はたとせぶんの幸せを

外清内ダク

はたとせぶんの幸せを



 何かないかと冷蔵庫をあさっても料理なんてできないし、コンビニ行くためだけに喪服を着替えるのも面倒だし、はたと思いついて戸棚を開いてやっと見つけたのはカップ麺の備蓄。さんざん焼香の匂いを嗅がされた今日はラーメンよりも和風の気分。それで結局、赤いきつねか緑のたぬきか2択だったのだ。

「どっちがいい? 赤か、緑か」

 妻の声が耳の裏から聞こえた気がして、俺はひどく不機嫌になる。

 赤なら5分。緑は3分。どうでもいいや、早く済ませたい。緑のフタをめくり、めくってからお湯の準備がないことに気付き、慌ててポットに水をくむ。段取りの悪さに我ながら呆れる。湯が沸くのを待つ間、湯を注いでから待つ間、ダイニングの椅子に沈むように座り込み、俺は向かいの席を見る。

 こんなところにえるには不釣り合いな薄桃色の骨袋が、いやでも視界に入ってしまう。

 でも、この家の中で彼女の居場所は、あの席しか思いつかなかった。

 今の俺には、3分間が地獄の責め苦のように長い。俺はスマホのタイマーが残り30秒を切ったところでもうフタを剥ぎ取ってしまった。大丈夫だろ。食べてる間に30秒くらいすぐに経つ。大丈夫だろ。少し麺が固いくらい。熱すぎる湯気にメガネが曇るのも構わず、俺は固めのソバをすすり上げる。ほらな。美味いじゃないか。いつ食べたって美味いものは美味いんだ。少し早すぎるくらいがなんだ。あ、天ぷら乗せるの忘れてた。

「あんまり湿らせないの、好きだよねえ」

 そう妻が興味深げに俺のたぬきをのぞき込んできたのは、いつのことだっけ。ダイニングのテーブルを新しくする前だから5年くらい昔か。あの時は彼女が食べてたのもおそろいの緑で、天ぷらの芯まで出汁が染みて崩れ出すくらいまで浸していた。

「私はねー、このくらいが好きなんだ。大学の学食にはいからうどんってあったじゃない? あのくらいたっぷり染み込ませてね」

 俺はまだ固い天ぷらに噛みついた。

 歯ごたえがあって、ざくざくしてて、最高だ。天ぷらはこうでないと。俺はせっかちで、早食いで、何もかもがのんびりしてた彼女とは正反対だ。なにが食べてるうちに30秒経つだ。タイマーが鳴り出したのは汁まで半分飲んでしまった後。

 ぜんぜん足りやしない。

 俺は再び立ち上がり、きつねのほうを引っ張り出した。今度は段取りよくやるぞ。先にお湯の準備からだ。フタを半分はがして、粉スープを中にあけて、準備万端。電気ポットなら湯を沸かすのもあっという間だ。注いで待つ5分間。骨壺は、すばらしく美しい紐の結び目をこちらへ向けて、じっと彼女の席から俺を見ている。

「たーまごたまご、たーまーごー! 見てこれ、なんか……いい卵だって! 値段3倍くらいするやつ」

 俺はタイマーが4:14から4:13に切り替わるのを大事件でも目撃したかのように眼を引き剝いて睨んでいる。

「いや、これね、昔からみんなにおかしいって言われるんだけどね、私は月見ときつねの合わせ技一本が大好きなんですなー! 見て見てこの黄身のぷっくり盛り上がって元気なこと! やってみる?」

 冷蔵庫を開く。2つ残っていた卵を2つとも取り出しかけて、思いとどまり、片方だけを掴む。テーブルに置いた卵をつついたり、転がしたり、子猫が遊ぶみたいにおもちゃにしているうち、5分はいつのまにか過ぎていた。湯気を立てるきつねの上に生卵をひと落とし。油揚げにもうどんにも卵をからめ、掻き込むように口にする。

「幸せだねえ」

 妻は熱い油揚げで口の中をほこほこさせながらそうこぼした。

「ね?」

 俺はなんて答えたんだっけ。

 覚えてないよ。10年も前だ。

 油揚げを噛めば染み出る出汁の香りに、黄身のとろけるような旨味がまざり、うどんの熱と一緒に腹に落ちれば、まるでそこから温もりが体中に染みわたっていくようだ。俺はシャツのボタンをひとつ空け、袖をめくりあげて空気に晒した。暖房もつけていない冬の我が家の寒々しい空気が、ほてった肌にはむしろ心地よい。俺は食べる。食べる。夢中で食べる。きつねは二口でなくなった。麺はいつのまにか箸で探っても見つからなくなった。5分間待つ幸せ。2分間食べる幸せ。

 短すぎるよ。足りるわけない。

 俺は椅子を蹴って立ち上がった。戸棚を乱暴に引き開け、中に整然と積まれていたたぬきときつねを残らず全部引きずり出した。たぬきが3つ。きつねは5つ。ポットに満々に水を汲み、カップのフタを次々開き、片っ端から湯を入れる。たぬきは3分。きつねは5分。タイマーなんかどうでもいい。目分量だ。感覚だ。たぶんもう大丈夫だとアタリをつけたカップを引き寄せ、俺は猛然と食べ始める。まだ固いソバが喉を通って俺に入る。汁の染みてもいないきつねが俺の奥歯に噛み千切られる。「美味しいねえ」彼女が笑う。「もう一個食べたいなー?」彼女が甘える。俺は知らなかった。気付いてなかった。20年、一緒に暮らして20年、ずっと幸せだったのに、いっしょにきつねもたぬきも何度も何度も食べて来たのに、それがどんなに価値あることか、俺は今の今まで全く分かっていなかった。

 「愛してた」なんてささやいても、もう手遅れだというのに!!

 やけくそになって俺は喰う。この家に残った彼女の痕跡を。毎日の、ささやかな、ほんのちょっぴりの思い出の中に、積もり、積もって、俺ひとりの胸を生涯いっぱいにしてしまうほどの大山となった、二十年はたとせぶんの幸せを。

「ごちそうさま」

 すっかり食い尽くした10個の空カップ、その向こうでじっと微笑んでる彼女の骨壺へ向かって、俺はそっと手を合わせる。

「愛してた。

 愛してる。

 愛していくよ。

 これからも……ずっと」



THE END.

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