赤いきつねと緑のたぬき
きょんきょん
始まる時間
沈黙を破るように火にかけていた薬缶がちんちん鳴りはじめた。
僕がやるよ――そう口にしようとして膝に手を置くと、見計らっていたように義姉さんは「いいよ、私がやるから」と炬燵から立ち上がる。
血の繋がりもないのに、こうして共に暮らすようになって二年目になるけど、今でも僕は彼女のことを名前で呼ぶ事ができない。
呼んでしまうことは、自己嫌悪と後ろめたさを覚えてしまうから。
キッチンに立つ義姉さんの背中は、あの日から二年経った今も喪に服しているように暗い影を背負っている。
俯きながら容器の中にお湯を注いでいる姿が、ふと泣いているように見えたのは気のせいではないはず。
悲しみに暮れる背中を抱きしめてあげることが出来たならば――
そんな浅ましい気持ちを抱いてしまう回数は一度や二度ではなかった。劣情を抱いてしまう自分が情けなく、なにより兄貴に対して最大の裏切りにあたるのでは、と罪の意識さえ感じてしまう。
だからこそ、義弟というポジションを甘んじて受け入れるつもりだった。この奇妙な共同生活が終わりを告げるその時まで、義姉さんに新しい季節がやってくるその時までは。
小鼻が何かを嗅ぎ取る。
消化不良の気持ちをゆっくり解くような、お腹を空かせる匂い。その匂いを辿ると、『赤いきつね』と『緑のたぬき』が天板の上に置かれ、僕に緑のたぬきが与えられた。
面倒な準備なんて一切ない。
お湯を注げば完成する手軽なインスタントカップ麺だけど、義姉さんにしてみればそんな手軽さよりも、今は亡き兄貴との思い出がぎっしりと詰まった大事なアルバムの役目を果たしているのかもしれない。
「もうすぐ年が明けるね」
「うん……そうだね」
蓋を開ける三分間がもどかしい。
――なぁ、兄貴……なんで義姉さんを遺して死んじまったんだよ。よりにもよって大晦日に事故に遭うなんて、どんだけついてねえんだ。おい……バカ兄貴……俺じゃあ義姉さんの力になれないよ。どうしてくれるんだよ。
残り数分で兄貴が不慮の事故で亡くなってから三回目の年越しを迎えることになるけど、義姉さんの時間は二年前のあの日で止まったままだ。
時計の針は未だに止まったまま。
「俺の代わりに……
なあ、兄貴。俺の気持ちに気付いて最後にそんな願いを託したのか? 俺が、義姉さんの事を――
「さあ、食べましょう」
そう言って先に蓋を開けた義姉さんの赤いきつねを、なにを思ったのか僕は横取りするように奪い取った。
まさかの行動に驚いていたのは僕の方だった。
「え? もしかして緑のたぬきは嫌い?」
咄嗟の行動に自分が一番戸惑っていたけど、こうなったらもうヤケだ! と火傷をするような湯気の向こうでキョトンとしている彼女に思い切って告げた。
「これからは僕が赤いきつねを食べます」
「えっと……なんでかな?」
「兄貴って赤いきつねが好きでしたよね」
「そうだけど、それがどうしたの」
「もう兄貴はいないから、だから僕が兄貴の代わりに翠さんを支えたいんです」
絶対に赤いきつねしか選ばなかった兄貴の代わり――とうとう勢いで思いの丈を伝えてしまった。伝えてしまうと意外なほどにあっけないけど、直後から心臓がちんちんに鳴って喧しくて敵わない。
きっと、今は何よりも顔が真っ赤に染まっていることだろう。
義姉さんはまさかの告白に視線を彷徨わせ、意味もなく炬燵布団を一通り弄ると、意を決したように僕を正面から見据えて深く頭を下げた。
「えっと、その、ごめんなさい」
あっさりとフラレてしまった。
麺が伸びる暇もなく。
「あ、そ、そうですよね。馬鹿なこと言ってごめんなさい。今の台詞は忘れてくれていいですから」
無理して笑わないと堪えるのに限界だった。ぼやける視界が湯気のせいでないことは自分がよくわかっている。
「あのね、代わりなんて求めてない。もういい加減前を向かないとね」
そう言うと再び赤いきつねを取り戻して、勢いよく食べ始めた。啜って啜って、一心不乱に啜って、呆気に取られてその様を眺めているとあっという間に食べ終えて「ご馳走さま」と両手を合わせた。
その姿は祈りを捧げているようにも見える。
「知ってる? 私って赤いきつね派なんだよ」
「そう、なんですか……」
「だから、その……お互い知らないことが多いだろうし、これからゆっくりと理解していこうよ」
それって――言葉の真意を尋ねる前に、義姉さんの、翠さんの赤く染まった微笑みを見た瞬間、時が動き出す針の音が聴こえた。
外では新年を迎えたことを告げる除夜の鐘がいつまでも鳴り響いていた。
赤いきつねと緑のたぬき きょんきょん @kyosuke11920212
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