第48話 安らぎ
「そんな。そんな遠くまで聞こえるはずが」
「ぼ・くには、聞こえ・たよ」
にこりと笑みを浮かべる、並外れた長身。
ああ、とシュゼットは再び思った。
そうでしょう! あなたには聞こえてしまったのでしょう。きっと。
心を砕いて下さっていたから。
自然に、どんな小さな小さなもの音でも、気配にすぎなくとも、気づいてくださる方なのですよね。
『逃げ・たい……の?』
誰をも欺く一目千両の仮面を、なんなく透かしてしまったように。シュゼットすら知らなかった気持ちを、言い当ててしまったあのときのように。
『ぼくと一緒に、来る?』
何も聞かないうちに一瞬で見抜いたように。何のそぶりも見せていなかったシュゼットに言ってくれた、あのときのように。
「ああ、幸運(プロスペール)!」
シュゼットは胸から喉へと溢れるままに、その名を呼んでいた。
涙で滲む月光の中、神獣のような青年騎士は、こちらへ腕を広げた。そこへ向かってシュゼットは駆けた。気がつくとベッドを飛び降りて床を駆け、子どものようにプロスペールの胸に飛び込んでいた。
受け止められ、大きな腕に包まれるように抱かれて、泣きじゃくった。
温かい。
大切な宝物のように抱きしめ、背中をさすってくれる。
「プロスペール! プロスペール! プロスペール!」
「うん、うん」
まるでそうして欲しいのを知っていたかのように、頭を撫でてくれる大きな手。
温かい。
父さま。
まるで父のように、シュゼットは感じていた。
記憶にもない父のように。
しゃくりあげ、みっともなく泣いても、ただ抱きしめ、撫でていてくれる。無限に大切にしてくれる存在。絶対の味方。これ以上に頼りにしていい人はいない。
と思った刹那、抱擁は解かれ、肩を握って引き剥がされた。
「プロス……っ!」
絶望に涙がまた溢れる。酷いと思った。なんて残酷なのだろう。信じた瞬間に取り上げられてしまう温もり。
けれど違った。
プロスペールはシュゼットを抱き上げ、ベッドへ運んだ。
目を点にするシュゼット。
子どもみたいに寝かされた、と思ったら、次はもっと驚いた。
プロスペールは全くためらわなかった。すべきことは分かっているとわんばかりにベッドへのぼり、シュゼットの隣に身を横たえた。
片腕で頬杖をつき、シュゼットを抱き寄せて、よしよし、と頭を撫でる。
「サー・プロスペール?」
「うん。お・やすみ。これ・なら、眠れ・る・でしょ?」
「……!」
ぎゅ、と抱きついて寝巻きの布を握った。
どんな高価な贈り物より嬉しかった。どんな百の美辞麗句よりも。
温かい。
涙がこぼれるほど温かい。
シュゼットはまた泣いてしまった。
「なぜ、ぐすっ、眠れないと、分かったの、ぐすっ、ですか」
「よし、よし」
とん、とん、とプロスペールの大きな手が背中を優しく叩く。
「怖かった・ね。疲れた、よね」
「……っ、はい……」
どうしてこの方は、私の気持ちを分かってくれるのでしょう?
「だい・じょう、ぶ。何が、来ても、ぼくが、守るよ」
「……っ、プロスペール……!」
それは魔法のような言葉だった。
シュゼットの心を溶かし、包み込み、強ばりをほぐして息をするのを楽にする。
体から力という力が抜けて、今までどれほど張り詰めていたかを初めて思い知った。
呼吸が楽になり、冷え切っていた体が温まってくる。
絶対の安心。
プロスペールが守ると言ったら、どんなものからも守り抜いてくれるのだ。シュゼットは掛け値なしに信じられた。
それだけの力があり、心が優しく、嘘がない。決して裏切ることはない。
「何か、して欲し・い・こと、ある?」
「お願いが、プロスペール」
「なに?」
優しいまなざしが、シュゼットを見守っていた。
「手をつないでいて欲しいのです。眠るまで」
「もち、ろんだ・よ」
心が包まれるような頬笑みを浮かべ、プロスペールは大きな手で、シュゼットの手を握った。
ほっとして、目を閉じ、ため息をついた。
シュゼットはもそもそと動く。プロスペールの腕を抱き枕のように抱きしめて、その肩に額を押しつけた。逆の腕の手を握ったまま。
プロスペールはシュゼットのしたいようにさせ、体制を変えて、仰向きになった。
プロスペールの胸の上に、繋いだ手と手。
シュゼットは、プロスペールの呼吸で胸がゆっくりと上下するのを感じた。
とくん、とくん、と落ち着いた心臓のリズムが伝わってくる。シュゼットの気持ちを穏やかにさせていく。
緊張をほどいた体はすうっと眠りに落ち、気がつくとプロスペールに揺り起こされていた。
鎧戸をあけはなした窓からいっぱいの光がまぶしい。
「お、はよ」
「うーん……プロスペール、もうちょっと……」
「駄目だよ、シュゼ・トちゃ。ちょっとしか寝てないから、寝かせてあげたいのは山々だけど」
「はっ、そういえばギャレットに食堂で給仕を教わるのでした!」
飛び起きる。
プロスペールはベッドから降りるところで、縁に腰かけていた。体が大きく筋肉質なので、そちらへ向かってベッドのマットレスが傾いている。シュゼットは飛び起きたとたんにころりと傾いて転がり、
「ひゃあ!」
たくましい腕に抱き留められた。
「あはは」
「ふふふ」
二人して笑い合った。
「よか・た、シュゼ・ト・ちゃ」
プロスペールがシュゼットの頭をナデナデと撫でる。
「驚くほど一瞬で、朝でした」
「うん。じゃ・あね」
白髪の巨躯は、窓へすたすたと向かっていく。寝間着で裸足のまま、当たり前のように窓枠に登った。安定がよく、微塵も揺らがない。
「あ……!」
子どもが後追いをするように、シュゼットは気づくとふらふら追っていた。温もりが離れていったのが寂しい。ぴったりくっついているのでなくても、プロスペールと一緒にいたい。
「食堂で、ね。席は、離れて・いても、一緒・だからね」
にこっと言い置いて、するするとプロスペールは窓から出て行った。
「……はい」
シュゼットは、胸の中にぽうっと火が灯ったようだった。両手を重ねて、大事に抱きしめる。
「はい、プロスペール……ありがとう」
プロスペールの去った窓から外を見渡す。
朝靄の晴れるまぎわの中郭は、すがすがしい。草に置いた露がキラキラと星のように輝いた。
夕べ、篝火に広場の周辺だけがオレンジ色に浮かび上がっていた村も、全体がよく見えていた。美しい空の下、野原と牧草地、畑の間に、壁の色も形も姿を現している。
素敵な朝です……!
ふふっと笑みがこぼれる。
大好きで、大切で、幸せだ。この城が。
明るい気持ちで満たされたシュゼットは、気がつかなかった。
窓辺の別れを、凝視していた者がいたことに。
一目千両の逃亡と十二人の妖精ガラス騎士王子の城/化粧係の腕で化けてましたが美女ではない私、王子さまに救われ騎士見習いになったものの王と化粧係の兵が 春倉らん @kikka_tei
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