酒場
武市真広
酒場
「俺はお節介な男なんだ」
酔いが回って彼はそんなことを言った。
「自分の幸福だけを求めればいいのに、俺はどうしても他人の幸福のことまで考える」
彼は一人の詩人であり思想家であり実践家でもあった。一言で言えば、多芸多才な男だった。彼を妬む人間は芝居がかった彼の態度を口さがなく批判したし、私も陰で彼の悪口を言ったこともある。
「誰もが幸福になりたいと願う。しかし、その幸福を自分で作り上げられるほどの余裕はない。だから誰もが外から幸福がもたらされるのをただただ待っているのさ」
彼の口から幸福論を聞くのはこれが初めてではない。しかし、自分がお節介な男だと述べられた上で語られる幸福論は初めてだった。
「俺は自分の幸福なんてものが分からない。お前はどうだ?」
私にも分からないと答えた。
「そうだろう。自分で自分の幸福が分からないのに、他者の幸福について考えようとする。矛盾ではないか。俺たちもまた幸福がどこかの誰かから与えらえるのを待っているのだろう」
私は違うと否定することができなかった。代わりに私はジョッキに残っていたビールを呑み干した。
「俺は時折自分の中にある矛盾に引き裂かれそうになる」
詩人である彼は自身の思想を語る時にも突飛な比喩を使う。それが仲間からの不評を招くのだが……。
「お節介な自分とそれを否定しようとする自分とに。自分の中に矛盾があるのは当然のことだよ。誰も直線的にはできていない。紆余曲折あるはずだ。しかしそれを無理に整合しようとする時に引き裂かれる」
彼の顔を見ると悲壮感に満ちた表情を浮かべていた。それが西洋の古い絵に出てくる苦悩者を思わせた。
……もしかして彼は自殺しようとしているのではないか。そんな不吉な予感が脳裏を過った。
「思想家という奴は考えすぎるからいけないね」
私のこの言葉はあるいは逆効果であったかもしれない。苦悩する者にとって、その苦悩を軽んじられること程、苦痛なことはないのだ。だがこの時の私は彼にそう声をかける他に術がなかった。
「俺は自分の中にある矛盾を無視して他人の矛盾を責めようとしている。幸福になりたいと願い、またそうなるように努力する一方で、それが叶わない人間たちは他者に救いを求める。神がいた時代にはそれが容易だった。だが今はどうだ? 神は死んだ」
彼は憂鬱そうな目を店の中に向けた。騒がしい酒場の中、人々は楽し気に酒を飲んで談笑している。
「幸福……、他者は幸福を求め、その実現が叶わぬ時、妥協する。仕事終わりの一杯と週末の睡眠に。そんな現実の前に俺たちの詩や思想が何になる?」
「彼らは詩や思想を必要としないさ。そして、それが彼らの幸福なのだよ」
この現実ほど私に堪えるものはない。酒と睡眠によって得られる幸福に満足することがいかに羨ましいことか。こうして彼と酒を飲んでいる時ですら私は現実を忘れて楽しみに浸ることができないのだ。そして、同じく彼も……。
「俺たちは不幸だな」
彼は自嘲気味に笑った。
「そうでもないだろう。俺たちは今に満足しているんだから」
私は些かムキになって言い返した。
「確かに俺たちは、酒や睡眠によって僅かな時間でも現実から逃げおおせることはできない。しかし、詩や思想によって現実に対して挑戦しようとしている。そして、挑戦することに満足しているじゃないか」
「挑戦することに確かに満足しているが、いつまでもそれを乗り越えることができないから、虚しいのさ。俺は酒や睡眠に満足する人々にも挑戦することを呼び掛けた。だが彼らは目の前の現実と闘うほどの元気はない」
「人生は闘いだよ」
「そうだ。闘いだ。だが闘うことに俺は疲れたよ」
それは敗北主義ではないかと思わず言いそうになって抑えた。まるっきり旧時代の学生運動のように思えたので。
「闘い続けるには、人生は長すぎる。闘いには恐怖と不安が付き物だ。それに苛まれ続けるのは嫌だ。それでもなお逃げることは罪なのだろうか」
人生とは確かに闘争だろう。だが闘争の合間にあるものを彼は見失っているのではないか。友情や愛を。空や海の色、川のせせらぎといった自然を。闘争の外にあるものを彼は見失っているのではないか。
「罪じゃないさ。逃げたって。闘いから離れて大地を見つめればいい」
「だがいずれ闘いの場に引き摺り戻されるじゃないか」
また私は否定できないで口を噤むしかなかった。闘いを忌み嫌う人間からすれば、現世とは正に地獄だ。この世界では否応なしに闘うことを強制されるのだから。宿命的に闘うことを背負わされた人間たち。
「まさに原罪か」
彼は両目を閉じて深く息を吐いた。それから胸ポケットから煙草を取り出すと静かに火を点けた。私も煙草を吸いたい気分になった……。
終
酒場 武市真広 @MiyazawaMahiro
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