第10話 六年という途方もない尺度の前では痛みなど刹那の幻にすぎませんわ

 でかい男だった。

 ばかでかい男だった。

 身長は目算でも、どうみても2メートルを越えている。

 体重も、120キロはあるだろう。ことによると130キロを越えているかもしれない。

 だが、肉の弛んだ感じは、その男の喉元には無かった。

 180センチ95キロの総合格闘家を、そのまま大きくさせたような、均整のとれた大きさの男であった。

 顔は、節分の鬼面を思わせるものがあった。鼻がでかくて、眉間の皺が深い。ぎょろりとした目に、太い眉。

 どう切り取っても美男子ではないのだが、醜悪な顔立ちでもない。むしろ妙な可愛げのある顔をした、でかい男が、窮屈そうにドアを潜って部屋に入ってきた。


「パウロ大臣」


 声量を抑えてはいるが、でかい声。

 でかく、コントラバスのように低い声であった。


「おお、ファビオ! あの偽聖女だ、私を逆恨みして殺しにきた──」

「パウロ大臣、話は廊下で聞いておりました。あなたはもう権力者ではありません」


 大男──ファビオは、ドアを後ろ手に閉めた。そしてパウロの側に立ち、仁王の如き顔で睨み降ろした。


「逃れようとはなさるな。俺が追い、必ず捕らえる。判ったら黙って邪魔にならんように、部屋の隅にでも立っていろ。……俺はそこの侵入者たちに用があるのだ」

「それは、私のことかしら」


 舞音が、部屋の中央に進み出ながら、言った。

 少し後ろに、百合菜が隠れるように背を丸くしていて、その右手側にラスティが立っている。


「マイネさま。騎士団長のファビオ殿です」


 そのラスティが、舞音に耳打ちした。

 騎士団長──ファンタジー小説などでも、歴史小説でも、まま見かける肩書きだ。その正確なあり方を、舞音は、知っているわけではない。

 だが、ファビオの姿形と、騎士というもの──心身を鍛え、ただ勝つのみでなく、面目を保つ誇り高い勝利を求める存在であるということを加味するならば、つまり、こうだ。

 この男はだ。

 それも、花形、メインエベンターである。

 カリスマ性と知名度だけで食って行ける老齢のレスラーとは違う。


「スティッフ──」


 舞音の声は、感動に打ち震えていた。


「なに?」

「スティッフ、と言ったのです。固い、遊びが無い、真剣に戦ってしまうと言う意味の──」

「悪いことには聞こえんな」

「ええ」


 舞音が生きていた世界では(少なくとも餓狼伝:Ⅴの執筆された時代には)、『スティッフ』とは決して、褒め言葉ではない。それは、エンターテイメントに徹することができず、本気で戦ってしまうプロレスラーを批難する言葉である。

 だが、この男はプロレスラーでありながら、本気で戦うことを制限されていない。


「ご用件とは?」

「あなたを捕縛し、再度追放する。ラスティ様とユリナ様には、ご自分の部屋へ戻っていただこう。今宵はパウロ大臣が失職した他は、何も起こってはいない」

「捕縛と仰いましたが、私の力のほどはご存知でしょう」

「武装した兵士を500人も叩き伏せたとは聞いている。だが、それだけのことだ」


 あっさりと、ファビオは言った。

 思わず惚れ惚れとしてしまうような自信だった。

 過信ではない。その身と技を根拠にした、正しい自信だ。


「抵抗しますわよ、私」

「そうか」


 ファビオが、部屋の中央へと進み出る。

 やはり、でかい。

 舞音も176センチと、女性としてはかなりの長身なのだが、それでも身長差は30センチもあった。

 体重差は、ほぼ2倍もあるだろう。

 2倍も体重に差があると、打撃系の戦いは、ほとんど成り立たない。

 あるいは100kgの男と、200kgの男が殴り合うならまだ成立の目はあるだろうが、60kgと120kgの殴り合いというのは、これはまず、まともな戦いにならないのだ。

 極限まで鍛え抜いた格闘家の体重とは、骨格の太さと筋肉量を示す指標である。

 つまり、打撃の威力と、打撃を受けた時に筋肉がどれだけダメージを吸収してしまうかの目安が、体重なのだ。

 これが2倍も違うというのは、もはや生物としての種から異なると言っても過言ではない。

 だからファビオは、その体格差で迂闊にも相手の骨を砕いてしまわないよう、注意を払って、右手を持ち上げ、ばかでかい手の平で舞音の肩を掴もうとした。

 ファビオの右手を、舞音が、左の前腕でかちあげた。

 上げ受け。

 空手の、伝統的な防御。

 すかさずローキックを放った。左足の脛を、ファビオの右膝の少し上、太腿の外側へ叩き付けるように。

 ぱぁん

 と、鞭のような音がした。


「……ほう」

「どうかしら」


 ファビオは何事も無いような顔で、その蹴りを受けて、寒空の下で手を温めるような息を吐き出した。

 鬼面のような顔に、ほんの少しの驚愕が滲んでいた。


「ローキックの受け方は、ご存じありませんのね」

「腿を蹴る技は、初めて受けた」


 やはりか。

 舞音は、この世界に辿り着いてすぐの、あの乱戦を思いだしていた。

 この世界の兵士や、騎士達は、分厚い鎧を身につけている。関節部は、可動性の確保の為に装甲が薄くはなっているが、例えば腿など、頑丈な金属板の向こうに隠れている。

 そんな場所を、わざわざ蹴るようなやつは、いないのだ。

 膝を踏み蹴るとか、倒れた相手の頭を蹴り飛ばすとかは、するだろう。槍や剣で脚を狙うことも、あるだろう。

 だが、ローキックを、歩兵騎馬の入り交じる戦争で使うやつはいない。案の定、ファビオはローキックの受け方──脛で受けるということを知らなかった。

 ぱぁん

 もう一度、右腿に蹴りを重ねる。

 分厚いゴムの塊を蹴っているような感触だった。それでも確かに、芯に、鉄のように頑丈な骨が通っていることも、その骨まで衝撃が届いていることも分かる。

 もう一度──

 ファビオが、蹴りを受けながら、体ごとつっこんできた。

 でかい体を丸めるように腰を曲げて、頭っから。

 相撲のぶちかましに似ているが、両腕を左右に広げていた。

 つっこんでくる頭に、舞音が肘を打ち込んだ。1秒にも満たない短い時間、ファビオの膝が崩れた。

 ローが効いている!?


「しゃあああぁっ!」


 立て続けに舞音は、蹴りを放った。

 金属鎧を貫通する爪先が、ファビオの腹や腿を、めちゃくちゃに打ちまくった。

 肉の奥にある骨を、内蔵を叩く感触が、靴越しに、舞音の足指に伝わってくる。

 勝てる、と思った。

 そして、この大男にすら打ち勝つだろう自分の強さを、楽しくも思った。


「ぬがあぁっ!」


 ファビオが吠えた。

 崩れた足を叱咤する咆哮の後に、強引に脚力任せで体を動かして、舞音へぶつかってくる。

 その腕の下をするりと潜り抜けて、舞音はファビオの背後に回っていた。

 舞音がいた筈の空間を通り抜けたファビオが、そのまま壁に衝突する。壁に細い亀裂が走り、天井から、ぱらぱらと埃が降ってくる。

 ファビオが振り向く。その動作が終わるまでに、

 ロー。

 ミドル。ロー。

 ロー。ロー。ロー。

 蹴った。

 蹴りまくった。

 効いている。それは疑うべくもない。鍛えた兵士すら一撃で昏倒させる蹴りを、もう、何十発叩き込んだだろう。

 だが──

 この男は、立っている。

 立っているだけではない。攻撃を諦めていない。

 しかもその攻撃というのは、殴ったり蹴ったりではなく、あくまでも〝掴む〟ことなのだ。

 グラップリングである。

 掴んだ後に、何をしようというのか。

 関節か? 投げか? なんだろうと対応はできる筈だ。何せ自分は──


「────────」


 自分は今、何を考えただろう。

 丹波文七のように、打撃も関節技も習得しているから対応できる筈だ、と?

 理屈としては、その通りだ。女神に与えられたスキルは、既に数百の兵士との戦いで有用性を証明した。

 だが。

 例えばこの男が、こちらの腕を掴んで捻り上げようとした時、自分は体をどう動かして、どう逃れれば良いかを、頭に思い描けるか?

 高く担ぎ上げられ、頭から床に投げ落とされたら、どう受け身を取ればよいか分かっているか?

 もしかすると、打撃技を意識せずとも使えるように、いざその場面に追い込まれれば、体は勝手に最適な動作を選択するのかも知れない。

 しかし──例えば、ファビオが狙っている技が、自分が生きた世界には存在もしないような奇怪な奥義で、その対応手段など餓狼伝の中に存在しないとしたら?

 自分は棒きれのように体を硬直させたまま、計り知れぬダメージを追うのかも知れない。

 ぞわりと、背を這い降りていくものがあった。

 それが手足に染み込んで、舞音を鞭打つ。

 もっと殴るんだ。もっと蹴るんだ。

 殴る。

 蹴る。

 ファビオは倒れない。

 この男は決して倒れないのではないか?

 殴る。

 拳が痛んだ。

 握りが甘くなっていたのだ。

 拳の握りを甘くしたものは、背から這い降りて四肢を浸した、恐怖であった。


「あああああああああぁあぁぁぁぁっ!!!」


 舞音は悲鳴を上げながら、蹴りを打った。

 一番ダメージを与えられるだろう技。右太腿を狙う、左のロー。

 ファビオの頭が、視界の下へ、ふっと沈んで消えた。

 次の瞬間、舞音の右足は床から離れ、そして天地が逆さまになった。

 蹴りに行った左足を、ファビオの右腕に捕らえられ、腰を左腕で抱えられて、床から引っこ抜かれたのだ。

 持ち上げた勢いそのまま、ファビオの体が反っていく。

 鮮やかなブリッジ。

 人間橋が、ファビオの巨体によって出現する。

 舞音の頭が、床へ向けて落ちていく。

 変形キャプチュード。

 プロレス風に技名をつけるなら、そういう具合になるのだろう。

 舞音は言い知れぬ感動に包まれていた。

 あれだけ拳と蹴りを受けて、この男は、苦悶の呻きひとつ上げなかった。

 騎士と言うからには、剣も槍もうまく扱うのだろう。そういうものを使おうというそぶりすら見せず、素手で、舞音の流儀に合わせて戦ったのだ。

 落ちた。

 目の裏に火花が散って、それが暗闇の中へ消えていく狭間、舞音は胸の内で喝采を叫んでいた。

 騎士団長ファビオ。

 なんとも見事な──であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

転生聖女ですが好きな小説の能力をもらえるというので武の道を極めることになりました 〜私の愛読書は餓狼伝〜 烏羽 真黒 @karasugakaa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ