第16話 資料・人物・参考図書
議会:衆議院(公選議員で、予算の先議権あり)貴族院の2院政。
貴族院議員は、皇族議員、華族議員及び勅任議員によって構成され、解散はなく、全議員が非公選である。
枢密院:枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた。「顧問官」の人数は25人前後。
元老:もとは明治期の元勲を指す。天皇の輔弼を行い、内閣総理大臣の奏薦を主にした。大正末期になって、山縣と大隈が相次いで没し、松方も高齢であったため、西園寺が事実上の元老主導者となった。西園寺も自分が最後の元老として終わろうと考えていた、最後の元老の役割は政党政治が軌道に乗るのを見届けることと認識していた。
首相の選出:西園寺が輔弼・推薦する。天皇の大命降下があり、本人が承諾すれば、国会で指名される。西園寺は事態が思いと違う方向で進んで行くので意欲を減退、高齢も重なり、内府や首相経験者を加えた重臣会議に移っていく。湯浅内府が病気で辞職したあとを受け継いだのが、木戸幸一で、内府となって重臣会議をリードした。
ローザのレーニン批判
ローザはロシア革命に熱いエールと絶対的支持を与えながらも、社会主義にとって危惧するところを『ロシア革命論』の中で指摘した。
「無制限な出版・集会の自由、自由な論争がなければ、あらゆる公的な制度の中の生活は萎え縮み、偽りの生活になり、そこには官僚制だけが唯一の活動的な要素として残ることになろう。公共の生活は次第に眠り込み、無限のエネルギーと限りない理想主義を持った数十人の党指導者が指令し、統治し、現実にはその中の十人程度の傑出した首脳たちで指導して、労働者のエリートが指導者たちの演説に拍手を送り、提出された決議案を満場一致で承認するために時折会議に召集される、ということになろう」と、プロレタリアの独裁と党の独裁とは違うと警鐘を鳴らしたのである。プロレタリアの独裁の下での社会主義的民主主義はあり得るとしたのである。レーニンのロシア革命は熱烈に支持したが、またレーニンの前衛主義を痛烈に批判したのである。
人物:
牧野伸顕:大久保利通は父。幼少のとき牧野家に養子に出される。吉田茂は娘婿。第一次西園寺内閣で文部大臣を務める。14年内大臣府(内府)になる。これは英米協調派で自由主義的傾向の牧野を置くことで、天皇及び宮中周辺に狂信的な皇室崇拝者を置くことを避けるための西園寺の意向であった。内府就任後、牧野は元老と天皇との間の情報仲介役として、後継首班奏請に関与するようになる。天皇を常時輔弼するという大任を昭和10年まで担う。内閣の内務大臣とは区別するため(内府)。
木戸幸一:母親は明治の元勲である木戸孝允の妹治子である。京都帝国大学時代、近衛と同学。1930年(昭和5)、近衛文麿の抜擢により、商工省を辞し、内大臣府秘書官長に就任。1940年から内府を務め、従来の西園寺公望や元・内府牧野伸顕に代わり昭和天皇の側近として宮中政治に関与し、宮中グループとして、近衛や原田熊雄(西園寺の秘書)らと共に政界をリードした。
原田熊雄:近衛とは学友。近衛に紹介され、最後の元老・西園寺公望の晩年の私設秘書として政界の情報収集にあたり、また興津にこもりがちの西園寺の意思を各方面に伝達する役割を担、文字通りその手足として八面六臂の活躍をした。口述回顧をまとめて出版された『西園寺公と政局(原田熊雄日記)』は、戦前昭和の激動の政局を知る上での貴重な史料となっている。
志賀 直方:志賀直哉の叔父、直哉の学習院入学と同時に直方も学習院に編入。ちょっとした暴行事件で退学処分となるが、院長の近衛篤麿の配慮で1年後に復学。この恩義から近衛文麿の後見役として尽力する(篤麿死後、東亜同文会は負債を残していた)。日露戦争に従軍し、奉天会戦で右目を失明し退役。荒木貞夫陸軍大将と親しく、その他にも真崎甚三郎、小畑敏四郎、柳川平助ら皇道派と密接な関係となる。鎌倉の建長寺に参禅し、それが縁で後藤隆之助と知り合い、親交を深め後援者となる。
後藤隆之介: 1932年6月に欧米視察に出る。アメリカではルーズベルト大統領のブレーン・トラスト(これが研究会になった)とニューディール政策に感銘を受ける。近衛文麿のブレーンとして彼を支え、大政翼賛会の組織局長を務めた。
石原莞爾:陸軍中将。いわゆる満州組。関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件や満州事変を起こした首謀者であるが、後に東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気及び反東條の立場が寄与し戦犯指定を免れた。昭和11年、関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作に対し、中央の統制に服するよう説得に出かけた時には、現地参謀であった武藤章が「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し、同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。
昭和12年、宇垣一成に大命降下が下ったが、参謀本部作戦部長の石原が中心になり、上層部に働きかけ宇垣内閣を阻止したが、石原は後年これを人生最大級の間違いとして反省している。
杉山元陸軍大臣:陸軍大臣宇垣一成に重用され、昭和3年には陸軍省軍務局長。二・二六事件で青年将校らの要求を拒否し、反乱鎮圧を指揮したことを評価された。事件後には教育総監、同年に陸軍大将となり、梅津美治郎、東條英機ら統制派中枢に担がれる形で軍の重鎮、林銑十郎内閣で陸軍大臣、第1次近衛内閣でも留任。盧溝橋事件では強硬論を主張し、拡大派を支持。近衛はこれを嫌い辞任に至る。敗戦後の9月12日に司令部にて拳銃自決。夫人も後追い自決をした。
天皇とのエピソードで、南方作戦の成算について問われたのに対して、「南方作戦は約五箇月にて終了の見込み」と返答。これに対して天皇は納得せず、支那事変勃発当時陸相として速戦即決と述べながら未だ継続している点を挙げた。杉山が「支那の奥地が広大」という説明をしたところ天皇は「太平洋はさらに広いではないか」と叱責したとされる。
東京裁判A級戦犯(この中で名前が出て来た者)
絞首刑:東条英機(首相)、広田弘毅(首相)、板垣征四郎(陸軍大臣)、武藤章(陸軍軍務局長)
終身刑:荒木貞夫(陸軍大臣)、木戸幸一(内府大臣)、平沼騏一郎(首相)、小磯国昭(首相)橋本欣五郎(陸軍大佐)賀屋興宣(大蔵大臣)
病死:松岡祐介(外務大臣)大川周明(右翼理論家)精神鑑定により裁判から除外。
真崎仁三郎(参謀次長・教育総監)岸信介(商工大臣)は不起訴になっている。
参考図書
『近衛秀麿』筒井清忠、『近衛秀麿』矢部貞次、『昭和陸軍と政治』高杉洋平、『近衛新体制』伊藤隆、『大統領への証言(手記を含む)』近衛文麿、『裕仁天皇の昭和史』山本七兵
近衛文麿と陸軍と戦争 北風 嵐 @masaru2355
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