花嵐の橋

海凪ととかる@沈没ライフ

花嵐の橋

 4月。陽射しは暖かいが窓から吹き込む風はまだ少し肌寒い。妻に昼のリクエストを聞いてみると「赤いきつね!」と満面の笑みで答えてきたので準備している。


 しゅんしゅんと音を立てるケトルを火から外し、お馴染みの赤い紙蓋を開けて、粉末スープを入れてお湯を注ぎ、タイマーを3分セットする。コンビニ限定バージョンだと『お揚げ』が2枚入っているとは知らなかった。妻はお揚げが好きだから喜ぶだろう。


 料理好きで色々な凝ったメニューで家族の食卓を楽しませてくれた妻だったが、意外とカップ麺なんかも好きで、中でも赤いきつねは若い頃から好きだった。


――ピピピピ……ピピピピ……


 タイマーの音に現実に引き戻され、紙蓋を剥がせば、出汁を吸って膨らんだ2枚のお揚げとビー玉サイズの黄色いたまご? と薄いカマボコが麺を覆い隠している。それらを退けながら箸で麺とスープと七味を混ぜ、トレイに乗せて妻の部屋に運ぶ。


 日当たりのいい妻の部屋。開け放たれた窓から吹き込む風がカーテンを躍らせ、ベッドに半身を起こした妻は髪を三つ編みにするのに一生懸命だった。まるで少女のように。

 ベッドの上に簡易テーブルをセットして赤いきつねを置く。


「お待たせ。麺がのびる前に食べて」


「あら! お揚げが2枚も入っているわ! 私これ大好きだから嬉しいわ」


「そうか。それはよかった」


 妻は嬉しそうに手を合わせて「いただきます」とつぶやき、箸で摘まんだお揚げにはむっとかぶりつく。


「……はー、美味しい。お出汁をたっぷり吸った甘いお揚げがやっぱり最高ね」


 何十年も変わらない嬉しそうな表情といつもの感想。

 アルツハイマーを患い、妻、また母としての記憶を無くし、長年連れ添ってきた私のこともかかりつけの医者ぐらいにしか思っていない彼女だが、40年以上変わらずにある赤いきつねを食べる時の反応はいつも同じで、それが嬉しくもあり寂しくもある。


 続いて麺を啜ろうとした彼女の手が止まる。


「うふふ。ねえ、見て」


「ん? ああ」


 外から舞い込んできたのだろう。出汁の上に桜の花びらが浮かんでいた。


「今は桜の時期なのね。わたし、桜が好きなの。見に行きたいわ」


「そうか。じゃあ、食事が済んだら外に桜を見に行こうか」



 近所の小川の川岸は桜が満開で、私は妻の車椅子を押しながら川に架かる小さな橋を渡っていた。

 突然の強風で散り乱れた花びらが私たちの周りで舞い踊り、不意に古い記憶がよみがえる。

 昔、私たちがまだ学生の頃、この橋の上で同じように桜吹雪に見舞われたことがあった。その時、セーラー服に三つ編みのお下げだった彼女は確か……。


「ねえ、知ってる? こんなふうに風で桜の花びらが散り乱れることを花嵐っていうのよ」


「――っ!」


 一語一句、あの時と同じ無邪気な笑顔に、熱い感情の固まりがこみ上げてくる。

 

――ああ、知ってるよ。……ずっと昔、君が教えてくれたんだ。



                   Fin.

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