わたし、おっちゃん、人質、映画。

緑茶

わたし、おっちゃん、人質、映画。

「さっきも言ったけど。帰ってくるなら、ネガティブな言葉はナシにして。叔父さんはあなたの帰ってくる理由を――」

「はいはい。分かったってば」

「だから。その態度もやめなさい。とくに、『たはは』とか『ウケる』なんてもってのほかですからね。わかった?」

 母のうるさい声が、ひび割れたノイズに乗って、わたしの耳を破壊してこようとしたので、通話を切った。


 家父長制と抑圧と傲慢が支配する邪悪なホラーハウスのせいで、形而上学的うつ病にかかった。


 それで家を飛び出して、はや五年。

 わたしはそんな実家に戻るために、電車に乗っている。

 だからといって、ただで帰ってやるわけにはいかない。急にそんな気になったのは、ちょうどカレシが同じ大学のスズキアンナと同衾してる動画を見てしまったからで、わたしは最高の笑顔で別れを告げてきた。というわけで、なかばカミカゼの気持ちで家に向かうのだ。


 手土産は爆弾。あの頃の仕打ちを示すものはいくらでもある。それをここで爆発させればどうなるか――期待が高まる。


 ガタンガタン。いつもなら鬱陶しさ以外を感じ得ない通勤電車の揺れも、こんな時は逆にわたしを歓迎してくれているように思える。

 どこか浮ついた気持ちで視界を巡らせる。疲れ切った顔、顔――うんざりしそうになったとき、吊り下げ広告が見える。

 『カラテガンマンREBOOT-ニュージェネレーションズ-』の映画宣伝ポスターだ。主演を飾るイケメン俳優の島崎亮平―昨日も宣伝でバラエティに出てた―

が、西部劇のキャラクターみたいなテンガロンハットと、なんとか戦隊みたいな奇妙なスーツで着飾って、お得意のバズ・スマイルで銃を構えている。

 映画に興味のないわたしでも、それが『邦画としては貴重なアクション映画シリーズ』であることと、かなりの収益を見込めることは知っている。確かに、なんか気付いたら数年おきに宣伝をCMで目にしている気がする。

 いいなぁ――銃。撃ったらどうなるんだろう。捕まるんだろうけど、気持ちいいんだろうか。人が死ぬのは嫌だな。でも、なにか強い力で相手をなぎ倒せる

ってのは、羨ましい限りだ。手元の文庫本はとうに読み終わっていたから、そんな妄想がとめどなく広がっていく。

 ――あれ。でも、確か、小さい頃見た時には、もっとムサいおっさんが主演だったような――。


 その時。

 わたしの隣に座っている客の挙動がおかしいことに気付いた。

 なんのことはない、よくいるおっちゃんだ。ポロシャツを着て帽子をかぶってワンカップを持っているタイプの、ひげもじゃの。

 でも……なんかおかしい。がたがた震えてるし、青ざめてるし、遠くを見ながら何かつぶやいてるし。

 うわぁ、嫌だ。次の駅で降りてくれないかな――。

「畜生……畜生、もう我慢ならん――」

 ――え?


 そこからは、あっという間の出来事だった。

 おっちゃんは、いきなり立ち上がった。

 それから、わたしの腕を掴んで、手前に引き寄せた。

 そこまではいい、よくない、いや、何もわからない、まわりの、硬直する顔、顔、顔――酔いそうになる、おっちゃん離して……。

 …………銃。

 おっちゃんが懐から取り出したのは、銃だった。それはなんとなんと、わたしのこめかみに当てられて。

 ざわついて、悲鳴が上がって、まわりのみんなが、撹拌するみたいに引き下がって。

 揺れる揺れる車内の視界のなかで、おっちゃんはわたしを人質にとりながら、ものすごい勢いでつばを吐き倒しながら、叫んだ。

「ふざけやがって! あんなもんをな、お前! 俺の視界に入れるなっ! どいつもこいつも、この俺を、俺たちを見下しやがってからにっ!!」

 ――たすけて。見えない何かが見えてる、この人。


 色んなやり取りがあったと思うのだけど、なにせ銃口を突きつけられているがゆえに、何も情報が処理できない。

 おっちゃんは次の通過駅で電車を停めろと言い出して、とりあえずその要求が通ったらしくて、耳に痛いブレーキ音とともに、足場が揺れて。

 わたしはおっちゃんに羽交い締めにされたまま、各駅停車専用の小さな駅に後ろ歩きで降りることを求められて、とりあえずそのとおりにした。


 車内の人たちが、こちらを見てくる。ぞっとして、口をぽかんとあけて。

 ……あの、どなたか助けていただけると幸いなのですが。

 そう思っても口に出せるはずもなく、わたしは荒い息のおっちゃんがホームの構内を、ごく小さな昔ながらの単線ホームの構内の左右をふうふうと見回すのに付き合わされる。


 改札口近くから笛の音が聞こえた。少しだけ首を傾けると、青い制服を着た人たちが警棒のようなものを持ってこちらに走ってくるのが見える。

 ……安堵が体全体にひろがる。

 おっちゃんは露骨にうぐっとうめいた。

 よかった、これで大丈夫だ、助かる――このおっちゃんも、どうせ抵抗もむなしく捕まるのだ、まったく、何を思ってこんな無駄なことを。


 そう、どうせすぐ捕まる。

 どうせ、この状況が何かを変えることなんてないし、わたしは予定を大幅に遅らせた上で、あの忌々しい一戸建てに向かうことになるのだ。

 そのとき自分の足は昔みたいにすくんでしまって、何もかもが、向こうの思うままになるだろう――。

 ……そう思っていた。



「銃をおろせっ!」

 おっちゃんは、その通りにした。ゴトッと音がして、銃が床に。

 そのとき、おっちゃんの荒い息が――不思議なまでに整えられて、まっすぐ前の、制服の人たちに伸びていって。

 ……とらえた。

 制服たちがこちらに最大限近づいて、おっちゃんに手錠をかけようとしたとき。


「ホアッチャアアアアアーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!」


 おっちゃんが、金切り声を上げて、脚を前方の人たちに、叩きつけた。

 まるで竜巻か、かまいたちが不意に襲った時みたいに。

「……――」

 それは、このたとえが許されるなら、蹴りだった。

 あの映画の、カラテガンマンの、凄絶な――。

「グワーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」

「畜生なんてやつだ!!!! かかれぇーーーーーーーーーーっ!!!!」


「ホアッチャアアアアアーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!」


 わたしは夢を見ているのだろうか。

 わたしを助けようとした人たちに対して、おっちゃんはわたしを片手で掴んだまま、再び蹴りの連撃を浴びせた。驚くほど軽やかに、映画そのもののように。

 と、いうより、おっちゃんは、カラテガンマンそのもので……――。


 スローモーションで全てを見ていたわたしと、おっちゃんの目があった。

「…………すまん。逃げるぞ」

 わたしが、警棒を取りこぼし、すっかり床に伸びてしまった制服の人たちをちらっと見て、何かを言おうとしたとき。

 ――時間が戻って、わたしは、おっちゃんにスイスチーズみたいに抱え上げられた。

 おっちゃんはそのまま、離れたところにある祝日の臨時改札に向けて走り出した。

 もちろん、銃は拾われた。


「き、聞こえるか……増員しろ。手に負えない……つ、強すぎる!」

 息も絶え絶えな通信が聞こえる。

 かくしてわたしは、正体不明のめちゃくちゃ強いおっちゃんに拉致されて、駅を出た。

 帰るのは――想像もできないほど、遅くなりそうだ。



 暑い。ツクツクボウシが鳴いている。

 わたしたちが降りたのは本当に小さな街で、木造の住宅や家屋が軒を連ねる、妙にノスタルジックな場所だった。

 至るところに風鈴がぶら下がっている。遠くからのかすかな潮風が、ここが港町であることを知らせてくる。

 空には入道雲といわし雲の間の子。もうすぐ夏が終わるけど、暑さは粘り強く空にへばりついている。


 そんな、平日の誰もいない昼下がり、貸自転車のガレージやら定食屋やらが並んでいる道を、わたしを抱えたままのおっちゃんが駆ける。

「はっ、はっ……――」

 ――むろん、わたしだって、全く抵抗をしなかったわけではない。

 抱えられたままバタバタ手足でもがいてみたり、ありとあらゆる罵倒をぶつけたり、体重のバランスを崩しておっちゃんごと転倒しようと試みたり。

 しかし、そのどれもが失敗に終わった。

 というのも――おっちゃんの身体は、なんというか、異常にタフだった。パット見は、中肉中背の中年男性に過ぎないのに、なんというか、肉体の

内側が、尋常じゃなく堅い感じだったのだ。只者ではない。そんなかんじ。だからわたしは得体のしれなさを感じて、下手な真似はしないでおこうと決めた。

「ちょっと……ちょっと!」

 とはいえ、わたしだってこのままされるがままが嬉しいわけはないのだ。

 わたしは上から顔を逆さにして覗き込むようにして、おっちゃんに声をかけた。

「どわっ!?」

 そうなれば、わたしの髪がすだれみたいになって視界を防ぐことを、予想しなかったのだろうか。

 不意におっちゃんは叫んで、急ブレーキ。

 左右を見て、(まだ)誰もいないことを確認すると、家屋の隙間の路地に入り込んだ。

 

 狭い場所。薄暗い。そしてちょっとだけ、涼しい。

 ……おっちゃんは、わたしをおろした。

 急なことだったのでびっくりした。まさか声をかけただけでこんなことをするとは。

 わたしは……目を丸くしながら、ゆっくりとおっちゃんから後ずさるが。

「……すまんな。逃げてもらうわけにはいかんのだ」

 そこで――おっちゃんはわたしに銃を向けて、さらに、もう片方の手で示した。

 わたしのスマホを。色々と、今回の『爆弾』が仕込まれている、大事なものを。

「い、いつの間に……」

「というわけだ。こういうことができてしまうんだ、俺はな」

 さすがに恐怖して、足がすくみ、その場で動けなくなる。

 急に下がった気温か、それとも戦慄か。背中が汗で一気に冷たくなり、ガタガタ震える。

 おっちゃんは、わたしに近づいて。

 わたしを、トタンの壁に押し付けて。

 それから、わたしに対する、その要求を――予想もしていなかった要求を、銃口と一緒に突きつけた。


「たのむ。あんたを被写体にして、映画を撮らせてくれ」 


「……は?」



 開いた口が塞がらない。

 その言葉の平凡さと、今の状況が、ことごとく釣り合わない。

「あんた、あの映画のポスター見てたろ。カラテガンマン」

「見てたっていうか、目に入っただけで……」

「許せんのだ、俺は、それが」

「いや、あの……」

「あんたもあれか、あの俳優にやられた口か。アクションなんぞどうでもいいんだろ。分かるぞ俺には。俺ならもっとうまくやるんだよ……ええいちくしょうめ」

 おっちゃんは、鼻息を荒くしてまくし立てた。

 わたしは圧倒されて、口をぱくぱくするほかない。

「な、なん……」

「頼む。俺はあの映画のことを愛してるんだ。なんにも興味がなけりゃ、こんなこと言いもしない。でも憎い。どうすりゃいいか分からん。だから自分で撮ることにしたのだ。頼む」

「そ、それだけの理由でこんなこと……」

「――頼む」

 頭を下げられる。

 それも、銃口が向いた状態で、という極めて奇妙な状況。

 ……どういうリアクションを取れば良いのか全くわからない。

「後生だ」

 すると、おっちゃんは、ちょっとだけ顔を上げた。

 ……おっちゃんの表情は、真剣そのものだった。嘘をついているようには見えなかったし、撮ろうとしている映像とやらが、わたしを裸にひん剥くたぐいのものではないことも、それでなんか、分かってしまった。

 それが余計に、わたしを混乱させる。

「いやいや、おかしいって……普通じゃないよ。だいいちわたしなんてアクションなんか――」


 ――そこで、普通という言葉を使ったことを後悔する。

 それが口癖だった、思い出したくもない男を思い出す。

 晩夏、セミが鳴いている。日陰であっても、長いこと居続ければ、じっとりと汗ばんでくる。

 『普通』。

 それに縛られて、というか、それが正しいと思っていた。

 思えば随分と長く、色々やらされてきた。でも、どれもろくに続かなくって。それで。


 そういえば、今年は海に行けていない。

 だから、きっとこれは暑さのせいだ。


「……いいよ」

 わたしがそう言うと、おっちゃんは顔を上げて、目を丸くした。

「本当か」

「あんたがやれって言ったんでしょ。かわりに、全部終わったら――自首してもらう。だから、最初にスマホを返して」

 うぐっ、と言葉に詰まった様子だったけど、おっちゃんはすぐ、それに従った。

「も、もちろんだ」

 おっちゃんの、節くれだった指が、わたしにわずかに触れた。



 そこからは怒涛のように撮影だ。

 おっちゃんはわたしを被写体にして、次々と動画を撮っていく。

 それは激しいアクションでもなんでもなかった。

 まずおっちゃんは、わたしが歩いている様子を後ろから撮影する。

 場所は――商店街。

「ねえ」

 何度も振り返る。

 カシャ。

 カシャ。

 ポーズを変えて、何度も。

「これ」

 道路に続く階段。

 そこを、行ったり来たり。

 急いで降りたり、ゆっくり登ったり。

 おっちゃんは、色んなわたしの動作をおさめていく。

 その目は真剣そのもので、スマホのカメラを持つ手はじっとりと汗ばんでいる。

「ほんとにカラテガンマンなの」

 ――そしてバス停の前。

 おっちゃんは、わたしに、座ってアイスを食べている様子を見せるように言った。

 とうぜんアイスはあとで合成するので大丈夫だそうだ。

「うん……うん、いいぞ」

 わたしの疑問は、爆発する。

「ぜんぜん、アクションないじゃない」

 するとおっちゃんは顔を上げて、少し首を傾げた。

「……?」

「なんで疑問そうなの? あれアクション映画でしょ。わたし、何にもしてないよ。インスタグラムじゃないんだからさ」

「うーむ……そうだな」

 おっちゃんはわたしの隣に座る。そして、周囲を警戒しながら、言った。


「あの作品がアクションだけというのは間違いだ、あれには深い哲学がある。カラテを取るかガンを取るかの葛藤、そもそもの戦いに対するためらい。

そして主人公が守るべき日常の象徴。それらのニュアンスこそが真骨頂なんだ。それを感じさせてくれるなら、言ってしまえば敵に追われてしまっている

側と、追いかける敵と――あとは」


 次の瞬間。

 ――おっちゃんは、血を吐いて倒れた。

「ッ――、おっちゃ……」


 だけど。

 おっちゃんは、倒れながら……手をカメラに持ってきて、シャッターを押したのだ。

 そうして自分を撮影する。

 血を吐いて倒れている自分を。

「あとは、倒された敵のリアクションがあればいい」

 それは、血糊だった。なにか、口に含んでいたものを、破裂させたらしい。

「ッ……――」


 なんでもないことのように彼は起き上がって、血糊をぬぐう。

 それから、また講釈を始めようとしたので、わたしは止めた。

 ――この人は、どこまで……。

「……どこまで、本気なの」

 イかれてる。頭がおかしい。

 そんなニュアンスも込めたつもりだった。

 すると彼は、首をひねった。

「どこまでも何も……あんたを拉致した時点で、後がないだろう。全部本気だが」

 そうではない。そうではないのだ。自分が言いたいのは。

 苛立ちと言うか、疑問が口をついて出た。

「だからっ……なんで『わたし』なの!? 他でもない、わたしっ」


 不意に、なぜだか、自己嫌悪が広がる。

 こんな場所で何をやっているのだろうこんなことをしてもなんにもならないのに、ひょっとしたら私も捕まるかも、ああやるんじゃなかった、早く実家に――。


「あんた、疲れとったろう」

「へ……?」

「疲れてた。将来への不安と不満がごった返してた。現実に対して戦おうとしているが、そのための力が十分じゃない。そんな様子だった」

 突然出てきた観念的な言葉に面食らう。

 それ以上に……それがどこか、的を得ているような気がした。

「……それじゃいかんか。答えとして」

「そんなの他の誰だってそうだと思うけどな。何もわたしじゃなくたって――」

 そこで彼は、わたしの顔を正面から見た。

 真っ直ぐな瞳だ。

 ――濁ってなど、いない。

 この人は……。

「あんたじゃなきゃいかんのだ」

「……――」

「必死になっている。追われている。そうだと思った。おれには分かる」

「……おっちゃん……」

「だが、それだけじゃないと分かった。あんたは撮られているとき、しぜんと『ふり』をした。それは、俺の指示にはないことだ。あんたは、自分の意志で何かが出来る人だ。そうでなくては、何も求められん」


 そんなこと、意識すらしていなかった。

 この人は一体、どんなふうにして、それを見つけたのだろう。

 わたしの知らない、わたしを。


 もし。

 不意に、新しい考えがよぎる。

 もしこの人が、この先のわたしの、知らない道を、見つける手助けになるのなら。

 もしわたしが、あのどこまでも続く線路とは違う道を、選ぶことが出来るなら。

 それは、わたしにとって、価値のあることなのではないか。

 だとしたら。


「だからこそ、その……うぐう、俺は変態か。そうかもしれん。どうすればいいのだ……何という名前で捕まることに……」


 その時だった。

「いたぞおおおおおおおおおおおおお!!!!」

「捕まえろおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」

 遠くから叫び声。

 見るとそれは、追っ手だった。汗びっしょりで、何故かボロボロだった。

 ついに、ここまで追いついたんだ。

「しまった……!!」

 おっちゃんは立ち上がり、うろたえる。

 わたしと、追っ手の群れを交互に見る。


 わたしの眼前に、二つの道がある。

 ひとつは、このおっちゃんを無視する。

 もうひとつは。このまま、続けるのか。

 いま、選択権は誰にあるのか。あいつらじゃない。家族でもない。

「……だったら」


 わたしは、選んだ。

 立ち上がり、おっちゃんに手を差し出した。

「……!」

「ほら、やるんでしょ。だったらわたしを脅して、続ければいい」

「……!!」


 おっちゃんの顔がぱあっと明るくなり、わたしの手を握ると、そのまま遠心力? を利用して、ひょいっと米俵みたいにして担ぐ。


「待てええええーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」

「よし、よしよしよしよしよしよおおおおおおおーーーーーーーーーーし!!!!!!!!! 撮影は、続くぞおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

「ちょっと、その担ぎ方はナシで――」


 おっちゃんは、わたしを担いで爆走する――。



 それからも撮影は続く。

 おっちゃんは、わたしに、何一つ恥ずかしいことをさせなかった。

 ただ風景があり、そこにわたしがいるだけ。

 それを、色んな角度や時間で撮影する。そいつを繰り返す。そんなのホームビデオですらない。

 ぜんたい、なんなのかわからない。ただそれでも、おっちゃんの顔は笑顔だった。

 カメラを構えているその瞳が、まるで子供みたいに輝いていた。

「いいぞ!次は実相寺アングル! からのメルヴィル・ブルーだ!」

「なにそれ」

 あまりにも生き生きしている。状況わかってんのか、この人は。うちら、追いかけられてんだよ。

 そう思うと、とたんにおかしくなって、わたしも吹き出してしまう。


 ときおり、わたしもカメラを持ってみる。

 おっちゃんは『自由に撮っていい』と言う。

 わたしは、ひとけのない海辺の街を歩いて、色んな場所を切り取ってみる。


 それは民家の軒先であり、鉢植えであり、さびついた水道であり、野良猫であり。

 ……今まで、目に入っていても、気にもしなかったような、色々なもの。

 それらは、こんなにも色彩がついていたのだと知った。

 なんだか、足取りがひどく軽いように思えた。

「銃声は?」

「そんなものは後だ」

 そのあいだだけ、あの連中のことを忘れられていた。

 時間が経っていく。


 時折、追っ手がやってきた。

 そのたびにおっちゃんはわたしをかついで。

「ホアッチャアアアアアーーーーーーーーー!!!!」

「ぎゃあああああーーーーーーーーーーーー!!!!」

 追っ手を撒いて、更に進む。


 時間が過ぎていって、少しずつ少しずつ、空に夕暮れが差し込んでくる。

 気づけば夢中になっていた。

 それで、すっかり、状況に対する、危機感を忘れていた。


「あー……休憩、休憩」

 おっちゃんとわたし、汗びっしょりになって、公園に座って、水飲み場で水分補給。

 わたしはそのあいだに、カメラ代わりだったスマホを見て、何の考えもなく、ただ、更新されたニュースサイトを見た。


「あー、よう出たよう出た……ん?」

「おっちゃん…………」


 わたしは、ニュースに出ていたものを見せた。

 おっちゃんは、チャックを閉める手を止めて、黙り込む。


 警官の、増員の知らせ。大々的に。

 ――タイムリミットだった。



 夜がきた。

 肌寒いなか、わたしとおっちゃんは、寂れた砂浜に寝転がる。

 しょうじき言って、ぜんぜんロマンチックじゃない。

 星は見えるけど、砂は痛いし、なんか乾燥した海藻とか、木片とかが散らばってて、汚い。

 でも、もう疲れ切っていた。

 これ以上、撮影する気にもならずに。

 ……ただ、そう遠くないうちに来るであろう追っ手を待つばかりだった。

 そんななか、二人で黙っている。

 ――奇妙な旅の、終着点。


「うーう、寒い寒い……熱燗がほしい」

「そんなもん、あるわけないでしょ」


 そこからまた沈黙が続くかと思われたけど、おっちゃんが言葉を継いだ。


「……おっちゃんはな」


 不意に始まった告白だった。

 それは、おっちゃんの過去。ついこの間までの話。

 そして、まだ、彼の中では続いている物語だった。



 おっちゃんは――とある『大ヒットアクション映画』第一作の初期段階に携わっていた重要なスタッフだった。

 彼は自主制作映画で名を挙げたアーティストであり、強い作家性とこだわりを持っていた。

 その力を見込まれて、大きなプロジェクトに参入したのだ。


 当然、そこにかける意気込みは尋常なものではなかった。

 しかし同時に、彼のこだわりはあまりにも強すぎていた。

 自主映画なら良かった。でも、ヒット作を作るなら、より多くの人間と共に意見を交わし、より少数の人々の首を縦に振らさなければならなかった。

 彼には彼の理想のビジョンがあった。でも、どこまでもそれを貫こうとしたのが仇となった。

 彼は……途中、降板させられた。


 おっちゃんは、その降板にまつわる騒動のアレコレを、わたしに詳らかに教えてくれた。

 それはひどいものだった。あきらかに、倫理にもとるような仕打ちも含まれていた。

 言葉を失ってしまう。

 そんなふうにして、枯れていく。


「脚本も、それからアクション指導もな。わしがやったんだ……それにほれ。この銃。こいつ、カラテガンマンが持つためのものだったんだ」

 わたしに見せたのは、あのとき警官たちに向けたもの。

 ――そこで、それが実銃でない、プロップであることを知った。

 でも、騙されたという怒りはもはや湧いてこなかった。同情のようなやるせなさだけがあった。

「こんなもんでごまかせるとはな……」


 そこからおっちゃんは、しばらく黙ってしまった。

 今のわたしになら、分かる。そこから続くのはきっと、懺悔の言葉だ。

 それは聞きたくない。そんな気持ちだった。

 だから、問うた。

「じゃあ、どうして……こんな形で、作ろうとしてるの。その、映像……」


 おっちゃんは顔を上げると、自嘲気味の表情を浮かべて、本当のことを教えてくれた。

「告発のためさ……世間にな。君らが求めてるものは欺瞞に溢れてるって。わしが本当のことを教えてやるってな。その証拠のデータなら、沢山ある」

「でも、どうやって」

「一応、こんなところに来ちまうまでのところで、知り合いなら出来たんだ。あんまり褒められたもんじゃないが、インターネットなんかに詳しい、若いやつだ。何の仕事をしてるかは、ついぞ教えてくれなんだ。そいつが、その告発と、わしの作った『本当の映像』を、拡散してくれるって話だ」

 おっちゃんは、頭をかき、両手で顔を覆う。

 わたしが居ないなら、泣いてしまうのではないかと思った。

「だけどよ……そんなの、完成しなくちゃ意味がないじゃないか……ちくしょう、後ちょっとなのに……目の前には、海しかねえ。飛び込めってか。

それで、ケツを拭けとでも……わしゃあ、どうすりゃいいんだ……」

 そこから、おっちゃんは、うう、うう、と短くうなり始めた。


 ……わたしはそこで、一つのことを理解する。

 どうして、おっちゃんをただの変態と切り捨てられなかった。

 こんな馬鹿なことに、ここまで付き合ってこれたのか。

 簡単な話だ。

 

 この人なら――自分がずっと抱えてる『どうせ』を吹き飛ばしてくれる。目の前にある、うっとうしいレールを粉砕してくれる。

 そう、思ったからだ。


 だったら……最後まで、やり遂げてもらわなきゃ、わたしがこまる。


 わたしは立ち上がる。おっちゃんが、顔を上げる。

「やろう、おっちゃん。完成させよう、おっちゃんだけの、本当の『続編』」

「だ、だけども。こんな浜辺で、どうやって」

「そんなの」

 わたしは手を差し出して、おっちゃんを立たせようとする。立ってもらわなきゃ、わたしがこまる。

「そんなこと、やってみなきゃわからない」


 そこから多分、おっちゃんと一緒に、クソ冷え込む星空の海岸で、意味不明で荒唐無稽な映像の断片を撮影しまくったのだと思う。

 そしてそれを、何かの手段で、どこかの誰かに、どうにかして、送信したのだと思う。


 泥のような時間。もうほとんど無音のようなもので。

 さいごには二人で顔を突き合わせて、何が面白いか分からないけど、なんだか、笑い転げていたような気がする。


 そうして、わたしはいつの間にか眠っていて。


 ――再び目を開けたときには、砂浜の上で身体を横たえていた痛みと、風邪の悪寒が襲ってきて。

 警察のひとが、わたしを覗き込んでいて、パトカーが砂浜の上の駐車場に何台も停まっていて。

 おっちゃんの姿は既になく、連れて行かれてしまったことを知った。


 それから、その人に会うことは、二度となかった。

 事情聴取を受けて、自分も共犯者になるのかと思いきや、意外なことに無罪で。わたしは徹底的に被害者で。


 釈放された。

 わたしは、もとのレールの上に戻ることになる。

 

 あっさりと終わった。夢の終わり。



 でも。本当に、それで終わり?

 あのときおっちゃんが語っていたことは。

 やったことが、おかしくても。どこかに輝いていたものはあったはずで。

 それすらも汲み取られないのは、神様、ちょっと無慈悲が過ぎませんか――。


 わたしは、都会に戻ってきて。

 その雑踏のなか、大きな交差点の真ん中を歩いていて、顔を上げる。


 そこのビルには、大きな液晶画面。

 ニュース映像だ。


 それがふと、切り替わる。



 そこで流れた映像に、息を呑んだ。


「…………――――……!!!!」



 わたし以外には、意味がわからないだろう。シャバではきっと、わたしだけ。

 だけど、これからだ。これから、広がっていくかもしれない。

 たった数分にも満たない。

 画質は荒い。

 だけど、何人かが、足を止めて見ていた。


 ――何もかもが、全部無駄なんてことは、きっと、きっと。



「もしもし」

 ホームで、家族に電話する。

 すっきりしたかったので、必要なアドレス以外、余計なアプリも何も――写真や動画も、もう何も入っていない。

『ああ、そうだ――ちょうど電話しようと思ってたの。お兄さん、急に仕事入っちゃって。だから帰ってきても、ごめんなさい、出迎えの用意が』

「いいの」

 わたしは、首を振る。

 きっと、人好きのする笑顔になっていると、思う。

 悪い気はしない。これからやることを考えても、それは変わらない。

 電車の扉が開く。

「最初に考えてたのより、もうちょっといいお土産あるから。それでそっち行くから。じゃあね」



 わたしは、ほんの少しだけわくわくしながら、その光の中に乗り込んでいった。

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