【十一節】涅槃 ─nehan─


 荒れすさぶコンコルディアにおいて、先生と呼ばれる人種は非常に稀だ。医師や牧師など、或いは一国の氏族に値するほどの価値がある。


 重厚感に溢れた革のソファーにぎこちなく座る、その少年もそうだった。


【ツキヨミ】


「今日はこんな感じで大丈夫ですか?」


「ええ、先生のおかげで次の商談にも箔がつきましたよ。わざわざ御足労いただいてありがとうございますねえ」


 第三地区の輸入商、ドン・ジョージは満足気にそう言うと、口元にぷっくりと蓄えた髭を摘むようにして撫でた。


「満足して貰えたのは嬉しいけど、あまり過信しすぎてはだめですよお」


 ツキヨミは間延びする、寝惚けたような口調で言った。

 占術の結果をはぐらかす気はなかったが、あまり盲信されるとハズレた時にさわる。念のためにアフターケアのことまで考えておくのが、ツキヨミの信条だった。


「このところは忌泣の雨のせいで店頭の商いどころか、仕入れ元との商談でさえ頓挫する始末ですから。先生のご助言をたまわれて恐悦至極ですとも」


「ああでも、商談を入れるなら今週末までは待ってくださいね。今週末から再来週いっぱいまでの商談なら、前向きに検討しても大丈夫そうですよ」


 こちらの話を聞いているのかいないのか、ドン・ジョージは何かを思い出した様子で膝を叩き、だるだるに肥えた体を揺らしながら部屋の外へと出て行く。

 歩く度に装飾具がガチャガチャと音を立てて、趣味の悪さに少し苦笑してしまった。


 部屋の中には鹿の首の剥製や、もはや何を描いているのかもよく分からない抽象画、火焔茸カエンタケのような形をした独特の花瓶、東国の絵をあしらった古い皿などなど、どれも個性だけが突出していて見栄えには協調性の欠片もない。


 足元には見るからに高価そうな分厚い絨毯が敷かれている。迂闊に足を乗せられない雰囲気がある点で言えば、絨毯としての役目を果たせているのか甚だ怪しい。


 このひとつ前に行っていた仕立屋は、逆に殺風景なほどに素朴な雰囲気の店だった。けれど出されたティーカップや作業台の引き出し、果ては玄関マットに至るまで、どれも品のある花の模様があしらわれていた。


 植物には明るくないがどれも同じ花だったので統一感があったし、今いるこの部屋とは正反対と言ってもいい。店主のエリザとドン・ジョージ自体の性格も真逆だ。


 様々な人間がいて当然と言えば当然なのだが、兎角第三地区は他区と比べても人間模様が豊かにも思える。


「どうもすいませんね、お待たせしてしまって」


 やがて帰って来たドン・ジョージが、両手に持った茶色い玉をツキヨミに差し出した。


「なんですかこれ?」


 こぶし大の茶色いそれを手に取ってみると、表面には産毛ほどの短い毛が細かく生えていた。もさもさとした手触りはフェルトに近い。


「それは彌猴桃キウイと言って、南国の果実なんですよ」


「へえ、不思議な見た目ですねえ」


 言いながら、ツキヨミは微かに笑った。

 実の表面にびっしりと種がついた果実や、いくつもの実が鈴蘭のように連なった果実は知っているものの、毛の生えた果実を見たのは初めてだった。


「コンコルディアは広い荒野に囲まれた、言わば陸の孤島ですからね。こういう鮮度の良い物が入って来るのは稀なんですが、今回は運良く三玉だけ手に入ったんです。良ければ先生もおひとつどうぞ」


「報酬はもう貰ってますから。そんな貴重な物までは貰えませんよ」


 笑顔に笑顔を返して言ったが、内心は毛の生えた果実など食べる気になれなかった。

 そもそもあまり食に興味のないツキヨミにとっては、その食材が珍しいかどうかにも興味がない。


 しかしドン・ジョージは「まあ、そう言わずに」と、半ば無理やりに果実を持たせようとする。

 そこまでされると断るわけにもいかず、ツキヨミは結局受け取ってしまった果実を懐に収めた。


「ではまた来月来ますから、お仕事頑張ってくださいねえ」


「お帰りなら区境くざかいまで付き添いを出しますよ」


 ツキヨミは「またいつ雨が降るか分かりませんから、今日はここで大丈夫ですよ」と言って、ドン・ジョージの提案を丁重に断った。今日はと言ったが、いつものことだった。


 ドン・ジョージもまた、いつも通りと知って深追いすることなく、笑顔でそれを見送る。定型文のような会話は、お互いの尊厳を保つためのお決まりだった。


「では先生、また来月よろしくお願い致します」


 よわい五十を過ぎようかという第三地区屈指の商人が、三十以上も歳の離れた少年に深々と頭を下げる。普通に考えれば有り得ない光景だが、それもツキヨミが先生と呼ばれる存在であるからに他ならなかった。


 ツキヨミは、第四地区在住の占術師である。

 元来、占術師は恒常的に先生と呼ばれる職ではない。しかしツキヨミはコンコルディアで先生と呼ばれる人種にあって、最も若くして信頼を置かれている。


 その理由は、恐ろしいまでの的中率にあった。


 ツキヨミは命占めいせんから手相、果ては占星術や数秘術までひと通りの占術を嗜んではいたが、中でも水晶玉たったひとつで行う占事水月せんじすいげつの的中率は七割を超えた。

 その上、自身の異能──未来水晶──がそこに噛み合おうものなら、的中率は十割になる。完全なる未来予知だ。


 だがそんな異能であっても、万能ではない。

 数多いる第四地区の異能者の力は大きく二種類に分けれられる。ひとつは本人の意思関係なく、生きている限り常に発揮し続ける常時発動型。そしてもうひとつが、本人の自由意思によって発揮する任意発動型。


 だがツキヨミの異能は偶発型であり、故に日に三度の未来を見通せることもあれば、十日経って一度も見通せないこともあった。何故なのかはツキヨミ本人にすら分かっていない。


 そして未来が映る場所は水晶のみならず、反射するもの全てに映る。鏡や硝子、時にはコップの中の水面にさえ映る。

 加えて最も厄介なのは、必ずしも占っている最中に見れるわけではないということだった。


 見えるのは未来の中にある断片的な数秒だけで、中にはそれが何を意味するのか、ことが起こるまで全く分からない時さえある。

 それも、どのくらい先の未来なのかさえ分からない。

 同じ日に見るひとつ目の未来が一年先のことで、ふたつ目に見る未来が数時間先のこともあった。


 つまり異能が噛み合えば十割の的中率だが、異能と占術が噛み合うことは非常に稀だった。

 それでも先生と呼ばれるほどの占術力がある分、ツキヨミは自身の異能を飾り程度のものだとしか認識していなかった。



 外に出ると、空は雲間から天使の梯子はしごを下ろしていて、地面はところどころ乾き始めていた。

 昨晩からの永遠に降り続いていた氷雨が嘘のようだった。


「なあんだ。今日はもう降りそうにないなあ」


 ツキヨミは子どもらしく口を尖らせて言った。

 忌泣の雨には都市伝説のような凶兆話があるものの、雨自体は好きだった。

 どこか落ち着くというか、心穏やかに過ごせるような気分になる。リズミカルな雨音は聞いていて癒されるし、独特の匂いも特別感があって好きだった。


 さらに言えば、忌泣の雨が降る時期はどこに行っても人通りが少ない。

 聞かれると眉を顰められてしまいそうな独り言でも自由に呟けるし、歩いていて人に話し掛けられる煩わしさもほとんどない。


 占術師という客商売をしておきながら、根底ではツキヨミにとって、ある意味ではこの上なく好きな季節でもあった。


「明日はまた降ると良いなあ」


 言いながら、ドン・ジョージに貰った果実を頬張った。

 帰り際に「皮は綺麗に剥げますから、剥いてから食べてくださいね」と言われたのでそうしたが、宝石のような黄緑色の身は思った以上に甘酸っぱく、美味しいというよりは何となく大人の味がした。


 第三地区の端にあるドン・ジョージ宅から第四地区のちょうど真ん中辺りにある自身の店──夜見鏡よみきょう──までは、歩いて一時間弱かかる。


 夜見鏡の営業時間は朝の十時から午後一時までの三時間と、夕方六時から夜九時までの三時間の二回に分かれていて、午後の空き時間はこうして出張訪問に出掛けることが多い。


 その上出張の依頼を出してくるほとんどは第三地区の商人たちで、内容も仕事の決断を委ねられることがほとんどだった。

 正直他人の商売の行く末に興味なんてないのだが、ツキヨミは、奔命に疲れながら毎度真摯に対応していた。


「ちょっと急がないと、夕方に間に合わないかもなあ」


 暁鼠あかつきねず色のラップケープコートに下げた勾玉型の懐中時計を見ながら、ツキヨミは歩調を早めた。

 夜の看板を上げる頃には、腐れ縁のアニマ・クロックワークが店にやってくる。


 と言っても彼女の場合は客ではなく、暇潰しという名目の冷やかしなので、遅れたからといって仕事に支障はない。けれども腐れ縁故に間がな隙がな話を振ってくることを思えば、煩わしさで頭が痛くなる。

 まあ、いなければいないで味気ないのだが。


 ──せめて余計なことを聞かれないよう、アニマが来るまでに店に帰り着こう。


 そう思えば思うほど、帰路の足取りは早くなった。

 第三地区から第四地区に渡ってすぐ、ツキヨミは舗装された道の脇、腰の高さまで生い茂った草木の中にざくざくと音を立てて入った。ちょうど逢魔おうまが時の、薄闇が空に滲み始めた頃だった。


 ほんの二分ほども歩けば、少しだけ開けた抜け道に出る。ツキヨミしか知らない、夜見鏡までの近道だ。


 ツキヨミは服のあちこちに引っ付いた葈耳オナモミをひとつずつ丁寧に剥がし、それをデコピンを打つようにして方々に飛ばしながら歩いた。ひとりでいる時は、子どもっぽいことをするのが好きだった。


 ふと、足元に視線が止まって、同時に足も止まった。小さな水溜まりの中に、が揺らめいているのが見えた。

 キン、と小さく耳鳴りがして、それから一瞬だけ視界がブレて収まっていく。


 それが異能の発現する前兆だと分かっているツキヨミは、慌てて辺りを見回した。

 がないかを確認して、改めてもう一度水溜まりに目を凝らす。


「何だろう、花びらかな?」


 赤くて丸い何かが、いくつも水面で揺らめいている。水玉模様のようにも見えるが、その大きさは大小様々で不揃いだった。


「……血?」


 そう呟いた瞬間、赤いそれらがふわっと溶けるように消え、今度はその向こうに小さく人影が見えた。


 しかと立つ者とひざまずくように座す者。

 立つ者は手に細い棒状の何かを握り、それを向かい合う座す者に突きつけている。

 小さな人影でさい穿うがつまでは分からないが、何かを説き伏せているような雰囲気にも見えた。


 ──誰だろう。男の人?


 眉根を寄せながらぐいっ、と水溜まりに顔を寄せると、そこで映像は途切れた。

 再び透明を取り戻した水溜まりに、難しそうな顔をしている自分の顔が映っていた。


「なんか物騒な感じだなあ。揉め事かなあ?」


 うーん、と首を捻ってみるが、捻ったところで何が分かるわけでもない。けれど面倒なものが見えたことだけははっきりと分かったので、その分のため息は大きい。


 コンコルディアに住んでいる以上、ある程度の巻き込まれは茶飯事さはんじなのだが、それでもなるべくかかずり合いたくはない。流血騒ぎなら尚更だ。


「血、なのかなあ……」


 困り顔でもう一度大きなため息をひとつ落とした。

 未来水晶で見える未来は、いつ起こる出来事なのかが分からない。分かっているのは、〝変えなければ必ず訪れる未来〟ということだけだ。


 しかし何故起こるのかが分からなければ、そもそも変えようも防ぎようもない。

 つまりは、考えても仕方がない。


 重い足を再び動かして一歩二歩と歩き出したところで、視界の先にもっと物騒なものが見えた。


「え……なん、で?」


 大きな広葉樹の木陰に誰かが倒れ、蹲っていた。

 ここは自分しか知らないはずの抜け道で、たまさか人が通りかかるような場所でもない。

 ツキヨミは疑問と不安が入り混じった焦りを抱え、慌てて木陰に駆け寄り、そして絶句した。


 身の丈2m近くはあるだろう大人の男が、顔から身体から血塗れの状態で死にかけていた。羽織っている分厚いインバネスらしき服も赤黒く染まっている。


「あ、あのう、大丈夫……じゃないですよね。僕の声、聞こえますかあ?」


 恐る恐る声をかけてみても、返答はない。

 がちゃがちゃと纏う装身具はドン・ジョージよろしく派手で悪趣味にも見えたが、その実どこか自分の格好とも似ているように見える。


「この人も占術師? でもなんで……」


 ひどい出血のせいで顔がよく見えない。しかし服装からしても見知った人物ではない。

 そもそも、どうしてこんなところで血塗れになっているのか。


 ──何か動物に襲われたとか?


 一瞬頭をよぎったが、それはないと直ぐに思い直した。

 この辺りで人を襲う獣といえば猪くらいで、あとは草食で臆病な動物しかいない。けれどたとえ猪と格闘したからといって、こんな血塗れになどそうそうならないだろう。

 獣に明るいわけではないが、顔の傷は見るからに切り裂かれた痕に見えた。猪に爪はない。


 ──どうしよう。


 話しかけても返答は得られない。かと言って自分には救う術もないし、何より自分の二回りは大きいであろう身体を運ぶ腕力はもっとない。


 ──どうしよう。


 助けの声を挙げたとて、こんな外れの抜け道では誰にも届かない。そもそもこの人はどこからやって来て、どうしてこの抜け道を知っているのか。


 ──どうしよう。


 ──どうしよう。


 ──どうしよう。


 何度も焦って考えた。同時に、嫌な予感もしていた。

 じっとりと赤黒く染まった身体は、僅かな起伏を繰り返すことで命脈めいみゃくを保っている。それが生命としての限界を迎えようとしているのは、もはや瞭然りょうぜんたる事実であった。


 何があったのかは分からない。どんな人かも、こんなにまで血塗れで助かるのかさえ分からない。けれどもし、今ここで自分が素通りしてしまえば、この人は間違いなく死んでしまうだろう。


 命瀕する危殆きたいに眉を曇らせ、ツキヨミは重たく息を呑んだ。


 ──でも、そうだとしても。


「ごめんなさい。僕には……」


 幾許かの考究の果て、ツキヨミは口をきつく結んだ悲しげな表情で立ち上がった。

 こぼれ落ちたままの視線は、未だ目の前の命に止まっている。


 頭の中では〝決して関わり合ってはいけない〟と、同じ言葉が何度も、何度もこだましていた。人に対してそんな感情を抱いたのは、初めてのことだった。


「本当に、ごめんなさい……」


 そして少年は、足早に立ち去った。



 その男は言った。

 これは答えに従った結果である、と。



 それは時代の潮目に邂逅かいこうし続けた成れの果て。ある者はその名に怯え、ある者はその名を疎み、またある者はその名に託した。


 吟遊詩人、ダニー・コルテウス。蔓延せし悪名は国憑きの大罪人。

 名にし負う在り方は遊侠、されど招かれざる詩人。



 今生の八苦を浴び続けた、世界の影である。



 第一章、了。

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