深夜の訪問者

澤田慎梧

深夜の訪問者

「わぁ~! ママ見て! 雪がふってきたよ!」


 娘のそんな声に窓の外を見やると、真っ黒な空から幾つもの羽毛のような雪が降ってきているのが目に入った。道理で寒いはずだ。


「ねぇねぇ、つもるかな? つもるかな?」

「どうでしょうねぇ。随分と降ってはいるけど……」


 言いながら、手早く雨戸を閉めカーテンもきっちりと閉じる。

 冷気と雪とがほんの少しだけ室内に入り込んだけれども、エアコンの風ですぐに跡形もなく消えてしまう。


「ああっ!? もっと雪がふってるのみたいのに~!」

「……きちんと閉めておかないと、お部屋の中が寒くなっちゃうでしょう? それにほら、もう寝る時間よ。明日、雪が積もったら一緒に遊びましょう?」

「む~。ほんとのほんとにいっしょに遊んでね?」

「雪が積もったらね」


 娘は、ほんの少しだけ拗ねた顔を見せつつも、そのままぐずることもなく、大人しく布団に潜り込んだ。

 少し聞き分けが良すぎるきらいがあるけれども、良い子に育ってくれたと思う。娘が生まれてから九年。もう随分と大きくなった。

 あの頃の私と、丁度同い年だ。


 ――そう言えば、あの時も夜半から雪が降り始めていたのだった。

 そして翌朝には、外は一面の銀世界に変貌していた。太陽の光を受けてキラキラと白く輝く、美しすぎる世界に。

 そこで私は見付けたのだ、あの「足あと」を。私の心に巣食う恐怖の根源となった、あの足あとを。


   ***


「わぁ~! 見て見てパパ! お外が真っ白だよ!」


 夜半から降り続けた雪は、外を白一色に染めていた。

 家の前の道路も、お向かいさんの家も隣の家も、みんな揃って雪化粧。差し込み始めた太陽の光を浴びて、眩しいくらいに輝いている。

 まるで世界が宝石箱になったかのような美しさだった。


「ありゃりゃ。こりゃ、雪かきが大変だなぁ」


 玄関を開け放ち外を眺めながらはしゃぐ私とは裏腹に、父の顔には苦笑いが浮かんでいた。

 当時の私は、父と二人暮らし。二部屋しかない古い平屋で、身を寄せ合うように暮らしていた。

 庭もなければ大きな窓もない、玄関から出ればすぐに道路――みたいな窮屈な家だったけれども、私は大好きだった。「その家が」というよりも、父との暮らしが楽しかったのだ。


「すご~い! まだだれの足あともついてない! わたしがいちば~ん!」


 玄関から見える道路には、まだ誰の足あとも付いていなかった。お向かいさんもお隣さんも、朝が遅い家だったからだろう。

 だから私は、一面の新雪を独り占めできる――はずだった。


「あれ?」


 それに気付いたのは、玄関から出てすぐのことだった。

 まだ誰にも踏み荒らされていない新雪の、一部が少しへこんでいた。雪をズンズン踏みしめながら近付いてみると、どうやら誰かの足あとらしかった。まだ雪が降っている最中に付いたものらしく、後から降った雪に少し埋もれていた。


「な~んだ。わたしがいちばんだと思ったのに~!」

「ん? どうしたどうした?」


 悔しがる私の声に、父が寝巻の上にコートを着ただけの恰好で飛び出してきた。寒いだろうに、父はとても心配性だったのだ。


「だれかがいちばんのりしてたみたいなの~」

「へぇ? 誰だろう。お隣さんかな」


 私の足あとを踏まぬように、父が少し遠回りで後を追ってくる。

 ――と。


「……これは」

「ん? どうしたの、パパ?」


 父は私が発見したその足あとを見るなり、深刻そうな表情を浮かべて押し黙ってしまった。その視線は足あとの行方を追っている。

 私もつられてその行方を追う。どうやらその足あとは、大通りの方から歩いてきて我が家の前で立ち止まり、そのまま引き返しているようだった。

 しかも幾つかの足あとは、つま先が我が家の方を向いていた。それはまるで、足あとの主が我が家の方を見ていたようで――。


「まさか、な」

「ねぇ、どうしたのパパ?」

「いや、何でもないよ。きっと考え過ぎだろう……。パパは辺りの雪かきをしなきゃいけないから、手伝ってくれるかい?」

「うん!」


 その日は父と二人でせっせと雪かきをしたり、雪だるまを作ったりした。

 お昼頃には、お隣さんやお向かいさんも起きてきて手伝ってくれて、それはそれは楽しい思い出になった。

 道路の雪はすっかり片付いて、「ようやく車を出せるね。誰も持ってないけど」だなんて、皆で笑いあったものだ。


 ――それでも、そんな楽しい時間の中でも、私にはどうにも気になることがあった。言うまでもなく、あの足あとのことだ。

 父は足あとの主に心当たりがあるらしい、ということは九歳の私にも分かった。それを私には悟られたくないということも。


 あの足あとの主は誰なのか? 何時くらいにやって来たのか?

 足あとの主がやってきたのは、昨晩だけなのか? それとも前にも来ているのか?

 色々と気になって仕方がなかった。


 実は、当時の私には足あとの主に心当たりがあった――というか、そうであって欲しい人がいた。「母」だ。

 父からは、母は私が赤ん坊の頃に死んだと聞かされてきた。けれども、我が家には位牌の一つもなく、母の写真さえ殆ど残ってない有様だった。

 だから私には、「ママは離婚して出て行っただけで、実は生きているのでは?」という疑念がずっとあったのだ。


 足あとの主は、昔出て行った母ではないのか? こっそり私達の様子を見に来ているのではないのか?

 子供らしい短絡的思考でそう思い込んだ私は、足あとの主の姿を確認すべく、父には内緒で準備を始めた――。


   ***


 まず私は、ゲーム機からインターネットにつないで天気情報をチェックした。あの足あとは、半ば雪に埋もれていた。ということは、まだ雪が降っている最中に付けられたもの、という訳だ。

 天気情報によれば、私達の街では朝の四時くらいまで雪が降っていたらしい。ということは、足あとの主がやってきたのは、少なくとも四時よりも前、ということになる。結構埋もれていたから、下手をすると日付が変わってすぐくらいかもしれなかった。


 時間が絞り込めないとなると、長丁場になる。足あとの主の姿を見るには、夜ずっと起きていて「張り込み」を続けないといけない。

 当時、刑事ドラマにハマっていた私は、子供の浅知恵なりに工夫をして、夜の「張り込み」の準備を始めた。

 布団を抜け出して窓に張り付くつもりだったから、防寒用のブランケットを用意した。夜に起きていられるように、昼寝をした。父が物音で起きてしまわないように、それとなくお酒を勧めてみた。

 なんとも微笑ましい――けれども当時の私にとっては真剣な、入念な準備だった。


 そして夜が来た。

 私は早々に布団に潜り込み、父が寝付くまで寝たふりを決め込んだ。

 当時、私と父は同じ部屋で寝ていたけれども、部屋の真ん中をカーテンで区切って、一応のプライバシーを確保していた。小学校中学年になりつつあった私に、父が気遣った結果だった。

 ――数時間後、うつらうつらしていると、カーテンの向こうで父が布団に入る気配があり、やがて穏やかな寝息が聞こえてきた。お酒が入っていたこともあってか、早々に寝入ってしまったらしい。

 私は、常夜灯の薄明りだけを頼りに布団を抜け出し、そっと窓際へと近付いていった。


 当時の我が家には、大きな窓が無かった。あるのは、明り取りの為の小さな窓が幾つか。それも、当時の私がギリギリ外を覗き込めるかどうかくらいの高さにあるものばかりだった。

 寝室の窓も例外ではなく、私は外を眺める為にわざわざ椅子を窓際に置いて、踏み台代わりにすることにした。


 ブランケットにくるまりながら椅子の上に立ち、寝室の窓にかかったカーテンをそっと開く。

 窓には雨戸はなく、外側に丈夫な格子が付いているだけなので、すぐに外の風景と「こんにちは」が出来た。

 外は静かだった。昼間に雪かきしたおかげで道路は奇麗なもので、防犯灯に照らされてアスファルトが鈍く輝いている。お向かいさんの玄関先には、私達が力を合わせて作り上げた大きな雪だるまが鎮座して、やや不細工な笑顔を浮かべていた。


 時刻はちょうど十二時を回ったところ。周囲には一切の人影が無く、どこか遠くで自動車のエンジン音が響くのみ。

 私はガラス窓越しに襲い来る冷気に耐えながら、ひたすらに待った。あの足あとの主が今夜も現れることを祈りながら。


 そのまま、どのくらいの時間が過ぎた頃だろうか。

 眠気と寒気に負けて、私が椅子の上に立ったままうつらうつらし始めた、その時。


 ――カッカッカッカッ。


 固い何かがアスファルトを叩く音が、外から聞こえて来た。明らかに誰かの足音だった。

 目をこすってから、音がする方を必死に見やる。すると、防犯灯の頼りない明かりに照らされながら、大通りの方からこちらへと歩いてくる誰かの姿が見えた。

 まだシルエットしか分からなかったけれども、髪は長く見える。背もあまり高くないので、恐らく女の人だ。


(やっぱり! きっとママだ!)


 何の確証もなく、その時の私は人影が母であると確信してしまった。眠気で思考能力が落ちていたのもあるのだろうが、きっとそれだけ子供だったのだろう。

 私はワクワクしながらその人影が我が家の前まで来るのを見守り――やがて絶句した。


 防犯灯の明かりに照らされて、人影の姿があらわになる。

 長い髪は波打っていて、ソバージュでもかけているのかと思ったが、違った。白髪混じりの全く手入れされていない、ボサボサの髪の毛が伸び放題になっているだけだった。

 服は、冬だというのにピンク色のキャミソールと、ボロボロのスカートしか身に着けていない。キャミソールには、所々に黒いシミのようなものが付着していた。靴はハイヒールタイプのサンダルだ。

 体は骨と筋しかないかのようにガリガリで、防犯灯に照らされた肌の色は灰色に近い。ミイラが歩き回っているようにしか見えない風情だった。

 顔は体と同じくげっそりとやせ細りしぼんでいたが、眼だけは大きく見開かれ存在感を主張していた。視線はあちらこちらを彷徨い、白目が酷く充血しているのが薄暗い中でも見て取れた。


「――っ」


 悲鳴が漏れそうになり、とっさに口を押さえた。

 気付かれてはいけない。あれに気付かれてはいけない。そう心の中で叫びながらも、足はガクガクと震え、全く動いてくれない。

 カーテンの隙間から顔を出したまま、私は完全に金縛り状態に陥っていた。


 ――カッカッカッカッ。


 そうこうしている間にも、その不気味な女は一歩また一歩と我が家の方へと近付いていた。

 もう、あちらから私のことが見えてもおかしくない距離だ。私は心の中で「逃げなきゃ、逃げなきゃ!」と連呼したけれども、体は全く動いてくれない。

 そして――。


「みーつけたー」


 気付けば、女が格子に顔をめり込ませんばかりに押し付けながら、血走った眼でこちらを見ていた。

 窓越しに聞こえた女の声は、酷くしわがれていた――。


   ***


 その後のことは、よく覚えていない。気付けば夜が明けていて、私はきちんと布団の中で寝ていた。

 けれども、家には何故か祖父母がやって来ていて、更には何人もの警察官が我が家の前に陣取っていた。

 ――そしてほどなく、私と父は引っ越すことになった。学校も転校することになったけど、父からの説明は一切なかった。私は文句の一つもたれず、それに従った。

 友達とお別れをしなければならないのは悲しかったけれども、それ以上に怖かったのだ。「あの女」の存在が。父は一切口にしなかったが、急な引っ越しが「あの女」のせいだということだけは、子供の私にも理解できた。


 結局、あの女は何者だったのか? 父も祖父母も何も答えてくれなかった。

 ただの頭のおかしい女だったのか、それとも――。


 大人になり、自分にも娘が生まれた今になっても、ふと背筋が凍ることがある。

 例えば、薄暗い夜の道を歩いている時。「あの女」がハイヒールの音を響かせながらやって来て、私に「みーつけたー」と言ってくるのではないか、と思うことが。

 例えば、一面の新雪を前にした時。そこに不審な足あとが残っているのではないか、と思うことが。


 我ながら、考え過ぎだとは思う。あれから二十年以上が経っているのだ。引っ越しも何度かして、かつて暮らしたあの街も、今は遠い空の下なのだから。


   ***


「――ママ! ママ! おきてー!」


 娘の声に、ふと目が覚めた。時計を見るとまだ朝の六時半。いつもより早い時間だ。

 そのせいもあってか、頭がずっしりと重い。昨晩は、あの夜の恐怖を思い出しながら眠ってしまったから、寝覚めが悪いというのもある。


「どうしたの? 随分と早起きね」

「雪! つもってるか見に行こうよ! はやくはやくー!」

「はいはい」


 娘に急かされるまま、二人して寝巻の上に半纏はんてんだけを羽織った恰好で、玄関へと向かう。チェーンと鍵を外し扉を開けると――。


「わぁ……!」


 娘が目の前の光景に感嘆の声を上げる。そこは一面の銀世界になっていた。

 郊外の住宅街は、生活道路もお向かいさんや隣の家も、全てが白に染まっていた。


「一晩で随分と積もったわね」

「すご~い! まだだれの足あともついてない! わたしがいちば~ん!」


 まだ何者にも踏み荒らされていない新雪を見て興奮したのか、娘が一人で道路へと駆け出していく。


「こらー! 車が通るかもしれないでしょう? 周りに気を付けて」

「は~い!」


 親の立場上、一応の釘は指しておいたが、恐らく車は通らないだろう。それほどの降雪量だ。ポストを見ると、新聞もまだ来ていなかった。配達が相当遅れているらしい。


(これは雪かきが大変ね)


 夫は出張中だ。ついでに言うと、ご近所さんは高齢者が多い。必然、雪かきはまだ若い私がやる必要がある。

 心の中で「やれやれ」と小さくため息を吐いた、その時。


「な~んだ。わたしがいちばんだと思ったのに~!」

「え……?」


 がっかりしたような娘の声に振り向き、私は絶句した。

 娘が見つめるその先、眩いばかりの新雪の上には、我が家の前で立ち止まり、そこから引き返したかのような足あとが残っていた――。



(了)

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深夜の訪問者 澤田慎梧 @sumigoro

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