第45話 門出
自宅に帰って来た僕は、階段を駆け上がった。部屋にある貴子の肖像画を見つめる。あまり時間が無い。両手で掴むと、傷つけないように注意しながら、階段を駆け下りた。玄関の扉を開けて表に出る。太陽が容赦なく照り付けていた。僕は、肖像画を抱えながら、また走り出す。額から滝のように汗が流れ出した。汗が目に流れ込む。チリチリと痛い。袖で汗を拭ったけれど、流れ出る汗が止まらない。僕は構わずに走り続けた。
――貴子!
心の中で、僕は叫んだ。貴子を守らなければいけない。
伊藤カメラ店に到着する。往復で、十五分くらいの時間を要した。店に入ると、皆の視線が僕に集まる。僕は汗を流しながら、貴子の肖像画を高く掲げた。
「只今、戻りました。これが肖像画です」
皆の反応が、心なし弱いような気がした。寺沢先輩が描いた大作だ。感動しないわけがない。それなのに、どうしたんだろう? 僕は、不思議そうに店内にいる一人一人を見回した。杉山社長が立ち上がり、近づいて来る。僕が持つ肖像画を眺めた。
「これがそうか。アイツ、油絵も描くんやな……良くかけている。流石、ジョージや」
僕は、嬉しそうに杉山社長の顔を見る。しかし、社長は、僕を見ると深い溜息をついた。
「どうしたんですか?」
社長は、眉間に皺を寄せて、ボソリと呟いた。
「もう必要ないんや」
「えっ! どういうことですか?」
社長の意外な言葉に、僕は声が裏返ってしまった。社長は、イライラとしながら僕を見る。怒声のこもった低い声で、僕を詰った。
「あるんなら、最初っからココに飾っとけや!」
僕はたじろぐ。肖像画を持ったまま、立ち尽くした。社長は、深く息を吐きだす。
「ジョージの話は無しや。決まったんや」
社長は、僕から視線を外す。恨めしそうに真山琴子を見つめた。真山琴子は、プイッと横を向き立ち上がる。
「ちょっと早いけれど、撮影を始めましょうよ。リハーサルも兼ねて、慣れておきたいわ。亀山君、用意してくれる」
カメラマンの亀山が立ち上がった。
「分かりました。社長、始めますよ」
杉山社長が頷く。
「ああ、そうやな……貴子君」
社長が、貴子に視線を送った。
「ぶっつけ本番やけど、ホンマに大丈夫か?」
貴子が、にこやかに頷く。
「大丈夫です。それまで、ここで歌の練習をしておきます」
杉山社長が貴子に近づき、耳元に囁いた。
「頼むで。あの琴子の鼻を明かしてやるんやで。応援しているからな」
「はい」
真山琴子が、杉山社長を睨む。
「どちらの味方なんでしょうか?」
社長が身をすくめる。
「ちゃうがな。二人の対決を面白くするための、準備やがな」
撮影隊と琴子が表に出て行った。杉山社長は店主の伊藤さんを連れて、表に出ようとする。伊藤さんが、僕を見た。
「高井田君、少し店を空けるから、後は宜しくね。お客さんが来たら、ウチの嫁さんが対応するから大丈夫」
肖像画を持ったまま、僕は店主を見送る。振り返り、貴子に問い掛けた。
「どういうことなの? 良く分からないんだけど……」
貴子が、僕から目を背けた。
「真山琴子さんの意見が通ったの」
「どういうこと?」
「琴子さん。きっと、ジョージと何かあったのね。どうも嫌いみたい」
「それで?」
「町内会代表で、真山琴子さんに私が挑戦するというシナリオに変わったの。ジョージの似顔絵もテレビには映らないわ」
「えっ! そうなの」
貴子が、小さく溜息をつく。僕を見上げた。
「どうして、肖像画を持ってきたの?」
僕は、貴子の問い掛けに驚いてしまう。
「いやぁ、だって、貴子が馬鹿にされていたから。肖像画があったら、貴子が争いに巻き込まれないかなと思って……」
貴子が僕を睨んだ。
「あのね、お兄ちゃん。そんな事、いつ、私が頼んだ? 頼んでないよね。お兄ちゃんね……少しズレていると思うの」
僕は、首を傾げる。
「ズレている?」
貴子は、僕を見上げると、少し怒った口調でまくし立てた。
「私はね、琴子さんの言葉は気にしていないの。そりゃ、キツイところもあったけど、生意気な私と歌うことを承知したわ。彼女は本物よ。いつも戦っている。私はね、自分を試したいの。お兄ちゃんから、守られたいわけじゃないの」
僕は、貴子の剣幕に息を呑んだ。貴子の横で、小林君が一緒になって僕を睨んでいた。
「守られたいわけじゃないんだ……」
僕が呆然としていると、真山琴子のアシスタントが近づいてきた。
「あの、宜しいですか?」
貴子が振り向く。アシスタントに、お辞儀をした。
「宜しくお願いいたします」
アシスタントは、ニッコリと頷く。
「短時間ですけど『別れ酒』の練習をしますね。まずは、一度このテープを聞いてもらいましょうか……」
アシスタントの言葉に、伊藤さんの奥さんがカセットレコーダーを用意した。店内に、真山琴子の歌声が響き渡る。
いつものように 席につき
優しい笑顔を 私に向ける
お願いだから 今日だけは
楽しい話をして欲しい
貴方の気持ちは 分かってる
今日はさみしい 別れ酒
寂しい歌だった。別れを決意した、男と女の歌だった。歌が終わると、アシスタントが貴子を相手に歌の指導を始めた。貴子はアシスタントの言葉を真剣に聞いている。時間は無いながらも、少しでも上達しようとする貴子の意気込みを感じた。テニスの時もそうだったけど、何かに打ち込む時の貴子の表情は美しい。いま、僕の手元に、カメラがないことが悔やまれた。でも、今後、貴子の姿をカメラに収めることは、少なくなるだろう。貴子が、その事を求めていないからだ。表から、撮影隊の一人が帰ってきた。
「貴子さん、スタンバイをお願いします。もうじき、こちらに帰ってきます」
貴子は、緊張しながらも、微笑んだ。
「分かりました」
歩き出そうとして、僕を見た。貴子が笑う。
「じゃ、お兄ちゃん、行ってくる」
「ああ、頑張ってこい」
顔を上げると、貴子は光り輝く表に出て行く。僕は、そんな貴子を見送った。僕なんか居なくても、貴子は一歩一歩前に進んでいる。僕の、貴子に対する気持ちって、一体何だったんだろう。人と人が分かり合える。そんなことは、ありえない。求めれば求める程、相手は逃げていく。そんなもんだ。だったら、どうしたら良いんだろう。今の僕には、その答えが分からなかった。
貴女を守りたい!【少年探偵団の事件簿】 だるっぱ @daruppa
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