第10話 ゆく川の流れ

 その院生は言った。


「それがね……結論から言うと、たいして新しい発見は無かったのよ」


 すると今まで黙っていた彰子が口を開いた。


「どういうことですか?」


「長徳の変に関しては、藤原実資ふじわらのさねすけが結構細かく『小右記しょうゆうき』という日記に書き遺してるんですよ。だから千年後のわれわれにも事件の概略はわかるんです」


 そこで院生は言葉を区切り、さらに続けた。


「『小右記』の記事と照らし合わせても、目新しいことは何も無かった。おそらく書かれていないこと、書けないことは藤原道長が墓の中まで持って行ったんじゃないかしら」


「そうですか……」


 伊川が見ても、彰子はガッカリした様子だった。


 それでも彰子は、


「ご親切にありがとうございます……ところで、あなたのお名前は?」


と、この院生にお礼を言ってから名前を訊いた。


 その院生は笑みを浮かべて言った。


「申し遅れました。わたくし菅原真子すがわらまこと申します」


「えっ、菅原さんですかっ?!」


 彰子は両手で口を押さえて小声で言った。


「きっと、道真公のお導きだわ……」




「それにしても、中宮なかみやさん、無駄足でしたかねぇ~」


 博物館の帰り、二人はすぐに帰る気にもなれず、足は自然に鴨川べりに向かっていた。すでに日は西に傾き、辺りは次第に薄暗くなってきた。


「でも、笑えましたねぇ。新発見と言えば、道長から兄二人(道隆・道兼)に対する悪口みたいなものだなんて……何が機密文書で、失脚の危機だか……まぁ、落書き程度のものが見つかったら恥ずかしいことではありますけどね~」


と言って、伊川は笑った。


「すみませんねぇ……変なことに巻き込んでしまって……」


と、さすがの彰子も恐縮しているようだ。


「ううん、良いんです。今まで結構、楽しかったし」


 伊川は素直にそう思った。


「そうそう、実資さんは親戚しんせきなんですが、『小右記』なんて日記を遺しているんですね。まあ、あの方、父上と違って、たいそう筆まめだそうだから」


「考えてみれば、千年前と言っても、『枕草子』や『源氏物語』、そして『小右記』と、この時代の史料って意外とありますよね」


 そこで彰子が伊川に尋ねた。


「ところで、実資さんの日記は、なぜ『小右記』と呼ばれているのですか?」


 伊川はその点、歴女らしく自慢げにスラスラと答えた。


「そりゃあ、小野宮右大臣おののみやうだいじんと呼ばれていたからです。小野宮の『小』と右大臣の『右』を組み合わせて『小右記』。藤原実資は『賢人右府けんじんうふ』、つまり『賢明な右大臣』と呼ばれていたんですよ」


 彰子は首をかしげた。


「変ねえ。私のいる世界では、実資さんはまだ中納言なんだけど」


 伊川は大声を上げた。


「あ~、そうかっ!」


「どうなさったの?」


中宮なかみやさんにとっては未来の出来事をむやみに話してしまった!」


 彰子は笑いながら、


「……そう、実資さんは将来、右大臣にまで出世なされるのね。そういえば父上の日記のこと、さっき何とおっしゃってましたっけ?」


「あっ、『御堂関白記みどうかんぱくき』って……」


「関白ですか?……父上は将来、関白になられるのですか?」


「あ~、そうか、タイトルで丸わかりだ!……厳密に言うと道長は関白にはなっていませんけど、くらい人臣じんしんきわめますよ」


と、伊川は古風な言い方をした。


 藤原道長は従一位じゅいちい摂政せっしょう太政大臣だじょうだいじん准三后じゅさんごうに昇り、彰子をはじめ四人の娘をそれぞれ天皇の后にし、結果的に四人の天皇の外祖父がいそふとなることで、摂関政治の全盛期を現出させた。


 一方、彰子は「タイトル」という(彼女にとって)訳の分からぬ語句に引っかかったらしく、


?」


と言うと、網で魚を捕る仕草をした。まったく、何処でそんな仕草を覚えたのか。


 伊川は軽く無視して、


「え~い、もういいや……彰子さん、あなたは将来、帝二人の母親になり、平安時代の人としてはすごく長生きされますよ」


 一条天皇の皇后となった彰子は、後一条天皇と後朱雀天皇の生母となり国母こくもと称せられ、八七歳まで生きた。当時としては超人的な長生きだ。時代は既に第七〇代の後冷泉天皇、七一代の後三条天皇を経て、七二代白河天皇の治世に移っていた。この時、すでに弟で父・道長の後を継いで摂政となった頼通よりみち、関白となった教通のりみちもこの世になく、政治は摂関政治から院政へ、そしていよいよ武士が台頭していく時代になっていくのである。


「まあ、あなたもまるで晴明さんのようなことを言われるのね」


と、彰子は笑った。


「そりゃあ、私は中宮なかみやさんから見て千年後の人間ですから、わかりますよ」


――わっ、いつの間にか私は中宮なかみやさんを中宮彰子ちゅうぐうしょうしと同一視している。あ~、なんか振り込め詐欺さぎをホントの孫だと信じてしまった老人の気分……。


 少し間を置いて彰子は、


「そうですわね……」


と、言った。心なしか寂しそうだった。


 不意に彰子は、伊川の方に向き直った。


「ありがとう、伊川さん。今までありがとう」


 面と向かって言われると、伊川は気恥ずかしかった。少し顔を赤くして応えた。


「い、いえ……」


「私は本来、いるべき世界へ帰ります。父上にこの件の報告をしなければなりませんしね」


「えっ、えっ?」


 急なことに伊川は声が出ない。


「そこでこれ、お礼と言っては何ですが……」


と、彰子はポケットから書状を取り出して、伊川に手渡した。伊川には何だかわからない。


「何ですか? これ?」


「報酬です。恩賞です」


 伊川はそれを聞くと、


「え~っ、ありがとうございます。いただきます。ありがたきしあわせです~」


と、大げさに書状を惜し抱くとはらりと開いて、そこに書いてある文章を読もうとした。


「……て、何て書いてあるんですか、これ?」


「今回の調査に協力していただいたお礼として、伊勢国鈴鹿すずか郡の荘園しょうえんを一箇所差し上げます。これはその権利を示す書きつけです」


「えっ、そんな……」


――千年前の土地の権利書なんて、今あっても、何の役にも立たないじゃん! せいぜい古文書としての価値があるかもしれないけど。


 想定外のしょうもないご褒美に伊川は言葉が出ない。ところがそれを彰子は「感激のあまり言葉が出ない」状態だと誤解した。


「伊川さん、そんなに嬉しいですか。では、もう一つ。素晴らしいご褒美です」


「な、何でしょう?」


 今度こそ、期待が出来るものなのか?


「あなたには藤原の藤の字を授けます。これからはではなく、と名乗ってください。これであなたも由緒あるわれら藤原一門の関係者とわかります。これが最初に申し上げた実利的なものと名誉的なものです」


(注) 「伊藤」は三重県に多い苗字です。由来はもちろん「勢国の原氏」。


「ちょ、ちょっと待って、今はそんな時代じゃ……」


と伊川は言いかけたが、時間は伊川が彰子にこの時代のことを説明する猶予を与えなかったし、伊川もご褒美などもうどうでも良くなった。


「今までありがとう、さようなら。もし、またこちらへ来ることが出来たら……」


「出来たら?」


「また、ほうじ茶ソフトクリーム食べましょ!」


「ええ、もちろん!」


 彰子と伊川は顔を見合わせてにっこり笑った。


 いつの間にか彰子の背後には牛車が控えている。


 彰子は伊川に深々とお辞儀をし、和歌を歌いながら牛車に乗り込んだ。


「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂おうさかの関」


 一応、別れの歌だ。


 彰子を乗せた牛車は夕闇に紛れて、何処いずこともなく姿を消していった。


 しばらくの間、伊川はぽかんとしていた。


 眼の前で起こったことが信じられなかった。と同時に、ここ一ヶ月ほど彰子とつきあった時間が妙に懐かしく思えた。 


 薄暗くなってきたが眼の前の鴨川の流れを見ていると、


――行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。


 古典の授業で習った『方丈記』の冒頭の文章が自然と口から出た。伊川は思った。


――長い歴史の中で、個人の生って何だろう? どんな意味があるんだろう?  


――中宮なかみやさんって、本当に中宮彰子ちゅうぐうしょうしだったの……?


――だとしたら……?


――ところで、最後まで出てこなかった村崎さん、スランプ脱出できたのかなぁ? 是非一度、会いたかったなぁ。


 なお、院生の菅原真子は、最近発見された十一世紀初頭の古文書にいきなり登場した「伊藤塁いとうるい」なる人物の素性がどんなに調べてもわからず、図書館で首を傾げることになる……。




                 終

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中宮彰子は名探偵? 喜多里夫 @Rio-Bravo

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