無神論者

「時に、君」

 誰かが、はしゃぐ子ども達を注意する私を呼ぶ。

 振り返った先には、背中に大きな荷物を背負った色白で細身な男性が立っていた。

「はい、何か御用でしょうか?」

 私は子ども達から彼に向き直り、姿勢を正す。

「いや、用なんてほどのものでも無い。ただひとつ聞きたいのだ。君は、神を信じるかね?」

 私はその質問に思わず目をむいて驚いた。彼の口ぶりから、ここが何処で、私が誰なのかを知らないようには見えなかったからだ。

 彼は私を澄んだ瞳で見つめる。しかしへらへらと上がる口角の奥には、不思議と悪意はないように思う。

 私は凛と佇む十字架の下、本当の意味で彼に再度向き直る。

「ええ。聖職者ですから」

「なに、不快にさせたなら謝ろう」

「いえ、少し驚いただけです」

 少しして彼は続けた。

「これはほんの昔話だが、邪馬台国の卑弥呼は鬼道というまじないを使って国を納めたし、イエスキリストは神の声を聞き民衆を救いに導いた。無神論者はこれを素晴らしいことだと思う反面、心の奥の奥でこれをフィクションだと割り切って考えている。国が統治されたのは本当の事だが、その方法が“神の声を聞くこと”だとは信じられない。

 ――何故なら僕達は、神の声を聞いたことがないから。聖職に就く、君ですら」

 男は足を組み直して続けた。

「僕はこれに一つの仮説を提唱しよう。

 イエスは本当に神の声が聞けて、卑弥呼は本当にまじないが使えた。僕達は真に神の声が聞こえたんだ。数千年前までは。

 しかしある瞬間、僕達はその能力を失ってしまうんだ。暗がりの中の街灯が、帰路を示す北極星が、唐突に失われた。だから、暗がりの中彼らは争った。力や言葉で光を作ろうと夢中になった。いくら手を伸ばしても神が掴んでくれないもんだから。

 然し、神は決して僕達を苦しめようと手を引いた訳では無い。失った“声”の代わりに、僕達はとても大切な“音”を手に入れた」

「それは……」

 聖職者が聞く間もなく、男は続ける。

「ああ。皮肉だよ。神なき今、僕達は真に繋がりを手に入れたんだ。僕達が聞こえるたった少しの可聴域が、人間一人一人に宿る灯りそのものだったのさ」

 彼は大きな荷物を解く。すると、自然の木の色を纏ったチェロが顔を出す。

 お喋りだった彼は、そこからついぞ黙ったままだった。彼はただ、夕暮れまで静かにチェロを弾き続けた。

 礼拝堂の全体に、暖かで深みのある音が染みていく。先程まで元気一杯に外を駆け回っていた子供たちが、自然と彼を中心に放射状に座っていた。

 浅学な私には、彼の話の意図する所は分からない。

 けれど、この仮説が正しいか間違いかというのは、この平和の大団円のもとには小さな問題であることは確かだった。

 私はただ、この瞬間が永遠に続けばいいのにと思いながら大団円のひとつになった。

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2021短編集 唯野キュウ @kyu

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