ふたりを死が繋ぐまで

サトウ・レン

ふたりを死が繋ぐまで

「意外と、死ねないもんだ」


 そう言いながら、首すじに手を当てて、彼女がほほ笑む。痕とか、ってそんなに残らないんだ。僕のほうの首すじあたりまでせりあがった言葉が、結局僕の口から出ることはなかった。


 窓越しに降る雨を見ながら、きっと彼女は止むまで帰らないだろう、と思った。だからきょうは帰らないはずだ。彼女は、読み掛けの文庫本を栞も挟まず、屋根のように広げて、床に置いている。自分のなら構わないけれど、他人の本でそんなことをしないでほしい。


「あいつが心配するよ」


「絶対言わないでね。あなたは私を絶対に裏切らない共犯者」


 なにが共犯者だよ。ひとつも悪いことなんてしていないのに。彼女の同棲中の恋人は、僕の友達だ。友達、という言葉はこそばゆいけれど、他に良い表現が思い付かないのだから仕方ない。親友、なる気持ち悪い言葉は使いたくなかった。それは僕と彼の仲の問題ではなく、純粋に僕が、親友なんて言葉を嫌っているだけの話だ。


 また彼女が首に手を当てる。


 癖なのか、それとも僕に対する何かのメッセージなのか。僕には分からないし知りたくもない。


『この前、彼女が部屋で首を吊ろうとして、失敗した』


 先日、彼が僕にそう言った。淡々と、慣れた口調だったのは、はじめてではないからだ。僕も彼から似た話を聞くのは、二度目だった。前回はまだ彼と彼女が同棲をはじめる前、いや付き合うよりも前だったはずだ。


「死にたかった?」

 と僕が聞くと、彼女が溜め息をつく。


「らしくない」


「なんだよ、らしくない、って」


「前のあなただったら、絶対にそんなこと言わなかっただろうなぁ、って。どうしたの? 二十歳を過ぎて守りに入った?」


「なんのことだか」


「分かってるくせに」


 まだ彼女に会って間もない頃の話だ。最近仲良くなったんだ、と彼から紹介されたのが、そもそもの出会いだった。彼女だけが、僕たちとは違う高校の生徒で、いまよりもさらにどこか儚げで、だけどそれを口にすれば鼻で嗤いそうな、世の中を憎みながら生きている雰囲気が印象的だった。僕は彼女が苦手だ。いまもむかしも。初対面の時には、できればもう会いたくないと思った。なのに彼女は彼の目を盗んで、よく僕に会いにきた。本当に何も悪いことをしてなくても、勝手に行動自体から疚しさを感じ取るのが人間だ。だから彼には黙っていた。僕も、きっと彼女も。


 理由を聞くと、だって私たちすごく似ているから、と言った。こんなにも思考は共通しているのに、そこだけは真逆だ。僕はあまりにも似ているから、彼女に会いたくなかった。彼女と会うのが億劫で、嫌で嫌で、仕方なかった。鏡で自分の顔を見る時に抱く不快な感じに近いかもしれない。いやそれとは遠い気もする。


『彼女が、死のうとしたんだ!』


 この時の彼は、彼女のその行動に慣れていなかったのかもしれない。ひどく焦っていた。いや慣れてしまっていいものではないし、毎回その感情の持つひとつひとつの顔は違うのかもしれないが、それを汲み取ってほしい、というのは、大抵当事者の傲慢になる。


 確かあの時は、首を吊ろうとしたのではなく、刃物での自傷行為か何かだったはずだ。


『意外と、死ねないもんだ』


 前も、そう言って、彼女は傷痕を触っていた。やっぱりこれは癖じゃないよな、と改めて思うが、僕は知りたくない。いまは特に、知りたい、と思わない。


 あの頃の僕は、

『死にたいなら、殺したのに』

 と嘘偽りなく、本心で、そんな言葉を口にした。


 僕はひとが殺せる人間だ。


 すくなくとも僕自身はそう信じていた。幼い頃から、つねに希死念慮がまとわりついていた。ふ、っとたまにその感情を離したような気になっても、すぐに何も離れていないのだ、と分かり、がっかりする。いやがっかりしているのだろうか。ほっとしているような気もする。いやほっとしているのだ。それが気のせいであってほしい、と思っているだけで。


『本当に?』


 彼女の言葉に、僕が頷いて、結局そこに続きはなかった。あの日も雨が降っていて、彼女の声に混ざる雨音は、耳ざわりだった。耳ざわりだったのは、もしかしたら雨音ではなく、彼女の声だったのかもしれない。


 まるで僕を試すような。


 僕は、ひとが殺せる。こんなにもずっと希死念慮とともに生きていて、死についてばかり考えていて、それでも死ねずにいる男ならば、せめて自分は殺せなくても、他人ぐらいは殺せる人間でありたかった。そうでありたい、という願望でさえ足りない。せめて、殺せる人間でなければ、駄目なのだ。


 誰かの言葉にこの感情が惑わされることはなかったのだ。


 彼女に会うまでは。


 雨足が強くなって窓を叩き響く音が、僕を回想から現在へと引き戻す。床で、屋根のように開いていた小説は、もうもとの本棚に納まる形を取り戻していた。読み終えたのだろうか。


「あなたがタイムスリップしている間に、全部読んじゃった」


 僕の考えなどお見通しだ、とでも言いたいかのような自慢げな表情を浮かべている。生意気な。ちょっと前に、死のうとしていた人間の表情とは思えない。だけど希死念慮をコーティングして生き続けてきた人間が、そんな風に考えることのほうが、もっと偉そうだ。


「面白かった?」


「主人公がラストに、ずっと殺そう殺そう、と思っていたひとを殺そうとするんだけどね。結局、殺せないんだよ。最初から口だけなんだ。言葉だけなんだ。どうやったって行動を伴わせることができないひと。こんな小説を持っている誰かさん、みたいにね。私、みたいに、ね」


 手を伸ばせば届きそうな距離に、彼女の首がある。


 彼女が、うすくほほ笑む。僕の心を透かすように。


「口だけじゃないさ」


 僕は、彼女の首に触れる。そして力を込めようとした。


 苦痛に歪む彼女の表情を、


 想像した。


 雨音が聞こえなくなった。


「意外と、殺せないもんだ」

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ふたりを死が繋ぐまで サトウ・レン @ryose

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