鳥とパンツ
亜済公
鳥とパンツ
電車を降りて、公衆トイレに駆け込んだ。制服のスカートがばたばたと、うっとうしく絡みつく。個室の電灯は切れかけていて、チカチカとせわしなく明滅していた。
精液にまみれたパンツを脱ぐ。指先に触れる、どろり、とした感触に、喉の奥から酸の臭いがこみ上げてきた。誰とも知れない、男のそれ。これだから、満員電車は嫌なのだ。痴漢は、案外、ありふれている。
――前成説、というものがあります。
ふと思い出したその言葉は、昨日の生物科教師によるものだった。
「卵などの内側に、生まれてくる子の構造が、既に存在してるという。小人、と考えるのが、一番分かり易いでしょう。例えば人間の精子の中に、小さな人間が詰まっていて、それが大きく膨らんだ末、赤ん坊へと発達する……」
私は、汚染されたパンツを見る。ここに含まれる無数の精、その一つ一つに、誰とも知れない男の似姿が、ぎっしりと詰まっているのなら……。空想は、どこへともなく発展した。精液の内側から、ぽつり、ぽつり、と、小さな膨らみが現れる。無数の精は成長し、イクラほどの大きさになり、内側で、人影がこそこそ、うごめいている。ぷつり、ぷつり。小指ほどの赤ん坊が、殻を破って這い出てくる。一つ、二つ、三つ、四つ……それらはやがて、私のパンツから溢れてしまう。落下して、トイレの床にぶつかって、熟れたトマトのように潰れてしまう。赤い、染み。ぽつり、ぽつり……。
――もっともこの考え方は、十八世紀の頃には既に、否定されていたんですがね。
確か、そんなこともいっていたっけ。
私は、ビニール袋にパンツを入れて、口をなるだけ固く結んだ。どこか、ゴミ箱を見かけたら、さっさと放り込んでしまいたい。もっとも、下着を捨てられる場所なんて、そうそうありはしないのだけれど。
ほっと息をついて、見回した。個室の中は、不思議なくらい、綺麗だった。大勢の人が腰を据えて、用を足していったとは思えない。扉の向こう側からは、くぐもった喧噪が流れてくる。地面を叩く靴底だとか、何気なく吹かれた口笛だとか。
――気分は、酷く憂鬱だ。
――みぞおちの辺りに、泥が溜まっているような。
足は自然、学校と、反対側を向いていた。
「じゃ、あんた今、ノーパンか」
うはー、と、知子はのけぞった。長髪が、柔らかそうに、ふわりと揺れる。
「仕方ないでしょ。履いてるわけにも、いかないんだから」
「そりゃそうか。連中きっと、制服着てりゃ、誰だって構いやしないんだろな」
昼休み。屋上に、私と知子以外の人影はない。張り巡らされたフェンスの向こう、のっぺりとした校庭がある。白い砂が敷き詰められて、プラスチックの板みたい。サッカーボールを取り合って、生徒がせわしなく行き来していた。
「それで? 今まで、どこ行ってたの」
知子はそういいながら、ポケットから、サンドイッチを取り出した。購買で売っている、卵サンド。強引に、ねじ込まれていたせいだろう、形がいくらか崩れていた。まるで気に留める様子もなく、片手で器用に封を切る。
「散歩だよ」
と、私は答えた。
「気晴らしに、さ」
「午前中、丸々使って、散歩かい」
知子は、やれやれ、と溜息をつく。
「気持ちは分かるけど。でも、それじゃ、ダメなんだよ。犯罪者は、ちゃんと捕まえなくちゃいけない。ひっぱたいて、ぶん殴って、それでもって警察に――と、ごちそうさま!」
指先のパン屑を、ペロリと舌先で舐め取って、律儀に両手の平を合わせる。パン、と、小気味良い音がした。芯のある、強い音。
「あたしも、昔、やられたけどね。グーで顔面、殴ってやった」
カラカラと、朗らかな知子の笑い声。私には、とても真似なんてできないだろう。見上げると、空は乾いた青をしている。もうじき、始業の鐘が鳴るだろう。教室に戻ろう――と、口にしかけ、
「……それで? 結局、どこに行ってたの?」
鋭い視線に、射貫かれた。
「だから、散歩」
「それじゃ、答えになってない」
知子は、いつだってこうなのだ。一言でいうと、すごく強い。弱い人がいることを、知らないのだろうと、いうくらいに。
「ホントに、ただの散歩だって。適当に、歩き回ってただけだから」
不愉快な気分になったときは、歩き回るのが癖だった。何も考えず、何も聞かず、何事も決して口にしない。次の一歩だけを見つめている。すると不思議に、嫌な気分は、いつの間にか消えてしまう。何かを変える必要はない。何かを解決する必要もない。なかったことにしてしまえば、きっとそれで、うまくいくのだ。
「最初に行ったのは、美奈山神社。近くのコンビニでアイスを買って、西森公園まで歩いてった。そこのベンチで昼寝して、住宅街をぶらついた末、さっきようやく学校に着いた。――どう? これだけ。つまんないでしょ」
ふうん、と知子は、訝しげな様子でこちらを見る。勘の鋭さで並ぶものは、きっと一人もいないだろう。
「ま、いっか。いいたくないなら、それで良し」
知子はそういって、背を向けた。
――ツバメ。
私は、件の光景を想起する。
学校と、反対側に足を向ける。閑散とした住宅地に、人の姿は見当たらない。掃除機の立てる騒音が、どこかの家から流れてくる。道の両脇、ずらりと、一戸建てが並んでいた。どれもこれも、似たような姿でたたずんでいる。銀色の小さな郵便受けとか、ぽっかりと空いた車庫だとか、安っぽい外見をしたインターホンとか。
家々の中で、唯一、特徴的に思われたのは、軒下に巣をつけているものだった。ツバメの雛の、小さな頭が、時折のぞいたり、引っ込んだり。真下に、新聞紙が広げてあった。ぽつり、ぽつり、と、砂粒のように細かいフンが、育毛剤の広告を汚す。これだけで、家は、他と、まるで違った風に見えた。
私は、周囲を見回した。張り巡らされた電線の上とか、誰かの家の屋上だとか――親鳥はどこにいるのだろうか? 雛はきぃきぃ、と鳴いている。
――けれど。
いくら探しても、見つからなかった。五分もすると、微かに首が痛み始める。私は諦めて、頭上へやっていた視線を下ろす。
――と。
見つからないのは、当たり前だ。
親鳥は、空を飛んでいない。初めから、それは、私の足下で、半ば潰れていたんだから。
「――ところでさ」
と、知子はこちらを振り向いた。びっくりするほど、かわいい笑顔。
「今日こそ、あたしが勝つからね」
返事を待たずに、行ってしまう。すがりつきたくなるような背中が、すい、と屋上から姿を消した。
水泳を始めたのは、小学生の頃だった。休み時間、友達と外で遊ぶより、教室で本を読むのが好きだったから、運動不足を心配されたに違いない。両親は、半ば無理矢理、私を水泳教室に押し込んだ。単に家から、近いというだけで選んだ場所。案外そこは、私に合っていたのだった。泳いでいるとき、人は、孤独だ。プールに頭まで潜ってしまうと、そこには、私だけがいる。隣を泳ぐ誰かの姿は、分厚い水の壁を隔てて、酷く希薄に思われた。頭上に、のっぺりとした鏡面がある。口から零れ出る細かな気泡が、ゆらゆらと昇っていくのを思いながら――。
どん、と強く、壁をけった。
まっすぐに伸ばした指先が、水を切り裂いていくのがわかる。
水を蹴る自分の足に、鈍い抵抗をはっきり感じる。
――できることなら、息継ぎだってしたくない。
あの頃の私は、そう思うくらい、夢中だった。陸に上がった瞬間に、肺が軽くなるあの瞬間を、耐えがたいとさえ感じていたのだ。
タイムは、着実に伸びていった。才能、と呼べるものはなかったけれど、少なくとも、私は泳ぐことを好んでいたから。だから……だから、今は、もう、ダメなのだ。
「競争しようよ! あんた、一番早いんでしょ?」
入学して、一ヶ月ほどたった頃。いい出したのは、知子だった。学校の水泳部で、一通り準備運動を終えた頃。気まぐれで入部したというその少女は、「一番早いやつ」に目をつけた。それが私と彼女との、最初の出会いというわけである。
「疲れたー」
「今日は、ずいぶん泳いだね」
一体、いつのことだったろう。学校の、プールサイドに腰を下ろして、知子はうん、と伸びをする。傍らには、蝉の死骸が転がっていた。見回せば、一つ、二つ、と、同じようなのがいくつもある。これでは、小石とおんなじだ。ひっくり返った彼らの様子は、高くそびえる入道雲を、見上げてでもいるかのよう。
「生きているのか、死んでいるのか……どっちに賭ける?」
悪戯っぽい表情で、そんなコトを知子はいい出す。私は、彼女の視線を追って、転がった蝉を観察した。ビー玉に似て、曇った眼。妙に長く、細かい足。全体に、乾燥しきった印象で、抜け殻のように思われた。
「死んでるよ」
私はいった。知子は、
「じゃ、あたしは生きてる方に賭けようか」
そんな風なことを口にして、つい、と蝉に触れてみせる。
――と。
「ひゃあ!?」
バチバチと、羽を地面に打ち付けて、それは突然暴れ始めた。
なあにその声、と、知子は笑う。
「ダメだよ、見た目に騙されちゃ。生物の先生だって、いってたじゃん」
「自然発生説、だっけ」
食べ物を倉庫に入れておくと、ハツカネズミが発生する。そんな素朴な経験から、生物は、物質からも生まれ得るのだと、唱えられた。
――だとすれば、案外蝉が、小石じみた格好なのも、当然といえるのかも分からない。
いつものように、教師は確か、こんな風に締めくくる。
――もっともこの考え方は、十九世紀の頃には既に、否定されていたんですけど。
知子はいうのだ。
「死にかけだって、何だって、その気になれば動けるんだ。何せ、生きてるんだから」
だから。
「だから、あたしは今日こそ勝つ! ……負けた方が、アイスおごりね」
立ち上がり、プールに飛び込む。一体どこに、そんな元気があるんだろう。呆れつつ、手招きをする彼女に続いて、私は魚になったのだった。
知子は、綺麗だ。
知子は、強い。
何より、知子は、可能性を信じている。
――きっとそれが、「確かに」彼女に勝つことのできた、最後の日に違いなかった。
下校の鐘が耳に響く。太陽はいくらか傾いて、空色がくすみはじめていた。水泳部に人員は少ない。目に入るのは、私と知子と、他数人の影だけだ。プールは、背の高い金網で、周囲をぐるりと囲われている。その向こう側、ぽつり、ぽつりと、校庭を歩く学生がいた。
「ちゃんと体操しとけよォ」
顧問が、野太い声で呼びかける。
「大会まで、もう少しだぞォ」
黒いTシャツを身につけて、四角い眼鏡をかけていた。いくらか太り気味な体格で、運動部の顧問というには、いささか不似合いな感じがする。
「事故だけ、起こさないようにィ」
「はあい」
と、生徒は返事した。顧問は、満足げに頷くと、パイプ椅子を取り出して、プールの端にどっかりと座る。終了時刻の鐘が鳴るまで、船をこぐのが日課だった。
水に足先を潜らせると、ひんやりとした感覚がある。日中に比べ、風はいくらか涼やかだ。私は僅かなためらいののち、えい、と一息に飛び込んでしまう。
少し、寒い。
夏はもう、終わりに近づいているらしい。
「負けた方が、アイスおごりね」
いつものように、知子は隣で口にした。
「――うん。おごり」
私はいつものように、壁を蹴る。水面が揺れる。重く、ねばつく冷水が、四肢に絡みついてくる。泳法は、クロールと、暗黙のうちに定まっていた。
――いつからだろう。
と、私は思う。いつから私は、こんなにも、水を、重く感じるようになったのか?
チリチリと、どこかで蝉が寂しげに鳴いた。息継ぎに顔を上げるたび、音が耳へと流れ込む。静寂、喧噪、静寂、喧噪……退屈な、繰り返しだ。
水底には、落ち葉が一つ、沈んでいる。茶色く、ふやけた、残骸は、初めは遙か前方に、やがてお腹の下を通って、後方へと去ってしまう。
腕に、疲労が、蓄積した。水が、僅かに、重みを増した。数十センチを隔てた先で、知子が飛沫を上げている。当然、私一人じゃない。たくさんの人間の身体が浸かって、たくさんの人間が泳いだ場所。誰かとの距離はたかが知れて、「分厚い水の壁」なんて、単なる錯覚でしかない。
ゴールまで、十メートル。私達は、並んでいた。この前だって、そうだった。その前だって、そうだった。そして、最後は、私が勝つ。
――また負けちゃった。
いつだって悔しそうに知子はいうのだ。微かに肩を、上下させ、ゴーグルをひょい、と外すのである。きっと、数センチの差だったろう。私は敗北していない。けれど、「勝利」とも、思えなかった。あの日……蝉の生死に賭けた日が、本当に勝てた最後のとき。
それでも、何度も、申し訳なくなるくらい、知子は財布を取り出した。敗者がアイスを奢るのは、決まって、通学路の駄菓子屋だ。背中の曲がったお婆さんが、よく店番に座っていた。
――また、あんたらかい。
と、うんざりしたように、いつも、ぼやく。
――子供は、ちっとも、来ないねぇ。駄菓子、今の子は嫌いなのかね。
アイスを口に含んでみる。じめじめとした熱気の中で、口の中だけが不快感を免れる。汗で、制服はべたついた。髪の毛に、塩素の臭いが、残っていた。
――次は、絶対勝つからね。
知子は、いつも、最後にそういう。
強いのだ。
私なら、きっと、とうに折れている。
何度も、負けて。何度も、ギリギリで負けてしまって。
――だから。
と、私は、こんなことを思ってしまった。
――だから、今、私が負けても、それは当然のことなんだ。
水を掻く。水を蹴る。疲労が溜まる。動きが鈍る。
ずぶり、と身体が沈み込んだ。
――私は、弱い。
それは、ほんの一瞬のこと。
僅かに、知子が、前へ出た。
「また、あんたらかい」
お婆さんは不満げにいった。いつものようにアイスを手にして、私達は通学路をぽくぽく歩く。陽は大分傾いて、辺りはすっかり、橙赤色に染まっていた。
交差点に、たたずむ信号。チカチカと明滅し、騒がしく警告を発するブルーの目。
空を寸断する、たるんだ電線。カラスの真っ黒いシルエットが、その上にちょこんと乗っかっていた。
道路に書かれた、「止まれ」の文字。私は不意に、立ち止まってしまいたくなる。
「やっぱ、うまいね。他人の金で買ったアイスは!」
隣で知子は、カラカラと笑う。
「凄いなぁ。あっという間に、抜かされちゃった」
私がそう答えると、
「頑張ったんだよぉ」
心底嬉しそうに、彼女はアイスを頬張った。
道の両脇には、ずらりと一軒家が建ち並び、室外機が、ぶぅぅぅぅぅぅぅぅん、と、うなり声を上げていた。ぼんやりとした生ぬるい空気が、そこから、どろどろ溢れ出し、私に発汗を促している。
遠く、カラスの鳴き声がした。
――鳥。
――潰れた、鳥。
――車にひかれて、身体の半分を失った鳥。
その光景を、私はふと想起する。
――ツバメの雛が、狂ったように鳴いていた。甲高い音色が何重にも重なって、鼓膜が一色に塗りつぶされる。足下に転がった親鳥からは、灰色の液体が流れ出した。辛うじて無事だった半身が、ぴくり、と時折、痙攣する。タイヤの跡が、体液のインクで描かれていた。私は、恐る恐る触れてみる。柔らかい羽毛、湿っぽい目。腹部を指で突っついてみると、ずぶり、という感触がある。まるで、空気の抜けた、ボールみたい。空っぽ、という意味では、きっと同じことだろう。魂の抜けた肉塊なんて、何の役にも立ちはしない。……案外、自分のお腹だって、同じなのかも分からない。
私は、その残骸を、しばらくの間こねくり回した。それから不意に、自分が何か、とんでもなく冒涜的なことをしている、という考えが生まれて、恐ろしくなった。
――きっと、知子なら助けるのだろう。
身体の半分が潰れていては、もう、絶対に生きられない。けれど例え、どんなに望みが少なくても、こうして僅かに動いているなら、きっとあの子は、諦めない。
けれど、私にはできなかった。できなかった、というよりも、やろうと思えなかった、という方が正しいだろうか。第一に、面倒だから。
私は周囲を見回して、何者かが自分を見ていなかったか、妙な焦燥と共に確認した。それから、一度も振り返らずに、学校へと、向かったのだ。
――まだ、あの親鳥はいるだろうか?
――それとも既に、誰かがゴミ箱へ放っただろうか?
「じゃ、あたしの家、こっちだから」
知子はいうと、こちらに背を向け歩き出す。どこか軽やかな足取りで、一度も、こちらを振り返らない。
私は、自宅へ向かおうか、と、少しの逡巡を経たのちに、件のツバメの元へと向かった。
夕暮れが、街を一色に染め上げている。
電信柱が、亡霊のように見下ろしている。
どこかの店の古びた看板……道ばたにたたずむ道路標識……ペンキの剥がれたガードレール……蔦にまみれた小さなフェンス……。
狂ったような鳴き声が、以前よりいくらか弱々しく、けれど以前より遙かに切実な叫びをもって、辺りに充満しているようだ。巣の真下、糞にまみれた新聞紙。育毛剤の広告に、誰か知らない俳優の、のっぺりとした笑顔がある。
親鳥は、相変わらずそこにいた。以前と少しだけ違うのは、潰れているのが、半身だけではなくなったこと。新たに描かれたタイヤの跡は、何よりも雄弁にものを語った。
その輪郭は、どこか私の影に似ていた。薄っぺらくて、地面にものもいわず貼り付いて、近所の誰かが掃除するのを、ただ静かに待っている。
ゆったりと太陽は落ち続け、いつしか、ビルの谷間に消えてしまった。
「鶏が先か、卵が先か――そこの君、どう思う?」
生物科教師は、もったいぶった様子で尋ねる。指された生徒は、逡巡ののち、
「卵、ですかね……」
と、こう答えた。
「この問題は、長年哲学者達を悩ませてきた。生命、そしてこの世界が、どのようにして始まったのか――根源的な問いかけに、これは繋がるものだからだね」
白板には、教師の手による下手くそな絵が、びっしりと隙間なく描かれている。コロンブスの卵、半熟卵の作り方、前成説、宇宙卵……。脈略のない雑談に、授業の大半は費やされる。
「現在では、イギリスの科学者達により、鶏が先だと、結論づけられているらしい。卵の殻の結晶化に、必要だというタンパク質が、鶏の卵巣の中にある――つまり、鶏がいなければ、卵はできないということなんだ」
退屈だ、と私は思う。役に立たないものは嫌いだ。錆び付いたハサミ、チェーンの切れた古い自転車、風に負けて折れた傘とか……試験に出ない知識とか。
けれど、案外、卵は好きだ。無駄がなく、まとまっていて、温かみすら感じさせる。
私は机に突っ伏して、ぼんやりと自分の腕を眺めた。前の座席に座った人の、ちょうど影に隠れるように。腕には、微かに産毛があって、しっとりと肌に貼り付いていた。周囲から、教科書をめくる音がする。消しゴムがどこかで転がり落ちる。机はひんやりと冷たくて、舐めると、少し塩辛い。
――そういえば。
と、私は思った。
――そういえば、卵の中で、生き物は液体に浸かっている。哺乳類だって、おんなじだ。みんな、最初は、泳いでいる。暗闇の中で、ぷかり、ぷかり、と、たった一人で浮かぶのである。
「ちょっと、ちょっと」
と、不意に、脇腹をつつかれた。
「集中しなさい。……あんた、また怒られるよ」
斜め後ろに座った知子が、シャープペンシルを突き出している。彼女の手元に目をやると、先生の描いた稚拙な図画が、几帳面に模写されていた。線のぐらつき具合から、歪みまでが、正確に。
「退屈なんだから、仕方ないでしょ。生徒らしくいられるんなら、私だってそうするよ」
どうしようもないことは、いくらだって転がっている。
それは退屈な授業であったり、知子のように強くなれないことであったり、何より、負けてしまった水泳であったり。
あの日以来、私はぱったりと、知子に勝つことができなくなった。彼女は、どうしてか、私より、常に数センチ先を行く。あの子が私を追い越すのに、一体どれだけかかったろう。それだけ分厚い時間の壁が、ゴールの間にそびえている。
――きっと、それは、ちょっとした気持ちの問題なのだ。
けれどその気持ちこそ、私にとっては「仕方のない」ことなのである。
しばらくして、ちらりと視線を送ってみれば、知子は相も変わらず、カリカリと、精密な模写にいそしんでいた。シャープペンシルを尖らせて、額に皺を寄せながら、白板の図を注視する。並々ならぬ執着が、細かな動作、その一つ一つにうかがえた。
――私、あの先生のこと、好きなんだ。愛してるの。
以前に、知子が語った言葉。私は素直に、格好いい、と思ってしまう。
「……次回から、何週間か時間をかけて、ちょっとした実験をする予定です」
生物科教師は、嬉しそうに宣言した。白板に、いくつかの卵が描かれる。へこんだり、膨らんだり、傾いたり、逆さになったり。
「卵の上を切断し、サランラップで蓋をする。そうして、時間の経過と共に、内部がどういう風に変化するのか、皆さんに観察してもらいます」
楽しそうな黄色い悲鳴が、あちこちの女子生徒から流れ出した。それを心地よさそうに聞きながら、教師は、口元をほころばせる。
鳥は嫌いだ、と私は思う。
いつもより少し早い時間、たった一人で、駄菓子屋の扉に手をかける。レールの錆び付いたガラス戸は、ギリギリと不愉快な音を立てた。午後の日差しに、宙を舞う埃が照らし出される。それはまるで、銀色をした砂粒のよう。
知子はきっと、今頃泳いでいるのだろう。
私は、そんなことを考えた。
――今日、部活だよ?
――ごめん。用事が入っちゃって。
放課後、更衣室へ向かう彼女に、私はさり気なく、そういった。
何もかもを穿つような、鋭い視線が私を舐める。
――来週、大会の予選だから。
それだけは、ちゃんと来なきゃダメだからね、と、念を押すように、彼女はいう。
――分かってるよ。
適当に返して、私は知子に背を向けた。用事なんて、ありはしない。泳げる気がしなかった……ただ、それだけのことなのである。
だから、私は、こうしているのだ。
駄菓子屋は、随分と昔からこの場所にある。私の物心がついた頃には、既に古びた格好をして、今日と同じようにたたずんでいた。閑散として、開いているのか、いないのか……それすら一目では判断できない。例え明日潰れたって、誰も困りは、しないだろう。けれどこんなあり方が、今の私は、少し、好きだ。
大きな看板が掲げてある。橙赤色に白抜きで、店の名前が記されている。ペンキは劣化し、色が半ば落ちていた。雨水の跡が、ナメクジの軌跡じみた様子でいる。あるいは、店の前にぽつねんとある、青い自動販売機。そこには黒いスプレーで、妙な落書きがされている。いくつか並んだアルファベットが、セックスしているような図柄だ。
――また、あんたかい。
そんな言葉を予期しながら、私は店に踏み入れる。けれども不思議に、辺りは静まっているばかり。陳列された、古くさい格好の品々が、こちらをじろじろと睨めつけていた。
店の奥に目をやると、件の老婆が、眠っている。背の低い、パイプ椅子に腰掛けて、白い小机へ突っ伏していた。微かに、肩が上下している。窓から差し込む陽光が、背中に降り注ぐ銀色の埃を、ちらり、ちらり、と照らしていた。
財布から、五百円玉を一枚出して、小机の上にそっと置く。冷凍ケースから、いつものアイスを、それから棚に視線を送り、適当に駄菓子を取り上げた。
――これで、ちょうど五百円。
そうして、店を出ようというとき。
壁に飾られた小さな写真が、不思議に興味を、惹いたのである。
凝った額縁に入ったソレは、紫外線に焼けていて、とても価値あるものには見えなかった。中身より、入れ物の方が、ずっと立派に思われる。若い男が、一人、ぽつんと、道路の真ん中に立っている――そんな写真だ。
「息子だよ」
背後から、しわがれた声が聞こえてきた。振り返ると、茶色い硬貨が飛んでくる。
「計算ミス。十円多いよ」
いつの間に目を覚ましたのだろう。老婆は、べったりと口元ついた、よだれを右手の袖で拭う。妙な光沢が、染みのように残っていて、蝋人形の肌に似ていた。
「もう、十年くらい前になる。どこかの女を追い掛けて、家を出て行ったきり、戻ってこない」
何気ない様子で、老婆はぽつり、とこう語った。
「死んだと思うことにしているよ。だからこれは、遺影なのさ。――額に入れるってことはねぇ、気持ちを閉じ込めるってことなんだよ。何より、楽になるからね」
そうですか、と私は答える。特段、面白い話でもなさそうだった。
「そういや、いつもの子は、どうしたね?」
「今日は、別です。用事があって」
老婆の目が、鋭く私を睨めつけた。それは、どこか知子に似ている。何もかもを穿ってしまって、終わりのない深い穴に、どんどん落ちていくような――そんな、視線。
「何があったか知らないけれど、喧嘩なら仲直りしておきな」
老婆の唇の隙間から、汚れた歯が垣間見える。白と黄色の、まだら模様。
沈黙の後、私は背を向け、店を出た。風が、ごう、と吹いてきて、夏の終わりの匂いを運ぶ。冷たい土、排気ガス、蝉の死骸に……誰かの嘘。
――この店のあり方は、確かにとても楽だろう。
私はふと、そんなことを考えた。老婆にしても、店そのものに関しても。何しろ彼らは責任も、役割すらも、放棄している。
けれど。
――けれど私は、閉じこもっていたくはない。
そう思えたのは、少しだけ嬉しい。
海で泳いだ、ことがある。どこか、飛行機で何時間も飛んだ先。両親との旅先で、私は綺麗な海を見つけた。海中から見える、まだらな岩肌。一斉に降り注ぐ、海鳥の糞。遠くに船の影があって、白く海面が泡立っている。
――楽しい?
母に聞かれて、「楽しいよ」と私は答える。それは、本心からの言葉だった。純粋で、素朴で――何を捨てても、手放すことはできないだろう、自分自身の原風景。
水を掻く。柔らかく身体は先へと進む。なめらかに、涼やかに、そしてまた、軽やかに。
それが、いつの間にか変わってしまった。
どこかの大会で優勝したとき、決定的に、変わってしまった。
――賞賛の声。
――尊敬の眼差し。
機械的に繰り返される、「凄いね」なんてつまらない言葉。
酔いしれない人間が、一体どこにいるだろう?
私は、そうして、俗物に染まる。あの狭いプールの中に、私はいつまでも閉じこもる。隣には誰かが泳いでいて、その向こうには壁があって。以前見たはずの広大さは、どこかへいなくなっていた……。
――もしもし?
駄菓子屋から、家へと、ぽつぽつ、進んでいく。携帯電話が、小刻みに震えて、着信を知らせた。電波越しに聞こえてくるのは、他ならぬ知子の声である。
「どうしたの?」
――今日、先生に声かけられてさ。
心なしか、興奮気味の口調だった。
――先生が、今年の大会出場者、私達のどっちかだろうって。
息を飲んだ。それから、当然だろう、と思い至った。彼女は、私に勝ったんだから。
「良かったじゃん」
言葉にすると、その薄っぺらさが自分でも分かる。胸の奥で、泥がねっとりと渦を巻いた。あたかも私を咎めるように、
――最近、調子悪いのは知ってるけどさ、
ささやくように、知子はいうのだ。
――私、絶対負けないから。
彼女は、強い。芯がある。何より、一つだって嘘をつかない。言葉は素直で、つまり気持ちも当然素直で――それでいて、どこまでも冷酷になれるのだ。
「知子はさ……」
――何?
「どうして、水泳やってるの?」
――何でかな?
きょとん、とした顔が目に浮かぶ。それから彼女は、楽しそうに、唇の端で質問の中身を吟味するのだ。
――そうだね。なんとなく、だよ。なんとなく。でも、やるからには勝たないと。だから、私は頑張るんだ。何だって、負けてちゃ意味がないからね。引き立て役なんて、まっぴらだもの。
「そっか。強いよね、知子はさ」
――強い?
と、怪訝そうな声が返る。
――別に私は、強くないよ。勝てないと分かったら、やめるもの。
言葉が、耳から離れなかった。あまりに、信じがたかったのだ。けれど、不思議に、ほっとする。
――昔はね、絵を描くのが好きだったんだ。誰もいない、子供部屋の真ん中で、ずっとクレヨンを握ってた。それで、小学生のあるときに、水彩画のコンテストへ出してみた。
乾いた笑い。電話の向こうで、車のクラクションが鳴り響く。
――箸にも棒にもかからなかった。受賞した絵を見てみたら、全然、レベルが違うんだよ。だから、それきり。笑っちゃうよね。
両膝から力が抜ける。自分がどれだけ馬鹿なのか、目の前に突きつけられる気分だった。
――私は、いうほど強くもないんだよ。……えっと、何の話だっけ?
電話を切った。ピンと張りつめていた何かの糸が、やっと緩んだように思われた。
「悔しいなぁ」
と、口にしてみる。
「悔しいな……悔しいな……」
今まで、私は一番だった。これからも、ずっと、ただ一人で褒められたかった。そんな俗物的な自分でも……まだ、頑張ることはできるだろうか?
私は、ふと、空想してみる。親鳥をなくしたあの雛たちは、今頃どうしているだろう? 泣き叫び、泣き疲れ、泣き止んで……そしていつしか死んでしまう。亡骸は、ぽとり、と地面に落下して、それきり少しも動こうとしない。私は、ビニール袋を取り出してみる。口をきつく結ばれて、皺だらけの、真っ白いそれ。どこか、卵の殻を思わせた。内部には、しなびたパンツが横たわる。塗りたくられた精液を、煎餅のように乾かしていた。親鳥を拾い、落下した彼らをつまみ上げ、中に放り込んでやる。パンツと死骸が絡み合い、ふにゃふにゃという感触が、ビニールを通して伝わった。袋はずっしりと重みを増して、じくじくと疲労が堆積していく。
もしも。
――もしも、彼らがこのビニールを、破ることができたなら。そして、この死骸から、倉庫に生まれるネズミのように、新しい何かが芽吹くのならば……。
袋を、地面に埋めてしまう。するとそこから、紫の芋虫が湧き出てくる。一匹、二匹、三匹……と、絶え間なく地中から顔を出す。私は彼らを、一匹、二匹、三匹……と、親指ですりつぶし続けるのである。ぶつり、ぶつり。どろどろとした、快感が走る。それは、とても、気持ちが悪い。けれど同時に、何よりも、私の手を引いてくれる。
――知子は強い。私より、ずっと。
――けれどもそれは、彼女が特別だったんじゃない。単に自分が、弱かったというだけなんだ。
そんな当たり前すぎるコトにさえ、気づくことができなかった。
――変わることができるだろうか?
あるいは、変えていくことは。
――私のこのあり方は、既に定まったものなのだろうか。
前成説がいうように、卵の中に折りたたまれて、どうしようもなくあったのだろうか。
不意に、水面へ飛び込みたい、と、そんなことを考えた。
※
早朝の陽が頬を照らした。夏はとうに終わっている。くすんだ風が頬を撫で、かさついた皮膚が微かに痛んだ。バッグの中、放置していたビニール袋が、カシャカシャと騒々しく鳴いている。捨てようとは思いつつ、触る気になれなかったのだ。
――でも、水泳、やめないから。
数日前の言葉だった。知子は目を丸くして、
――へー。私より強いじゃん。
と、嬉しそうに、こういったのだ。
「ホント、舐めてくれちゃって」
道の両脇の側溝に、落ち葉がぐずぐず溜まっている。全体に湿って、昨日の雨の匂いが残る。電線の上に、カラスがひょい、と乗っかっていた。糞を数滴、気持ちよさそうに垂れ流す。
件の駄菓子屋に差し掛かった。数人の子供がたむろして、古臭い菓子を食んでいる。箱の四隅に染みがあり、虫に食われた跡があった。老婆は嬉しそうに彼らを眺めて、入れ歯を指先で弄ぶ。私はそれを横目に見ながら、足を一層、速めるのだ。
今朝の朝食は卵だった。半熟に仕上げた、目玉焼き。自分で作った、目玉焼き。
ぱかっ、と綺麗に割れたそれは、私の気分を爽快にした。
鳥とパンツ 亜済公 @hiro1205
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