第29話 人狼の能力
太陽の色が随分と朱色へと変わった。下山する時間も考えると、この山頂に留まっていられるのも、残り僅かだろう。
風が揺らした木の葉が擦れる音を聴きながら、バルドはゆっくりと視線を動かす。
少し離れた場所で、裕介とアルノーが遊んでいる。片や人間で、片や白い小さな狼。その光景はドッグランで子犬が飼い主を追いかけている様にも似ているが、違いはどちらともからも、楽しそうな笑い声が聞こえてくることだ。
ぼんやりとその二人を眺め、記憶の奥底に仕舞い込んだ思い出が蘇ってくる感覚を味わう。
かつてバルドは、同じようなシーンを目にしたことがあった。百三十年前の、白森での記憶。狼の子供たちと、戯れる人間……。ずっとずっと、この目で見つめていたいと、乞い願う光景だった。
「ユースケは変わった人間だ」
隣で伏せた体勢でいるシェーンヘルデンの声に、バルドはハッとして意識をこの場に戻した。
横目でシェーンヘルデンを見遣ると、彼の狼の顔も少しだけ柔らかく見えた。シェーンヘルデンもその心に何らかの感情を抱えて、裕介とアルノーを見守っていたのだろう。
「我らの正体を知っても尚、恐れはしないと」
「アイツは身を持って、吸血鬼を知っているからな」
バルドの言葉を聞いて、シェーンヘルデンは不思議そうにこちらを見返してきた。
入れ代わりのことは、今は説明する気はなかった。どうせ事情などお構い無しに起こる現象だ。シェーンヘルデンに見せて証明した方が早い。何より彼らが由鶴岳を発ち、バルドたちと別れるまでに入れ代わりが起きないことも考えられる。それならシェーンヘルデンたちには、この情報は要らないものだとバルドは思っていた。
「そしてアイツは、人間によって虐げられた人間だ。だからこそ、俺たちのような化け物でも、人間よりは信じやすいのだろうな」
いじめ、実の兄からの圧力。理不尽に虐げられてきた裕介は本人が気づかない内に、その考えがバルドやアルノーたちの方へ片寄り気味になっている。先ほどの『全ての災いの元は、人間』という発言がいい例だ。
「貴方がまた人間に肩入れをするとは」
「はぁ?」
シェーンヘルデンの声色には、ほんの少しだけ楽しむような感情が込められていた。
「私には分かるぞ、バルドゥイーン殿。“あの御方”との別れの後、貴方は恐らく長い間、人間とは関わって来なかった。それがどうやら、ユースケだけは特別のようだ」
言い当てられて、バルドは不服そうにシェーンヘルデンを睨んだ。
百三十年前、バルドが決別したのは、モーントリヒトだけではない。もう一人だけいた。それは、人間。
白森で過ごした十年間。バルドの傍には、モーントリヒトとその人間、そして多くの狼たちがいた。特にバルドとモーントリヒト、その一人の人間は、確かな友情で堅く結ばれていたのである。
「ユースケから離れぬ理由は情か?」
「フンッ。情などあるものか」
情など、ないはずだ。まだ出会って間もない。しかも情が沸くような、正常な交流などしていない。訳の分からない入れ代わりという現象が起こるのだから。
モーントリヒトとあの人間に抱いたような感情は、きっと裕介には向いていない。向いていないと、自分に言い聞かせる。そうでなければ、全てが解決した後の別れが。この縁が切れた後の別れが、身を裂くような苦しみとなるに違いないから。もう二度と、その苦しみに堪えられるとは思えなかった。
「俺のことはいい。お前はどうなんだ? 俺が白森を去った時、お前はまだチビだった。覚醒はいつだ?」
バルドの問いに、シェーンヘルデンの視線はまたアルノーへ向いた。
アルノーは裕介の膝の上に座り、二人で夕日を眺めている。
「貴方が白森を発ち、ひと月と経たぬ内に。それからまたひと月で、今の姿となった」
シェーンヘルデンが覚醒して、成長しきるまでに要した期間はたったの二ヶ月か。そのことに驚いたバルドは、小さく目を見開いた。
覚醒の時期に個々で差があるように、成長する速度にもまた差がある。白森にいた頃、覚醒した人狼を目にすることは度々あったが、シェーンヘルデン程の速さで成長する者は、バルドは知らなかった。
「一重に、モーントリヒトのお役に立ちたいという思いだけであった。唯一無二の友と別れ、慈愛を示していた人間も去った。モーントリヒトの高貴な姿は変わらなかったが、内に渦巻く落胆は見て取れたものだ」
バルドも友と別れたが、裏に返せばモーントリヒトも同じだ。そしてあの人間も。三つの存在は確かに友情で結ばれていた筈なのに、唯一つの悪意によって切り離されてしまった。
「貴方たちの代わりというには烏滸がましい。ならば些少ながらもこの身も心も捧げ、モーントリヒトの傍らに立ち、添木となると誓った」
シェーンヘルデンはどこまでも。その全てが忠義の塊のような存在だ。
雄大な狼へと成長した理由も、頑強な意思も、全てがモーントリヒトの為に。そして現在は、アルノーの為に。
銀の毛並みが、風に靡く。モーントリヒトのように目に見える月光はないが、その身の内には確実に宿ると分かる、モーントリヒトから分け与えられた美しい光。その月光は脈々と、モーントリヒトの意思と共に、シェーンヘルデンにも祖先から受け継がれている。
「――モーントリヒトへのそこまでの忠心がありながら、お前は非情にはなりきれないと見える」
アルノーを見つめるシェーンヘルデンの瑠璃色の瞳を、バルドは静かで穏やかな心で眺めた。
「ユースケへの俺の情を、よくもからかったな。シェーンヘルデン、アルノーの覚醒が遅れているのは、お前が原因ではないのか?」
シェーンヘルデン程の存在が傍にいて、アルノーが足踏みをしている理由とは。
口や態度で厳しく接し、アルノーの精神の成長を促しているにも関わらず、アルノーは未だ幼い。シェーンヘルデンのような、強く大きな保護者、指標たる存在がいるのに。それはきっと、シェーンヘルデンの中に、彼らしからぬ迷いがあるからだ。
「私も未だ、未熟であるということだ。バルドゥイーン殿」
シェーンヘルデンは、その狼の表情を僅かに自虐で染めた。
「お前の頭の堅さは、狼の中でも随一だな」
呆れとも哀れみとも取れる言葉を、バルドが紡ぐ。
アルノーの運命もそれは過酷なものだと察するが、シェーンヘルデンの心境だって同じだ。揺れ動き、迷い、それでも止まることは自分自身が赦せない。ただただモーントリヒトへの忠心と、ゲオルクへの怒りで自らに鞭を打ち、ずっと駆け続けている。闇を追うように、そして闇から逃げるように。
アルノーが背負うものは大きい。そしてシェーンヘルデンが抱えるものは、そのアルノーだ。
「――モルガーナの情報は?」
バルドが問うと、シェーンヘルデンの纏う空気が変わった。
「一時はルーマニア付近にて目撃されている。現在はまた、イタリアに留まっているようだ」
「ローマか。あの女には、古い都の地下の穴蔵が似合いだな」
バルドは鼻で嘲笑し、モルガーナの姿を想像して空中を睨み付けた。
「貴方は日本に留まり、どれほどの月日を過ごされた?」
「二十年だ」
人間の世は、余りにも早く移り変わる。バルドが日本で過ごした二十年で、この国もまた多くの変化を起こした。しかしバルドにとって、それは関わりのない隣人の変化のような物で、人間との関わりを断っていたことによって、大した興味もないことだった。
「この二十年で、日本では吸血鬼と
しかしそれはそれで、束の間の平穏となっていた。
誰もバルドに目を向けない。誰もバルドを追って来ない。時折沸き上がる吸血欲求に、人間の血を僅かに啜って生き延びる。そんなことを繰り返しながら、闇と影の中に潜んでいた。
唐突に終わりを告げた静かな日々。裕介と出会ったことで、バルドの運命もまた、歯車を回して動き始めた。
「我が
「便利なものだな、人狼の能力とは」
バルドの言葉の後、シェーンヘルデンは少しだけ鼻先を上向けた。
目は遠くを見つめ、集中しているように見える。その姿は先ほどの巨石の上に乗っていた時と似ていて、あの時も同じ能力を使っていたのだと分かった。
「――我が従弟は現在、中国に在る。昨夜の交信で私とアルノーが一時の滞在をすると知り、少数の同胞を連れ、ここへ向かい始めた。バルドゥイーン殿との目通りも望んでいる。明日には到着するだろう」
こちらへ近付いてきていた裕介が、シェーンヘルデンの言葉が聞こえたのか、驚いたように目を丸くした。
シェーンヘルデンの従弟のことを知っているからか、アルノーの表情が少し明るくなったように見える。
「中国から一日で……? 貴方たちって、飛行機に乘れるの?」
「無論、遠泳である」
「遠泳?」
驚愕の事実に、裕介は大きな声を上げた。
世界中を渡ったと言っていた彼らだが、パスポートなどは当然に持っていないはず。今まで疑問には思っていなかったが、考えれば確かに無理があることだった。でも成る程。泳げば幾らだって、島国の日本にだって、入国できるわけだ。
「……なんか、凄い話だね……」
「我らは狼でも人間でも、その優位に立つ。身体的な力や知力では、狼も人間も我らに敵うまい」
知力、か。
そう思った裕介はハッと何かに気づいて、隣にいるアルノーを見おろした。
「だからアルノーは、一日で日本語を覚えたって……」
人狼の能力があったから、不可能とも思えることを可能にできたのか。
本当に吸血鬼にしても人狼にしても、あまりにも強大な力を持っている。そんな彼らがどうして、人間からこの世界の覇権を奪おうとしないのだろう。彼らがその気になれば、瞬く間に人間を支配できるのに。
そこまで考えて、ふと思う。
人間に善悪があるように、吸血鬼にも人狼にも同じように存在するのだ。バルドとモーントリヒトの狼たちは善。モルガーナやゲオルクは悪。善である彼らが水際で食い止めてくれているから、人間は安寧を享受できる。その人間が善悪を見極めずに、全ての異質な存在を排除しようとしているのに。
(人間ってどうしようもない生き物だ……)
人間であることに、裕介は少しだけガッカリした。
「――中国にいる仲間とどうやって連絡を取り合うの?」
自分が人間だからと嘆いてもどうしようもないことだ。
裕介は落ち込んだ自分の心を何とか立て直して、更に人狼のことを知ろうと質問をしてみた。単なる興味ではない。彼らを友だと思うから、友のことを知りたいだけだ。
「波紋の念だ」
シェーンヘルデンの答えに、裕介は小さく首を傾げた。
「テレパシーと言うと分かりやすいか。元々、人狼族の女性は
「母系の血縁者……」
裕介が呟くと、シェーンヘルデンは狼の頭を頷くように上下させた。
「敵に傍受されることのない、人狼による確実な連絡手段だ」
だからモーントリヒトの狼たちは、世界中に散々になっても結束することができるのか。
母の血を辿り、テレパシーを飛ばせば、それぞれの近況は確実に伝わる。例え途中で自分の血縁の繋がりが切れたとしても、共にいる仲間の母系の血縁は絶対にどこかで交わる。そうして共通の意識を持っていられるのだ。シェーンヘルデンのことだから、きっと散らばった一族の各地の群れの組み合わせなども計算に入れていることだろう。
なんて強固な、なんて濃密な絆だ。モーントリヒトの狼たちは、決して断ち切れない絆で結ばれている。
裕介は自覚のないままで微笑んでいた。モーントリヒトの狼たちが今はバラバラであったとしても、その心は必ず同じ場所にあると、再認識することができたからだ。
「それなら、アルノーにとっても母系の血縁者だよね?」
裕介の問いに、アルノーは明るい声で肯定した。
「ルキっていうんだ。赤毛の狼で、シェーンヘルデンよりも体は小さいけれど、それでも立派な狼だよ。ルキには双子の息子がいて、オレと同じ年の生まれなんだ。やっと再会できるんだよ、ユースケ! アーダルベルトとカイに。オレの友達に!」
喜ぶアルノーは、それは微笑ましかった。
同じ年の生まれというからには、アルノーはそのアーダルベルトとカイ、自分の兄弟たちと一緒に育っていたのだろう。ゲオルクによる二度目の襲撃があるまで。
楽しかったに違いない。離れたくはなかっただろう。それでも彼らは、残酷な運命によって引き離されてしまった。
明日、アルノーはアーダルベルトとカイと。シェーンヘルデンはルキと再会できる。
喜ぶアルノーに目線を合わせるように、裕介はしゃがみこんでアルノーの頭を撫でた。
そんな裕介とアルノーを横目に、シェーンヘルデンがバルドに近づいた。
座っているバルドの耳に狼の口を寄せ、そして小さく呟く。
「――ルキの息子、アーダルベルトは、ゲオルク一派に向けて斥候に出ている」
バルドは思わず、眉間を寄せた。
「単身か?」
「如何にも」
「危険すぎる。お前の命令ではないだろうな?」
裕介とアルノーに聞かれないよう、二人は小声で話を続けた。
シェーンヘルデンの様子から、これはアルノーの知らないことなのだと窺える。だからこそアルノーは明日、ルキ親子の全員に会えると思っているのだ。
「アーダルベルトとて、我が
「本人の意思ということか」
シェーンヘルデンは無言で頷いた。
「ほとほと呆れるな。狼の頑固さには」
アーダルベルトは恐らく覚醒を迎えている。成熟した精神で自ら考え、出した答えが単身での斥候だ。
それを知ったアルノーに、何かしらの刺激が走ればいいが。間違っても更に後ろ向きな方へ行ってくれるなと、バルドは祈るばかりだった。
Switch Buddy 奨馬 @shoma7_x
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