第28話 “月光”

 バルドが待ち望んだ下校時刻になって、二人はやっと由鶴岳に向かうことができた。

 由鶴岳の標高はそこまで高くない。登山道も途中まではアスファルトで舗装された道ではあるが、それでも山である為、歩き辛いことこの上ない。おまけに傾斜も緩やかに続き、疲労は確実に足に溜まっていた。

 舗装された道が途切れて暫く。仕方なく獣道を行くと草や木の枝に足を取られ、裕介は何度も転んでいた。擦り傷を作る度に、バルドが舌打ちをして傷口を塞いでくれた。傷口を塞ぐには、その部位をバルドが舐めなければならない。吸血鬼の唾液とは不思議なもので、治癒能力というものが備わっているらしい。ただし、対象は人間だけ。吸血後の傷を隠さなければならないから、理に適っていると言えばそうだ。

 傷は跡形もなくなるが、しかしそう何度も施されたいと思うものでもなかった。だから傷を作ってから何度目かに、そろそろ裕介は遠慮をしてみたが、バルド曰く、『意味なく垂れ流すのは勿体ない!』だそうだ。吸血鬼め。


 山を登り初めて、そろそろ一時間という頃。

 汗だくで呼吸も荒い裕介と、顔色一つ変えずに楽々と歩を進めるバルドは、アルノーやシェーンヘルデンがいる山頂付近を黙々と目指していた。


「ユースケ! バルド!」


 獣道の先から聞こえた声に、二人は揃って顔を上げた。

 昨日ぶりに会う、アルノーだ。姿は狼で、白い毛をサラサラと揺らしている。

 小さな体であるのに、その足取りは裕介よりもしっかりしていて、難なく荒れた道を下ってきていた。


「アルノー。迎えに来てくれたの?」


 汗を拭った裕介は、アルノーに合わせてしゃがみ込んだ。

 アルノーの白い目が少しだけ細められ、裕介に会えたことを喜んでくれているのが伝わってきた。狼の顔でもそれなりに感情を読み取れるようだ。


「シェーンヘルデンが、二人の気配を感じたから。迎えに行ってこいって」


 アルノーの言葉に、裕介は『そっか』と頷いた。

 アルノーたちが山頂にいるのを予測したのはバルドだ。しかしそれはもう予測ではなく、バルドの嗅覚が探ったものだから正確な情報である。シェーンヘルデンの感覚にも同じことが言えるので、彼はアルノーを一人で向かわせたのだろう。

 何故だか少し、妬けてしまうものだ。

 裕介は何の取り柄もないただの人間で、彼らのように秀でた感覚や能力は全く持っていない。バルドの体に入れば少しは違うけれど、それでも有意義に吸血鬼の力を使いこなせるかと言えば疑問が残るところだ。


「オレ、人型になった方がいい?」


 裕介がしゃがみ込んだままだったのを気にしたのか、アルノーがそう聞いてきた。

 アルノーの白い小さな頭を撫でると、狼の耳が少し横に倒れる。それを見て小さく笑って、裕介は立ち上がった。背負った鞄が重いが、仕方ない。


「いいよ、そのままで。山道は狼の方が歩きやすいよね?」

「他人に気を使える立場か、お前が」


 辛辣なバルドの言葉に、裕介の笑みも固まる。

 『シェーンヘルデンがいる所まで、もうすぐだよ』というアルノーに、バルドが後を追って、裕介は痛い胸を擦りながら慎重に山道を登っていった。



◆◇◆



 明日が土曜日で、学校が休みで良かったと思う。これは確実に筋肉痛だなと、裕介は苦笑した。

 陽が赤くなり始め、そろそろ今日の太陽との別れを準備しなければいけない頃だ。

 『あそこにシェーンヘルデンがいるよ』とアルノーに言われ、呼吸を整えながら、裕介はそちらへ視線をやった。


 陽の光を受けて、それを反射させるのは銀色の毛並み。サラサラと風を受けて揺れているが、狼の毛らしくきっと触れれば硬いのだろう。

 瑠璃色の瞳が見据えるのは、遠い何処か。それは故郷の白森か、この世を去ったモーントリヒトの現在の居場所か。熱く、そして厳しい視線だ。

 由鶴岳の山頂。木々に覆われた周囲の中、ぽっかりと置かれた巨石の上に、大型犬よりも更に大きな体をした銀色の狼が立っていた。その姿は、まるで絵画に描かれているように幻想的で――


「――綺麗だ……」


 思わず、裕介は呟いた。

 人型のシェーンヘルデンを見た時も、とんでもなく美形の青年だとは思ったが。狼の姿の時は、その比ではなかった。

 その体の大きさには、恐怖すら抱いてもいいのに。そんな感情を捨てさせるくらいの、平凡な裕介の目に収めるのも憚られるような。


「シェーンヘルデンの毛は、一族の中でも珍しいんだ。モーントリヒトの月光の白に並ぶくらい、力ある者の証拠だって長老たちが言ってた」


 そのモーントリヒトの毛を継ぐアルノーですら、シェーンヘルデンに畏怖の念を抱いている。

 言葉を失っている裕介の横に、バルドも立つ。二人して並んで、遠くを見るシェーンヘルデンの横顔を眺めていた。


「――お前が覚醒すれば、私なぞ足元にも及ぶまい。アルノー」


 銀色の狼から、シェーンヘルデンの声が聞こえた。

 見惚れていた裕介はやっと気を取り戻して、岩から軽やかに飛び降りたシェーンヘルデンを視線で追い掛ける。

 ゆったりと歩いてくるその姿はやはり堂々としていて、計り知れない風格が漂っていた。


 シェーンヘルデンで、こんなにも凄いのなら。在りし日のモーントリヒトは、覚醒後のアルノーは、どんなに神々しい狼なのだろう。

 

(会いたかったな、モーントリヒトに……)


 それはきっと、バルドも一緒だ。


「バルドゥイーン殿。ユースケ」


 そう言ったシェーンヘルデンが、目礼で挨拶をしてきた。

 反射的に裕介もお辞儀で返し、上げた視線はまたシェーンヘルデンに縫い付けられる。


「いつまで見惚れているんだ、グズ」


 バルドにそう言われ、裕介は思わず首を振って意識を正常に戻そうとする。

 そうは言われても、こんなに綺麗な生き物を見たことがなかったのだから仕方がない。アルノーを見た時も目が離せなくなったが、シェーンヘルデンのインパクトは凄すぎる。

 そして、その姿にどうしても重ねてしまうのだ。想像が膨らんで行ってしまう。過去に沈んで行ってしまったモーントリヒトと、いつか来る日のアルノーの未来を。


「この姿が見慣れぬと言うのであれば、人型に変わるが」

「いや、人の姿でも綺麗だから、あまり意味ないよ……」


 肩を落とした裕介に、シェーンヘルデンは不思議そうに首を傾げた。


「でも、さっきのアルノーも言っていたけど。変化へんげって自在にできるんだね?

 満月とか関係ないの?」


 昨夜、シェーンヘルデンに聞いてみようと思っていた話だった。月と人狼である彼らの関係を。

 バルドが側にあった岩に腰を下ろした。長い話になると予測したらしい。それを見たシェーンヘルデンも体を落とした為、裕介も背中の鞄を地面に置いて、枯れ草の上に座った。そのすぐ横に、アルノーも体を伏せる。

 アルノーの首の辺りを、ゆっくりと撫でた。


「それは“狼人間”だ、ユースケ」


 バルドの言葉に、裕介は考え込むように眉を寄せた。

 “狼人間”? 人狼とは、違うのか。

 明礬だったら、その違いに詳しいかもしれないが、今日はこの場にいない。

 裕介は自分が持っている朧気な知識を口にしたのだが、やはり本物の吸血鬼であるバルドにその知識が通用しなかったように、今回もまた裕介の認識は浅かったようだ。


「我らは元より狼。“人”に変化へんげする“狼”である。月光より加護を受けた最初の狼が、その力を分け与えた多くの狼たちの子孫だ」


 シェーンヘルデンが言った言葉を反芻して考えた。

 

「狼人間はその逆。“狼”に変化する“人間”のことだ」


 バルドが言葉を繋げる。

 つまり、どちらが先かの話か。人狼は狼が先で、狼人間は人間が先。そして人狼は月光の加護を受けたけれど、狼人間は……。


「狼人間は、月に呪われてる……?」


 裕介の答えに、バルドとシェーンヘルデンは同時に頷いた。


「――遥かな昔、人間に情を寄せた狼がいた。それは親愛の情であった。しかし狼とは人間に恐れられる生き物だ。人間はその狼を受け入れなかった」


 そう語るシェーンヘルデンは、また遠い目をしていた。

 バルドも知っている話なのか視線を下げ、物思いに耽る様子が見て取れる。

 人間が作り出す話というのは、お伽噺でも童話でも、狼は大抵が悪者だ。現実の世界でも狼を嫌う人間はいるし、何よりシェーンヘルデンが語るこの話も。その狼はきっと、人間に嫌われていたのだろう。


「狼は月に向かって泣いた――何故なにゆえに受け入れてもらえぬ、共に存りたいだけであるのに。姿が違うからか、鋭い牙のせいか。ならばこの姿、変えてはくれぬか。月光よ、目も眩むほどの強さで我に降り注ぎ、我が身を幻と変えてくれぬか――狼の嘆きを哀れんだ月が、狼の願いを叶えたのだ」


 お伽噺も童話も、狼が悪者だなんて間違っている。だってこんなにも心優しいではないか、シェーンヘルデンが語る狼は。

 自分の姿を変えてまで、人間と共存しようとしていた。受け入れてもらいたかったんだ。


「しかし、人間の意識は変わらなかった。それどころか、人間に化ける狼を、迫害した」


 狼の思いを踏みにじった人間は、とても愚かだ。


「化け物へと身を堕とした狼は、人間から身を隠すようになった。だがそれでも、人間への情を捨てきれぬ。化け物の本能では人間の血肉を求めるが、気高い狼として決して人間を襲わぬと誓いを立て、その高潔な意思に賛同した同胞に月光の力を分け与えた――やがてその狼は、自らをこう名乗る――」


 シェーンヘルデンの瑠璃色が、真っ直ぐに裕介へと視線を向けてきた。

 風が吹き抜け、裕介の頬を撫でる。揺れた前髪が少しくすぐったかったが、裕介はシェーンヘルデンから視線を逸らせずにいた。

 その狼の牙が見える口が紡ぐ次の音を、裕介は何となく分かった気がして、ギュウッと締め付けられるような胸の痛みに耐える。


「――“月光モーントリヒト”と――」


 裕介の目から、一筋の涙が落ちた。


 なんという存在を、失ってしまったのだ。決して亡くしてはならない存在だったのに。後悔だけ、寂寥だけ。募る思いに、心の整理が付かない。

 彼を失った世界は、きっと大切な色や音も失った。鈍感で残酷な人間は、そんなことにまるで気づかない。我が物顔で世界を牛耳って、歯車を回し続けている。

 そして、裕介の心の片隅にあるスペースに積み重なる。怒りが。モーントリヒトの命を奪った張本人である、モルガーナとゲオルクへの怒りが。

 裕介でさえこうなのだ。バルドや、アルノーとシェーンヘルデン、モーントリヒトの狼たちの心境は。


 力を貸したい、なんて。他人事ではない。戦うべきだ。これは、戦うべきことだ。


「何故、お前が泣くんだ。ユースケ」


 呆れたと言った風に、それでもどこか優しい声色で、バルドが言った。

 アルノーの首筋を撫でる。そんな裕介を、アルノーが心配そうに見上げていた。


「僕は、何も分かっていなかった……」


 シェーンヘルデンは、ただ忠義心だけでアルノーを守っているわけではない。

 モーントリヒトの月光がなければ、狼たちは能力を得られなかった。気高い狼として、生きては来られなかった。

 モーントリヒトの狼たちにとって、月光は何よりも大切なもの。そしてその月光を受け継ぐのは、ただ一人残された、アルノーだけ。月光を失えば、彼らは瓦解する。


 人間を襲わないという掟は、モーントリヒトの意思だ。その意思こそが、彼らが人狼である理由。


「数を増やした人狼は、世界中に散らばった。そうなれば、モーントリヒトの意思からははぐれたも同然である」

「白森の外の人狼のことは、“モーントリヒトの狼”とは呼ばないんだね?」

「如何にも」


裕介の言葉に同意したシェーンヘルデンは、その瑠璃色の狼の瞳を少しだけ険しくした。


「モーントリヒトの狼とて、草創期には掟を破る者が存在した。そうした者は一族から追放される。モーントリヒトの意思から逸れた狼は、月光にも逆らうということだ。その狼たちが人間と交わり成した子孫が“狼人間”。月光に逆らい、あまつさえ月光の加護を受けたモーントリヒトを迫害した種族である人間との子孫など――呪われる理由は余るほどにある。それ故に、満月の夜には自らの意思とは関係なく、化け物への変化を余儀なくされる」


 モーントリヒトは、月にさえ。そこまで愛されていたのか。


「ごめんね、シェーンヘルデン……僕、知らなくて。人狼と狼人間を同じなんだと思ってた……」

「構わぬ。これは我らの世界の話。人間であるユースケが知らずとも、詮無いことだ」

「人狼と奴らの違いはまだあるぞ」


 岩の上で膝を立てて座っていたバルドが、見上げていた空からゆっくりと視線を落としてくる。


「奴らは、人間を噛めば仲間を増やせる。吸血鬼と一緒だ」


 そうか。狼人間には、そんな伝承もあった。

 子供を生んで子孫を増やすという、生命の真理のような営みをする人狼たちとは違って、狼人間は噛むだけで数を増やせる。それは確かに呪いのようにも思えた。吸血鬼と同じ呪いだ……。


「吸血鬼も狼も、全ての災いの元は、人間なんだね……」


 裕介の呟きは、風にさらわれて消えていった。

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