝く雲と雷を従え、立ち上がれば城を軽く超え、山を見下ろし、大河を一跨ぎと言われています。その比類なき力、まさに比べるものなしと…。」
「へえ、そりゃあすごい!」
「しかし、極魔帝に必要な魔神鎧空牙は、冥道衆に奪われてしまったのです。姉様がどういう段取りで、そこを乗り越えるのかが鍵です。きっとやってくれると信じていますがね。」
「ああ、あんたの姉様は、とんでもない切れ者だ。一緒に戦ったからよくわかる。それに、呪文を使うえらい剣士や坊さんもついてるしな。」
「そういえば、あなたのお仲間は?」
「はは、なんといっても一大事だからな。久しぶりに皆やってくるぜ。もう、とっくに追いついてもいいはずなんだが、何をしているのか…。」
「ほう…、なるほど。」
やがて、小舟がそうっと岸につく。
「お待たせいたしました。この下流に早馬を用意してございます。さ、お乗りください。」
「おう、ありがとよ。」
だが、その時、後ろから大きな声がした。
「おおい、兄貴、待ってくれ。遅れてすまん。」
「おお、権佐、金牛も久しぶりだ。皆、元気そうだな。あ。あれ、お客さんかい?」
権佐の巨体の陰から、いるはずのない顔がチラリと見えた。
「どうしても行くっていうんで、無理を承知で連れてきた。」
「ヨッシャー、全員引き受けた。川を渡るぞ。こっちだ。」
雷刃丸の気合の入った声が川面に響き渡った。
時空の狭間に逆巻く渦を超え、未月はさらなる異界へと足を踏み入れた。
「これが、白幻城…。」
未月が降り立ったのは、虚空の雲の中に浮かぶ石畳の上だった。
雲海の中を突き抜け、幻想的な白い城がそびえていた。
「なんだ、この地鳴りは? しかも、空も翳りはじめている…。」
未月が訝しげに見上げると背後から声がした。
「白幻城が、人間界へと動き出したらしい。急がねば。」
振り返ると、そこに二人の人影が近付いてきた。
「天外殿、天輪殿、よくぞご無事で。」
天外が、未月に駆け寄った。
「待っていてよかった。時が迫り、今し方、寂翠が異界抜けで城に向かったところだ。」
「異界抜け?」
「やつと黒子は特殊な呪符を用い、別の異界から直接天守閣に侵入するという。」
「そうですか…。では、私たちも急ぎましょう。」
すると、天輪が声をかけた。
「先ほどより千里眼を使って透視をいたしたのだが…。我々が異界をさまよっているうちに、事態は風雲急を告げている。冥道衆の手に落ちた信長は、なんと天魔王として復活し、この城の主となった。操られているのか、理由はわからぬ。もう、こうなれば奴を倒し、人間界への復活を阻止するしかあるまい。」
「我々で信長様を討てと? そんな事態になっていたとは…。」
天外は表情を硬くした。
「未月さんは、まだ、穴脅しを使えるな。残念だが、俺には寂翠のような特殊な呪符も穴脅しもない。だから、あの城門に陣取っているあの怪物を引き付ける。」
見れば、城門には、彩姫とあの恐ろしい化けハンミョウたちが睨みを利かせている。穴脅しを使うにも、このままでは近付くことさえできそうもない。
「天外殿、そうしていただければ助かりますが…それでは…。」
「平気だ。おれには天輪様もついている。時間がない。俺が化け物を引き付けている間に、天守閣を目指せ。」
「ありがとうございます。それでは行きます。」
未月は、気配を消し、化け畳に飛び乗ると、雲に隠れながら、城に近付いて行った。
「では、参ります。天輪様。」
本当のところ、天外に勝算はまったくなかった。化けハンミョウの強さは、自分が一番わかっていた。スピードと鋭い切れ味で迫ってくるハンミョウは、自分の得意技に似て、しかもそれをはるかに上回っていた。相性が悪いのだ。しかも、口にこそ出さないが、天輪は魔界の怪物と戦い、深手を負っている。天外ももとより、助けを求める気もない。一人で戦いに出ようとする天外を後ろから天輪が呼び止めた。
「天外よ。、お前、死ぬ気だな。まだ死んではならぬ。」
「しかし、天輪様…。」
天輪は、小さな布袋を渡し、短い言葉を託した。
「…よいな。わかったら行って来い。生きて安土で会おうぞ。」
「はい。」
白幻城の城門には、鋭い殺気が渦巻いていた。
「彩姫! 坂本天外である。白幻城に用がある。そこをどけ。どかねば斬る。」
すると彩姫は目を輝かせた。
「ほほう、天魔王の言った通りじゃ。のこのことやってきおって、探す手間が省けたわ。わざわざ死にに来るとは、愚かなやつらじゃ。」
走り出す天外。さっと手をあげる彩姫。化けハンミョウが死神の鎌のように地を滑りだす。それを逃げずに真っ向から受け止める天外。神刀朱雀が閃く。
「ただでは死なん。」
天外の過酷な戦いが幕を開けた。
未月は、まんまと彩姫たちをやり過ごし、白幻城に辿り着いた。そして穴脅しを使って、城中に忍び込んだ。
「なんだ、ここは。」
外から見た時は、安土城に瓜二つだと思っていたが、中は、異界の迷路のようになっていた。未月が最初に入った広間は、滝があり、座敷の中を清らかなせせらぎが流れていた。階段を上ると、桃源郷のような花畑があり、その先の襖を開けると枯山水の庭園だ。
「うむ、これは鎧空牙の神像…。」
なんということ、枯山水の渦巻く白い砂の上に、青く輝く神像がおいてあり、そのすぐ先に誰かが背中を向けて座っていた。小柄で高貴ないでたち…、誰だ?
もしや…。未月は直感した。こやつが軍師、千眼。
「おぬし、千眼か?」
「…。」
男は何も答えず。枯山水は静寂に包まれていた。
「こ、これは魔法陣?」
よく見ると男のまわりの白い砂に奇妙な文字や図形が描かれ、男はその中心に座しているのだ。なにか儀式を執り行っているのか…?
しかし、今ならすぐ手を伸ばせば、鎧空牙が取り返せる。これさえあれば、極魔帝も呼び出せる。天魔王だろうが、冥道衆だろうがこわくはない。でも、なぜ、取ってくださいとばかりに置いてあるのだ。どう考えても罠に違いない。きっとこれを手にしようとしたとき、敵は攻撃を仕掛けてくるに違いない。しかもこいつが軍師だとしたらなおさらだ。半端なことではすまないだろう。だいいち、背中を向けて攻撃してくださいとばかりに黙って座っている。いっそ、こやつの背中にとどめを刺してから神像をとるか…。
だが本当に何かの儀式の最中だとしたら、無理に攻撃すればすべてが無に帰するか…。
「一か八か…。」
死んだら、その時はその時だ。未月は、枯山水の白い砂を踏みしめ、静かに近付いて行った。少しずつ距離をつめる。男の背中はピクリともしない。踏みしめる砂の音が大きく響く。未月は呼吸を整え、神像に手を伸ばした。何も起こらない。神像を持ち上げる。ずしりとした重量感。間違いない、本物だ。男はまだピクリとも動かない。まだわからない。だがこれで極魔帝が呼び出せる。逆転できる。そう思ったとたんだった。天井から何かがフワーッと落ちてきた。
「うぐうう。」
それは千眼の能面であった。未月の顔にしっかり食らい付き、剥がそうと思ってもまったく離れない。
「うう、頭が…、頭が…。」
何者かが、未月の意識に無理やり割り込み、頭の中がすべて白日の下にさらされるような、しっかりしないと自分を失ってしまいそうな、そんな感じだった。
「ウグウウ…。」
もがき苦しむ未月の手から、神像が落ちた。
未月は、枯山水の庭の大きな石に自分の顔ごと、能面をたたき付けた。血がしたたり落ち、能面はするっと剥がれた。その能面は空中をフワーッと飛んで、神像をもって立ち上がった、軍師千眼の顔に戻って行った。
「ほう、危なかった。今一撃で能面が、たたき割られるところであった。」
「うう、おぬし、敵に背中を向け、自分の命をさらしてまでこんなことをして…。いったい私に何をした?」
「今、おまえは極魔帝が呼び出せると思った。そこからお前の記憶を辿ったのだ。いくら冥道衆とて、鬼流門の最高の魔神を呼び出す方法は簡単にはわからぬ。それで、おまえの記憶を辿り、引きずり出し、必要な呪術を手に入れたのだよ。」
「く…。」
やられた、死んだ方がましだった。未月は、攻撃用の炎の呪符を取り出し、千眼に向けて放った。さらに小刀を抜いて飛びかかった。命にかえても取り返すつもりだった。だが、千眼のまわりの魔法陣が光ったかと思うと、すべてはことごとく跳ね返された。
「悪いな。そのための魔法陣なのでね…。鬼流門の総帥と命のやりとりをするつもりはない。さらばじゃ。」
千眼は神像を持ったまま、光に包まれて消えて行った。
「うう、罠とわかっていながらまんまと…。どんなことをしても、取り返さねば…。次の手を打たねば!」
未月は必死の形相で異界の迷路の中をどこまでも走り抜けていった。
天守閣に一人残った玉天楼は、最上階の窓を開け放ち、翳り始めた太陽に向かって、呪文を唱えていた。半分ほど、日が隠れた時、後ろのふすまが銀色に輝き、誰かが近付いてきた。
「玉天楼殿でござったなあ。この異界の城を、人間界に動かそうとしているのでは?」
「ほう、あの時の陰陽師であったか。」
「寂翠でござる。こちらは連れの人形師、欅。この城を動かすのをやめてもらえぬか。なあ、どうじゃ。」
「それはできぬ。天魔王信長様のお言いつけじゃ。」
「ならばしかたない。力ずくは本意ではないが…。」
その途端、欅の背負ったつづらの中から、あでやかな衣装に身を包んだ、乙女のカラクリが飛びだした。顔は布で隠され、特に武器も持っていない。どんな攻撃をするのかもわからない。
「仕方ない。私も本意ではないが、お相手いたそう。だが、私はご存じの通り、斬ったはったは得意ではないのでね。一つ覚えのことしかできなくてね。」
玉天楼は、空中をなぞった。すると小さな箱と扇が現れた。吸い込むと気を失う魔界の香と呪文を無効化する解呪扇である。前回は、寂翠の式神もカラクリも無効化され、しかも生身の欅は香を吸い込み、命を失う寸前であった。
つまり、生身の人間も、呪術生物も封じられてしまうのだ。
「参る。胡蝶の舞い。」
寂翠が印を結ぶと、不思議な風が起こり、その中をくるくると、たくさんの蝶が舞い始めた。これでどうやって攻撃しようというのだろうか。
「ほう、そういうことか。」
寂翠たちの周りで羽ばたき始めた無数の蝶、巻き起こる不思議な風によって、魔界の香が押し返されるのだ。さらに解呪扇から放たれる呪術を無効にする花吹雪。それを見事によけて、右に左にすばやく動き出したカラクリ人形、芙蓉。その袖のなかから、花吹雪にまぎれて毒針が発射される。芙蓉のあでやかな衣装が翻り、それを追いかけて吹き抜ける桜色の花吹雪、伽羅の香りをはね返し、風に舞う無数の蝶、その風雅な戦いは、寂翠にやや有利かと思われた。
「さすがだな、寂翠とやら。だが、これではどうだ。」
毒針を避けながら、玉天楼が印を結んだ。その刹那、寂翠たちの後ろの襖が銀色に輝き、そのまま寂翠たちの背後から宙を飛び、覆いかぶさってきたのだ。
「危ない、欅。」
だが、欅は寂翠をかばって自分が逃げ遅れ、襖の下敷きに…。同時に、その銀色の光の中に断崖絶壁の異界の風景が浮き上がり、欅はその中に飲み込まれていった。
「欅―!」
寂翠の叫びが長く尾を引いた。欅は、絶壁の下の深い闇の中に、一言も言葉を発することなく消えて行った。その途端、今まで縦横無尽に動き回っていたカラクリ人形、芙蓉がコトンと音を立てて花吹雪の中に前のめりに倒れこんだ。
「ふう、寂翠よ、まだ続けるかね。」
「…。」
寂翠が、無言で印を切った。無数の蝶ははかなく消え去り、風が止まった。玉天楼は、魔界の香の小箱を閉じた。
「今だ。」
寂翠がつぶやいた。何かがおこった。玉天楼がのけぞった。
「なぜだ。ありえない。まさか…。」
玉天楼の肩に毒針が刺さった。動かなくなったはずのカラクリ人形の芙蓉がむっくり起き上がった。人形使いを失ってなぜ動ける。第一呪術を無効化する花吹雪をまともにくらったはずでは…。立ちあがった芙蓉が、顔を隠していた布をあげた。
「通りで術がきかないはずだ。私の負けじゃ。しかし、人形を犠牲にして主人を守り抜き…。私の眼をたばかるとは、なんと見事な人形使いよ。」
布の下から現れた顔は、生身の人間、崖の下に消えたはずの欅だった。なんと欅は術から逃れるために、自分と鵜瓜二つの乙女の人形を遣い、最初から入れ替わっていたのだ。
「さて、ここに解毒剤もある。今一度頼む。城の動きを止めていただけぬか。」
「それだけはできぬ。」
そう言って、玉天楼は微笑んだ。
「なに?」
玉天楼は、突然振り返ると、開け放った天守閣の窓から、両手を広げて飛び降りた。そして、雲海の中へと消えて行った。日食は止まらず、城が雲海が大きく揺れ始めた。
「誇り高き男よ…。仕方ない。行くぞ。欅。」
「はい…。」
欅は一度だけ振り返って小さくつぶやいた。
「芙蓉…。」
一粒の涙がこぼれ、銀色の襖にしみていった。
その時、床に穴が開き、未月が飛び出した。
「すまぬ。未月殿、城を止めることはできなかった。ここから退却して、出直すしかあるまい。ところで、天外殿たちは…。」
「すまぬ。わからぬ。」
だが、その時、窓の外から大きな声が響いた。
「未月殿―、寂翠殿―。」
「おお!」
なんと、化けハンミョウに挟まれた坂本天外が、窓から突っ込んできたのだ。
天外は、ハンミョウの大顎から転がり落ち、床に投げ出された。
「天輪殿、そのお姿は!」
見ると、化けハンミョウの頭の辺りに、うっすらと天輪の姿が浮かび上がった。
「この化け物を操れるのはわずかな時間だけじゃ。天外を、光秀を頼む。さらばじゃ。」
化けハンミョウはは、再び、城の外に向かって飛び出して行った。
「天輪殿!」
だが、その時、黒い太陽は白い太陽を覆いつくし、城が大きく揺れた、時が来たのだ。
「光秀殿、これはいったい…。」
にわかに空が暗くなり、安土城は地響きをあげて揺れ出した。何かが起ころうとしていた。
「結界を発動させてよろしいのでしょうか。」
奏胤が最後の決断を迫った。光秀は、一呼吸おいてあの銃をかまえた。
「お願いします。結界発動!」
「よし、結界発動!」
奏胤が合図した。陣内や灯悟たち術者が安土城の四方に作られた結界封印に向かって呪文を唱える。四方に設営された大岩から、強力な法力が発射される。
「邪気浄化大結界発動!」
安土城が少しずつ光に包まれ、清らかな空気が吹き上がって行く…。
いや、光は途中で弱まり、邪気に押し返されていく。
「なんだ、なにが起きたのだ。結界が弱まっていく。」
奏胤が叫ぶ。誰かが大声で答えた。
「何か、目に見えない何かが、東の結界を破壊しています。」
またあいつだ。光秀が魔を祓おうと画策するたびに邪魔をしてきたあいつだ。安土城の中でも、あの家康を呼んだ時の宴会でも、そして本能寺の時も、いつも気配を消し、忍び寄り、裏をかき、計画を葬った。
「お前だな、魔界の忍び。だが今日は逃さぬ。破魔銃は、誰も逃さぬ。」
光秀には天輪のような千里眼はない。だが、銃の腕だけは絶対の自信がある。落ち着け、何としても見極めるのだ。
その時、東の結界にはられた呪符が剥がれかかった。何かがいる。
「そこだ!」
巨大な種子島、飛龍が火を噴いた。一族が作り上げた唯一の魔をはらう力をもった銃だ。
「グォ!」
確かな手ごたえがあった。みるみる結界の封印の大岩の上に、毛むくじゃらの鎧姿があらわれた。破魔弾は見事に鎧の胸を貫いていた。背中から小さな猿が飛び出し、早く逃げるように手を引っ張っていた。しかし、魔界の忍び、鋼猿は、そこから一歩も動こうとはしなかった。
「最後の最後でしくじったか。だが、命に代えてもここは譲れぬ。今こそ天魔王が、降臨されるのだ!」
鋼猿は、大岩に立ったまま、笑いながら絶命した。
「急いで結界を修復するのだ。」
術者たちが走り寄った。だが、死してなお立ち尽くす魔物は鋼鉄の岩のようになり、てこでも動かない。結界はさらに弱まるばかりであった。
その時、魔物と化した、安土城のそばで光が瞬き、異界が一瞬ひらいた。そして、崩れるように数人の人影が飛び出してきた。寂翠たちを先頭に、未月、天外もいるではないか。光秀たちが、駆けつけた。
「よくぞ、帰られた。すぐ手当を…。」
寂翠が頭を下げた。
「すまぬ。結局、何の力にもなれなかった。」
未月が悔しそうに涙を飲んだ。
「力になれないどころか、奴らの思うつぼに…。いったいやつらは、これからどうするつもりなのか。異界の城を呼び寄せ、何をしようとしているのか…。」
すると、不気味な笑い声が響き渡った。
安土城の城門に、紫色の邪気とともに人影が浮かび上がったのだ。
「おまえは?」
「魔界将軍、銀狼と申す。信長様は、第六天魔王として、復活なされた。そしていまここに、天魔王を魂とし、邪気と異界の城を肉都市、魔神鎧空牙を鎧とし、三体合体の最強の魔神が降臨する。見るがよい。極天魔帝を!」
その言葉が終わらぬうちに、光秀の破魔銃が再び火を噴いた。銀狼の胸に大きな穴が開いた。
「おや、何か飛んできたかな。はは、無駄だったな。知らなかったのか。私は不死身だ。」
結界が消滅すると、安土城の周り一体が陽炎のように揺れだした。
安土城の天守閣では、千眼が、あの魔神鎧空牙の神像を結界の前で取り出した。そして、目よりも高く差し上げた。
「時は満ちぬ。神仏を、魔を、すべてを超える新しい王が生まれる。神の石よ、砕けてこの安土城に邪気を満たせ、ハハハ、極天魔帝降臨じゃ!」
その刹那、千眼が呪文を唱えると、結界の中の神の石に呪文が浮かび上がり、それと同時に砕け散った。ものすごい量の邪気が噴き出した。そして鎧い空牙の神像は、邪気を吸って光りだした。みるみる安土城が黒い雲で覆われ、大きな地響きが起こった。
「おお、いったいあれはなんじゃ!
一瞬、安土城の隣に、瓜二つの雲海に囲まれた禍々しい城が浮かび上がった。
そして、それが地響きとともに安土城に幻のように重なり、合体したのだ。しかも合体と同時に太陽は翳り、城は生き物のように形を変幻自在に変え、動き始めた。さらに、みるみる青い鉄鋼のようなもので覆われ、命あるもののように脈打ちだした。
「ああ、城の上空に、輝く雲が…! 極魔帝出現の前兆?! 私のせいだ。やつら、本当に極魔帝を呼び出すつもりだ。」
やがて、輝く雲から無数の閃光が走り、雷鳴が轟く中、安土城がうなり声を上げながら、大きくうねりだし、形をかえ、巨神へと変貌していった。
戦国の武将たちが集った天下の安土城が、すべてをわが手におさめようとした信長の野望が、異界の力を手に入れ、生きた体をを持ったのだ。
「グオゥー!
巨大な腕を振り上げ、頑強な足で大地を揺るがし、青い鎧で全身を輝かせ、強大な軍神が立ち上がったのだ。
「なんだ、あの顔の光は? おお、信長様!」
魔神の顔は強烈な光を発し、最初はよくわからなかった。だがその光の中に一瞬天魔王と化した信長の姿が浮かび上がり、そして消えた。やがて光る雲と雷鳴の鳴り響く中、信長の鋭い視線そのままの恐ろしい顔が出現したのだ。
足元で、銀狼が高らかに叫んだ。
「さあ、天魔王信長よ。極天魔帝の体を得て今こそ歩み出せ。天地を砕き、海をまたぎ、逆らうすべてを塵に帰し、この世を支配するのだ。さあ、足元に見えるアリのような兵を手始めに食らい尽くすのだ!。」
明智光秀が進み出て大声で問いかけた。
「ばかな、信長様、この兵は、明智の軍、もともとあなた様の兵ですぞ。それを蹴散らして進むというのですか。お気を確かに、おやめください! 真の敵は、その足元にいる魔界の者ですぞ!」
光秀は、銀狼を指差した。すると、極天魔帝は、足元を睨み、銀狼を同じように指差した。
「そうです、そいつが、本当の敵なのです。」
だが、その指先は、さっと向きを変え、今度は光秀を指差した。
「さすが天魔王。」
「な、何を。いったい、どうなされたのですか、信長様!」
光秀の言葉と同時に、非情の雷撃が、光秀の前方に直撃した。
「そうだ、天魔王よ。おまえの敵は、あっちだ。ハハハハハ。」
爆風で吹き飛んだ光秀を、配下の武将が抱き起した。辺りは凍りつくような静けさで包まれた。そして、天地を揺るがす声が響いた。
「…我はすべてを超えた。極天魔帝である!」
その声が安土の丘の上に、琵琶湖に響き渡った。心臓の鼓動が止まるかと思った。胸が縮み、息ができない、なんという威圧感! これが、神仏を超え、魔を従える天魔王の姿なのか。一瞬の凍りつくような沈黙の後、また天地を揺るがす魔神の声が響いた。
「…従わぬ者は、塵に還れ!」
そして、強大な一歩を踏み出した。同時に稲妻が走り、安土城を囲んだ四つの結界の大岩が木端微塵に吹き飛んだ。その足音は嵐のような凄まじいものだったが、それ以上に、もうどこにも逃げられない威圧感を植え付けるものだった。
「お、お助けえ!」
光秀の配下の一人の足軽が、たまらず逃げ出した。それが引き金となった。
「うわー、に、逃げるのだ」
波が引いていくように、城の周囲にいたものが、一斉に逃げ出した。嵐の黒雲に追われ、蜘蛛の子をちらすように、バラバラになって走り出した。自信のような、雷撃のような、嵐のような足音が一歩、また一歩と追ってくる。なりふりかまわず一人一人が、ちりぢりになり、悲鳴を上げながら走り去って行った。
その時、未月の心の中で、何かの糸がきれた。とてつもない、そびえ立つ魔神が、視界を覆い尽くした。究極の魔神を目の前にして、何も打つ手が思い浮かばなかった。なんと非力でみじめなわが身…。圧倒的な敗北感と恐怖がのしかかってきた。
「行きましょう。」
奏胤たちに手を引かれ、未月たちも避難を始めた。
だが、未月は立ち止った。折れた心で振り向いた。そう、こんな最中、まだあきらめない男がいた。
ただ一人、光秀が人の波に逆らうように立ち上がり、破魔銃をかまえた。
「私のふがいなさが、魔神を生んでしまった。私の全身全霊を一つの銃弾にこめて…撃つなり。」
光秀のまわりで精霊の波動が渦巻き、一つの銃弾に集まって行った。
「ハーッ!」
鋭い気合とともに銃弾が発射された。だが、極天魔帝がくわっとにらみかえすと、銃弾は、その協力が邪気に空中で破裂、さらに同時に凄まじい閃光が閃き、轟く雷鳴とともに、光秀は大きく後ろに吹き飛んだ。
「光秀殿―!」
正気を取り戻し、かけつけた未月が抱き起した。
「一度、退却しましょう。策は、走りながら考えましょう。」
「す…すまぬ。」
未月は光秀に肩を貸しながら、小高い丘の上へと走って行ったのだった。
「何か、策はないのか、策は…。」
魔神が合体した、究極の魔神、極天魔帝はすべてを凌駕していた。
引きちぎれそうな心であたりを見回す。逃げていく人々の群れ、翳っていく大地のほかは何も目に入らない。だが、光秀のまさしく命がけの戦いを刻んだ未月の胸に、何か感じるものがあった。
「…あ、あれは…雷刃丸、そうか、極星王の宝珠を手に入れてくれたんだ、そうだ…。」
遠くの丘の上から、こちらをめがけ、走ってくる精悍な侍の姿が見えた。
「雷刃丸、こっちよ、ここよ!」
「よーし、約束のもの持ってきたぜ。」
未月は、雷刃丸に光秀を託すと、宝珠を受け取り、丘の上の大岩の上に飛び乗った。
「北天を司る北極星の魂よ、流されたおびただしい血と悲しみに、行き場のない怒りと涙に答えよ。光臨せよ、魔神極星王!」
そして宝珠を振り上げると、空から数千の流れ星の光が降り注ぎ、それが、きらきらきらめきながら、空中で人の形となった。どこか憂いを秘めた高貴な瞳、きらめく光の集合体、それが極星王だった。
「極星王、光の矢。」
光の魔神が、左手を前に伸ばし、右手を後ろに引くと、底に大きな光の弓が浮かび上がり、さらに、空から降り注ぐ星が集まり、光の矢が輝きだした。
「…身の程を知るがよい。」
極天魔帝は、それを見ると立ち止り巨大な人差し指を差し出した。
「…塵となれ!」
すると、上空の光る雲から燃える隕石がいくつも降り注ぎ、極星王をねらう。
「行けー!」
輝く光の矢と燃え盛る隕石が、すぐ目の前でぶつかりあう。はじける星の光、立ち上る土煙、すごい衝撃が辺りを揺るがす。
だが、なんということ。魔神はどちらも無傷のまま睨み合っていた。
互角? いいや、勢いは、圧倒的に極天魔帝が有利か…。
「極星王、お願い、足止めでいい。少し時間を作って!」
未月が叫ぶと、極星王は、うなずき、両手を大きく振り上げ、極天魔帝に向かって振り下ろした、。
すると、上空から無数の光の剣が降り注ぎ、極天魔帝の周囲に突き刺さり、光の結界を作ったのだ。怒れる魔神は金縛りにあったように動きを止めた。
「ウゴッ。」
動きを封じられた極魔帝は怒り狂い、身を震わせた。するとそれだけで、あちこちに稲妻が走り、極星王に、そして大岩の上の未月に直撃した。極星王は、光となって、空に還り、未月は吹き飛んで気を失った。
「未月…。」
「未月さん…。」
誰かが、名前を呼んでいた。
「おねえちゃん…。」
聞き覚えのある、懐かしい響きだった。
「姉貴…ねえさん…。」
何人もが、未月をやさしく呼んでいた。
「えっ。」
目を開けて驚いた。薄暗い林を背に、あの懐かしい顔が覗き込んでいる。ありえない、また魑魅魍魎の仕業か。はっと跳ね起きて、立ち上がろうとしたが、上半身を起こすのがやっとだった。
「無理するでない。と、いっても聞くようなやつじゃなかったな。」
雄山がやさしく笑った。
「良かった、おねえちゃん、死んじゃったかと思って、心配してた…。」
「死ぬものですか。未月さんは、人々を救うために命を懸けているのです。簡単に死なせはしません。そのために、私たちは来たのですから。」
まさか…。そんなことはありえない。武将たちですら逃げ出す、この修羅場に、この人たちがいるなんて…。でも、間違いない。本当にここにいる。生きて会えるとは思っていなかった。
「雷刃丸がやってきた。」
「驚かせちまったな。お前さんが危ないって、俺の仲間に頼み込んで無理やり一緒についてきちまったんだ。お前さん、みんなに好かれてるんだな。」
だが、その時、近くに雷が落ちた。
「ウヒャー、す、すぐ近くに雷が落ちたぜ。そろそろ、やばいよー。」
「これこれ、静かにせんか。敵に居場所を教えるようなものじゃ。」
お調子者の九太郎も、しっかり者の宗助もいる。
「みんな、急いで逃げないと死ぬわ。急いで…。」
だが、未月の言葉に、誰も微動だにしなかった。
「ああ、そうだな。死ぬかもしれないな。だが、こうなったらもうどこでも同じさ。せめて、少しでも力になれればな。」
雄山が笑った。皆、黙ってうなずいた。星照院は静かに未月の手を握った。
「生きるべきは生き、死ぬべきは死にます。ただ私たちはその中にあって、何をすべきか、何ができるか、ということ…。ともに生きましょう。未月さん。」
「星照院様…。」
すると、お市が血判を押した紙をそっと未月に差し出した。
「ここにいる人たちに押してもらったの…。」
「ありがとう、すぐに役立てるわ。」
「応急手当はすんどる。行ってきな。こんなことしかできないけれどな。」
「雄山先生、みんな、ありがとう。」
未月が立ち上がると、波流貴が言葉をかけた。
「光の結界は、もう限界だ。今すぐにでも破られるかもしれない。どうする、姉貴。」
皆が避難している丘の外れの林から顔を出して眺めると、あの巨大な魔神が光の結界の中で体を震わせていた。光の剣は傾き、砕けた光の粒子が、あたりにきらめいていた。
「皆の言葉を聞いて、一つ思いついたわ。」
未月はそういって、一枚の呪符を取り出した。
「これは、この間の戦いで、冥道衆を封じ込めた呪符…。これをいったい何に使うというんだい…。」
「縁もゆかりもないもの同士でも、絆は生まれる。ならば、敵同士ではどうなのか。魔をもって、魔を討つ。それが、鬼流門。我々の一族がやってきたことを、ここで試みるのみ…。」
「姉貴…。」
「いいこと、これから何が起こっても、ここにいる仲間の命を守り抜くのよ。一人だって死なせちゃだめよ。わかったわね。」
「はい。命に代えても。」
未月が歩き出すと、雷刃丸たちが、近付いてきた。
「行くのかい。俺たちにできることは何かあるかい。」
「光秀殿を手助けして、皆を守ってあげて。
「ああ、さっきから起き出して銃の手入れを始めてるぜ。あの人もまだ、あきらめちゃいない。なぜ信長様が魔界の手先になったかと、嘆いておられる。」
「そう、私もそこだけが謎だわ。極天魔帝は誰かに操られているようにも見えない。合体した信長の魂が動いている。神仏を超えたいという人が、魔界の手先になるなんて…。」
「とにかく、こっちは任せて、頑張ってくれ。」
丘の上まで進み出ると、そこには、天外が、奏胤が、寂翠たちが待っていた。
「その目は…。何か策を思いついたか…。」
寂翠が、復活した未月に気が付いた。
「ああ、とっておきの策を。だが、やつらには、まだ、得体のしれない銀狼、千眼という軍師たち、手ごわいのがぞろぞろいる。簡単にことが運ぶとはとても思えない。やつら冥道衆が何か仕掛けてきたら、術者たちにすがるほかはあるまい。」
「承知。」
「わかりました。やつらの動き、見逃しませぬ。」
天外と奏胤が、力強く答えた。
「では、参る。」
黒雲に覆われた安土の大地を見下ろし、未月は丘の中央まで歩いた。あたりは禍々しい邪気が渦巻き、あちこちに稲妻が轟いた。稲光に浮かび上がる極天魔帝は、怒りに震え、今すぐにでも爆発しそうだった。未月は、極星王の宝珠と五行童子の神像を丘の上に並べた。さらに冥道衆を封印した呪符を取り出すと、呪文を唱え、何かを語りかけた。
「誰じゃ、わしを眠りから覚ますのは…。」
「お前の武の力を、我に見せてくれ。」
「ほほう、鬼流門の娘か。おまえの命を狙っていたわしに、何を言い出す。わしを解き放ては、わしは、いつまたお前を狙う屋もしれぬぞ。」
「おまえの無敵の武の器を役立ててほしいのじゃ。うまくいけば、この命、いくらでもくれてやる。」
「本当か。おもしろい。ならば、わしの武の器、好きに使うがよい。もうひと暴れしたくてうずうずしておったのじゃ。はははは。」
「よし。」
未月は皆の血判を取り出して高らかに唱えた。
「極星王を魂とし、五行童子の精霊の力を肉とし、武の黒武者を鎧とし、今こそここに光臨せよ。極武者!」
未月の叫びとともに、黒い邪気が渦巻き、丘のふもとに見覚えのある、真っ黒な鎧が、真っ黒な面が、巨大な魔剣が姿を現した。それは先の忍者対戦でアスモデウスの凶弾に倒れて、未月に封印された、宿命の敵、冥道衆の武の黒武者に違いなかった。
「まさか、あやつを呼び出すとは?」
誰もがわが目を疑った。だが、敵、味方がころころと入れ替わるこの時代、誰もそれを不思議には思わなかった。
「おまえの力、存分に見せるがよい!」
すると、五行童子の神像から木火土金水の五色の光が立ち上り、さらに、上空からキラキラ光る星の光が降り注いだ。黒武者は、五色の光と降り注ぐ星の光に包まれ、大地を震わせながら巨大化していった。上空に光る雲が現れ、稲妻が轟いた。
「グオオオオオオオオオ。木火土金水の精霊の力が、星神の崇高なる魂が体に満ちる。」
その瞬間、安土山では、極天魔帝を封じていた光の剣がすべてはじき飛び、光の粒子に砕け散った。大地が震え、極天魔帝は、再び恐怖の歩みを始めた。そして、稲光とともに言葉を発した。
「…極天魔帝である。」
すると、武者姿の黒い魔神は、巨大な剣を構えて答えた。
「極武者見参。」
二つの山のような巨神は、稲光の中、向かい合った。
「参る。」
極武者は、巨大な剣を振り上げた。それだけであたりに風がいくつも渦巻き、星の光が、残像のように尾を引いた。
「流星剣。」
空を切り裂く轟音と共に、輝く県が流れ星のように振り下ろされる。ガキーンという、大きな音があたりを揺るがす。極天魔帝が、腰の軍配を抜き、巨大な剣を受け止めた。
二度、三度と光る竜のように尾を引いて食らいつく。それを必死に受け止める天魔王、
「憤!」
極天魔帝は、片手の軍配で巨大な剣を受け止めながら、もう片手を突き出し、力をこめた。
「魔闘気嵐激弾!」
その途端、邪気が手のひらから紫色の雲のように吹き出し、身を乗り出して切りかかる、極武者の横腹に直撃した。
「グワッ!」
吹き飛び、後ずさりする極武者、だが、すぐに体制を整えると、今度は琵琶湖を背にして立ち、剣を振り上げた。
「五行精霊剣、海王波。」
その途端、琵琶湖の水面がみるみる盛り上がり、剣を振り下ろすと同時に、巨大な津波となって押し寄せた。だが、極天魔帝は少しも動ぜず、軍配を気合とともに振り下ろした。
「なに?」
すると、なんといいうこと、巨大な津波は徐々に左右に分かれ始め、ものすごい轟音と共に、きれいに真っ二つになり、左右に分かれて砕け散った。
一瞬にして、波が逆巻く安土の城郭、だが、極武者は少しもひるまず、さらに琵琶湖に剣を振りかざした。
「五行精霊剣、八方水竜波!」
すると、琵琶湖に八本の巨大な水柱が立ち、極武者の剣に合わせ、八本の透き通った竜の首にかわり、水しぶきとともに八方から極天魔帝に襲い掛かった。
「魔闘気、黒竜旋!」
巨大な軍配が、天に向かって突き上げられた。すると、極天魔帝の足元から邪気をはらんだ真っ黒な竜巻が何本も巻き起こった。邪気が渦巻く中に赤い目がランランと光、鋭い叫び声を上げる。襲い掛かる、八つ首の水竜、迎え撃つ黒い渦巻く竜、二度、三度と、牙が宙を舞い、雄叫びが響き渡る。やがて二体の竜は、からみあい、周囲のすべてを巻き込み、上空の黒雲の中に昇って行く。
逆巻く波、巻き起こる竜巻、絶え間ない稲妻、二つの巨神の周りは、とんでもない様相となってきた。
もともと天守閣のあった安土山の上に、怪しい影が集まっていた。魔界将軍、銀狼と軍師千眼、そして冥道衆のあみ笠の僧侶たちである。
「まさか、あの黒武者を取り込むとはな。鬼流門め。見た目は互角、どうなる千眼。」
すると能面をかぶった軍師は奇怪なそろばんのようなものをカシャカシャならしながら、急いで計算を行った。
「あの二つの魔神はどちらもずば抜けた力を持っているので、簡単には勝負はつかないでしょう。しかも、どちらも、まだまだほんの少ししか力を出してはいない。」
「こんな戦いが長引けば、わしらも目的が達する前に、大地は荒廃し、京の都も死の街とかすであろう…。それは、私の本意ではない。破壊しつくされる前に、早く勝負を決せねば…。どうすればよい。」
銀狼の言葉に、千眼は魔界算術図を取り出して、あらゆる場合を計算した。
「極武者の裏で奴を操っている鬼流門の娘を狙うことです。やつが死ねば、極武者は消え去る。彩姫か、幽鬼丸を呼び出して、魔界の軍を向かわせましょう。」
「く、こんな時、、鋼猿がいてくれれば…。玉天楼も行方不明。彩姫は異界に飛び出したきりいつ帰るかわからぬ。幽鬼丸は最後の手段だ。ううむ、よし、わしが行こう。」
「それは危険すぎます。算術所に一つの破が出ております。」
「破が出ていると? ばかな、わしは不死身の術を使っておる。…それより、魔界の将として、身をさらしてでも打って出なければならぬ時もあるということだ。命をかけた部下のためにもな…。」
「ははー、かしこまりました。」
「ちょうどよい。天魔王に冥界の門を開けてもらおうか。」
銀狼は、武具を装備すると、天変地異のような神々の戦いの中へと歩いて行った。
「五行精霊剣、烈地斬!」
次も極武者が仕掛ける。巨大な魔剣を気合とともに大地に突き立てる。すると大地が震え、地鳴りとともに四方に大きな地割れが起こり、周りのものを飲みこんでいく。山が崩れ、土砂が奈落の底に沈んでいく。しかも、深い地割れの底から、真っ赤に煮えたぎる溶岩が噴き出してくる。ついに天魔王を、葬ることができるか?
「ならば、これでどうじゃ。冥界地獄門。」
極天魔帝は、自分の足元に迫ってきた亀裂に向かって軍配を振り下ろした。するとなんということ、亀裂は止まり、底冷えする冷気とともに中が暗くなり、溶岩とは明らかに違う何かがぞろぞろと地の底から湧きあがるように這い出てきた。ガシャガ者という鎧の音、心臓が凍りつくような冷気、それは死人の軍、魔界の兵だった。
「ふ、このような兵でわしに通ずると思うか。五行精霊剣、流星…。」
「ばかめ、おまえの相手はこっちだ…。」
極天魔帝の肩のあたりが紫色に光ったかと思うと、二匹の化け大蛇が飛び出し、極武者の腕と体に巻き付いてきた。もつれ合う二つの巨神のわきを抜け、魔界の兵たちはすごい勢いで、極武者の足元をすり抜け、後ろの丘を目指して一斉に走り出した。
「なんという数の亡霊武者だ。いよいよ来たか。天外殿。」
奏胤がの言葉に、天外が答えた。
「承知。右の坂道は俺が抑える。寂翠殿は、打ち合わせ通りお願いします。」
「かしこまりました。では、いざ。」
寂翠は足早に立ち去り、奏胤と天外は、押し寄せる亡霊武者を迎え撃った。
「密教浄化結界弾!」
奏胤が、あらかじめ呪符を取りつけた結界内に精霊弾を爆発させて亡霊武者を誘い込み、一気に消滅させる。
「神刀朱雀、一文字斬り!」
天蓋が一振りで数人の亡霊武者を邪気ごと切り裂く。だがいかんせん数が多すぎる。山の裏の斜面を使って、別の一群が登ってくる。
「久太郎、今じゃ。」
宗助の掛け声とともに大きな岩が、山の斜面を転がっていった。悲鳴とともに亡霊武者が転がり落ちていく。
「へへ、どんなもんだい。」
誇らしげな久太郎。だが、すぐ横の藪の中から、亡霊武者の集団がなだれ込んでくる。
「ウヒャー、なんて数だい。」
すると身軽な人影がさっと現れ、声をかけた。
「あとは俺たちに任せな。後ろに下がるんだ。」
疾風のように駆け込んできたのは雷刃丸、あの豪剣で、亡霊武者をズバズバと切り落とす。
「おや、またぎょうさん湧いて出たわ。」
その声が終わるか終らないかのうちに、あちこちで爆発音が響き、亡霊武者の甲冑が吹き飛び、骨が砕け散った。その男は陽気に鼻歌を歌いながら、爆弾を投げた。裏武芸者隊の兵庫屋だ。爆弾を避けて駆け上ってくる亡霊武者をトゲの鞭が粉々にする。鞭使いの金牛だ。権佐の金槌が兆治の小刀が宙を舞う。さあ、あたりは大混戦になってきた。
未月は一人、丘の中央に立ち、極武者の戦いを見守っていた。
「極武者、刃竜変化よ。」
湧きあがる黒雲の下、極天魔帝の肩から伸びた化け大蛇が、極武者の体を締め付ける。だが、未月の言葉に、極武者の体が光りだした。
「五行精霊剣、刃竜変化!」
すると、極武者の巨大な魔剣が光を放ち、銀の竜のような形に変化をとげ、生き物のように動きだし、二匹の大蛇をグルグル巻きにしていった。そして極武者が力を入れると、大蛇をバラバラに引き裂いてしまったのだ。
さらに、鞭のようになった、しなる魔剣が宙を舞い、極天魔帝に襲い掛かる。
すると極天魔帝は、両手を広げ大きな声を響かせた。
「魔闘気、氷冷波。」
すると極天魔帝の体中から邪気が渦巻く黒雲が沸き起こり、激しい稲妻とともに、吹雪が巻き起こった。みるみるあたりが白く、氷ついていった。
「極武者、炎竜剣よ。」
未月がまた叫んだ。すると、あの竜の剣から灼熱の火柱が吹き出し、あたりを赤く照らし出した。轟音を立てながら、剣が、軍配が一振りするたびに、凍気と火の玉が安土の大地を飛び交った。雷があちこちできらめく中、冷気と炎の熾烈な戦いが始まったのだ。
「ほう、さすがだな。お前が入れ知恵をしておったか。やはり、お前を討つしかないということか。」
「…誰だ。」
すると、未月のすぐそばの影の中から、大きな人影が現れた。それと同時に息が凍るほどの冷気が辺りを包んだ。
「おまえ、まさか、銀狼!」
「みんな大混戦で、誰もわしに気付かなかった。お前の命貰い受ける。」
「なにを。」
だが、呪符を取り出そうとした未月は、一瞬で蒼ざめた。手足の自由がきかないのだ。気が付くと目に見えないほどの細かい銀色の針が、手足に何本も突き刺さっているではないか。
「今、話しているうちに、しびれ毒針を飛ばしておいた。もう、動けまい。」
「…気付かなかった…。」
極天魔帝と極武者が冷気と炎の壮絶な戦いを繰り広げる安土の山を背に、稲光を受けながら銀狼は剣を抜いた。
「死ぬがよい。」
だが、銀狼が剣を振り下ろそうとした瞬間、今度は、銀狼の動きが止まった。
「秘儀、影ぬい!」
なんとすぐ真上の小高い枝の上から、銀狼の影に、封印の楔が撃ち込まれたのだ。
「おのれ、そこにもう一人負ったか!」
動きの止まった銀狼の前に何かが飛びおりた。
「鬼流門雷撃槍!」
飛び降りながら空中で眼にもとまらぬ速さで、波流貴が、破邪の槍を銀瑯の胸に突き立てた。破邪の槍は輝きながら、銀狼の胸に大きな風穴を開けていた。
「ぐは…。」
その刹那、その大木に雷が直撃、稲妻が轟き、閃光の中に火柱とともに木が燃え上がった。銀狼はそばに膝をついた。やったか? いや、おかしい。
「心の臓を確かに打ち抜いたはずなのに…。なんでだ。手ごたえがない。お前の体はいったい…。」
「ふふふ、気づかれたか。わしは、秘術によって神像を切り離し別の場所に置いてある。だから不死身なのじゃ。」
銀狼は立ち上がり、波流貴を睨みかえした。影縫いの楔が吹き飛んだ。
「すぐにその場所を突き止め、お前を滅してやる…。」
未月の言葉を銀狼は笑ってかえした。
「ははは、お前たちには無理だ。なぜなら、そこは取りに行けない場所だからだ。ハハハ。」
余裕たっぷりの銀狼の笑い声。それを聞いていた未月の中で、何かがつながった。
極天魔帝は、天魔王信長の意志で動いている…。しかし、極天魔帝は銀狼の言いなりになっている…。そして銀狼の心臓は、取りに行けないところに隠してある。…銀狼の言いなり…。ま、まさか? 心臓の隠し場所とは…!
見るまに銀狼の胸の風穴はふさがって行き、その横で、波流貴は力なく倒れた。
「やられたふりをして、すれちがった瞬間に毒針を打ち込んでおいた。凄い太刀筋であったが…残念であったな。」
だが、剣を構えた銀狼を止める者がいた。
「待つのじゃ、やめたほうが身のためじゃ。」
未月の後ろから一人の公家姿が進み出た。
「ほう、いつぞやの陰陽師か。だが、わしには、おまえの得意な式神も通じない。カラクリ人形も失われてしまったようだな。それとも今から結界をはりにくるか? はは、おぬしには何もできまい。」
「すべては承知の上のこと…。事前に忠告したまでだ。」
「何を? …うぐ、こ、これは…。」
銀狼の剣を持つ手が震え、足がふらふらと定まらない。見れば寂翠の横に白い布に身を隠したもう一人の誰かがいた。
「貴様は誰だ。このような強力な術者がいたとは…。聞いていないぞ…。」
布の中で、その誰かは一心不乱に何かを唱えている。
「お前を滅することはできずとも、近寄ることはかなわぬ…。立ち去るがよい。」
「く、しかたがない、一度引き上げる。だが、すぐに戻る。今度であった時が、おまえたちの本当の最後だ。」
銀狼は怒りに身を震わせながら、影の中へ姿を消していった。亡霊武者たちも一瞬にして消え去った。天外が、奏胤が駆け寄ってきた。
「未月さん…。」
白い布がはらりと落ちて、星照院が姿を現した。銀狼を見て、寂翠が急遽呼び出したのだった。
お市と欅も駆けつけ、未月と波流貴の毒針を抜き、雄山がさっそく薬草で応急手当てをした。
「星照院様…。ありがとうございます。」
「よかった…。未月さん…。」
目の前では、二体の巨神が天地を揺るがす攻防を繰り広げている。
「光秀殿、明智光秀殿はおられるか…、急いで呼んでください」
「ここに…。」
林の奥から、あの銃を持って、光秀が進み出た。
「もう、一刻の猶予もありません。極武者の力を使って、極天魔帝の動きを止めます。だから、そのわずかな間をのがさず、極天魔帝の心臓を打ち抜いてほしいのです。銀狼は、信長様の中に自分の心臓を隠し、極天魔帝を操っているに違いない。」
光秀は、まっすぐに未月を見つめた。
「そういうことだったのですか。しかし、私の破魔銃はあの強大な魔神を打ち抜くことができませんでした。今度はどうしたら…。」
「破魔銃の精霊弾に、鬼流門の破邪の印を施します。お願いできますか。」
「…やらせてください。」
その時、天外が足早に光秀に近付いた。
「白幻城で最後に別れる前に、天輪殿が私に託してくれたものだ。これをぜひ使ってください。」
それは、天輪が真贋や千里眼を使う時に持っていた宝珠だった。
「かたじけない。」
「行きましょう。休んでいたらこの世が終わる。」
二人は歩き始めた。
極天魔帝の周りは、すっかり銀世界となり、すべてが凍りついていた。その周りを駆け回る灼熱の炎の塊、それが極武者だった。
「未月殿、銃の用意が整いました。」
「破邪の印も完了しました。行きます。」
未月は極武者に念を送った。
「極武者、流星炎弾から、鋼樹縛りよ。」
「オウ!」
極武者は、数歩後ろに下がると、魔剣を大きく振りかぶり、掛け声とともに振り下ろした。すると極武者の体中から炎が吹き出し、巨大な火柱が立った。
「五行精霊剣、流星炎弾!」
極武者は剣を構えたまま体当たりするように飛びかかった。巨大な火の玉となって、宙を舞った。それを渦巻く凍れる邪気で受け止めようと身構える極天魔帝、だが、極武者は、そのまま炎とともに極天魔帝にぶつかって行った。
「ウオオオオオオオ!」
炎と凍気が打ち消し合い、ものすごい爆風が辺りに広がった。土煙が銃空の黒雲まで舞い上がり、何本もの竜巻が大地を駆け巡った。
だが次の瞬間、極天魔帝にしがみついた極武者の体から、鋼鉄のような太い枝とつるが伸び、みるみるあたりに絡み付いて行った。
「ううぬ、これは…。」
「光秀殿、今じゃ!」
極天魔帝の体中に鋼鉄の枝が絡み付き、ぎりぎりと締め上げる。だが、極天魔帝も右手を伸ばして腰の宝刀を抜くと、枝やつるを切り離し、自由になろうともがく。縛り上げる鋼鉄の絵だとつる、もがき、打ち震える巨体…。
「見、見えた…。天輪様!」
銃を構えた光秀は、天輪の宝珠を胸に極天魔帝に集中した。すると、巨神の胸のあたりに、禍々しい紫色の光が見えた気がした。
「信長様!」
そして全身全霊の気をこめて引き金を引いた。精霊弾は一直線に空中を突き進み、動きの止まった極天魔帝の胸に近付いて行った。怒りに震え、睨み返す巨神。それだけで、すさまじき魔闘気が押し寄せ、精霊弾の速度が落ち、弾は炎に包まれてゆく手を阻まれる。だが、今度は跳ね返されることはなく、力を弱めながら、巨大な胸に吸い込まれていく…。
「やったか…?」
胸に当たった瞬間、巨神が大きく打ち震えた。極天魔帝の動きが止まったように見えた。
だが、それ以上は何も起こらなかった。
「いったいどうなったのだ。失敗したのか、成功したのか…ン。」
だが、巨神を見守る未月のすぐそばに、またあの怪しい影が姿を現した。
不気味な鈴の音が響いた。冥道衆の僧とともに不敵に現れたのは、魔界将軍銀狼だった。
「ハハハハ、残念だったな。私の体はなんともない。お前たちの目論見は、すべて失敗に終わったのだ。ハハハ。」
「そうかな。では、あの極天魔帝の消えた闘気をどう見る?」
光秀が、銀狼をにらみながら答えた。
「な、なに…?」
その時、極天魔帝の中ではありえないことが起きていた。確かに精霊弾は、心臓の直前で力を失い、止まっていた。だが、その衝撃で、本来の信長の意識が一瞬覚醒したのだ。
銀狼の呪縛から解き放たれたのだ。信長は自分が巨神となり、山や湖を見下ろして、そこに立っているのがわかった。そして、急いで自分に何が起きたのかを思いめぐらした。なんなのだ、これは。自分の心の中にあった、天下布武の野望が、何者かによって加速され、自分では制御できなくなりそうなのがわかった。すべてを超越したい、神仏を超えたいという思いにつけ込み、心を支配しようとする何者かが、今、こうしている間も自分の胸の中に潜んでいることに気付いた。
「お前の好きにはさせぬ。」
誇り高き信長は、右手で抜いた宝刀を自分の胸に押し当てるとそのままぐっと力を入れた。
「誰も、わしの心をもてあそぶこと、だんじてまかりならん。」
そして宝刀で、極天魔帝の胸を、銀狼の心臓ごと貫いたのである。その刹那、上空の光る雲から、ものすごい稲津魔が宝刀に直撃した。
「ばかな、自分で自分を…。」
銀狼が胸を押さえて、倒れこんだ。
「グアアアアアア…わしは不死身だ…。」
それと同時に、極天魔帝の体が崩れ始めた。圧倒的な威圧感や闘気が消え去り、巨大な土人形のようになり、日々が入り、黒い邪気を巻き上げながら崩れ始めた。上空の光る雲から、最後の雷光が瞬き、やがて黒雲とともに消えて行った。
極天魔帝にとどめをさしたのは、誰でもない、信長自身であった…。
魔界の僕たちは、怯えたように姿を消していった。
黒雲が急激に退いて行き、青い空から、日差しが広がって行った。極武者は、そっと離れ、丘の上の未月の方へ歩み出た。
「約束だ。私の命、ほしいのなら持って行け…。」
だが、極武者は静かに答えた。
「久しぶりに存分に戦えて楽しかった。だが、勝てたのはお前のおかげだ。今日のところは、特別に許してやる…。」
その言葉が終わらぬうちに、極武者の体から、上空に向かって、星の光が立ちのぼり、極武者の体は、だんだんと透き通り、やがて消えて行ったのだった…。
一日にして崩れ去った安土城は、稲妻の目撃例と合わさり、雷で焼失とされた。光秀は魔界との戦いの後片付けを行い、十日目に安土を出た。壮絶な十日間であったことを知る者はほとんどいない。光秀は安土を出ると、秀吉と陣をかまえ、わざと敗走することで、自分の書いた筋書きを完成させた。あとは、坂本城に戻り、一族のものを逃がし、自害してすべてを終わらせるつもりであった。だが、坂本城への敗走の途中で、竹槍を持った農民に襲われた。なぜか、その農民は、光秀の刃を難なくうかわし、光秀のみぞおちに鋭い一撃を加えた。
気が付くと、光秀はどこかの寺の本堂に運ばれていた。
「俺は、死んだのか。」
すると、あの竹槍を持っていた農民が枕元にいて、ほっかむりをはずしながら言った。
「明智光秀は死にました。もう、この世にはいない。」
「て、天外殿! これはいったいどういうことですか。」
農民に変装をしていたのは、誰でもない、風水剣士、坂本天外であった。通りで、簡単にこちらがやられてしまったわけだ。するとそこにもう一人が入ってきた。
「気が付かれたようですね。さっそくこちらにお着替えください。今日からあなたは、天かに名高い風水僧侶です。」
奏胤であった。暗いの高い、僧侶の衣を差し出す。天外が静かに話し出した。
「すべては、海の法師様のご意志です。天輪殿のご遺志でもあります。ご安心ください。坂本城の明智一族は、坂本一族の手によって、全員ひそかに城から連れ出しました。この先、四国に逃れ、そこで一族再興をはかります。」
「す、すまぬ。」
「天輪殿は最期に後継者として光秀殿を指名された。わたしも、あなたが最もふさわしいと賛同します。そこで、天輪殿は、あなたに、一族の後継者として、天の一字を贈ると申しておりました。」
奏胤が、さらに続けた。
「天下が本当に落ち着くまでには、まだしばらくかかりそうです。われらを統率する三法師の方々もまだまだ心をひきしめていかねばならぬと…。そして、この琵琶湖を守っておられる海の法師様があなたに仕事を引き継いでほしいと申しておられます。いかがでしょうか。」
「海の法師様が…。私のような者でよければ、お手伝いを…。」
「それはよかった。実は、海の法師も、海の文字を引き継いでほしいと申しております。」
「…天輪の天の文字と、海の文字ですか…。」
すると、奏胤は静かに頭を下げた。
「平和な世をつくるため、今一度ご尽力ください。今日からあなたは、天海様です。」
時代はさらに新しいうねりを持って動き出したのだ。
星照院西妙寺は、また朝早くから久しぶりに老若男女でにぎわっていた。炊き出しの湯気が立ち上り、生き仏を近くで見ようと、たくさんの人々が詰めかける。雄山の診療所には早くも長い行列ができ、お市や未月がてきぱきと働いていた。最近は時々山門の前に、市が立つようになり、久太郎の織物や、大門たち、出入りの絵師たちも品物を並べる。
にぎやかな音楽が聞こえ、見れば旅から帰ってきた猿楽師の正が久しぶりの公演だ。
皆、何事もなかったように、励まし合い、微笑み合い、家族のように支え合っていた。
やがて、人々の前に、美しい尼僧がおごそかに姿を現す。寺男の宗助とともに現れた星照院は、皆の前に立つと力強く語り始めた。
「生きることも運命、死ぬことも運命。ただ私たちはその中にあって、何をすべきか、何ができるか、ということです。ともに…生きましょう。力いっぱいともに生きていきましょう。」
今日も、新しい一日がこうして始まった。
信長魔神伝 セイン葉山 @seinsein
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