流れてきたのはモーツァルトの曲である。第何番だとかそういった細々こまごまとした事は失念したが、その明快な音楽は初めてレコードで聴いた時から余の耳を優しく打ったものだった。快は不快より良いとは限らぬと余は常々思っているけれども、モーツァルトの快はどこまでも純化されていて、時には心の空を飛翔するが如く、時には夢の大地に深く染み渡るが如く響いていくところが素晴らしい。───等と偉そうな事を言ってはみるものの、いざ知識の事となると、余は音楽の事はてんで・・・分からぬ。まるで四角い白黒のパンダの塊のような鍵盤をこうして眺めていても、何故にかような響きをもたらすのかは一種の謎である。しかしそうは言っても、こうして音楽それ自体に感動し、女将の演奏家としての腕前にはいたく感心する。それで良いと思う。

「モーツァルトですね」

 演奏が終わってから余はそう言った。

「おやまあ、よくご存知で。ええ、ピアノソナタ第十六番の最初の楽章だそうです。昔、主人が手解きして下さいましたの。初心者用と銘打っている割には随分と難しくて敵いませんでしたわ」

「いやいや、充分すぎるくらいに素晴らしかったですよ。この場がホールだったら拍手喝采もんだ」

「あらやだ、褒めても何も出やしませんよ。出るのは明日の朝食くらいなもんですわ」

 そう言うと、女将は屈託なくオホホと笑った。全くよく笑う女だと思ったが、いやいやひょっとしたらこれは仮面の応接やも知れぬ、とも人知れず考える。宿というものも結局は客商売であるから、余という客を前にして愛想笑いを振り撒いているだけやも知れぬ。女将に対して特別な感情はもとよりないが、そう考えると何だか、あたかも待ちかねた夕焼けを土砂降りで報われたかのような心持ちがする。

「その後如何いかがですか。お仕事の方ははかどりまして」

 と女将が尋ねてくるので、

「いや、実はここに到着してからまだ何も書いちゃおらんのです」

 と正直に答えた。

「物書きというのは世間様に比べて大変な事もないが、かと言ってなまけておるわけにもいかぬ、という、ちょいとちぐはぐ・・・・なところがあるんです。でもまあ、今夜は少々疲れたから、ろくに書かずに休むつもりですよ」

「おやまあ、今ごろ疲れて良いはずなのは、動いた電車のほうだったんじゃありませんこと」

「ああ、覚えてましたか。やれやれ、こいつは一本取られたなあ」

 余がそう言って笑うのを聞いて、女将もいつものように、またオホホと笑った。


 女将が引き揚げてから、余は机の上に置いてあった仕事用のノートを広げた。仕事用等と言うと聞こえは良いが、その実態は思い付きの断片が割れガラス・・・・・のように散らばっているだけの物で、後になって見返してみれば、書き手であるはずの余をさえ難儀させる代物である。各々それぞれ日付もないから、それがいつ、いかなる状況のもとに思い付いたものか、当の本人もすっかり忘れている。真の文化人であるならば当然記憶しているのやも知れぬ。けれども、残念ながら余はそうではないものだから仕方がない。ただ、余の割れガラスの中にも何かこうキラリと光る物が少しでもあれば、それで充分なのである。

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夢の葉 もざどみれーる @moz_admirer

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