幸か不幸か

糸坂有

幸か不幸か

 はっきりとした日付は不明である。十二月中旬、世の中がクリスマスに向け浮かれている、そんなある日のことだった。当時、まだ大学生であった僕の眼先にある問題点といえば、当然大学生活についてであったが、問題と言えるほどのものはなく、四月に入学してからすでに約八か月が過ぎ去った時点で、平穏な暮らしをしていたと言えるだろう。クリスマスを一緒に過ごす相手だとか、聖なる夜だとか、十字架に磔にされたイエス・キリストとその復活についてだとか、そういったものとは縁遠い生活を送っていたため、相変わらず自宅で家族と、平日と遜色のない、食卓にチキンの並ばないクリスマスを送る予定であったし、もっと言えば毎年クリスマスの時期なんて年末の大掃除をする日という認識でもあった。欲望渦巻くクリスマスよりは、綺麗さっぱり一年間溜め続けた埃を取り除くクリスマスを過ごしたいと思うことが、変わった考え方であると知ったのはもう少し後のことである。


 コンビニでのアルバイトを五時に終えた僕はその日、天気予報で雨が降ることを知っていた。黒い雲の存在を確認しながら、そのまま駅前にある書店へ寄って目当ての本を購入しているうちに雨が降って来た。雨になることは知っていたので当然だが、どんなに晴れの日でも傘を常に持つという離れ業を披露している僕のことなので、意気揚々と傘を差し、買った本を自分への手土産に、雨の中を歩いていた。駅前を離れると、しだいに人数は減っていく。しばらく歩いた時、軒下で雨を避けて立っている男を見つけた。まず目に付いたのは、そのスーツである。こんな場所に不似合な高級スーツは暗い風景の中にぽっかりと浮かんでいるようで、僕は思わず立ち止まったのだったと記憶している。すると、特徴のないぼんやりとした顔で黒い空を見上げていた推定二十代の男は、億劫そうに視線を僕へと投げた。そして男は僕を確認すると、人好きのしそうな顔になって微笑んだ。


「良いですね、傘。良ければ、僕と相合傘してもらえませんか?」


 人懐っこい顔は、けれどもやはり特徴と言えるものではなく、服を着替えてしまえば数分後にすれ違っても分からないかもしれないと思うほど、その男は平凡であった。

 見知らぬ大学生の男へ相合傘を申し込む人間を、僕は少し興味深く思って、すかさず返答をした。


「男二人の相合傘って、世間的にどうなんでしょうね」


「ああ、まあ、男女ならともかく、男二人は確かに見栄えはしなさそうですねえ……辺りがたとえ暗かったとしても、世間体というものがありますねえ」


 男はふうむと顎に手を当てて考えるようにすると、またにっこり微笑んだ。


「僕が君から傘を奪うか、君が僕を見捨てて一人で家へ帰り、僕が雨の中このスーツで駅まで小走りするか……まあ、今ぱっと思いつくのはそれくらいでしょうかねえ。後者は選びたくないんですけど、まあ、この際ですからそれでもいいのかな。君、どうせ家に帰るだけでしょう。特に急いでいるわけでもないんだよね?」


「僕がどうして家に帰るだけだと思うんですか?」


「この時間に、暇そうな大学生風の男の子が駅前からこっち方面に歩いてくるんだから、普通にそうでしょ?」


 確かに道理であった。僕は納得して、遠慮することなく男の全身を眺めた。


「あなたは、これからどこか行かれるんですよね? その様子だと、只事ではない雰囲気がありますけど」


「ああ、まあね。デートだったんです。でも、朝喧嘩しちゃって、行かない、だって。せっかく予約していた店だったんだけどねえ。当日キャンセルなんてもったいないから、一人でも行こうと思ってたところで。でも、これじゃあ行くなって神様からのお告げかも。ああ、良かったら君来る?」


「やめときます」


「だろうねえ。その方が良い」


 のんどりとした調子で言ってから、男は「人生いろいろあるもんさ」と楽しそうに笑った。振られたくせに調子の悪くなさそうな顔をしているので、僕は男の言葉が真実かどうか訝っていた。まあまあと言いながら男は僕の腕を掴み、隣へ移動させると僕の傘を閉じさせた。僕は平凡な男の隣でしとしと降る雨を眺めていて、未だにその時の、どうでもいい湿気や水滴のことをよく覚えていた。


「今日、天気予報見なかったんですか? 雨だって言ってたと思いますけど」


「ああ、ついうっかりね。家を出た時は降ってなかったんだ。けっこう僕ってうっかり屋なんだよねえ」


「はあ」


 僕の反応に、男はにやにやと笑っていた。


「君から傘を奪うのも芸がないし、君が家に帰るのもつまらない。せっかくならとっておきでいきましょうか」


「とっておき、というと?」


「雨がもう少し止むまで、君とここでお話をする。よし、これがいい。これにしよう。どうせ君は暇なんだから」


「雨、止みますかね?」


「止むことを祈ろうよ。さっきまでは実際、止んでたんだから。じゃあ、そうだな。ね、君、面白い話ない?」


「特に思いつく話はないです」


「そうかあ。ま、なかなか思いつかないよねえ」


 男はしばらく黒い雨を眺め、やがて口を開いた。


「それ、駅前の書店で買って来たんだね。何の本?」


 男は、僕を見ないままに呟くように言った。僕は濡れないように気を付けながら、袋から本を取り出した。


「コナン・ドイルです」


「ああ、シャーロック・ホームズか。好きなの?」


「すごく今さらなんですけど、僕、今ホームズを読んでるんですよ。これは帰還です。ライヘンバッハの滝に落ちて死んだと思われていたホームズが戻って来る話ですね。これから読みますけど」


「ああ、じゃあネタバレは駄目だね。いや、そもそもホームズが生きていることを知っているのが、最大のネタバレだよねえ?」


「それは仕方がないですよ。どうしたって先に知ってしまっているんですから。世界中でも熱烈なファンがいますし。シャーロキアンってやつです」


「君はシャーロキアンなのかな?」


「いえ、読んでいる途中なのでそこまででは……すごく面白いとは思いますけど」


「じゃあ君は、ホームズのやり口を知っているわけだね。うまくいけば、あんな名探偵になれるかもしれないねえ」


「なれませんよ」


「いやいや、謙遜は時と場合によるよ。もしかしたら君には才能があるかもしれない。世の中の未解決事件を、即座に解決に導くような閃きが、ある日突然浮かぶかもしれない」


 僕は、男をしらじらしい目で見ていたのだろう。男はおどけた様子でいて、僕は本を袋に入れると、鞄の奥に突っ込んだ。


「そっちはどうなんですか?」


「うん?」


「閃き、あります?」


 男はふーむと唸ったが、即座に僕の問いへ返答した。


「どちらかと言えば、僕は謎を解くよりも、謎を提供する方に価値を置いていると思うよ。探偵っていうものは、そこに謎がないと何も始められないだろう? 犯罪者に礼を言うべきだ。その点、謎を提供する方は、感謝されても感謝をする相手がいないから、楽だよねえ」


「それは、たぶん逆ですよ。いつの時代も、謎や凶悪犯罪がそこにあるから、それを解く人や犯罪者を罰する役割の人が必要になるんです」


「鶏が先か、卵が先かって話かな?」


「それとは違う話だと思いますけど。僕は、鶏でも卵でもどっちでもいいです。関係もないので」


「ははは、そうか、なるほどねえ」


「あの、言わせてもらうと、犯罪者に礼を言うべきとか、そういう考え方はちょっと僕は好きではないですね」


「うん、そうだね。ちょっと僕も調子に乗って言い過ぎたのかもしれない。とりあえず、前言撤回ってことでもいいかな? 君に怒って帰られると、僕はとてつもなく暇になるんだ」


「怒ってはいません」


「だったら良かった。ぜひそのまま僕とお話ししていて欲しいね、雨が止むまででいいんだ」


 男はまた黒い雨を眺めていた。僕は、無言の時間が苦ではなかった。男が何を話し始めるのか、興味を持ってその時間を過ごしていたため、体感では、無言だけの時間は数秒といったところだった。

 男は唐突に話し始めた。


「昔から僕、雨の日はついてないんだ。恋人に振られたり、風邪を引いたり、テストの点数が悪かったり、女の子にビンタされたり。低気圧だと頭も痛くなるんだ、湿気もじめじめするし、どうしても好きにはなれないねえ」


「ビンタされたんですか?」


「やっぱりそこか。訊かれると思った。じゃあその時の話をしよう。もう何年も前のことだ。

 僕は、とある人を熱烈に追いかけていたんだ。いろんなアプローチをしかけて、どうにかこうにか追い詰めたつもりだった。そして最後、ここだって言う時に決死の思いで決着を付けようとしたんだけど、その時、ある女の子に止められた。その子、嫌がってるじゃないですか、とか何とか言ってたかな。僕にはとうていそうは見えなかった。気分も盛り上がっていたしね。向こうだってノリノリなんだと思っていた。だからそう言ったんだけど、向こうは一歩も譲らない。その人を庇って、僕に強い視線を投げた。その時のスリリングな瞳は、今でも鮮明に覚えているよ。出来ればまた、あの瞳と面会してみたいものだねえ。それはそれとして、だけどその時の僕は不満たらたらだったよ。邪魔をするな、なんて気分だったかな。君だって、似たような状況に合えば、僕と同じ気持ちになったと思う。それからしばらく言い合いをしてた。そして、挙句の果てに、僕はビンタされたというわけだ。だから、仕方なく僕は諦めて、二人の背中を見送ったんだよ。後で鏡を見ると、真っ赤な五本の指が左頬に残っていた。けっこうな痛みだったんだ。これはやっぱり、僕が全面的に悪かったんだと思う?」


「一方の証言しか聞いていないので、何とも」


「君は冷静だねえ」


 男は感心するような声色だった。するといっそう楽しそうになって、またもや口を開いた。


「最近あったことなんだけどね、夜道を歩いていたら、前方に若い女性が歩いていた。僕の方が歩くのが早かったから、しだいに女性との距離は縮まっていったんだ。すると女性はふと振り返って僕を確認してから、歩くスピードを上げた。僕はすぐに分かったよ。ああこの人は怖がっているんだってね。だから紳士なら、そのままゆっくり歩いて女性との距離を開けてあげるのがベストだろうと思いながら、僕は歩くスピードを上げた。すると女性も上げた。最終的には、その人、小走りで行っちゃったよ。悪いことしたかなあ」


「そういうの、やるべきじゃないですよ。最悪の場合通報されます。男は特に、女性にはそういった面で気を遣わないと、社会的に抹殺される時代ですよ、恐ろしい。満員電車なんか、両手を上に、が鉄則だと思いますけど、満員過ぎるとそんなこと考えてられない時もありますし」


「だよねえ。反省した。そんなことやったの、その一回きりだ。じゃあ場も温まったところで、世間話でも始めようか。最近、警察署から逃げ出した人いたよねえ?」


 男は、人差し指、中指、薬指を立ててそんな風におっとりとした調子で言った。僕は何だか拍子抜けというのか、男の一定の調子と共鳴することが出来なかった。テンポが合わない、男の中には独自のリズムがあるようで、それまでの僕の人生ではお目にかかったことのない種類の人間だったのである。平凡さの中にある一種の奇抜さは、僕に怪しさを覚えさせた。雨はまだ止まなかった。


「ああ、確かに最近、三人くらい覚えがありますね、逃げ出した人」


「僕、大阪の警察署から逃げ出した人と、握手した」


「そうなんですか? いつ?」


「その人、自転車で日本一周の旅をしてたのを知ってる? 本当にしていたわけじゃないだろうけど、そういう風に装っていたんだよ、その時だ。ちょうど偶然、その辺りで用事があって行ってたんだ。まさかあの人だとは思いもしなかったよ。顔は見ていたはずなのにね。人間、雰囲気でずいぶん変わるもんだ」


「へー、捕まって良かったですね」


「あまり関心がなさそうで何よりだよ。でもまだ、一人捕まってなかったよね」


「ああ、そうですよね。当初は連日報道されてましたけど、まだ捕まってないんですよね。もう何か月になるんだったか、至るところで顔は見ましたけど、まあこの辺りにはいないんじゃないですか? 洒落た顔の男でしたよね。今頃どこで何してるんでしょう。この話をするまで、捕まっていないことすら忘れてたくらいです」


「盗品等関与罪の容疑だとかで拘留中の人だったねえ」


「そうでしたっけ」


「それ、僕なんだ」


 にこにこと、相変わらずの人の良さそうな顔が言うので、僕は特に関心のない返答をした記憶がある。驚くことすらなかったのである。僕の男へ対する印象が、その可能性をわずかながらに認識していたのは事実であったが、それでもやはり男の言葉をそのまま信用できるわけがなかったのだ。


「面白いこと言いますね」


「あ、やっぱり信じてはくれなかったか」


「そりゃそうですよ。だって顔が全く違いますから。人間、雰囲気を変えることは出来ますけど、テレビで見た顔とはそもそもの造りが全く違います。あっちの方は、もうちょっと目鼻立ちくっきりしてましたよ」


「唯一まだ捕まってないから、そう言ったら信じてもらえるかと思ったんだけど、さすがに無理か。でも、さすがに捕まらなさすぎて、死亡説が出てるでしょ? 僕、あの人はもう捕まらないんじゃないかと思ってるよ」


「まさか」


「君は捕まると思ってる?」


「いつかは、捕まるんじゃないですか」


 僕が言うと、男は得意気に僕を指し示した。


「ほら、他人事。君が当事者意識を持てないうちは、捕まることはないさ」


「僕は警察関係者じゃありませんから」


「確かにそうだねえ」


「警察希望でもありません」


「はは、そうかそうか」


「もちろん一般市民として、協力は惜しみなくしたいとは思いますけど」


「それは良い心がけだねえ」


 男に何志望か問いかけられたことは覚えているが、答えたところで男の反応は芳しいものでもなかった。

 さて、その時の僕の内心としては、この掴みどころのない男の正体はいったい何か、というところにあったのだが、いくらその瞳の奥にある本心を透かしてみようと研究してみたところで、上手くいくわけもなかったのであった。僕たちは、雨の日に偶然出会った二人の人間でしかなかったのである。そのまま会話は続いた。


「ああ、同じ犯罪で言うと、最近の事件で印象的だったのはあれだね。中学生少女殺人事件。こことも遠くないでしょ? 同じ市内で起こった事件だ」


 男は良い話題を見つけたといった顔色であった。その時、僕はその事件にかなり関心を抱いていたと言っていい。その理由は、事件が起こった場所がほど近かったから、だけではない。世間での事件の記憶もまだまだ鮮明で、毎日のようにテレビでも取り上げられていた。まさにその日の朝も、僕はその事件について、自宅で流れてくるテレビで見ていたのである。男は顔に奇妙な笑顔を浮かべていた。


「あれの犯人、僕なんだ」


 通行人が、ちら、と不審そうな目を僕たちに向けて歩いて行くが、男はそのままにやにやと笑うばかりであった。


「またまた、そんなこと言ったって信じませんよ」


「だよねえ」


「てんどんってやつですか」


「ともあれ、起こって一週間も経たないからねえ。確か、市内の私立中学に通う少女が自宅玄関前で絞殺されていたって事件。なかなか興味深い事件だよ。こういうの、好きって言うと語弊があるんだけど、ついついニュースでやってると見ちゃうんだ。犯人はまだ捕まっていないけど、興味深い点がいくつかあった。せっかくだから、この話をして時間を潰そうか? 晴れるまで、とは言わなくても、雨が止むまで、ね」


 雨はまだ止む気配はなかった。提案をしてくる男に対して、僕は吸い寄せられるように肯定をしたのである。

 男はこほんと咳を一つ落としてから、話し始めた。


「君も知ってる部分はあるだろうけど、概要を説明するね。殺害されたのは、村崎奈々さん、私立中学に通う二年生。真面目で勉強の出来る、大人しい子だったらしい。その素行も申し分なく、先生からの評判は高く、クラスメイト達との関係も特に問題はなし、ある子たちからは影の薄い子なんて呼ばれてたみたいだけど、まあそこは良いだろう。事件が起こったのは、火曜日の、すでに辺りの暗い午後五時前頃。奈々さんは、月水金は文芸部の活動があったものの、他の曜日は学校が終わると寄り道もせず帰ることがほとんどで、四時四十五分頃から五時頃までに帰宅するのがいつものことだったらしい。その点で言えば、奈々さんの行動はルーチン化していた。あまりこれは良くない事だと思うね。君も、一定の行動パターンを作ってしまうのは止めておいた方が良いと思うよ、念のため。

 事件当日、奈々さんはいつも通り歩いて家路を辿った。奈々さんの自宅は、大通りからコの字型の道に入った一番奥側にあり、抜け道はなく、一度その道に入れば、ぐるっと回ってもう一方の道から同じ大通りに出るか、あるいは元来た道を戻ることでしか出られない。ちなみにこの道は、ぐるっと回っても五分くらいの距離らしいよ。その時、大通りに面した公園には地元中学生たちがたむろっていて、奈々さんが四時五十分過ぎにそのコの字の道へ入って行くのを目撃している。中学生たちが奈々さんを目撃して二、三十分後、奈々さんの姉が帰宅するのをこれも中学生が目撃している。全く、寒いのに何をやっているんだろうと思ったけど、それが事件の重要な証拠になるんだからねえ。中学生がそこにいたのは、五時前から五時半前まで。もともと人の通りは多くないため、その間その道を通ったのは奈々さんたち姉妹だけだと証言している。

 第一発見者は姉だった。道に入って行ったはずの高校生の姉が血相を変えてすぐに同じ道を引き返してきて、「助けて妹が」と叫んだそうだ。中学生たちや通行人たちは姉と一緒に自宅前へ行き、そこですでにこと切れた奈々さんを発見、警察へ連絡という流れだね。ちなみに奈々さんの家は共働きで、両親はまだ帰って来ていなかった。これが大体の事件の流れかな。

 犯人は、奈々さんを待ち伏せ、理由は何であれ絞殺した。奈々さんの家の鍵は鞄の中の指定位置に入ったまま、家に入られた形跡はなく、洋服も綺麗なまま、ただ首だけ縄のようなもので絞められていた。そこには明確な殺意のみが見えるけれど、ここでどうしようもない疑問が一つ」


 男はやっと口を閉じると、僕を見て微笑み息を吸った。


「犯人はどこへ消えたんだろう?」


 これが、世間がこの中学生殺害事件に大きく関心を集める理由であった。それだけを取り上げてしまえば、まるでミステリーのように聞こえてしまう。男はなぜか得意気で、僕に挑むような目つきでいた。

 しかし僕には疑問が残る。


「地元中学生がずっとその道を見ていたとは思えません。絶対に、姉妹以外に人は通らなかったんですか?」


「彼らは、辺りは暗かったが人が通れば分かる距離にいたと話しているし、確かに公園との距離を鑑みれば、そう言うのも分かる。彼らが通る人を見逃したとは思えない」


「コの字型の道なんですよね。奈々さん発見後、騒ぎに乗じて逆の方の道から悠々と出たのではないか、とテレビで言っている人がいました。姉と一緒にみんなで駆け付けた後、その道を通る人がいないか見ていた人はいないらしいじゃないですか」


「確かにそうだ。だけどよく考えてみよう。姉が帰って来る時間はまちまちだったそうだし、あんな道、誰がどのタイミングで通るかは分からないよ。あそこに家が一軒しかなかったわけじゃないんだ。人通りは少ないけれど、ないわけじゃなかった。姉が帰って来たのは、奈々さんが帰宅した二、三十分後のことだ。犯人は、偶然誰にも見つからなかったんだろうか? こんなのリスクが高すぎるよ。それとも、捕まっても良いと思っていたんだろうか?」


「……じゃあ、姉がやったとか?」


「姉が殺したのなら、それはそれで説明は付くかもしれないけど、首を絞めた縄のようなものは未だ見つからないし、一分、あるいは数秒で妹の首を絞めて殺せるとは思えない。姉はすぐに引き返してきたそうだから、有り得ないだろうねえ。犯人は、中学生たちが公園に来る前から玄関で奈々さんを待ち伏せし、絞殺後に何らかの方法で消えた、と考える方がよほど良いと思う」


「なら、道を出る必要がなかった人、というのが現実的でしょうか。その道中に家がある人。だったら、説明は簡単です。誰にも見られることもなかったと思います。首を絞めた縄が見つからないっていうのは、上手い具合に家の中で処理した、例えばトイレに流すとか、なのかもしれませんし。まだ見つかってないだけかもしれません」


「ああ、ご近所さんってことだねえ。確かに、それが一番考えやすい方法だ」


「公園から地元の中学生たちがその道を通る人を見ていたなんて、犯人は考えなかったはずですよ。それで自分の首を絞めることになったのなら、とんだ間抜けですよね」


「面白いことを言うね、いいよ、だんだん気分も上がって来た」


 男は言葉通り、興奮したように頬を上気させていた。両手を擦り合わせて、ぎらぎら光る瞳でにっこりと微笑む。僕はそんな男の様子に、どうしたって言い知れぬ怪しさを感じずにはいられなかったのである。


「面白くなってきたところで、じゃあ君にちょっとした情報を提供しよう」


 男はそして意気揚々と話し始めた。


「容疑者その一。被害者宅の二軒隣に住む大学生の男。四人家族らしいけど、彼は当時一人で家にいてアリバイがない。奈々さんとの接点はほとんどなし。本人曰く、ずっと一人でゲームをしていたそうだ。

 容疑者その二。向かいに住む、三匹の犬を飼う六十代の夫婦。当時、二人とも家にいたと証言し合っているけど、二人で示し合わせている可能性はあるね。子はなく、周りから見ると奈々さんのことは可愛がっていた印象だったらしい。小さい頃から自分の子供のように見守っていた、だとか。

 容疑者その三。斜め向かいに住む四十代の女性。母親と二人暮らし、昔は引きこもりだったらしく、最近はずっと仕事を始めては辞めることを繰り返している。今は仕事をしていなくて、まだ母親が娘を養っているといった様子だね。その時母親は仕事に出ていたようだよ。奈々さんとの接点はなし、近所付き合いもなし。

 容疑者その四。四軒隣の九十代の男性。八十代の彼の妻は、毎月決まって第二と第四火曜日、三時頃から五時過ぎまで、近所に住む友人たちとお茶会を開いているそうで、家を留守にしていた。事件が起こったのは火曜日だからね。その間、九十代の夫は一人で家にいてアリバイはなし。ただ正直、ボケているというのか、忘れっぽいというのか、九十過ぎているからねえ、やっぱりちょっとはっきりとはしていないんだよ。一人で家に居させておくのはそろそろ危ないんじゃないかと、妻は危惧していたそうだよ。だけどそうすると、楽しみにしている友人たちとのお喋りの時間がなくなってしまうからねえ。その日、妻はちょうど騒ぎが起きていた五時半前に帰宅し、事件を知ったそうだ」


「容疑者その四を、容疑者と言うのはちょっと無理があるんじゃないですか? 九十歳が人を殺せるとは思えません」


「だけど、かなり忘れっぽいだけで普通に歩くし、食べるし、元気に話も出来るんだよ。そういう人の方が、案外力が強かったりもする」


「詳しいですね。そんなこと、ニュースで見てたんじゃ分からないと思いますけど」


「独自の調査の結果さ。さて、君はどう推理する?」


 怪しげな男の問いかけに、僕は素直に考察することにした。しかし、さっぱりなのである。シャーロック・ホームズでもなし、話だけ聞いて推理するなんてことが出来るわけもなかったのだ。


「お手上げなんて、つまらないことは言わないんだろう?」


 男は挑発するような声色である。僕は小さく息を吐いた。


「じゃあ、まだ雨も止みませんから、僕なりに考えてみます」


 僕はしばらく雨を見上げて、男の情報からあらゆる可能性について考えた。僕に出来るのは、ちゃちな考察でしかない。それでも期待している目を男が向けてきたので、僕はとつとつと話し出した。


「犯人は、六十代の夫婦」


「その心は?」


「理由なんて分かりませんよ。子供はいなかったそうですし、奈々さんのことは自分たちの子供のように可愛がっていたそうですけど、可愛さ余って憎さ百倍だったのかもしれませんし、僕にはさっぱり分かりません。不慮の事故に似た何かだったのかもしれないし、何かいろんな理由が絡み合っていたのかもしれません。僕の考察はこうです。

 奈々さんの行動パターンについて、夫婦はよく知っていたことでしょう。何かしらの理由で、二人で協力して奈々さんを殺そうとなり、事件当日、待ち伏せをした。奈々さんはまさか自分が殺されるなんて思わなかったため、それに夫婦二人で協力したわけですから、抵抗される間もなく容易に絞め殺すことが出来た。その後、家に帰って、何事もないように過ごし、誰かが発見してくれるのを待った。縄のようなもので首を絞められたということですが、それは飼い犬のリードだった。――――以上、簡潔でありきたりですけど、僕の考察はこんなものです。つまらないですか?」


「いいや、そんなことはないよ。とても興味深い。その調子で、大学生男が犯人だったパターンと、四十代女性が犯人だったパターンも考えてみません?」


「何でそんなこと」


「ちょっとした時間潰しだよ。じゃあ君は、六十代夫婦が犯人だと思っているわけだね」


 僕は不承不承頷いた。今聞いた中で、ふと考えついたのがそれだけだったのだ。猿でも考えられることだろう。僕はそれから首を振って、男へ対して言った。


「やっぱり一ついいですか。そもそも、その中に犯人はいるんでしょうか? 今の情報の中で適当に考察はしてみましたけど、本当に、抜け道は他にないんでしょうか? 見落としていることも、あるんじゃないかと思うんですけど」


「いいところを突くね。じゃあ、秘密の抜け口の話をしようか」


 男が独特のテンポで言うので、僕は黙って聞くことにした。


「実は、これらの家を通って奥に行けば、向こう側にある狭い道へ出られるんだ。これなら中学生たちに見られることなく、道を出ることが出来る。だけど重要なのは、どの家も誰にも入られていないってことだ。他の、留守だった家も同様で、誰かに入られた形跡はない」


「誰にも気付かれずに、上手い具合に鍵をこじ開けて留守の家に入り込み、上手い具合に閉めて家を出るっていうのは無理ですか?」


「無理だろうねえ、さすがに」


「ですよね。じゃあそれは、秘密の抜け口とは言えないじゃないですか」


「どんなものであれ、すべての情報を開示しておくことが君のためだと思ったからさ」


「じゃあやっぱり六十代夫婦」


「ファイナルアンサーでいいかな?」


「そんなこと言って、どうせ答え、知らないじゃないですか。警察も知らない犯人を、知っているわけがない」


「最初から言っている、犯人は僕だって」


「またそんなこと言って。あなたは、容疑者の中に入っていないじゃないですか」


「僕は情報を提供しただけであって、誰も容疑者の中に必ず犯人がいるとは言っていないよ」


 僕は胡散臭い男の顔を見つめた。どう見ても、何回見たって覚えられない、平凡でつまらない顔である。


「そんな顔しないでよ。こんなことなら言うんじゃなかったなあ。失敗したかも」


「じゃあ、分かりました。犯人をあなただったとして考えてみますね」


 僕はそんな風に言って、不承不承考察を始めたのだった。男が奇妙な鋭さを持った笑顔を浮かべるので、せっつかれるように慌てて考えたのである。


「殺した理由は……まあ、何かしらがあったとして、絞殺後のことです。どうやって逃げたかについてだけ考えてみますけど――――あなたは、屋根を伝って逃げた」


「まるで忍者だねえ」


「じゃあ、ハンググライダー」


「どこかの怪盗みたいだ」


「透明人間になる粉でも振りましたか?」


「もう考えることを放棄しちゃってるよ」


「暗闇に紛れて、全身真っ黒のタイツで逃げた」


「さすがにそれで誤魔化せたら面白いけど、見つかったらかなりの不審者だねえ。ボツで。他にはある? そろそろ尽きてきたかな?」


「実は自殺だった」


「それはないなあ」


「まあ、気を失ったら絞められませんし、縄が残ってないですしね。奈々さんに自殺する理由があったとも思えません」


「分かってるんじゃないか」


 正直、その時僕はすでにお手上げだった。自分が犯人だと宣言する男に対し、その考察を深めろというのはなかなかに難しいことである。


「じゃあいいですよ、犯人だって言うなら、消えたトリックについて教えて下さい」


「投げやりだなあ。いいよ、君にだけ特別だ。教えてあげよう」


 その時の僕の感情は、期待や不安等が入り乱れた乱雑状態だったはずである。男が何を話すのか、話そうとしているのか、真実と偽、それらについて見定めようと、一心に耳を傾け、男の一挙一動に注目した。

 男はそして、事の顛末を話し始めたのである。


「たまには、世間にミステリーチックな事件を供給してもいいんじゃないかって思ってね。ミステリーというのは古今東西、あらゆる種類の人間から愛されるものだからねえ。供給できる側に立つことは、とても気分が高揚するよ。でもまあ、こんなものじゃ大したミステリーとは言えないんだ。僕はまだまだ、この点については初心者だからね。じゃあ、前置きはいいから話を始めよう。

 相手を村崎奈々さんに選んだのは、本当に偶然なんだ。たまたま目に付いたのがあの子だったんだよ。奈々さんの運が悪かったのか、あるいは運が良かったとも言えるかもしれないよ。だって、長生きしたってそうそう良いことなんて多くはない。世の中の厳しさを知る前に、純粋なまま死ぬことが出来たというのは、もしかすると喜ばしいことであるとも言えるんじゃないかな? とにかくあの子は良い子だったし、死ななければならない理由なんてなかった。ただ、行動がパターン化していたこと、僕に目を付けられてしまったこと、家の場所なんかが原因で、僕に殺されてしまったわけだ。でも、悪いことをしたとは思ってないよ。生物は生まれた時点から、死へのカウントダウンが始まっているわけだろう? 生があれば必ず死もある。死ぬのがちょっと早いか遅いかだけの話だ。死に方がどうであれ、結果は同じだ。将来有望って言ったって、どうせ何十年かのこと。こんな考え方、きっと君には理解できないだろうねえ。ぜひ、怒らないで最後まで聞いてほしい。

 僕は事前に近辺について調査をしていた。世間に広くミステリーを供給するためには、努力を惜しむつもりもなかったよ。あの公園に中学生たちがいたのは偶然じゃない。本人たちは偶然だと思っているだろうけどね。だって、証言者がいないとつまらないから、上手くいって良かったよ。すでに言った理由から僕は着実にプランを練り、その日、奈々さんを待ち伏せして絞殺した。普段はナイフが手っ取り早いんだけど、それだと血痕のこともあるから、絞殺にした。血は好きなんだけどねえ。手で絞めたいところだったけど、明らかな証拠が残ってしまうから道具を使ったんだ。その後、僕が向かったのは、とある家だった。抜け道を使わせてもらうためさ。すでに君も知っている。どこの家だと思う?」


「留守の家ではなく、ですか?」


「そうだよ。在宅中の家。四つに一つだ」


「……容疑者その四、ですか」


「その心は?」


「九十代の老人は、家に人が来たことを忘れてしまっていて、証言しようがない」


 僕はやけくそである。ぞっとするような男の声はホラーめいていて、冗談だろうと分かりつつも、鳥肌が立っていた。


「御名答」


 男は、あっさりとそう言った。僕は目を瞬かせる。


「え。本当に?」


「正解したんだから、疑わずに誇りを持ってよ。大正解だ。実を言うと、僕は何度かそれまでに家にお邪魔したことがあったんだよ。そしてその日も、インターフォンを押した。妻に、誰か来ても出なくていいときつく言い含められているはずなんだけど、それを忘れちゃうんだろうね。いつだって必ず出ちゃうんだ。その日も僕を出迎えてくれたよ。ケアマネージャーですって言えば、笑顔で家に入れてくれるんだ。耳は遠いけど、会話は成り立つし、面白い人だよ。僕としてももっと話していたいところだったけど、悠長にしている暇はない。適当に会話を終わらせて、失礼しますって庭の方に出たんだ。お爺ちゃんはにこにこして僕を咎めなかったよ。あの家には証拠は一切残していない。指紋も、髪の毛一本さえもね。それから狭い道へ出て、縄を処分、悠々と歩いて帰った。結局、その間誰も僕を見た人はいなかった。僕があの時間、あの近辺にいたことを知る人はいないというわけさ」


 あっけない解答であり、聞いてしまえばそんなものかと拍子抜けしてしまう。僕はしだいに雨が止むのを眺めていて、男は相変わらず興奮したように息をしていた。


「これが真相。どうかな、面白かった?」


「面白いというか、それが真相だったら拍子抜けですね」


「通報する?」


「いや、冗談ですよね。証拠もないですし」


「ははは、そうだねえ。確かに冗談みたいな話だ」


「冗談、なんですよね?」


 僕はふと不安に煽られ、男に問いかけた。しかし男は何も答えないまま、果てしない闇が続く空を見上げていた。


「数日後には、二軒隣に住む大学生の男が容疑者になる予定だからね。工作して来たんだ。当然のことだよ」


「本当にそうなったら、あなたのことを犯人だと信じますよ」


「信じた時にはもう遅いよ。捕まえるのなら今だ。きっと君、僕が服を着替えたら、僕の顔なんてすっかり忘れてしまうんだからね」


 それは呪いのような言葉だった。男の楽しげに笑う口元だけが、僕の意識にこびりつくようだった。


「じゃあ、自主して下さい」


「あはは、それはないな。ないよ、どう考えても。自由じゃない毎日なんて、死んでるのと同じだ。生きている甲斐がないと、僕は思うなあ」


「悪い事をしているのに自由が欲しいなんて、傲慢過ぎます。人として、どうかと」


「君は手厳しいねえ。ま、君たちに出来ることは、僕のような人間から逃げることだよ。最初に話したよね、夜道を歩いていたら女性に逃げられたとか、今日デートを断られたとかって。君たちが取るべき行動はまさにそれで、悪い奴らに目をつけられないよう、気を付けた方がいいってことだ。デート相手の女の子なんて、今日気分が高ぶっていい感じになったら、殺そうかと思ってたところだからねえ。危機一髪、せっかくだから、あの子には幸せに生きて欲しいものだよ。一応言っておくけど、子供や女性が狙われやすいのは道理だけど、君みたいな男の子だって分からないよ? 幸い、ここは人気が少ない」


「何が言いたいんですか」


 見渡す限り、ここにいるのは二人の人間だけだ。ここから人が一人いなくなったところで、騒ぎ立てる人はいない。

 二人の目の前を、一台の車が通り過ぎて行った。


「もし僕がその気になれば、君だってすぐに殺されてしまうということだ。今日はしないよ、楽しかったからねえ。すごく、正直すごくいい感じの気分なんだけど、君を殺すのは惜しいって、心のどこかで思っているのかもしれない」


 男は一歩前へ出て、天に手を差し出すようにした。


「雨も止んだみたいだ。どうやら天に祈りが通じたねえ。じゃあ、ちょっと名残惜しくもあるけど、そろそろお開きにしよう」


 一歩二歩と歩いて、僕と男の距離は開いて行く。濡れた傘を持つ僕と、何も持たない男の間には大きな隔たりがあるように見えた。


「君はきっと、戦国の世の中でだって生きていける人間だと思うよ。僕に目を付けられたにもかかわらず、あんな風に仲良く会話をしたにもかかわらず、見逃してもらったっていうのは、たぶんきっと、とてつもない強運の持ち主なんだからねえ。全くすごいもんだ、感心するねえ」


 男は五歩ほど下がった場所から、にこやかに微笑んだ。


「楽しかったよ、ありがとう」


 男はひらひらと手を振った。僕は振り返すこともなく立ち尽くした。背中はあっという間に駅方面へと消えてしまい、同時にその顔は記憶の向こう側へ飛んでしまって、僕は二度とあの男と会うことはないのだと確信した。

 そして、その二日後のことであった。大学生の男が、容疑者として警察に捉えられて行ったのである。ニュースでそれを知った僕の驚嘆は、誰もが想像する以上のものであっただろう。唖然、という言葉しか出なかったのである。あの時の男の態度や言葉、詳細な事件の内容等が、頭に浮かんでは消えて行くばかりで、しばらく日々の生活に身が入らなかったのは無理もないことだった。街を歩く度に男の姿を探してしまうことだって、当然のことだった。その時僕が単独で行なった調査の結果は、男の言葉が全て真実であると裏付けるのに十分だった。

 すでに、男はどこかへ消えてしまっている。僕の目の前に現れることは、二度とないだろう。今さら自分が証拠もない、ただ聞いただけのこんな話を警察へ持ち込んだところで、事件が引っくり返るとは思えない。当時、僕の気持ちはそんな風に後ろ向きになっていた。家族や友人たちから心配されるほど、憔悴していたのであった。その時はもう男の顔なんてすっかり忘れていたけれど、それでいてあの奇妙な笑顔の印象だけはずっと頭の一隅に引っかかっていて、夜な夜な僕を苦しめていたのである。後に、僕はやはり思い立って警察へ情報提供はしたのだけれど、それが有効活用されているか否かは定かではない。

 僕は、あの奇妙な男が殺人犯であると、あれからずっと疑うことなく信じている。だから、あの時の僕の行動によっては、すでに未解決事件となりつつあるあの一件も、捕まらない脱走犯の一件も、即時に解決させることが出来たのだと信じている。ニュースで見た脱走犯とは顔が違う、なんていうものは、僕にとって微々たる問題となったのである。今となっては、外見なんてどうとでも変えられる、と考えている。村崎奈々の事件については、大学生の男が容疑者とされたが、後にあれは真犯人による偽の証拠であり、工作であったと結論が出たのだった。

 全て真相は謎のまま、時間だけがむなしく過ぎていくばかりである。僕には難事件を解決する才能はないし、解決の糸口についての閃きを得るどころか、あっけらかんと自白をする凶悪犯罪者をみすみす目の前で逃す大失態を犯してしまった。だから、僕はここで懺悔をしたいと思う。


 皆様、本当に申し訳ありませんでした。

 もしかしたら、その後起こった各所様々な殺人事件はあの男の手によるものかもしれないと思うと、今も奇妙な男の笑顔が思い起こされる。男の気分が異なれば、あの時僕が殺されていた可能性だってあったのである。しかし、幸か不幸か、僕は今も生きている。今さらお詫びのしようもないのだけれど、文章なんてとうてい下手くそな僕がこんな風に筆を執った理由は一つである。

 どうか、皆様もお気を付けて、悪い奴に目を付けられませんように。


 以上、これが今までの僕の人生における、最も苦い記憶である。





 蛇足になるのかもしれないけれど、僕としては書かずにもいられないので、最後にちょっとした付け足しをしておきたいと思う。元号が令和になって三日目、二〇一九年五月三日、しばらくぐずついていた天気が回復してやっと青空が見えてきた金曜日、いつものように呼び出しを受けた僕は、何でもない拍子にその人から面白い話はないかと問いかけられ、この一件についての話をした。他の誰にもとうてい話せない件であったが、僕はあの人にだけ話したのである。雨の日に奇妙な男に出会ったこと、僕にはその男が犯人だとしか思えないということについて話をすれば、その人は、いつもの長調子どころか一言も口を挟むことなく僕の話を聞き、終わった後も深く長考する様子であった。眉間に皺を寄せ、一点を見つめるその人を、僕はとても不思議に思ったのである。あれ以来、そんな様子を見せるその人は見たことがなかった。その真意については結局問い出せず、その人は長く長く黙った後、ふいに顔を上げた。その時の変装は、六十代男性の姿であった。晴れの風に同調するような笑顔を見せながら、渋い声でこう言った。


「そんな顔をしなくても、あなたが何かを気にする必要はありません。真相なんて、いつの時代も闇の中です。さて、ではこれからあなたに楽しい時間の使い方をお伝えしますから、肘なんて付くのはやめにして、美味しいお茶でも淹れてきましょう」

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幸か不幸か 糸坂有 @ny996

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