ある愚か者
「誰の差し金だ」
「第二王子の側室」
「内通者がいるはずだ、誰だ」
「参謀長の世話係」
「どこに隠した」
「愛人の家、屋根裏の木箱の中」
また幾人かの罪人が連れてこられ、秘密を暴かれ、やがて死んでいった。少女は黙々と働き続け、俺は暇を持て余すことが多くなった。ある意味では、平和だ。この地獄で平和なんて言葉を使う日が来るとは思ってもみなかった。近頃は少女もやや口数が増えてきたように思う。ある程度は俺に懐いてくれたのかもしれない。
仕事のない時は昔の記憶をたどり外の世界の話をした。といってもそのほとんどは自分が経験したことではなかった。ここに来る罪人たちから伝え聞いた話だ。稀にではあるが、何もしていないのに驚くほどよく喋る罪人がいるのだ。自分が逃れられない死の運命にあることを知れば、そういう心地にもなるのかもしれない。漁港の船乗りたちの話、戦場の兵士たちの話、貴族の煌びやかな晩餐会の話。少女は遠い異国の話が好きだった。特に感想らしいものは言わないが、何度も同じ話をせがまれた。
自分が少女に対して特別な何かを抱き始めていることを自覚せざるを得なかった。こういう感情をどう表現すべきなのかわからない。愛というと少々大袈裟だ。友情というには一方的すぎる。そう、信頼。それが一番近い気がした。勿論俺はいつでも少女を殺すことができる。だが少女は俺にその気がないことを分かっている。俺は少女の言葉を信じ、少女は俺の期待に応えた。暗黙の了解の上に成り立った奇妙で歪な信頼関係。存外に悪くないものだな、と思った。
その男は少し異質だった。三十くらいの長身の優男で、王の側室に取り入りたぶらかしたということだった。命令は「尋問せよ」。ただそれだけだった。つまり見せしめのために傷めつけろ、ということらしい。少女がここに来て以来、そういうことをするのは初めてだ。今更躊躇いなどはない。今まで何度もやってきたことだ。だが少女には部屋で待っているよう伝えた。男は鉄の椅子に縛り付けられたまま、じっと目を閉じて俺を待っていた。
「お前に恨みはないが、王の命令だ。苦痛と絶望を味わってから死んでもらう」
とりあえず左目からいくか。針と糸、それから鋏。勿論裁縫をするわけではない。といっても布が皮膚になる以外はさほど違いはないが。
「話したいことがあるなら入ってこい」
俺が準備をしていると不意に男が声を上げた。男の視線は俺ではなく部屋の扉を見つめている。こいつ何を言っているんだ。だがすぐに思い当たる節があった。重い鉄の扉がゆっくりと開いて、少女が顔を覗かせた。
「待っていろと言ったはずだ」
俺は少女の前に立ちはだかった。少女は口を開きかけたが、すぐに口ごもり俯いてしまった。今まで少女が俺の言いつけを破ったことはない。形容しがたい、不穏な何かが漂っている、そういう感覚があった。
「へえ、意外と仲いいんだな」
背後から男の声がする。ふてぶてしい、余裕すら感じさせるような表情をしている。やはりこの男は異質だ。いっそ早めに始末してしまった方がいいのではないか。
「だめ」
今度は少女が声を発した。しかし、まさか。少女が否定の意思表示をしたことは、俺にとってかなりの衝撃だった。一体何が起こっているんだ。
「つまりさ、俺とその子は同類だってことだよ」
男のあざ笑うような声が聞こえた。同類。つまりそれは、少女と同じようにこの男は人の心が読めるということ、それ以外に考えられなかった。
「ああ、先に言っとくけど俺は君の父親じゃないよ。だけど君の先達として色々知っていることはある」
それはおそらく少女に向けて言っているのだろう。二人は互いの心を読みあうことで、言葉を介することなく会話をしている。二人のやり取りは俺にはわからない。少女はただ黙って男の方を見つめている。
「俺たちは同じ運命を背負っている。俺も必死にあがいて生きてきた。でもその結果がこのざまだ。結局この程度の力じゃ何も変えられないのさ。愛も未来も容易く奪われる。長生きしたいなら、身の丈に合わない幸せなんて望まないことだ」
そこまで言って、男はゆっくりと目を閉じた。その表情には見覚えがある。これは人間が何かを諦めた時の顔だ。拷問の末、最後は皆この表情を見せる。先輩風を吹かせておいて最後はこれか。なんとも身勝手な奴だ。その時、男の表情が微かに歪んだ。
「うるさい」
声を上げたのは少女だった。その目は真っすぐ男を睨みつけている。きっと少女には男の声にならない言葉が聞こえたのだろう。一体何を聞いたのか。少女はひどく怒っているようだ。これもにわかには信じ難いことだった。
「私は、あなたとは違う」
そう言ったきり二人とも黙り込んでしまった。
次の日、結局男には何もしないまま衛兵に引き渡した。別に慈愛の精神が芽生えたわけではない。少女は他人の負の感情にも強い反応を示すことが分かったからだ。なるべくそういうものには触れさせたくなかった。衛兵はあからさまに表情を曇らせたが何も言わなかった。
少女にはあまり変わった様子は見られなかった。ただあの後、一言「ごめん」と言ってきた。どうやら言いつけを破って部屋に入ったことを詫びているらしかった。正直何故少女がああいう行動をとったのか、未だに確かな理由は分からない。だが男の言葉から察するに、自分と同じ力を持つ人間に、何らかの興味を抱いたのだろうと思う。それが単なる子どもの好奇心なのか、常人には理解できない繋がりのようなものがあったのかは定かではない。もしかしたら、少女はあの男が自分の父親かもしれないと、そう期待していたのではないか。もしそうだとしたら、俺は。そこで一度思考が止まる。俺は、何になろうとしているんだ?
「ねえ」
いつの間にか少女が近くに立っていた。俺のとりとめのない思考もきっと筒抜けだろう。さて、どうしたものだろうか。あたふたと弁解するのも格好がつかない。
「あなたは、ジャックだよ」
それだけ言って少女は床に座り込んだ。つまりぐちゃぐちゃ考えてないで普段通り過ごそう、ということらしかった。
「お話、して」
「どんな話がいい」
「聞いたことないやつ」
「難しい注文だな。じゃあ、ある愚か者の話をしよう」
「聞く」
「その男はある金貸しの次男だった。不自由のない生活を送っていたが、戦争が始まったせいで軍隊に入れられてしまった。男は戦場に行きたくなかったので、代わりに自分にできることを考えた。そして軍隊の中の金の流れを調べて不正を見つけ、それを告発した。軍は男の働きを称え、戦場に行かなくて済む特別な役職を与えた。以来男は暗い地下室で罪人たちを拷問し続けている」
「おもしろくない」
「それは残念だ」
そういえば少女が俺の話に感想を言ったのは初めてかもしれない。しかしそろそろ話のネタが尽きそうだ。次に連れてこられるのが異国の大盗賊みたいな奴なら、こちらも退屈しないで済むのだが。少女は不満を口にした割には、あっさりと引き下がっていった。
何か激しい物音が聞こえた。体を起こし、あたりの気配を探る。暗がりの中で二つの影がもみ合っている。微かに少女のうめき声が聞こえた。その瞬間一気に意識が覚醒した。重なる二つの影にとびかかり、引き離そうとする。脇腹に激しい痛みを感じる。相手の肘が入ったようだ。反射的にその腕を掴み、思い切り噛みついた。野太い男の悲鳴が聞こえた。間違いない、こっちだ。暗闇の中でその男とがむしゃらに殴り合った。相手の力は強く、体格もこちらより大きいようだ。そう思った次の瞬間には鳩尾を突き上げられ、気づけば床に膝をついていた。これは、まずい。その時、男の叫び声が聞こえた。男の影はしばらくよろめいていたが、やがて床に倒れて動かなくなった。
ようやく訪れた静寂。一体何が起こった? 考えたくとも痛みが思考を鈍らせる。そうしてしばらく床にうずくまっていると、不意に部屋が明るくなった。そこには灯りを持った少女が立っていた。特に目立った怪我などは無いようだ。そばには黒い服を着た男が倒れている。その太腿のあたりには一本のナイフが刺さっていた。おそらく男が持ち込み、乱戦の最中に少女が奪って刺したのだろう。さっきからまるで動かないところを見ると、刃に毒でも塗ってあったのかもしれない。
「だいじょうぶ?」
不安げな表情で少女がこちらを覗き込んでいる。少し息が上がっているようだ。その小さな肩が上下している。痛みをこらえ、どうにか体を起こして息を整える。
「一体何があった?」
「寝てたら、入ってきた。すごい殺意。だから、止めた。勝てなかったけど」
「殺意って、俺を殺そうとしてたのか? この男が」
「うん」
ますます訳が分からない。何故俺が命を狙われる? いや、そもそもこいつは何者なんだ。ここは昼夜を問わず衛兵が警備をしている。部外者が忍び込むなんて不可能だ。そう、不可能なはずだ。つまりこいつは部外者ではなく、軍内部のどこかから俺を殺すためにやってきた暗殺者ということになる。しかし、何故? 思考は堂々巡りし、結論は見えてこない。
「聞こう」
不意に少女が口を開いた。すぐには意味が理解できなかった。だがそれは、この男に真相を聞こう、と言っているようにしか思えなかった。
「お前、死者の声も聞けるのか」
「まだ死んでない。ぎりぎり、だけど」
つまり男はまだ辛うじて思考ができる状態にあるようだった。そうであればいつもとやり方は同じだ。問いかけによって意識を集中させてやればいい。
「何故俺を殺そうとした」
少女は目を閉じ、集中しているようだった。いつもより長い沈黙。ただ静かに答えを待つしかない。しばらくして少女はようやく目を開いた。
「王様の命令、拷問しなかったこと、すごく怒ってる。だから、もういらない」
「……成程な」
先日の王の側室に手を出したあの男のことだろう。俺が王の意に反し男に拷問をしなかったこと、それに腹を立て暗殺者を差し向けたということらしい。実際少女さえいればもはや俺のような尋問官は必要ない。国の秘密を守るためにも暗殺という結論に至っても何ら不思議はなかった。どうしてこうなることを予測できなかったのだろう。命令に背けば命はない。俺の中に、王や軍は俺の仕事を評価してくれているという、甘い思い込みがあったのかもしれない。だが今となっては後悔しても遅い。
「あなたは、どうなるの」
「どうにもならないな。……もうおしまいだ」
もう全てがどうでもよかった。良心を切り売りして、必死に生きてきた結果がこれだ。あの男の言葉がふと脳裏に蘇る。俺は分不相応にも幸せを望んでしまったのだろうか。誰かを生かすなんてこと、今更できるはずもないのに。
「そんなことない!」
少女の声が薄暗い地下に響いた。初めて会った時と同じ、澄んだ綺麗な瞳をしている。
「ずっと、そうだったよ。あなたは、変わってない。嫌われ者でも、愚か者でもいい。私を、見てくれた。私を、信じてくれた。私を、救ってくれた」
震える声で少女は言った。
「私は、幸せだよ」
赤錆のこびりついた扉は、もう長い間使われていないようだった。いささか不安だが、今は祈るしかない。穴に鍵を差し込み、ゆっくりと回した。何度か突っかかりがあったが、やがてカシャンという軽い音とともに鍵が開いた。音をたてぬよう慎重に扉を押し開けると、細い地下通路が伸びていた。ここは緊急時の避難用通路だ。敵の目を欺くために作られたものだが、まさか味方の目を欺くために使われるとは、なんとも皮肉なものだ。長い通路を手探りで進んだ先には草原が広がっていた。夜明け前の冷えた空気が肺を生き返らせるようだ。あたりの様子を伺うが、人の気配はない。
「だいじょうぶ。誰も、見てない」
傍らの少女が小さく囁いた。少女はとっくに全部分かっているだろう。だからこそ、あえて自分の言葉で伝えたかった。少女のその小さな手を取った。
「一緒に逃げよう」
俺たちは秘密を知り過ぎている。きっと追われる身になるだろう。それでも俺の命の恩人であり、俺をあの地獄から救ってくれたこの子と一緒に生きていたかった。
「名前」
一瞬、何のことか理解できなかった。だが言われてみればそうだ。これから二人で生きていくのだから、いつまでも少女と呼んでいるわけにはいかない。
「どんなのがいい?」
「まかせる」
「そう言われてもな」
自分の娘の名前を考えるというのは、多分こんな気分なのだろう。決まるまではまだもう少し時間がかかりそうだ。
「行こう、ジャック」
小さな手が俺の手を引き草原へと歩みだす。この手を離さず守り抜く、そのためなら罪も後悔も運命も、全てを背負ってでも生きていける気がした。
地下牢にて 鍵崎佐吉 @gizagiza
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