21時53分~00時00分

 二軒目。ちなみに、串揚げとビールがうまい店の、名物はアスパラガスを一本丸ごと使ったジャンボアスパラ豚肉巻き。


「また熱燗にするの? 大丈夫なの?」

「信じていなくとも、神社の娘だから御神酒というものにこだわりがあるので。キリスト教だって神の血がどうだとか言うでしょ」

「そうだけど、僕はビールにするよ。串揚げに合うし」

「じゃああたしもビールにする。かけつけ一杯」

「かけつけってそういう用法じゃないような……まあいいや」

「まあいいの。さて、注文。今の時代は何でもタッチパネルからできるようになって、便利よね。昔は居酒屋で注文するのに店員を呼ぶのはなかなか面倒なものだったって父さんが言ってたけど」

「へええ。昔のことってよく分からないな。お、きたきた。……それじゃ、乾杯」

「乾杯。幽月君ってさ、『源氏物語』で一番好きなキャラクターは誰?」

「源氏物語を読んでるかどうか、じゃなくて、そこから踏み込んでくるんだ」

「あたしたち文芸サークルなんだよ。基礎教養でしょ」

「まあそうだけど。葵の上かな」

「年上ツンデレかー」

「あの一瞬の光芒みたいな、デレてからの葵の上が好き。速攻で死ぬけど。梅華さんは?」

末摘花すえつむはな

「またなんとも微妙なところを」

「文字通りの意味で何の取柄もない女の子が、こけの一念だけで、あの人類文学史に燦然と輝く究極のイケメンスパダリ、光る君のヒロインの一角を射止めるんだよ? つよつよだと思わない?」

「それはそう。六条御息所とかにもスルーされてるし、無我ゆえの強さみたいなものがあるね」

「いまの、ものすごくさりげないけど『ハンター×ハンター』のネタ?」

「よく気付いたね。モントゥトゥユピーに関する地の文の説明。『無我ゆえの強さ』」

「おそろしく速い手刀。オレでなきゃ見逃しちゃうね」

「それは有名なネタだね。ハンターでは誰が一番好き?」

「ヒソカ=モロウ」

「ちゃんとフルネーム呼びなあたりが通だね」

「幽月君は?」

「ゴレイヌ」

「ごっ……ゴレイヌ? グリードアイランド編に出てくる、あのゴレイヌ?」

「選挙編にもちらっとだけ出てるよ。あれでもプロハンターだから彼」

「ごめん申し訳ないけど、あれの何がいいの? 白い方のゴリラ? 黒い方のゴリラ?」

「ああ見えてガッツがあって、レイザー相手に一本取りに行こうとして実際取っちゃうあたりとかがすごく燃える。凡人で脇役のくせに頑張ってるやつ好き。デコース=ワイズメルとかさ」

「デコースかー。暇を持て余した神々の遊びみたいな『ファイブスター物語』の中で、頑張ってるよね、あいつ。ただの凡人だけど究極の凡人、っていう」

「うむ。君、よくこの話題の飛び方についてこれるね、LINEとかならまだしも対面で」

「ふふ。趣味が合うのかもね?」

「そうかも。じゃあ、文芸の話に戻るけど、中島敦で一番好きな作品は?」

「君も、読んでるかどうか、をスルーしてそこから入ってくるんだ」

「山月記くらいはみんな読んでるからね。ちなみに僕は『弟子』。子路がすごく好き」

「あたしは『狐憑』かな。中島敦って自己投影的な作品が多いけど、あれはトップクラスだよね。『光と風と夢』も凄いけど」

「なんていうか、自身も文学者である中島敦の、文学と言うものに対するシビアな目線がいいよね。狐憑は」

「ところで、ねぇ。突然だけど、恋愛の帰結はセックスであるに過ぎないっていう考え方、幽月君はどう思う?」


 僕はビールを噴きそうになったが、堪えた。


「本当に突然だな。まあ、それが事実だけど。でも、それだけだと少し寂しいかな。それ以外にも色々あるでしょ、男と女の間でもさ。恋の駆け引きだってそうだし。セックスを目的に駆け引きをするんじゃなくて、駆け引きを目的にセックスをする、みたいな関係だってあるんだよ」

「あると思う、じゃなくて、あるんだ、ってことは、経験あるんだ? そういうコミュニケーションの」

「ま、あるかもしれない、とだけ言っておくよ」

「じゃあ、せっかくだからもう一発。セックスは恋愛のためのコミュニケーションの一手段に過ぎない、って考え方はどう思う?」


 どうも意図的に僕を動揺させようとしているらしいが、二度も同じ手には引っかからない。僕は大ぶりなアスパラガスを齧りながら言う。


「ある意味では正しいけど、それは安易な考え方だと思う。そういう側面があるのは確かだけど、『過ぎない』は言い過ぎ。性交渉の実際的なリスクを軽く見積もりすぎてる。男はまだしも、女性の側が負わなければならない負担って、色々の面で決して小さくはないから」

「でもさ、さっきも言ったけど、あたしは人と人の間に断絶があるなんて考え方はしたくないし、コミュニケーションを阻害するようなものは、例えば性に関する道徳みたいなものだって、なるべくなら排除したい。道徳なんて、ただの夾雑物きょうざつぶつだよ」

「僕はそんな古風なキリスト教徒じゃないから、あれはだめだこれはだめだみたいなピューリタニックな性道徳に同調するわけではないけどさ。でも、だめだよ。性に関するそれに限ったことじゃないけど、人と人の間に、道と徳は絶対に必要だと思う。だって、人間と人間の心は絶対に交わらないから。絶対に重なり合うことはなくて、永遠という名の断絶の前で少しずつ手を伸ばし合って、やっと少しだけ指を触れあうことができる、その程度のものだから。お互いがお互いに傷を負わせないための方策がどうしたって必要で、それが道徳という名前で呼ばれているんだと思う」

「じゃあ、もし仮にあたしが手を伸ばしたとしても、君はその手を取ってはくれないの?」

「物理的に伸ばした手は物理的に取れるけどさ。僕が言ってるのはそういうことじゃないんだが」

「それは具体的にはどういうこと?」

「君には僕の心がどこにあるのかは見えないでしょ? いや、脳の中にあるとか、心臓にあるとか、そういう具体的な話じゃなくて、もっと比喩的な意味でさ。だから、どちらに向かって手を伸ばせば僕に対して届くのか、それが梅華さんには分からないというのが話の前提だし、もちろん僕にも、梅華さんの心がどこにあるのかは分からない」


 そう言うと、彼女はうつむいた。


「……やっぱり、幽月君の考え方は、寂しいな。もしも必ず手を伸ばせば届くものが一つあるとしたら、それは人間において何であるかと言えば、肉体そのものでしょ? セックスは恋愛におけるもっとも重要なコミュニケーションで、その一手段である、というのはつまりそういうことなんだと思う。心に手が届かないとしても、身体とまったく繋がっていない心なんて存在しないし、確かに手を伸ばせば届く心の付属品っていうのは、つまり肉体のことだと思うから」

「寂しいからって理由で、そしてそれは届くものだからって理由で、男と気軽に寝るのはお勧めできないな。もちろんこの人間の世界で、そういう女性は、いや男もかな、別に珍しくはないけどさ」

「でも……あたしは相手を選んでいないわけじゃないよ? だって、誰にでもこんな話するわけじゃないもん。ていうより、こんな風に心を晒す事ができる相手は、これまでの人生で幽月君が初めてかもしれない。……っと、ちょっとお花摘んでくるね」

「はい」


 僕は時計を見た。23時を回ったところだった。駅までの時間などを考えるにしても、もう少しここで話をする時間はあるし、かといってここを出て駅に向かう前に他の場所に寄っている時間はない、その程度の時間だ。


「ただいま。で、何の話だったっけ」

「梅華さんの今までの人生」

「あたしは中学から高校まで、中高一貫の女子校でした」

「そんな学校あるんだ」

「はい。そんな学校が今の日本にもあるのです。で、そんな環境でもちろん彼氏など作れませんでした」

「誰も立候補する人、いなかったの? そのルックスで」

「……いなくはなかった。でも」

「でも?」

「あたしが相手の彼女に立候補したくなる相手とそれが重なることはなかった」

「なるほど」

「言うほど軽くはないって、分かってくれた?」

「うん。さっき少し失礼なことを言ったかもしれない。ごめん」

「ううん、いい。で、もうちょっとだけお話ししたいな。恋バナ仕掛けていい?」

「いいけど。君もするんだよ?」

「うん。幽月君の今までで一番好きだった相手って、どんな子だった?」

「すっごい美少女でわがままでナルシストで、どうしようもない女だった」

「そんな感じの人がタイプなの?」

「いや、全然。でも、恋ってのは突き詰めるとそんなものだから」

「そうなの?」

「うん。愛はそうでもないけど、恋ってのは本当になんていうか、にわか雨みたいに急に来て、傘をさす間もないうちに襲い掛かって、風のように去っていくんだよね」

「あたしはそんな恋、したことない……かな。初恋はお兄ちゃんだったし」

「二番目は?」

「大学に入ってから」

「めちゃくちゃ最近じゃん」

「そうなの。すごく気になってるし、今もドキドキしてる」


 さすがにこの流れでこうと言われて、『それ誰?』などと言い出すほど僕も野暮ではない。


「時間が時間だから、ラストのドリンク追加しようかな。えーと、『鍛高譚 ストレート ダブル』と」

「あ、ウーロン茶入力しといて。僕はちょっとお手洗い」

「うん」


 このあとの流れについて、考える。数パターンは考えられる。しかし、知り合ったのは事実上、今日だ。何も無暗に初日から推していかなくてもいいだろう。そう思ったのだが、席に戻ると。梅華さんがストレートの焼酎をぐいっと一気飲みしたところであった。


「うい。……で、ね。その。えーと」

「なに?」

「きょう、さっき、前の店で、人間は絶対的に孤独だとか、分かり合えないとか、そんな話をいっぱいしたけどさ。幽月君とあたしの間にも、その絶対的な断絶ってやつが、横たわってるのかな」

「そうだよ」


 僕は即答する。これは信念の問題なので、揺らがない。


「あたしがそれを乗り越えようとして、手を伸ばしたら……どうなる?」

「僕は必死で、君の心がどこにあるのかを探すと思う」

「必死にならなくても、いいと思うよ。あたしはここにいる」

「……そうか。ところで」

「うん?」

「多分、そろそろ会計に向かわないと、終電が間に合わない」

「あ」

「だから今のうちに言っておくけど、梅華さんのファースト・ボーイフレンドに立候補していい?」

「……っ!」


 明らかに自分から僕がこう言うように仕向けてきたくせに、彼女はめちゃくちゃ真っ赤になった。面白い。


「じゃ、じゃあ。あたしも幽月君のラスト・ガールフレンドに立候補するね?」


 ……Lastという単語には、『最新の』というのと同時に、もちろん『最後の』という含意もある。むしろそっちの方が主なわけだが、その点についてあまり深読みをするのはよそう。


「じゃ、決まり。付き合おう」

「うん」

「じゃ、会計済ませるね」


 で、駅まで送っていったのだが。


「あれ?」


 電光掲示で、『本日の運行は終了しました』と出ていた。僕は時計を見た。まだ00時07分にはなっていない。ぎりぎり日付が変わるよりも前である。西武池袋線の改札は東口からならすぐだから、ぎりぎり間に合うタイミングで駅に来たのだが。


「もしかしてだけど、今日が土曜日で、ダイヤがいつもと違うってのはちゃんと踏まえてた?」

「えっ?」

「やっぱりそれか」

「ふぇ」


 正直、これを言うべきかどうかは僕でもかなり逡巡があるのだが、それでも言わないわけにはいかない流れなので言った。


「うち、近くだけど、来る?」

「付き合い始めたその日、それも付き合い始めたその十分後くらいに、付き合い始めて十分のその女を家に連れ込むの? さすがにそれはどうかと、あたしは思うし、君も思ってるよね?」

「うん。でもここに放り出して一人で帰るわけにもいかないし」

「ありがと。でもさ」

「でも?」

「付き合い始めてその日のうちはだめだけど、二日目ならぎりぎりセーフかもしれない」

「そうかなあ」

「で、あと九秒で、二日目になります。……5、4、3、2、1、0」

「本当にその理屈でいいの? 後悔しない?」

「あたしが後悔するようなことするつもりなの?」


 そりゃもうばっちりしたいと思ってはいるわけだが、僕はこう言った。


「いや、まさかそんな。付き合い始めて二日目だよ、僕らは」

「そうよね。二日目だからセーフという考え方もあるし、二日目だからアウトという考え方もあるし、その二つは観測することによってしか収束しないよね。じゃあ行く」

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