【十節】有為転変 ─uitenpen─


 瓦礫の撤去作業が始まってからの蜜の動きには、まるで無駄がなかった。


 着流しの裾を帯に差し込んでまくり、時折リュリュに指示を出しながら、散乱する木片を裏口から運び出す。

 そして用具入れから飛び出した道具を拾っては、「これはまだ直せば使えるだろう」「これは捨ててしまった方がよいか」と、あれこれ吟味までしていた。


 普段の蜜はどちらかと言えばゆったりとした雰囲気で、言動はもちろんのこと、動きのひとつにも落ち着きや余裕が溢れている。

 リュリュは吹き出す汗と深くなる呼吸に自分の運動不足を感じながら、機敏に動く蜜の姿に驚きを覚えてもいた。


 なんだか知らなかった一面が見れたような気がして、それだけでどこか嬉しい。手の掛かる姉も悪くはないが、頼りがいのある兄も良いなと、少しだけ牡丹が羨ましく思えた。


「だいぶ外も暗くなって来たな。リュリュ、燈會ランタンに火を頼んでもいいか?」


 額ににじんだ汗を拭い、蜜が言う。リュリュは慌てて厨房へ向かった。

 幸い厨房の方は大事なく、恐らく食材なども無事そうだなと横目でいくらか確認しながら、リュリュは棚からマッチを取り出した。


 カウンターに置いていた燈會ひとつと、奥のテーブル卓に置いていたひとつは、床に落ちて硝子ガラス部分が砕け散っていた。恐らくは修理することも難しいだろう。


 それから店中の燈會ひとつひとつに火を入れていった。

 店中がふわっと暖色のあかりに包まれて、リュリュは初めて蜜の頬や服が汚れにまみれていることに気づく。


「すいません蜜さん。きっと良い着物なのに……」


「汚れは洗えば落ちるさ。それに、リュリュが思うほど良いものでもないよ」


 蜜は「まあ、この街では着物自体が珍しいから、そういう意味では安物でも希少なのかもしれないがね」と付け加えて笑った。リュリュもどこかおかしく思えて、つられて少しだけ笑った。


 暖かい灯りは、見ているだけで心がほんのり和む。小さな灯火ともしびひとつで、肌寒さがほんの僅か紛れるような気がした。

 少なくとも、心は幾分暖かい。

 ややあって灯し忘れていた表口の燈會に火を入れた頃、思わぬ来客が見えた。


「こ、こんばんは……」


「やあ、フレアじゃないですか」


 宵の口に立つ少女──フレア・アリーシャ──はSoleilの店主であり、リュリュにとってはコンコルディアにおいて貴重な同じ歳の友人だ。


 山吹色のポンチョコートについた黄色いマリーゴールドのコサージュが、燈會にふらふらと照らされて儚げに見えた。

 そしてその表情までもが朧気に見えたところで、リュリュははたと気づく。


「何かありましたか?」


 フレアは一瞬驚いた顔をして、さらに表情を曇らせた。


「あの、牡丹ちゃんが帰って来ないから、様子を見に来たのだけど……」


 リュリュは少し申し訳なさそうに吐息の中で微笑み、「牡丹ちゃんなら、レディと一緒に蜜さんの自宅に──」と振り返って、体を硬直させた。

 真後ろに立つ蜜が、雪をも欺くほどに表情を白くさせている。


「そんなはずはない……」


 ガタン、と手に持っていたバケツが滑り落ち、目を丸くした言葉は力なくこぼれた。


「そんなはずはない!」


 今度は怒鳴りつけるように言って、蜜はリュリュを押し退け、鬼気迫る様相でフレアの元に駆け寄る。どう見ても、正気を保ててはいなかった。


「牡丹はレディーバードと共にSoleilに向かわせた! もう何時間も前に着いているはずだ!」


「い、痛い──」


 小さな肩を掴む指が食い込み、フレアは俯いて体を強ばらせた。

 しかし蜜は我を忘れてフレアを揺さぶり問い詰める。


「レディーバードも来ていないのか? それとも二人でどこかへ行ったのか? 君が牡丹を最後に見たのはいつなんだ?」


「み、蜜さん、落ち着いてください!」


 リュリュは密着していく二人の間に体を捩じ込み、筋張る蜜の腕を力いっぱい掴んだ。蜜の声色は焦点を外して、物の大事を明かせる様子ではなかった。


「蜜さん! フレアが怖がっていますから!」


 初めて蜜に対して声を荒らげた。蜜に対して怒声を上げることなど、初めてのことだった。

 フレアはあまり男性が得意ではない。ある程度は口を交わせる自分に対してですら、目を見て話すことは稀だ。こと男性に対しての人見知り度合いで言えば、自分の数段上を行っているだろう。


 つまりいくら顔見知りとは言え、刀を差す屈強な男に迫られ続ければ、それは萎縮程度では済まなくなる可能性を多分に秘めている。


「蜜、さん……手を離して!」


 そこまで言ったところで、蜜は落胆するように掴んでいた手を落とした。顔は依然蒼白としていて、額には冷ややかに汗が滲んでいた。


「怖がらせてすみません。蜜さんも僕も、状況が上手く飲み込めていないんです」


 呆然とする蜜を背に、リュリュは優しさ宿すようにフレアの肩を撫でた。フレアは俯いたまま胸を抱えるように拳を握り、小刻みに震えている。


 とても話を聞ける状態でないというのは思い半ばに過ぎる。それでもリュリュはわざとらしいほど穏やかに、語りかけるように委曲いきょくを尽くして説明した。

 途中、蜜が肝をって何度か口を挟もうとしたが、その度にリュリュは気まずそうにそれを制止した。


「牡丹ちゃんは、お昼ご飯を食べにSoleilを出てから、一度も帰って来ていません。心配になってエリザのところにも行ったんですけど、彼女のところにも行っていないみたいで。それにレディバード君にも、今日は一度もお会いしていません……」


 びくつきながら言うフレアの言葉に、リュリュは胸がざわついて仕方がなかった。居ても立っても居られない心配と不安が引いては押して、心に白波を立てていた。

 そして蜜がなのは、察するに余りある。


「蜜さん……」


 リュリュは振り返り、辿るようにして名前を呼んだ。

 蜜は地面を鋭く睨みつけ、肩で呼吸を繰り返している。冷静沈着な普段の姿からは大きくかけ離れていたが、それだけ牡丹を思う気持ちが強いのだと、リュリュは自分の姉に対する思いを重ねた。


「私の住んでいる鎹墓園かすがいぼえんへやって来てからSoleilに行くまで、寄り道をしなければ一時間と少しで着くだろう。行き慣れた道を迷うはずもなければ、道中寄る場所もないはずだ」


「二人は何かに巻き込まれたのでしょうか……」


「分からない。だが消えた男の行方も気に掛かる。私がここへ来た時、既に姿が無かったことを考えると、万万が一も有り得るかもしれない」


 蜜は苦しそうに口唇をきつく引き結んだ。


「やはりレディーバードなんぞに任せたことが間違いだった。私がSoleilまで送り届けるべきだった。そうしていれば……」


 リュリュは「それは違います」と険しい顔で言って、蜜の腕に手をかける。レディーバードの勇敢さは、第三地区の宝石と言ってもいいほどに気高い。だからこそ、牡丹を託した。


「レディほど頼りになる人間はいません。きっと大丈夫です。でももしかしたら、そんなレディでさえも手に余ることが起きたのだとしたら、蜜さんの助けを求めているのかもしれません」


 蜜は垂れた前髪を掻き乱し、ぐっ、と瞼を閉じて胸を潰していた。


「リュリュ、すまないが……」


「良いんです。店のことは僕だけでも何とか出来ますから、蜜さんは二人を探してください」


 リュリュの言葉に頷いて、蜜はフレアに深々と頭を下げた。フレアはまるで恐ろしいものでも見たかのように身を引き、息を呑んで硬直している。


「フレア、恥ずかしいところを見せてしまった」


「い、いえ。私は大丈夫ですから……」


「いいや、私の烏滸おこ沙汰さたを牡丹に見られでもしたら、きっとひと月は口を利いてもらえぬだろう。本当にすまなかった」


 蜜は顔を上げ、決まり悪げに無理をして笑う。額には冷や汗が滲んでいて、それを察したフレアも不安と動揺をめいっぱい溜め込みながら、微かに口角を上げた。


「店は閉めてきたのか?」


「いえ、留守の間に牡丹ちゃんが帰って来たらと思って、今はエリザに頼んで店番をしてもらっています」


 フレアの言葉に、リュリュと蜜は焦りながらも微かに胸を撫で下ろした。同じ第三地区で仕立屋を営んでいる裁縫師のエリザは、牡丹にとってはフレアと並んで姉のような存在だ。

 フレアもエリザも、コンコルディアの人間にしては珍しく内向的な性格だが、こと牡丹に関しては信頼を寄せるに十分だった。


「私は二人を探しに行く故、君とエリザはSoleilで待機していてほしい。もうこんな時間だが二人が行くかもしれない。不安を任せてしまうことになるが、頼めるだろうか?」


 フレアは落とした目線を一瞬だけ蜜に移し、ぎこちなく頷いた。

 ただ待つだけの焦燥感は簡単に耐えられるものではないが、それでもフレアまで巻き込むわけにはいかないという思いはリュリュも同じだ。


「では途中まで送ろう。リュリュ、後を任せる形になってしまい本当にすまない」


「僕のことは大丈夫ですが、例の男の人のことはどうしたらいいんでしょうか。放っておけば、ダリアが……」


 きっと、血気にはやって彼を斬り殺してしまう。

 仮に彼が本当に国憑きで、世に知られるような罪人なのだとしても、彼は誰を傷つけることもしなかった。経緯や結果はどうあれ、牡丹の涙にも嘘はなかった。

 コンコルディアへやって来た真意が分かるまでは、悪人だと決めつけるようなことはしたくない。


 たとえそれが甘い考えなのだとしても、それがリュリュの本心だった。


「確かに気に掛かるが、さっきも話した通り一日は猶予がある。事が済んだ折には、私も必ず戻るよ」


「分かりました。蜜さんを信じます」


 リュリュは肩に乗った蜜の手を強く握り、頭を下げた。

 二人にもしものことがあれば、という思いが湧き上がる度にそれを押し殺そうとしたが、そうすればするほど苦しくなるばかりだった。


「じゃあリュリュ君、また来るね」


 ポンチョコートを胸の下で抱き寄せ、どこか恥ずかし気にフレアが言った。リュリュは力のない笑顔で小さく頷いた。


 外から流れ込む夜風が頬を撫で、虫たちの鳴き声は幾分優しく聞こえるようになっていたが、心は逸ることを忘れられずにいる。

 つたない深呼吸で何とかそれを誤魔化した振りをして、リュリュは店を出る二人に手を振った。


「日が変わるまでには、何とか出来るかな……」


 店の中を振り返って、リュリュは独り言をこぼした。

 幸い蜜が手伝ってくれたおかげで瓦礫の山は姿を消したが、床に空いた穴と破られた扉二枚、それから所々崩れた壁くらいは何とかしなければまずいだろう。足の折れた椅子と、用具諸々の修理は後に回した方が良さそうだ。


 リュリュはそろばんを弾くようにしながら辺りを見回して、まずはテーブル卓の椅子を下ろした。それを向かい合わせに三組並べてタオルケットを敷く。


「まあ簡易的だけど、しばらく寝る分には良いかな」


 お粗末な即席ベッドに、リュリュは苦笑しながら頭を搔いた。店が片付くまで起こせないとは言え、いつまでもソワイエを外に寝かせておくわけにもいかない。

 取り分け雨上がりの夜は冷え込むし、またいつ降り出すかも分からない。


 床に散らばった破片を軽く箒で掃くと、リュリュは少しだけ息を潜めて店の外に出た。


 燈會の灯る店の中とは違い、夜のとばりが下りる外はずっと寒かった。まだ震えるほどではないものの、長時間無防備で過ごしていい温度でもない。

 遠く向こうの廃ビルにぽつぽつと灯る光を、リュリュは少しの間寂しい目で見つめ、それからソワイエの眠る冬楢の木に向かった。


「あれ……姉、さん?」


 ソワイエの姿が見えない。しかし押し倒れた雑草の跡はある。確実にそこにいた証だ。

 全身が総毛立った。肌の内で血管が痒くなるほどざわついて、歯が浮いてくるような違和感と共に胸が強い痛みを覚えた。


「姉さん! どこにいるんです姉さん!」


 大きな声を上げながら直ぐに辺りを見回し、ソワイエが寝ていた地面に手を置いた。まだ少し、温もりがあった。


 ──目が覚めたのか? ならどこに行った?


 ──Soleilか? それとも男を探しに?


 ──もしかして、誰かに連れ去られた?


 浮かぶばかりで消えない疑問符を抱え、リュリュは店の付近を走り回った。何度も大声で叫び、喉がちぎれるまで呼んだ。


 ついさっき牡丹のことで錯乱しかけていた蜜を止めたばかりだというのに、今では自分が全く同じ状況に陥っている。しかし都合の良さとは悪辣あくらつであり、頭の中には〝それどころではない〟という考えしか浮かばなかった。

 止めてくれる者も、もう誰もいなかった。


「姉さん、いるなら出てきてください! どこに行ったんですか姉さん!」


 何度も、何度も呼んだ。流れる汗も、息が上がって心臓が痛むことも厭わなかった。

 伸びた雑草を掻き分け、雨を吸った泥濘でいねいに足が取られる。もう近くにソワイエはいないと分かってはいても、それでも止まるわけにはいかなかった。

 ただ、姉の姿が目に映ることを祈った。


 けれどどれだけ走って声を枯らしても、ソワイエからの返事はない。目の前に広がるのは景色を塗り潰す暮夜ぼやの闇だけだった。


「置いていかないでくれ……」


 誰に届くことのない泣き言を言った。涙は枯れてもう流れることはなかったが、心ではずっと泣いていた。

 街を呑み込んでいる暗闇よりも、ずっとずっと冷たくて深い絶望に全身が包まれて、リュリュの体は芯から震えた。


 致命傷を負った男が消え、牡丹とレディーバードの行方も分からず、今度はソワイエまで消えてしまった。

 一日をかけて起こり続ける有り得ないことの連続に、心はもう限界を超えている。何故だかソワイエにはもう二度と会えないような気がして、気が狂いそうだった。


 それから店の明かりが遠く星のようになるところまで探し歩き、日付けが変わる頃になって、思案投げ首のうちに独り店へと帰った。

 体中が血と泥と汗で汚れ、動く度に嫌な臭いまでする。服は洗ってももう着れないだろう。


 身も心も店の修復作業を続けられる状態でなかった。けれど、必ず帰ると約束した蜜を待たなければならない。

 それだけがリュリュに残る唯一の希望だった。


 蜜さえ帰ってくれば、救いはまだあるような気がしている。まだ、何とかなると。


 だがいくら待って陽が昇っても、蜜がアナグマキッチンに戻ることはなかった。

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