グロテスク

渡邊利道

grotesque

 そういう連絡はいつも明け方に来る。共犯者の密告のような、抑えた、ふるえる声をどこか遠くに聴き、日時をメモに書き留めてまた床に就く。なかなか眠れないと思っているうちに微睡み、不安な夢から目が覚めるともう真昼で、しんと沈んだ部屋で深海から浮かび上がったみたいに感じる。睡眠不足が慢性的になっている。冷たい水で顔を洗い、ハムエッグと珈琲の朝食を摂る。喪服を着て家を出る。川のように振る舞っている国道沿いを歩きながらタクシーを探すが、今日にかぎって一台たりとも通らない。そのうちに道を逸れて橋の上にきた

 きらきらした反射を透かして魚が自由であるかのように水の中を滑っていく。

 薄い青い空。風がひろびろと渡る。

 もう深い秋だ。秋に死ぬなんて時節を気にしないあの人らしいといまさら苦笑が浮かぶ。するとタクシーが向こうからゆっくりあらわれ、手を伸ばすとすぐに停まった。ドアに注意。背もたれに押しつけられながら、行き先を運転手に告げる。驚くべきことに一度も赤信号に止められず北から左へとすいすい進んでゆくと、色とりどりの街中のあれこれがどんどん後景に引いていって緩やかに勾配が急になっていく。

 あっという間に目的地に着く。砂利の音が耳障りに響き、鬱蒼と茂る森を背景にして屋敷が重く沈んで見える中に足取りも重く進んでゆく。革靴が汚れるなとうっすら思いながら道の端の白い花をつけた小さな草に目を止める。白い花の向こうに、リンゴのように赤い花もある。と、喪服を着た若い男に声をかけられ、連れられて門を過ぎると、まったくそれらしく用意されていない様子で屋敷はひっそり静まり返っており、だんだんと落ち着かない気分になってくる。人の気配がない。格子戸を開け、ふりかえらず若い男はずんずん進んでいくので上り框から廊下へと従いていくと、誰かが後ろで戸を閉める音がした。暗い廊下。こちらへと案内されたのは四畳ほどの狭い室で、一人床の間を背にふすまを意識しながら正座し、ただ待っている。式はどうなっているのか、伝言が間違っていたのか、それならばどうして予定されていたかのように迎えられたのか、訊きたいことは山ほどあったが口に出すのは躊躇われたし、なによりそのいとまもなく若い男は屋敷の奥に姿を消してしまう。どれほどの時間が経ったのか。ふすまが開いて、今度も喪服を着た女があらわれる。色の白い痩せた美人で、後添いにもらうもらわないでだいぶん揉めたという話を聞いたことがあり、ああこれが例の、と思いかけて恥ずかしさがこみ上げる。俯き加減に、あの人が呼んでいると告げるので、畳から立ちあがってふたたびその後を従いていく。廊下を歩く白い足袋の蹠が一瞬。しだいに解けるようにひたひたとぬるい気怠さが漂ってきて、周囲の暗さはいよいよ物の輪郭を朧にさせるほどに増し、心なしか足下が柔らかくなってきたようにさえ感じられる。ふすまが開けられる。波のように重い気配が廊下に雪崩れてくる。見ると座敷の中央に床がしつらえられていて、あの人が横になっていた。障子が燃えるように赤い。もう黄昏時になっているのだ。女が素早い身のこなしで座敷に入り、あの人の背中を抱き起こす。掛け布団が落ち痩せて水杙のようになった躯が見え着物の合わせ目から汚れた素肌も見え、見てはならぬものを見てしまったと思わず目を伏せた。ゆるゆる頸を振りながらこちらを見る。小さく落ち窪んだ眼窩の奥の意志的な光に吸い込まれそうな心地になるが、よくきたね、とどこか遠くの方から声が響き、それが自分に語りかけているあの人の声だと気づくのに少し時間がかかる。

 どう答えてよいのかわからない。あなたが亡くなったと聞いたんですと言えというのか。どうして嘘などついて呼び出したのかと詰問するべきなのだろうか。もっと近くにくるようにと促され、座敷に上がってその躯に顔を寄せる。まだ生きるのをやめていない瀕死のものにしかし確実にうっすら漂いはじめているあのにおいが鼻を衝く。あなたには悪いことをしたね、こんなことを言える義理ではないのだけれど、どうか頼まれてもらいたい。気がつくと彼を背中から支えている女の顔がすぐ近くにある。まるで三人で蝋燭に顔を近づけて暖をとっているみたいに。かぼそい老人の声が、訥々と、小さな火のように三人のあいだを流れる。どうか頼まれてくれないかね。そっと女が私の手をとって、病人の手を握らせる。耳のそばを女の唇が過っていく。こまったひとね。その瞳には同意を求めるような、共犯者同士とでもいったような親しみがある。苦笑すればいいのか、困惑すればいいのか、しかし神妙にしているよりほかになく、迷惑かね、と不安げに訊ねられれば、いったい何を頼まれているのかさっぱり理解していないのに、私はこう答えているのだ。

 いいえ、いっこうに。

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