第9話 いざ! 国立博物館へ

 ここで伊川は何気なにげにポケットからチラシを取り出して見た。


「そ、そうだっ、これだっ! すっかり見落としていた!」


 思わず大きな声を上げた。


「何ですの?」


と彰子が訊く。


「いえ、国立博物館の『平安時代展』。これは盲点だったなぁ。つい神社やお寺にばかり目が行ってたけど、そういえば、陽明文庫ようめいぶんこ(藤原氏の子孫である近衛このえ家伝来の古文書こもんじょなどを保管している施設)だったか、時雨亭文庫しぐれていぶんこ(同じく藤原氏の子孫である冷泉れいぜい家伝来の古写本こしゃほんなどを保管している施設)だかで発見された古文書を展示するとかいう記事を最近、新聞で読んだんだ!」


「それよ。行きましょう。国立博物館へ……て、どこにあるのですか?」


三十三間堂さんじゅうさんげんどうの向かいですよ」


「三十三間堂? 何ですか、それは?」


「あっ、そうか、三十三間堂は平安末期に後白河法皇が建てたんだから、藤原道長の時代にはまだ建ってないんだった」


 二人は歩きながら四条河原町のバス停へ向かった。バス停でバスを待っていた時、市バスのクラクションが鳴る。


「あっ、市バスが来ましたよ! 二〇六系統、あれだ、中宮さん、あれに乗ってきましょう!……て、中宮さん、何、いきなり耳ふさいでへたり込んでいるんですか?」


「私、あのクラクションて音、聞くの苦手で……」


「えっ、どうして?」


 大きな音は苦手なのか?


「だって、あれ、雷様の鳴る音みたいでしょ?」


「え~、そうですかねえ?」


「そうですよ。そして雷様はわれら藤原一族にとっては天敵というか弱点なのです。もう百年ほど前の話ですが、親戚の方が何人も亡くなっていて……」


 この言に「歴女」伊川はピンときた。


「あっ、それは菅公かんこう、菅原道真のたたりのせいだ」


 菅原道真は平安時代の学者で貴族の政治家である。時の宇多うだ天皇に重用されて右大臣の地位にまで昇るも、左大臣藤原時平ふじわらのときひらとその取り巻きによる陰険な策略によって九州太宰府だざいふ左遷させんされ(昌泰しょうたいの変)、現地で失意のうちに没した。


 ただ、話はそれだけで終わらなかった。その後、道真失脚に加担したと思われる貴族たちが次々とを遂げたのである。


 まず、参議さんぎ藤原菅根ふじわらのすがねが雷に打たれて死んだ。彼は道真の左遷を阻止すべく参内さんだいしようとした宇多上皇を内裏だいりの門前で妨害した、いわば実行犯の一人だった。ちなみに、菅根は藤原元方の父親である。まったく、親子で他人に祟られたり、他人を祟ったり、面倒くさい一家だ。


 次に、主犯格の左大臣藤原時平が熱病にかかり三九歳で急死した。死の床の時平は道真の亡霊を見たと言い、発狂状態になったという。時平の長男の大納言保忠やすただも病床に伏し、その際に祈祷きとうの僧が読経どきょうする経文の中の「宮毘羅大将くびらたいしょう」という語を「近衛大将(である自分)をくびる(首を絞めて殺す)」というように聞き、恐怖のあまり昏倒こんとうして、そのまま息絶えた。時平の他の男子たちも皆、若死にしたので、藤原氏でも時平の血統は早くに絶えた。


 道真の後任として右大臣になった源光みなもとのひかるは、狩りの最中に乗っていた馬ごと底なし沼に沈んで溺死できしした。死体は長いこと沼から上がらなかった。


 時の醍醐だいご天皇(宇多天皇の子)の皇太子保明やすあきら親王(母親は時平の妹)がはやり病で若くして死に、さらにその子で皇太孫こうたいそんとなった慶頼よしより王もわずか五歳で夭折ようせつした。


 さすがにこれだけ続くと「何かおかしい」と思うだろう。


 そして決定打となったのは、貴族たちが会議中だった内裏だいり清涼殿せいりょうでんに雷が落ち、大納言藤原清貫ふじわらのきよつら右中弁うちゅうべん平希世たいらのまれよなど数名が死傷した事件である。特に清貫は時平の密命を受けて左遷された道真の監視役を務めたような男だったが、雷に胸を切り裂かれ、黒焦げとなって即死した。そしてこの惨状を目の当たりにした醍醐天皇も体調を崩して倒れ、そのまま一ヶ月後に崩御ほうぎょされたのである。


 さらにだめ押しとなったのは、日蔵にちぞうという僧侶が、強力な祟り神となった道真と、死後、地獄の責め苦にのたうち苦しむ醍醐天皇や藤原時平の姿を夢に見たことだった――当時の人々にとって、夢は「事実を告げるもの」だったのである。


 これらの一連の出来事に当時の貴族社会は大いに震撼しんかんし、「これは無実の罪で亡くなった菅原道真公の祟りだ」ということで、彼の名誉は回復され、「天神てんじん様」「学問の神様」として全国の「天満宮てんまんぐう」にまつられることとなったのである。


 ちなみに中宮彰子は時平の弟、忠平ただひらの子孫である。血統は、


 藤原忠平→師輔もろすけ兼家かねいえ→道長→彰子


と繋がる。


 藤原忠平は兄・時平と違って穏やかな性格で政治上の意見も道真と似通っており、道真が没するまで連絡を取り合っていたという。それゆえ、「祟り」で殺されることはなく、この後、藤原北家の嫡流は忠平の子孫に受け継がれていくのである。


「まあ、みんな菅原道真に対して、やましい気持ちがあったからじゃないですか?」


と、伊川は現代人らしい理性的な意見を言った。もちろん、伊川は祟りなどというものは信じていない。しかし、当時の迷信深い貴族たちが激しく怯えるくらいのインパクトをこの事件は持っていたのだろう。さらに、兄・時平ではなく弟・忠平の血統が藤原氏の嫡流となる理由の宣伝効果にもなったのではないか(ゆえに、忠平の子孫は道真が祀られた北野天満宮を厚く保護しなければならなかったのである)。


 そこにまたクラクションの音がした。


「きゃぁぁ、やめてぇぇぇ~!」


 耳を塞いで彰子は叫ぶ。


「もう、仕方がないなぁ……あっ、バスが発車しそうだ」


 仕方なく伊川は、へたりこんでいる彰子を背負って、バスに向かって叫んだ。


「ちょっ、乗りま~す! 待って~!」




 ここは国立博物館である。


 展示室内にあった。


 展示内容が地味なだけにあまり人はいなかった。


「新発見の藤原道長の日記の一部って……あった! あった!」


 伊川は思わず大声を上げてしまった。


 椅子に座っていた学芸員が口に指を当てて注意する。


「しっ、静かに!」


「すみません」


 ガラスケースの中には藤原道長直筆の文書。


「確かに、間違いなく父上の筆跡ですわ……」


と、彰子は小声で言う。


中宮なかみやさん、本文、読めませんか? 私、くずし字読むのは苦手なんですよね」


と、伊川。


「え~、なになに……ちょっと暗いですよねぇ」


 二人してガラスケースに顔をくっつけて中を見ようとしている姿は、第三者から見れば珍妙なはずだ。


「お二人は高校生ですか?」


 背後から声をかけられた。伊川がはっとして振り返ると、そこには二十代半ばくらいの小柄な女性が立っていた。短い髪にきりっとしたボーイッシュな顔立ちだ。


「は、はい。そうですが、あなたは?」


「失礼ですけど、さっきからあなたたちを見ていると、この展示してある文書にすごく興味があるようですね」


「え、ええ」


「私は洛陽らくよう大学の日本史学の院生なんだけど、私の先生がこの特別展にも関係しているのもあって、何回か見学に来ているのよ。良かったら少し解説しましょうか?」


と、小声で言う。


「わっ、是非、是非」


「お願いします」


と、彰子も頭を下げた。


 とりあえず、三人は展示室の外へ出る。


 院生だという女性が二人に訊いた。


「あなたたちは『御堂関白記みどうかんぱくき』って、ご存じよね?」


「はい、藤原道長の日記ですよね」


「でも、藤原道長という人はあまり筆まめではなかったようなのよ。そこで、かなり欠落があるというか、書かれていない時期があるの」


「はい」


「で、今回、発見された文書は『御堂関白記』の一部と推測されているの」


「で、で、いつ頃の記述なんですか?」


 伊川が質問する。院生は即座に、


「ん~、まだ道長が若い頃。長徳年間よ」


と、応えた。


 彰子と伊川は顔を見合わせた。


 まさに探していたものではないか。


「そ、そうすると、道長が甥の伊周と政争を繰り広げていた頃の日記ですよね?」


「そうよ。よくご存じね。あのね、今まで現存していたとされる最古の記録が長徳四(九九八)年とされていたのだけど、今回見つかったのは長徳元(九九五)年から三(九九七)年までの間の日記なのよ。道長が日記をつけ始めたのが長徳元年からだというから最初期のものだと思うわ」


「どうして今まで見つからなかったんですか?」


「それが、陽明文庫の中でどうやら他の本の中に紛れてしまっていたらしいわ」


「それで、何か新発見はあったのですか?」


「それがね……」


と、その院生は架けていた眼鏡を指で少しいじりながら言った。

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