白朝夢

山口 隼

白朝夢

 ある瞬間の、刹那なこころの揺れがあって、それを言葉にしてしまえば終わってしまう気もするし、けれど考えたのならば言葉なしに一歩も進めず、夢が醒める時なのか、あるいはもう覚醒しているのか、そうやって境界に佇んでいる時間がある。

 その未分化が快か不快か、各々に依るところであれど、天宮あまみやはまどろみを嫌った。私は起きているはずと半覚醒のさなかに思った。

 青白い幽光が天井に立ち現れ、それはガラス窓を通ってぼやけている。これが眠りから引き起こしたのか、と首を巡らせたとき、部屋の隅で物音がした。淡い光の向こうで、彼女はブラウスを着て、黒い、通学用のスポーツバッグに手を伸ばしていた。

 天宮は慌てて半身を起こし、

「逃げ出すときは、一緒のはずですよね?」

 彼女の肩がびくりと震え、ゆっくりと長い影が振り返った。その口元に気まずそうな笑みがあった。

「一度は声かけたんだけど、起きなかったから……ほら、寮の壁、薄いし」

「それでも肩叩くとか、揺さぶるとか、何かありましたよね」

 天宮は不機嫌な唸り声を上げて、ベッドから這い出た。寝間着を脱ぎ捨てて、ハンガーに掛けたワイシャツを羽織る、紺のスカートには少し手間取る間に、彼女は窓を開けて空を窺った。

 月明かりが彼女へ降り掛かると、その横顔が現れていく。長いまつげがしばたかれ、その下の大きな瞳が期待を湛えて見開かれている。高い鼻は雨の気配を探るように上を向き、先からの光が、浅黒い肌に艶やかな靄をかけていた。

「よく晴れてる。うん、降ったらどうしようかと思った」

 彼女は目を細めて笑う、南国の花が咲くような華やかさは、常なら青い空によく映えたものだった。夏をこいねがう、夏希なつきというのが彼女の名前だった。

「天宮、あんた待ちだよ」腰に手を当て、夏希は右目を眇めた。「朝になっちゃう」

「まだ大丈夫でしょう、そもそも始発に合わせるつもりだったわけですし」

「せっかちなあんたが、珍しいこと言うね」

「早く行けばかえって見つかるかもしれないじゃないですか」

 夏希は梟のように首を傾けて曖昧に微笑し、靴がいるよ、と言った。見れば彼女は蛍光色の、黄色いランニングシューズを履いていた。土足厳禁な寮の規則も、彼女たちが一年過ごした部屋であることも、振り向くに足らないものだった。

 天宮がいそいそと部屋の入口に足を差し向ける、その背中のほうで重い音がした。振り返ると夏希の姿は既に消えていた。慌てて窓に駆け寄り見下ろすと、彼女は下で手を振って、「大丈夫、いけるよ」と押し殺すような声で天宮に呼びかけていた。

 下は花壇とはいえ、4メートルほどの高さは天宮をすくませた。数秒後の自身を自ずと幻視している。足首を抑えて横倒しになる、その周囲には監督や顧問や大人たちが、忿怒ふんぬを浮かべているのを見た。

 けれどそれらのためらいも、夏希の、ただの手招きには勝てなかった。天宮は窓枠に足をかけて跳んだ。視界が水流のように上へと流れ去る、直後にはしびれ上がるような衝撃がやってきて、殺そうとした天宮は後へごろりと転がった。不器用なジャンプで、怪我をしなかったのは幸いだった。

 夏希は一瞬目を見開き、けれど駆け寄って無事を確認すると手を差し伸べる先から、「もう、ドジだねえ、天宮は。スカートの中丸見えだよ」と声を殺しくすくすと笑ってみせる。天宮はぶすくれて、

「先輩と違って、私は運動神経良くないので」

 そっぽを向き、一人で立ち上がった。

 まだ笑いの納められない夏希は、なだめるように土で汚れた背中を叩いてやり、

「もう、これじゃ先が思いやられるよ」

「そう何度も二階から飛ぶことがあるとしたら、結構困りますけど?」

「わかんないよ、追っ手が来たらビルからビルへ走って逃げなきゃなんないかも」

「アクション映画じゃないんですから、勘弁してくださいよ」

「でも昔脱走した人は駅まで追っかけられて捕まったらしいからね」

「それで、その人は?」

 さあ、と夏希は肩をすくめて歩き出した。

生ぬるい風が生垣のマメツゲを鳴らす。その音にさえ天宮はびくついた。寮の窓には明かりなどない。けれどその誰かを追体験しているようで、自分の影が粘りつく重さを覚えた。

 生垣には一箇所だけ下を掘り抜いて外へ抜けられる場所があり、古くから伝わってきた抜け道だった。普段は空いたプランターがいくつも重ね置かれて隠されているが、誰もが穴をくぐって買い物に出かけたことがあるはずだった。

 夏希はそのプランターを手際よく脇へ退けておいて、苦しそうに身をかがめて這入った。天宮が目一杯のつま先立ちになってやっと並べるかという高さであるから、肩をすぼめて小さくなっていた。黄色い靴が向こうへ消えていくのをみて、天宮も続いた。

「先輩、これでは先が思いやられますね」

 抜けるや否や、天宮は意趣返しにそう言った。夏希は肩口についた泥を払いながら小さく舌打ちをして、先に行かせりゃよかった、と不平をこぼした。

 昏い海を正面に見て、舗装された道が左から右へ走っている。その先は山間へ呑み込まれるように消えていくが、それが高台から下るように曲がりくねっていることを天宮は知っていた。かつて両親と共に車で登ってきた道だった。なにくれと用意のされた日用品と菓子の入ったダンボールはそのまま寮長預かりとなり、未だに返されていない。卒業の時には返すと言われていたが、本当のところはどうなるのだろうと天宮は思った。

「さ、行こっか」夏希がおもむろに鞄を肩へ担ぎ、振り返った。「自由だよ、天宮」

 自由、と言葉の意味を反芻はんすうする前に、夏希は手を掴んで走り出していた。二、三歩たたらを踏んだが、すぐについていった。

 朝未だきに街灯は点いていた。田の中を真っ直ぐ走る道の、脇に連なる電柱で、時折気まぐれに黄色い明かりが明滅していた。

 夏希は力強く手を引いていた。天宮もそれに逆らわなかった。機関車に引かれるみたい、と天宮は思った。

 地に隠されている撥条を蹴って走るような伸びやかさだった。野山を駆ける鹿にも見える。アスファルトでさえこれだから、競技場の赤いレーンであればなおさらだった。いつかスタンドから眺めた快走が目の前を掠めていく。誰の追随も許さない独走。記憶の輪郭と重なるように、動物的、本能的な魅力を纏って、短い黒髪が風になびいていた。

「どう? 楽しくなってこない?」夏希は肩越しに息を弾ませている。「誰もいないよ」

「このまま連れ戻されなければ、まあ」

「大丈夫、あたしに任せとけば」

 夏希は白い歯を見せた。

 脱走が計画されたのはほんの数日前で、計画的なものではなかった。むしろ細かい部分は天宮が考えたほどだった。インターハイの中止が発表されて、一週間ほど経っていた。

 食堂の白い大テーブルで、物を食べながら夏希は唐突につぶやいた。

「ここまで、かな」

 空白に置かれた言葉だった。けれど投げ置かれたというよりは、真っ白な部屋にただひとつ計算されて据え置かれた椅子のような音でもあった。

 夏希はそれを天宮に言うつもりはなかったのか、やがてゆっくりと視線を上げて、苦みを含んだ微笑を浮かべた。やるせなく唇が固く膨らんだ。

 擦り切れたわけじゃない、と天宮は信じた。しなやかでのびやかに見える夏希は、きっとただ思ってしまっただけだ。思ったのなら行かなければならない。私にはできない、と天宮は喉が絞まるような気がした。

 だから「私も行きます」と反射的に口をついたのは、虫が電灯に引かれたようなものだった。夏希のようになりかったのかもしれない、きっとそのはずだと天宮は決め込んだ。号砲に合わせて走り出すように唇をつむいでいた。

「先輩が行くところなら、どこでも」



 風に潮の香りが濃くなっていた。単線の線路を挟んで岸壁、その下には岩肌へ波が打ち寄せているはずだった。

 無人駅のホームには黄色い電燈が煌々と灯り、赤いベンチが孤立したように置かれていた。夏希は荷物を下ろし、ブラウスの胸元をつかんでばさばさと扇いだ。

「思ったより汗掻いちゃった。暑いよね、今日」

 額でうっすらと汗が光っている。それを手の甲で拭いながら、彼女はスポーツバッグに手を潜り込ませた。取り出したのは制汗剤で、シトラスという文字が見て取れた。いつも部屋に漂っている匂いだった。

 夏希は柑橘の香りが好きだった。制汗剤のほかにもどうやったものかアロマオイルを持ち込んでいて、試合の前になると目一杯に焚きしめたものだった。そのせいで天宮にさえ香りは染み付いていて、けれど自分では気づけなかった。それがこうしてあの場所から離れてみると、夏希のものだということを思い起こさせた。

 夏希は首筋に、それからブラウスに手を突っ込んで脇あたりにスプレーしてしまうと、プールに飛び込んだ後の気持ちよさそうな顔で、

「天宮、使いなよ。透けてるよ」

「ありがとうございます。でもそれは嘘ですよね」

「うしろ。ピンクってかわいいね」

 途端に背中の、張り付くような湿度の高い汗が意識された。むしろ今、じわりと染み出してきたような気さえして、天宮は慌てて制服に手を差し入れた。

 その様に夏希は大口を開けて笑い、

「うそうそ、大丈夫だよ。でもさっきひっくり返ったし、何よりあたしの前で着替えてたじゃん。だから色は知ってるってわけ」

「見ないでくださいよ、デリカシーのない」

「一年一緒の部屋にいて、そりゃ無理よ。裸も知ってる仲でしょ?」

 夏希は可笑しそうに喉で笑った。ちらと目線が向けられて、それが天宮の顔から足へと流れる、紺のスカートから伸びでた太腿の滑らかな肌に触れ、細く折れそうなふくらはぎへと走った。

 やめてくださいよ、と拒絶するほどの不快さは覚えなかった。好色な舐め回す類のそれではない。丹念な観察に近かった。ただかすかなむごい関心の光を覚えて、天宮はすくんだ。思えば、彼女には足を至近で観察されたことはなかったかもしれない。

 けれど天宮は夏希の足をよく知っていた。24.5というシューズの大きさ、左ももの下にあるほくろ、張り詰めた肉付きの硬さまで。

「あたし、飲み物買ってくるよ」夏希が唐突に視線を外して言った。「何がいい?」

「それじゃあ、先輩と同じもので」

 オーケー、と気軽に言う夏希を見送って、天宮は猫背に座り込んだ。戻ってくるまでの間中、こんなところにいる、こんなことをしてしまっているという叫びが天宮の中でわき起こった。日常から外れてしまったむずがゆさが腰の奥から起きて身体を這い回った。

 ちょうど目覚めた時のまどろみにいるようだった。現実感のなさが天宮の中で違和になり、喉から背骨を伝ってしこりとなり固形化していくように覚えた。いいんだろうか、私はと天宮は改めて思った。明日どこに流れ着くか知れたものではない、その状況を甘受している自分に奇妙さを感じていた。

「ほい、天宮。良さそうなやつ、これしかなかったけど」

 夏希の声に顔を上げると、彼女はサイダーを差し出していた。透明な瓶の中で淡い青に色づいてぽつぽつと泡が心地の良い音を立てていた。今どきめったに見ないものだった。

「本当にほか、なかったんですか?」

「文句ある? それならあたしが飲んじゃうけど」

「やっ、そうは言ってないですけど」

 言う間に夏希は瓶を一気に傾け、だがすぐに犬のような咳をして口から離した。口元に透明な雫が光った。唇のくぼみから女が匂い立つようで、天宮は息苦しさを覚えた。

「あぁ、そういえばあたし炭酸苦手だったんだぁ」

「なんで買ったんですか」

 天宮が呆れて言えば、夏希は照れ隠しのように口元を緩める。

「だって、天宮好きでしょ?」

 不意で、天宮は困惑した。言ったことがあっただろうか、という細々とした事実確認と、私を意識してくれたくすぐったさが同居して喉を抑えていた。

 夏希は見馴れないように右目を眇めてかがみ込み、

「入学したてのとき、教えてくれたじゃん」

「そうでしたっけ?」

「そうだよ、部屋の割当が決まったときにさ、自販機がないって話、してたよ」

 夏希はなじるような口調で言った。そう言うのなら間違いない、けれど得心しきらずに天宮は唸った。おおよそ二人の間では天宮が覚えていて夏希が忘れているということが常であり、自分のことだというのに記憶にないというのがどうも気に入らなかった。馴れた街の辻が、急に別物に見えたようだった。

「まあいいけど」夏希は首を傾け小さくため息をついた。「残り、飲んじゃってよ」

「ええ、そういうことなら」

「……でも、天宮。これって間接キスだね?」

 天宮は吹き出しかけた。ちょうど喉が鳴ったのを見計らって言ったらしかった。

 手のひらで口を拭って、天宮は睨んだ。いささか不機嫌な顔を作っている。演じているの、私は、と思いながら、尖らせた唇を開いた。

「なんで意識させるようなこと言うんですか」

「それ、答えだよ。意識させたいからでしょ」

「先輩っていい性格してますよね。いまさら、そんなこと」

「なに? いまさら間接キス程度、ってこと?」

 夏希はにじりよって、意地悪い猫のように笑った。きまぐれで嗜虐的な色を含んでいた。吐息が熱を帯びて頬に当たり、天宮は心臓が蠢き始めるのを感じた。唇に甘さと、重たるさを覚えた。至近で夏希が目を瞬いた。二重の、愛嬌のある瞳は今や真剣さを宿し、夜の湖面にも思えた。

 眠り込んでしまいたいような気がした。まどろむような誘惑に身を任せてしまえば、何もかも堰を切って欲情が流れ出していくだろう、そんな予感を覚えていた。夏希の息遣いが、いっそう濃やかになった。

 されど彼女はそれ以上に近づきはしなかった。肌に熱っぽい湿り気だけを残しながら、じっと身を潜め、昏い瞳は呆けたように天宮を凝視している。焦点はここにあるはずだというのに、遠くを見透す目の色は忿怒にも似ていた。

「天宮、手、痛いけど」

 夏希が左手をかすかに動かして訴えた。気づけば天宮の右手は夏希の左手をベンチに押し付けて、甲には爪さえ立てていた。あっ、と天宮が力を緩めると、夏希は手を引っ込めて、しょうがないな、と苦笑いを浮かべ座り直した。赤い爪痕が残っていた。

 天宮は隠れて胸で息をついた、凝固していた空気が一息に流れ出したようだった。

 空咳をして、わざと低い調子の、揶揄やゆするような声を作ってみせる、

「こんなところで発情したんですか? 節操なし」

「ムードってやつじゃん? そういうこと、あるでしょ」

「私はないです。いずれにせよ今日は駄目ですよ、ひとまず落ち着くまでは」

 ちぇっ、と夏希は芝居じみた舌打ちをしてみせたが、それだけだった。もう一言、二言の返しがあってもいいのに、と天宮は梯子を外されたように思った。

 波音がかすかにさざめいている。沈黙が落ちていた。

 心地の良くない静けさだった。寮の狭く、こもった一室で、夏希がベッド寝転がりその傍で天宮が本を読んでいるときの、あるいは夏希が膝に頭を置いてきて、ただ顔を見つめているときの、緩やかな空白が胸に去来して、泡に消え去った。その後から泥のような得体の知れない畏れが湧き立ってきて、天宮は頭を振り口を開いた。

「で、聞いてなかったんですけど」手を組んで、切り出した。「目的地は?」

「どうする? 天宮はどこ行きたい?」

「考えてなかったんですか?」

 思わず詰め寄ると、夏希は待て待て、と手を広げて、

「行くあてがないわけじゃないよ。まずは金策しないといけないけど」

「実家ですか?」

「それは駄目かな。たぶん今日中に連絡がいって連れ戻されちゃう。どっか落ち着けるところ探さないとね」

 それは決まっていないんじゃないですか、と天宮は胃が重くなった。自分ひとりではこんなことはできなかった。泊まるところを決めず、行き先さえ曖昧なまま旅に出るなど考えもしなかった。地図がなければ一歩も歩き出せない性質だった、そうやってここまで少しずつ踏みしめてきた。

 だから、夏希を羨んでいた。憧れであり、理解できない怖さもあり、放っておけない危なかっしさで目を離せなかった。

 それらを読み解いたのなら、興味かもしれないと天宮は思った。俯瞰的に捉え、いくつかの感情をノイズとして排除すれば、そのあたりに落ち着くらしかった。自身とはまったく違うものに対する好奇心に違いないと切り分けて、こう問いかけた。

「どうして、こんなことを?」

「どうして、ついてきたの」

 返す刀のようだった。夏希はおもむろに顔を上げた。瞳がまた、キスを迫る時のような強い色を帯びていた。けれど奥に炎がゆらめくようでもあった。叫びだす直前の、怒りにも似た熱心さを含んでいた。

「ねえ、天宮。あんたは逃げなくてもよかったじゃない」諭すような口調だった。「あんたは来年もある。まだやってみなきゃわかんないこと、あると思うよ」

「私は、嫌だったから来たわけじゃないです。いえ、もちろんそれもありますけど」

「じゃあ、なに」固い口調で、夏希は訊いた。「答えられるでしょ」

「……ゆっくりでいいですか」

「時間、ないよ。もうじき電車、来るから」

 夏希は中空に視線を浮かせて、ほら、と言った。線路の震える濃やかな音を聞き取っているらしかった。天宮には聞こえなかった。

「私は、好きだからです。先輩が」

 気圧されるように、天宮は呟いた。頼りのない声だった。自分で言っておきながら、もし傍らにいたら笑ってしまうほどに掠れていた。

 夏希は手を組んで、うん、とうなずいて影のように微笑した。赤い舌が唇を舐めて、つぼみの女が香り立とうとしていた。天宮は慄えを覚えた。夏希の口を塞いでしまうなら今しかないように思えた。

「違うよ、それは。好きって思い込もうとしてるだけだよ」

 喉が詰まるような気がした。言葉が、肺腑を刺して抉った。違う、と天宮は反射のまま口にした。正鵠を射ていることに気づいていた、ばつの悪さが、なお舌を滑らかにした。

「どうして、そんなこと言えるんですか。心の中までなんてわからないでしょ。好きじゃない相手と一年同じ部屋なんて耐えられないですよ、それにこれまで、一緒にいろんなことしてきたじゃないですか、お風呂で馬鹿みたいに我慢比べしてのぼせたり。合宿でこっそりアイス買いに行って、半分こにしたりって、そんなのも、あったじゃないですか」

「あった。楽しかったねえ」

 夏希は目を閉じて、反芻するように口元がほころんだ。水色のソーダアイスを、天宮も思い起こした。けれどその味も、夏希が口に頬張った時の表情も輪郭を失っていた。焦りと慄れが湧き上がった。

「あたしも、覚えてる。忘れたことなんてないよ、天宮。あたしは、あんたのことずっと好きだから。今でも」

 あたしは、という言葉が寒々しく浮き上がった。語調こそ柔らかだったが、断罪するような調子を含んでいた。違うんです。胸の内からどす黒い煙が立ち込めるようで、天宮はすがるような目を向けた。

「なんでそんなこと思ったんですか。急に。いままで少しも言わなかった、そんなこと」

「薄々気づいてたんだ、あたしは。でも興味を持ってくれるならいいかなって思ってた。あたしの好きと違っても、今あたしのものになってくれればいいかなって甘えてた」

「今だって、そうです……!」

 違う違う、と夏希は首を横に振った、物分りの悪い子供に向ける苦笑を浮かべていた。

「さっき、はっきりしたよ。あたしにキス、しに来なかったじゃない」

「それは……タイミングっていうものがあるんです。たまたま今じゃなかっただけ、だから言ったでしょ、こんな時だから、落ち着かないから」

「天宮は理性的だね」夏希は哄笑のように唇の端を吊り上げた。「あたしには無理だよ」

「それは単なる性格の違いで」

「あたしは、言葉なんかどうだっていい。好きだとか愛してるとか。こころがあるかないか、それだけ。あんたは十分に理性的な判断ができる、いつだって。それは恋じゃない、あたしの好きじゃないよ。ほら、あんたお得意の理屈でさえこう証明できちゃった」

「論理的な恋だって、あるかもしれないじゃないですか」

「ないよ」

「どうして、わかるんですか!」

「だってあたしは、今もそうだもん」

「私は、私のやり方で好きになってるんです。だから」

「天宮。この先には、あんたが欲しいものはないんだよ」

 目が眩んだ。いまさら、と呟いた天宮の唇は、細かく震えていた。

 決定打だった。ずっと平行線で、デュースが告げられた最終セットが打ち破られて、コートには誰もいなくなっていた。天宮自身だけがまだ終わっていないつもりだった。

 夏希はしばし瞑目し、細く、長い息を吐いた。たった一瞬の沈黙で、全てを悟ったようだった。列車の、規則的な音が近づきつつあった。今は天宮にもはっきりと聞き取れた。

 膝に手をつき、夏希は立ち上がった。

「さあ、あんたはここまでだ。あたしはもう恋できないだろうけど、あんたはできる」

 天宮は動けなかった。すべて見透かされていた、わからなかった自分の感情を切り取られて差し出されていた。立ち上がれず、上手く身体が動いてくれたとしてもその先には何もなかった。真っ当な結末が見えなかった。

 機械的なアナウンスが流れた。夏希はホームの端に立って、彼方を睨んでいた。ライトが大きくなっているらしいことを、背中で感じ取った。

 天宮はほとんど叫ぶように言った、

「私は、先輩のこと、ずっと気になってて、それで……!」

 その先は滑り込んでくる電車の音が掻き消した。幸いだった。天宮は言葉を知らなかった。言うべきフレーズがあるはずなのに、それがどこかで引っかかって落ちてこなかった。どうしてこうなったのと悔やんだ。割り切れなかったこころの、最後の部分を埋めることを諦めたことを。妥協して、ありもののイメージとステレオタイプな誰かの意見で型をつけたことを。

 人に訊いて、話に上る誰かと私を置き換えてみたところで、違和は埋まらなかった、熱心に追うような青い恋心でもなく、ふくらんだ性欲でもなかった。その置き場を自分なりに整理しなくてはと天宮は結論づけたことが失敗だった。それなら青さに身を任せて自分を騙しきればよかった、嘘をつくことができればよかった。

 扉が開く。夏希は歩き出し、誰もいない列車の中で振り向いた。

「でもね、天宮。本当に、大切な時間だったよ」

「私も……だから!」

 天宮は手を伸ばしかけた。けれど、恋ではないと定められて、それでもなお離さないでと願うのはあまりにズルすぎた。指先は空を滑った。

「いつか、どこかで」

 夏希が笑った。伸びやかな、青空のような笑顔だった。

 鈍い獣のように、列車が重い音を立てて動き出した。夏希は背を向けて座り込んだ。もう顔は見えなかった。それきりだった。



 打ち寄せる波音が、耳に届いた。黙っていれば聞こえた。ひとりだった。指先を動かすことさえ億劫だった。今や世界でたったひとり孤立して、どことも触れ合っていなかった。限りなく裸に近いように思った。

 黄色い靴を、天宮は思った。鮮やかな走りを、二人で走った茜色のグラウンドを思った。

 今しがたまで聞こえていた声が、もう聞きたくなっていた。どうしようもなく失ったのだと、はじめて気づいた。苦しかった。さらって欲しかった。強引に。

 ずっと握っていたせいで、ソーダの瓶が暖かくなっていた。夏希の長い指が絡んでいるようで、いまさら離すことなどできなかった。

 心の中のある部分が、真っ白に戻ってしまったようだった。埋められない空白の、片付けないままでいた課題はもう永遠に失われて、その痛みでやっと、天宮は悟った。欲しい物なんてなかった。何もなくてもよかった。あの唇がなにかをなぞるだけで笑えた。それに身を委ねるだけで、きっと十分だった。

 好きです、とつぶやいた。本当に、好きだったらしいです、私は。

 けれどその先には何の形も、告げるべき相手さえもいない。無意味な言葉が、ただ波音のさざめきに入り混じって散った。

 それでも、確信していた。ここを通らなければわからなかった、この気持ちを知ることなどなかった。彼女に捨てられた、捨てた、その時に生まれでた芽が境界にいたと気づかせてくれた。世界にとっては意味を持たず、天宮にとっては宝物の欠片が、胸に染み通っていった。

 夏希の香りが、まだ漂っていた。爽やかなトパーズ色の香気を、天宮は確かに見た。かつて六畳一間を満たしたそれが、胸一杯に広がっていた。まどろみにも似た気だるい心地よさが足先まで満たしているこの時間を、味わいたいと思った。

 電燈が弾けるような音を立てて消えた。あたりは仄暗く、群青の空に風は凪いでいた。線路の砂利に生えた名も知らぬ草が、青々と生気を吐き出していた。

 顔を上げた。おぼろげな橙の光が、海に現れようとしている。

 いつか、どこかで、と天宮は呟いた。光る水平線を見ていた。

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白朝夢 山口 隼 @symg820

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