【幕間】驕れる者、狂い咲いて久しからず

【一節】矜羯羅 ─kongara─


 ──殺さなければいけない。再び悪夢を見せてこようとする者は。


 ──護らなければいけない。再び悪夢を見せてこようとする者から。


 ──殺さなければいけない。再びこの身を傷つけようとする者は。


 ──護らなければいけない。再びこの身を傷つけようとする者から。


 ──殺さなければいけない。再び流血の痛みを知らせてくる者は。


 ──護らなければいけない。再び流血の痛みを知らせてくる者から。


 ──殺さなければいけない。再び過去を呼び起こそうとする者は。


 ──殺さなければいけない。再び過去を呼び起こそうとする者から。



 ──殺さまもらなければいけない。




 脅威は全て払い去った。

 殺すことで護ったのか、護るために殺したのか。どうあれど結果に違いはないはずなのだが、頭の隅では何かが引っかかる。


 だが、これで大丈夫だ。

 また護れたのだから、これで良かったのだ。


 言い聞かせるよりも速く、べったりと染み付いた言い分の方が頭の中に広がった。

 身体中が熱くて、喉が乾いて仕方がない。自分の感情が怒りなのか悲しみなのかさえもう覚えていない。

 ただただ、何かにひどく枯渇しているような空洞だけを感じていた。


「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛」


 アナグマキッチンに立ち込める粉塵を睨み上げ、感情の分からない咆哮を飛ばした。理由は特にない。あったとしても覚えていない。


 何かを告げたかったのか、それとも何かを求めていたのか、最早言葉を失くしてしまった今となってはどうでもいいことに思えた。

 どうでもいいと、いつからか思い込むようにしていた。


 グルグルと喉を鳴らして、狂獣はゆっくりと──それでいて力強く──身を屈める。

 心を宥めるような晩秋らしい冷ややかな風がひとつ吹いた。よそぐ髪が顔に張りついて、まばらな返り血色に染まっていく。未だ慣れない髪の毛という感覚に、何度も鼻を拭った。


 雨は全ての煩わしい匂いを流してくれるので嫌いではなかったが、雨上がりはその反動なのか色々な匂いが混じりあって、鬱陶しくてたまらなかった。


 いずれこの意識もまた途絶える。それはそれでいい。必要があればまた必要なことをするだけ。名前も忘れてしまったこの感情の行く末を防ぐ手立てなど、最早どこにも、誰にもない。


 狂獣はほとんど確信的にそう思っていた。けれども実際は違う。ただ一人を残し、他の誰もが預かり知らないところで、既に条件は整っていた。


 暴れ乱れる狂獣の嘆きを塞き止める。

 そのための布石が、既に打たれていた。


「果たせる哉、蟋蟀こおろぎ程度では効かなかっ、たか……だが、その度し難い心力が仇になったな……」


 粉塵の奥に立ち上がる影があった。耳に障る声がまた聞こえた。

 本能的に向いた視線に乗せ、狂獣は荒々しい吐息を影へと飛ばす。


で全員を眠らせても良かったのだが、強い眠りとはその場の記憶さえをも眠らせてしまう。お前に一々合わせていたのでは、砂利じゃり共三人があの場で培ったものさえ無下にする」


 息を整えるようにして、影が嗤った。


「ようやくとお前と対峙出来ると思えば怯懦きょうだの砂利ひとつ、奮闘勇躍の気勢を見せる。厄介なものだ」


 ──殺さなければ。護らなければ。殺さなければ。


 紅い目を三度見開いた。まるで砂塵にでも当たったかのように肌がパチパチと痛みを覚えていく。鼻筋に深い皺をいくつも寄せながら屈めた足を踏ん張り、力を込めた。


 ぎりぎりと締まる音を立て、濡れ固まった土に足先が沈んだ。男の姿は未だ粉塵に紛れぼやけていたが、その残り香のような影さえ切り裂いてしまいたい。


 ──だけは、生かしておいてはならない。


 野性が知らせる感触に牙を剥く。今までに殺して来た誰よりも、は危険だ。迂闊に近づいてはならない。迂闊に近づけてもならない。


 狂獣は再びバネを抑え込むようにして全身の筋肉を縮め、いつでも飛び込める体勢を保っていた。

 、というタイミングだけに集中し、その時を待っている。


 やがて風に吹かれて溶けていく粉塵の中から、憎たらしい輪郭が浮かび上がった。

 顔から腹から血塗れの男は、その重たそうな足を一歩だけ踏み出していよいよ姿を見せる。


「これよりこの街は大きく長濤うねる。そのための布石は打っておいた。お前の登場は想定外であったが、それもまた一興いっきょうとしよう」


 ──あと一歩。


 ──あと一歩、前に踏み進んだ瞬間に殺す。


 指に渾身の力を宿して爪を立てた。なるだけ音を殺して、殺意だけを相手に近づけた。

 男のあと一歩が見えた瞬間に最大の瞬発力で飛び込む。それで、


 今度こそ噛み殺す。今度こそ裂き殺す──


「そう殺気を飛ばしてくれるな。生憎とこちらは生中なまなかにそれを返せぬ身でな。握手のひとつでもしてやりたいところであるが、その怪力では殺されかねん」


 その男はまたも、笑った。

 ぬらぬらと赤黒く染まった顔を歪ませ、此方の激情を容易たやすく嗤った。

 脅える素振りも構える様子もなく、それはまるで命を投げ出しているようにも、ともすれば自らの価値を知っているような姿にも見えた。


 ──何を、考えている。


「これより。物事にはこれ順序があり、また往々おうおうにして出番もある。だが、お前はだ」


 睨み飛ばしながら言って、男はそれ以上歩み出すことなくその場で膝を折った。

 天を仰ぐようにして胸を開き、やがてを握る手が凄まじい怪光を放つ。


 ──しまった。


 そう思った瞬間に踵を思いきり踏み込んだ。大きく開けた口から牙を剥き、太い腕を振りかぶりながら一直線に飛びかかる。──だが、遅い。


 脱力を経ていない、緊張だけの瞬発力は渾身には程遠い。

 それでも、端倪たんげいすべからざる騎虎きこの勢いに違いはなかった。その一撃で命を奪い去るのに一瞬もかからないはず、だった。


「オ゛オ゛オ゛オ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!!!」


 狂獣は裂帛れっぱくの気合いを叫ぶ。


 だが、布石は既に打たれていた。


 それは、狂獣が襲う者には優先順位があったこと。


 それは、男が優先順位の存在を知っていたこと。


 それは、ひと回り以上身体の大きな相手を吹き飛ばすだけの筋力が狂獣にあったこと。


 それは、男がクロッグ・フィドルを得るため、敢えてアナグマキッチンまで吹き飛ばされたということ。


 それは、リュリュ・アンブローズだけが先に眠り落ちていたこと。


 そしてそれはその男、ダニー・コルテウスが狂獣にとって天敵とも呼べる異能者であったこと。


「──合縁奇縁あいえんきえんにて、その罪をほどいてやろう」


 男の言葉と同時に流れる旋律が耳に届いた刹那、狂獣の身体は宙を弾丸のように飛びながら脱力し、そのまま男を目前にして地面に頭から突っ込んだ。


「グゥゥヴヴ……」


 開いた口の中に泥が流れ込む。ざりざりと嫌な感触がしても、まるで気にならなかった。


 ──とどめを、刺さなければ。


 思いとは裏腹な旋律が穏やかにポロポロと頭の先から流れ迫ってきた。

 それが自分の意思に反して耳へ、肌へ、身体中へと染み込んでいく。魂が抜き取られていくかのように、力が身体の外へ外へと逃げていく。


 腕を立てるどころか、顔を上げることさえ出来ない。せめてもと思い唸り声を上げようとしても、それまた力なく萎んでいくばかりで、口の中の泥さえ吐き出すことが出来なかった。

 心は修羅を燃やし、当てどころのない憎しみが骨髄にまで徹した。




「近く在る者は刮目かつもくし、遠く座す者は傾聴けいちょうせよ。我が身、未だ酔生夢死すいせいむし。然れど当世の八苦を負いし者なれば。命は槿花きんかの露の如し、すべては邯鄲かんたんの夢と相成ろうか。然して艱難汝かんなんなんじを玉にす因果、これ即ち断見とて応報也──」




 光の中を美しく彩っていく音のさざ波の中、男は歌うように何かの言葉をそらんじた。

 どれひとつとして耳馴染みのない言葉だったが、その意味は次に来る男の言葉だけではっきりと分かった。


「惜しかったな獣。能事畢のうじおわれり、これにて終幕だ。その一手が及ばざるは、一度でこの首を仕留めきれぬ其処許そこもとの落ち度である。幽閉の彼方にて光を待つが良い」


 全身が柔らかい何かに包まれていった。

 ベールのように柔らかくて輪郭のはっきりしない、けれどもそこにあることだけは分かる何か。

 嬉しくて、恋しくて、だけども死ぬほど憎らしいそれに包まれて、抗う声は鼻息ほども出せない。


 目の前にある全ての景色が白く惚けていった。


「最後の、晩餐だ──」


 それはちょうど、異能が途切れていくいつもの感覚に似ているような、似ていたような気がした。



【ソワイエ・アンブローズ】



 夢を、見ている。


 ずっと見ているのか、それとも今だけたまたま見ているものなのか。

 もしかしたら生まれ落ちた時から見続けていて、そもそも私に現実なんてものはないのかもしれない。


 ただそれは、ひどく居心地の悪いものだった。



「──久しいな、ソワイエ・アンブローズ。息災で何よりだ」


 ふっ、と意識が降りて起き上がった途端、名前を呼ばれた。

 夢の中から自分の名前だけを取り戻して、と再認識しながら、慌てて辺りを見回した。


 廃墟群の中に点々と立つか細い緑の木々、どっしりと濡れた重たい土、冷たい風に嗤うような葉擦れの音と、ぼんやりと射す陽光。


 一瞬自分がどこにいるのか分からなかったが、玄関扉から破壊尽くされて半壊した建物を眺めているうちに、それがアナグマキッチンなのだと分かった。


 嫌な予感がして慌てて振り返ると、少し離れたところにリュリュが力なく突っ伏していた。今度は理解するよりも早く、その姿が血塗れであることに気づいて血の気が引いていく。


「リュリュ──」


 言うが早いか体を向けようとしたが、全身に激痛が走って自分まで倒れてしまいそうになる。

 思わず目の前に手をつくと、「怪我はない。あれは眠っているだけだ」と、また聞きなれない声がした。


「だ、れだ……」


 目の前にいる声の主に視線を送って、その形相に慄いた。

 天を拝むように膝を折る男の顔の右半面は、顎の下から額までを切り裂かれて、肉の花が咲いたようになっていた。赤黒い血が止めどなく溢れ出て、肌の色をしている部分の方が少ないほどだった。


「誰だよ、お前……」


 空っぽの頭の中から出てきた言葉はしかし、的を得ていた。

 ソワイエはその男の姿に全く見覚えがなかったが、男は自分の名をフルネームで呼んだ。


 ──どうしてだ?


 リュリュか誰かにでも聞いたのだろうか。それとも何処かで会ったことがあるのに、自分が忘れてしまっているのか。

 いくら思いを巡らせたところで分かるものでもない。むしろ今の状態で説明されたとしても、上手く理解出来る自信はない。

 そう思い至ったところで、思考は次に切り替わる。


 ──そもそもどうして、俺はここにいるんだ?


 確か今日は何かの手伝いで第三地区に行って、それから仕事が早く終わって、何かの用があってリュリュところへ行かなきゃ行けなくて、それで──。


 記憶を呼び起こそうとしても断片的で、大事なところには霞がかかってよく思い出せなかった。

 けれどもそれはとどのつまり、自分が異能化したことでの副作用なのだと覚えがあった。ひどく、吐き気がした。


 やがて重症を負った男の顔へ、自然と視線は戻った。

 見れば脇腹からもだらだらと赤黒い血が流れている。


「待てよ、お前のその傷……」


「これは春秋しゅんしゅうに富む砂利共が光を得るための代償だ。気にするほどのことではない」


「何を言ってんだ、お前──」


 うわ言のように言うソワイエに男は手をかざし、それ以上の言葉を遮った。


「悪いが逢魔が時が目睫もくしょうかんに迫っている故、俺にも時間が無い。重要なのは〝誰〟であるかではなく、〝何〟であるかだ」


「な、何を言ってんだ。一体何の話だよ?」


「君の心に巣食う化生けしょうを閉じ込め、眠らせた。物理的に干渉することは不可能故、俺が再び起こさぬ限り二度と目を覚ますことはあるまい。以後どう生きるか、どう生きたいか、決断するのは君自身の役目だ」


 矢継ぎ早に飛んでくる情報の数々に理解が追いつかないまま、男の木片を握る手が、鈍く弱々しく青白い光を放ち始めた。


「その光はなんだよ……だいたい、獣を眠らせたってどういう意味だ。どうして、そんなこと……」


「助けてくれと、喚んだだろう」


「た、助けるも何も、お前、血だらけじゃ、ないか……」


「本意ならずとも、それまた是非に及ばずさ」


 それは、見間違いかもしれない。

 意識がくらりと遠退き始めた瞬間、ソワイエには男が悲しそうに微笑んでいるように見えた。


「さて、時期にやって来る者が君を起こすはずだ。それまで、ゆっくり休むといい。君が考えねばならなくなるのはそれからだ」


 男は言いながら、光る手に持つ何かで音を鳴らし始めた。

 言われていることもやっていることもまるで意味が分からない。けれども焦燥と安堵が混濁する妙な違和感と、息苦しいわけでもないのに息が詰まるようなその旋律に、ソワイエは総毛立った。


「どう、して──」


 ──お前がその曲を知っている。


 何とか振り絞った言葉はソワイエの喉元で途切れ、意識はそのまま蜃気楼のように揺れながら解けていく。


 それはいつかの夢。いつかの幻。父母の愛に首まで浸かって溺れ、弟に説いた忘れじの子守唄。


「──母、さん……リュリュ……」


 伸ばした指の先に、ソワイエ・アンブローズは最愛たちの面影を辿った。



 幕間、了。

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THE SiN 町屋 緑 @machiya_midori

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