喫茶ほとり

うつりと

第1話 店主ホーリー  堀幸

私の名はホーリー。

誰がつけたのか分からないが、それが自分の名であることを自覚している。


物心ついた時には、両親や家族はいなかった。

誰に育てられたのかも思い出せない。

いきなり「今」から始まったようにすら思えるほどに、過去の記憶が欠落している。


霧の晴れたことがない薄ぼんやりとした湖、スーアン湖の畔で、私は今日も店を開ける。

「喫茶ほとり」。

その名を彫った看板らしき木の板を、住んでいる丸太小屋の扉の脇へぶら下げた。


何のことはない、この小屋

を訪れた人に、自分で豆を挽いて淹れるコーヒーと、好きな酒、簡単な手料理を振る舞っているだけの場所だ。

店と呼ぶのもおこがましいかも知れない。


いつからこの場所で、この店を始めたのかも良く覚えていない。

もう長いこと、客が訪れたことはない。最後に客が訪れたのは一体いつだったか。

もしかしたら、この店に誰かが訪ったことなど、一度もないのかも……そんなとりとめのないことを考えてしまう。


いつも一人で本を読みながらコーヒーや酒を飲んでいるか、木彫や湖で釣糸を垂れているうちに、一日が終わる。


生計は、週に何度か、木彫で出来上がった水鳥やふくろうの置物やブローチ、釣果を街へ売りに行くことで、一人で生きていくには十分な稼ぎを得られた。

赤レンガに瓦屋根葺きの同じような造りの家や商店が並ぶその街「ミオカ」も、一年中霧に覆われており、そこに住む人々の顔も声もはっきりと見聞きできたことがない。

品物と金銭のやり取りにも言葉はない。

対価で、パンや果物、酒、コーヒー豆などを買い求めて小屋に戻る。


そしてまた、いつ訪れるかも分からないない誰かを待っているのか、いないのか、自分でも良く分からないままに店を開ける、その繰り返しだった。


さみしいとは思わなかった。

自分は人と触れあってはいけない、人の輪に入ってはいけない人間だと思っていたから。

自分の定位置は人の輪の外側、もし人々と道を共にすることがあるとしても、その斜め後ろを離れて一人歩くことだと思っていたから。そこにいて落ち着けたから。


なのに何故、私は店を開けるのか。

本当は人と触れあいたい、話したい、共に笑い、涙したい、そう思う気持ちがどこかにあるからではないのか。

自分自身の心の内すらよくつかめない私は、本当はさみしいのかも知れない。


心の内にも霧が降りたようなこの感じは……。

今日はもう眠りに就こう。

グラスに半分残っていたラム酒を一息に飲み干し、ベッドに身を投げ出す。


睡魔はすぐにやって来た。


明日、この「ほとり」に最初の客が訪うことになろうとは夢にも思わず、眠りに落ちた。


(続く)

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