【九節】教外別伝 ─kyougebetsuden─


 どういったわけか、コンコルディアには多くのつわものが定住している。


 かつ東国とうごくで一二を争う暗殺者として重宝されたと云う雪見蜜や、南国一のスナイピング技術を誇るとされるホルスト・クルス、西国で〝土曜日殺しのキスリングサタデーナイトキラーキス〟と呼ばれた賞金稼ぎ、ベルベット・ゴールド・キスリングなど、枚挙にいとまがない。


 そして北国ほっこくで〝抜刀剣鬼ばっとうけんき〟と恐れられた女傑がいる。

 極北英雄軍記にその名を記されながら、義賊としての道を歩む剣侠。それがダリアローズ・シマノスフカだった。


 黒いベレー帽から左目を覆い隠して垂れる、癖のついた琥珀色の髪。鈍い光沢を出す黒革のロングコートの上からは、中紅なかべに色のフードケープを羽織っている。


 腰には花塗り紫漆むらさきうるし兵仗太刀拵ひょうじょうたちこしらえ閂差かんぬきざし。蜜の二代鬼哭真打と並ぶ最上大業物の一振りであり、名を茫潾之守寂光ぼうれんのかみじゃっこう。通称を鉄線蓮真打てっせんれんしんうちと名を流し、持つ者によってその斬れ味が変わる妖刀である。


 年端こそ20代半ばと若いものの、纏う剣気は老練のそれにも負けない。普段は明るく活気的で、調子の良よさが売りでもあるのだがしかし、今の表情にはその片鱗さえ見えなかった。


「や、やあダリア」


 あからさまな気まずさを顔に浮かべ、リュリュが言った。と思えば思うほど顔は引きっていくが、隠す手立てもない。

 ダリアは冷ややかに蜜とリュリュを何度か見比べ、やがてじっ、とリュリュの顔を見つめる。


「飯食おうと思って来たんだが、どうした?」


「あ、ああ。これは返り血だから、怪我は無いんだ」


 そうか、と息が抜けるような無感情で言って、ダリアはリュリュから目線を外した。


「ま、怪我がねェのは何よりだ。だがどうして以て返り血なんか浴びているんだ」


「アナグマキッチンが暴漢に強襲されたのだ。幸いリュリュに怪我はなく、事態は事なきを得た。心配することはないさ」


 すっ、と諭すような口調で蜜が口を挟んだ。リュリュは少しだけ安堵しながら、こういう時の蜜は心底頼りになると、自分の狡さを思った。


 蜜はソワイエの方を指差して同じく無事であることを伝えたが、しかしダリアは納得がいかない様子で小さなため息をつく。


「……話はな、聞こえていたよ。国憑きが来たんだろう。何故隠すんだ?」


 口振りこそ冷静を保っている風だったが、そこには多分に怒りや失念が含まれている気がした。

 リュリュはダリアから外した視線を泳がせ、やがて伺うように蜜の顔を覗く。蜜は一瞬だけリュリュと目を合わせると、深く息を吸って微笑む。


「まだ話の途中だろう。何故隠したと思うのだ?」


「質問投げてんのはこっちだ。どうなんだよ」


 ダリアは吐き捨てるように言った。


「何も隠していたつもりなどないさ。今は恐らく、という範疇の話でしかない。実際に対峙してみなければ分からないが、現状その男が国憑きではないという判断材料が欠けていることもまた事実だ」


 蜜は悠々迫らざる態度で返した。誠実に説明をしているようで、要点はぼかした言い方だった。

 リュリュはその意図に直ぐ気づいたが、それはダリアも同じようで、


「話は聞いていた、って言ったよな?」


「無論だよ。だから早まる時ではないと言っている」


 蜜は、一歩も引き下がらなかった。

 国軍に従事していたダリアが国を離れた理由。以来義賊を名乗り、侠客として旅を続けている理由。

 それは国憑きの首を獲るという大望にあって、彼女を知る者たちにはことたない周知の事実だった。

 リュリュも蜜も、この場で国憑きだと断定してしまえば、その途端ダリアが暴走することを覚っていた。


 ましてや男の異能さえ謎を深めている最中だ。

 差し詰め男が国憑きであることは間違いない。だが、の理由のみで殺害を図るのは、あまりにも早計に過ぎるようにも思う。

 しかし猪のように直進することしか知らないダリアは、その歩みでじりじりと蜜に詰め寄った。


「つまり蜜、あんたの言い分は誰かが仔細しさい確認しろってことだろう? ならばその役目は私が負う。口を挟ませる気はない」


 言って、ダリアは刀に肘を掛けながら遠くを見据える。


「異能持ちってんなら、根城は第四地区だろうな」


「ダリア、君が行おうとしているのは偵察ではなく誅殺ちゅうさつだ。いくら手練であるとはいえ、どんな異能かも分からぬ相手の元に君一人を送れるものか。危険はおかすものではなく対処するものだよ」


 深く眉を寄せながら蜜が送る忠告を、ダリアは鼻で笑い飛ばした。


「どんな異能だろうと、それを駆使するのは所詮人間だ。そいつの才幹さいかんひとつでそよ風が嵐になれば、その逆だってあるだろうさ。肝心なのはどんな異能かじゃあねェ。そいつがその異能をどう使ったかだ。そうだろう?」


「リュリュ、君はどう思う?」


 ダリアの言い分に頷きながら、蜜は返す刀でリュリュに訊いた。促すような優しい口調だった。

 それまで黙していたリュリュは咳払いをひとつ、慌ててぐっ、と唾を飲む。


「さっきも蜜さんに話した通り、牡丹ちゃんとレディはたがが外れたように明るく調子づいて、姉さんは狂獣化して、僕は猜疑心に呑まれて最後は眠らされました。みんな状態はバラバラだったけど、〝情緒を良いように乱された〟〝感情に歯止めが効かなくなった〟という点では、一致していると思います」


 息を潜めるように真剣な口調で答えると、すかさずダリアが訝しそうに苦笑する。


「ってェことはつまりだ、その凡そ国憑きだろうって野郎の異能は、他人の情緒だの感情だのを好きに操る力だって言うのかよ?」


「確実にそうなのかは分からないけど、僕はそう感じたよ。でも、それだけじゃあないんだ」


 言いながら顔を落とし、リュリュはズボンをぎゅっと握り締めた。恐ろしい見当がついたことに、身震いしてしまったからだった。


「僕は彼じゃなく、蟋蟀こおろぎに眠らされたんです」


「蟋蟀?」


 訝しげに聞き返した蜜に、ぎこちく頷きを返す。


「姉さんの一撃を浴びる直前、彼は僕に土を渡してきて、その中にいた蟋蟀に眠らされたんです。多分彼の異能は楽器に宿す力ではなく、に宿す力なんだと思います。でも蟋蟀は眠ることなく鳴いていましたから、つまり、その……」


「その男は人の感情を操る上に、人自体に異能を宿すことも出来るかもしれない。だとすれば、他者を異能の仲介者にすることも可能、ということだろうか?」


「恐らく、ですけど……」


 リュリュの言葉に、蜜は絶句していた。それもそのはずで、コンコルディアには様々な異能者がいるものの、それはあくまで自分自身や他者へ行使する力のみであり、他者を異能の媒介そのものにするなど聞いたこともないからだった。


 押し黙って苦悶の表情に沈む二人を他所よそに、ダリアが苛立ちを隠せずに口を開く。


「その言葉通りってんなら、現状この街で最も厄介な異能だろう。無感情な草木でもねェ限り太刀打ち出来ねェってんだからな。だがよ、そんな異能を持っていながらこの惨状だ。まるで使いこなせてねェか、或いは名前だけの腑抜けってことだ」


 言葉ではそう言うものの、決して男を軽んじてはいないのだろう。ダリアは鼻筋に深い皺を寄せ、明後日の方を睨みつけていた。


「ダリア、この通りだ。此度こたびの件、一先ひとまず私に預からせてはもらえまいか」


 膝に手を置き、蜜は深々と頭を下げる。

 リュリュは思わず驚きに口を開けた。経緯や相手など関係ない。蜜ほどの兵が誰かに頭を垂れるという状況そのものが、事態の深刻さを物語っているのだと改めて思わされたからだった。

 しかしダリアは一瞬だけ横目で見た後、顔を背けた。


「何を眠てェこと言ってんだ。口は挟ませねェと言ったはずだぞ。一議にも及ばねェよ」


「私とて君の務めを軽んじているわけではない。むしろでの恩義もある故、不義理など起こしはしないと誓おう。私にはこの街を護らねばならぬ事情があるのだ」


「其方に事情があるってことは、此方にもあって道理だろうが。あんたに預けて、私に何の利点があるってんだ」


「だが──」と顔上げて食い下がる蜜を、ダリアは振り払うように冷たい目で睨んだ。


「おい、それより先を口にしてくれるなよ。思うだけなら良いさ。だが一言でも吐けば、私にはあんたを斬る理由さえ出来ちまうぞ」


「仮にそのような理由を君が得ても、私に君を斬る理由など生まれはしないさ」


 蜜は朗らかに微笑み返した。

 ダリアは何も言い返さず、苦虫を噛んで何かを躊躇するような顔で視線を泳がせる。

 いくらか続いた静閑せいかんの中で、三人は一頓挫をきたしながら沈思していた。


 リュリュは汗をかいた背中が冷えていくことよりもむしろ、ダリアの殺気と蜜の底知れぬ器量に挟まれている状況の方に寒気がしていた。

 お互い柄に手をかけてすらいないにも関わらず、刀は既に抜かれているような気がしてならなかった。


 その昔、東国の伝記本に〝勝ちは鞘の内にあり。極地に至る剣豪とは、抜かずして斬る術を持つ者である〟と読んだことがあるが、今の二人は正にそれに近いものがあるのではないだろうか。


 二人には互いの刃文はもんさえくっきりと見えていて、自分には見えていないところで鍔迫つばぜり合っているのかもしれない。

 そう思うとやはり、自分に入り込む余地など到底ありはしないのだろう、とリュリュは思った。


 ふと、泳いでいたダリアの視線が何かに止まった。途端にその顔がみるみると冷めた色に戻っていく。

 ダリアは数歩先に落ちていたペティナイフを拾い上げ、その目はべったりと血のついた刃先を見つめていた。


「……牡丹とレディーバードの小僧が店を出て、それからお前とソワイエ、そして国憑きらしき男の三人が残った。確かそう話していたな?」


 まるでそれまでの猛々しい口振りが嘘だったかのように、ダリアは穏やかに言った。

 一方のリュリュは心中穏やかとはいかず、自分の罪が暴かれてしまいそうな予感に、心臓が張り裂けそうだった。

 冷えた身体は再び熱を持ち始め、耳は聴覚が遠退いていくような感覚に呑まれ、口の中はざわざわと痺れていた。


「どうなんだリュリュ。答えろよ」


「そ、そうだけど……」


「ソワイエは男の異能で狂獣化した。そしてソワイエとお前は返り血を浴びてこそいるが、傷はひとつも負っていない。そうだな?」


 いくらか待っても答えがやって来ないことに痺れを切らし、ダリアは舌打ちをしてペティナイフをリュリュの足下に投げた。


手前てめぇ、これ何に使った?」


 リュリュは目を大きく見開いたまま顔を伏せ、血が出るほどの力で唇を噛んだ。

 身体が、芯から震え上がった。


「よさないかダリア」


「脅してやろうと思ったのか? それとも本当にってやろうとでも思ったのか? どちらにせよ、光り物は飾り付けで持つ物じゃあねェ。どうなんだ、答えろよ」


 あからさまに軽蔑している声色で言い捨て、ダリアは刀の柄に手を掛けた。

 親指を鍔に掛ける金属音が重たく聞こえた。生命を脅かす、冷たくて暗い音だった。


「何の真似だ。それこそ冗談でも笑えんぞ」


 蜜の声が低くなった。

 ダリアは臆することなく睨み返す。


「手前ェは黙ってな」


「それが君の、義侠しての矜恃きょうじなのか?」


「私にそういう類いのは効かねェよ」


「刀から、手を離すんだ」


 脅すわけでも叱るわけでもなく、蜜は腕組みをしたまま、嫌味なほどゆっくりと静かに言う。目線は下がり、ダリアの足元を見ているようだった。


 その異様とも言える蜜の落ち着き払い方に、リュリュは暗殺者としての一端を垣間見た気がして恐ろしくなった。


「ぼ、僕は、僕は……」


「甘ッたれてんじゃねェぞ莫迦野郎ッ!」


 怒号と共に柳眉りゅうびを逆立て、ダリアは思い切りリュリュの顔面を蹴り飛ばした。

 正に躊躇も情けも一切ない、渾身の一撃だったのだが、それを見た蜜はふっ、とため息に併せて肩を落とし、小さく眉を寄せる。


 リュリュは吹き飛んだ勢いそのままで地面に身体を叩きつけ、口の中に走る激痛に悶えた。

 鼻の奥と舌の上に生臭い鉄の臭いが広がる。噎せながらぼとぼとと吐き出して、その赤黒く染まる土に男の姿を思い出した。

 とてもじゃないが、慚愧ざんきに堪えない。


「う、うう、ああ……」


 泣き声とも呻き声ともつかない感情をこぼしながら、リュリュは地面に額を擦りつけた。何かを懇願するように、払い落とすように、何度も何度も。

 そうして自分の中に巣食う闇を、ただただ追い出したかった。


「蜜や私が、どうしてアナグマキッチンに通うか。手前ェに分かるか?」


 ダリアはうずくまるリュリュのえりを掴み、親猫が子猫を噛み上げるようにして引っ張り上げた。

 しかしリュリュは虚ろな目で呆然とするばかりで、何も答えない。


「聞いてんだ。何故だか手前ェに分かるか?」


 リュリュが小さくかぶりを振ると、ダリアは投げ捨てるようにして掴んだ手を離し、舌打ちを飛ばす。

 国憑きの存在を黙っていたことよりも、急追きゅうついの役目に水を差されたことよりも、自分の過ちに対してその怒りを隠せず露呈させた。

 その気持ちを適当な言葉ひとつで避けようとするのは卑怯にも思えて、何も言えなかった。


「刀ってのはな、手前ェの握るそれとは違う。どこまで行っても殺しの道具にしかならねェ。人を殺すために生まれた道具だから、それが真っ当な正しい使い方なんだ。だから刀を使って人を救うってのは、救わねェ誰かを斬り殺すってことなんだよ。人を殺さねェと人を守れねェんだ」


 言って、ダリアは屈みながら両手でリュリュの頬を掴み、ぐっと眉に迫った。鼻筋から頬に散らばるそばかすがはっきりと見えるほどに、ダリアの顔が近くなった。


「こういう汚れた手じゃあな、美味い飯なんてものは作れないんだ。私たちの仕事なんだよ」


「僕はただ、姉さんを護りたかった。でも、今はその方法が間違いだったって、本当に、そう思うよ」


 ダリアの手を涙で濡らしながら、リュリュは声を震わせた。振り絞った末に出て来た、やっとの言葉だった。


「リュリュの仕事は作ることだ。殺すことじゃあなく、生むことなんだ。それを忘れたら、その手はもう料理人の手じゃあなくなる。二度とそんな真似するんじゃねェ」


「約束するよ」


 リュリュは涙で締まった喉を咳払いで整えて、はっきり届くように言った。ダリアの顔が、ひどく寂しそうに見えたからだった。

 ひとつ間をおいて、ダリアは立ち上がってリュリュに背を向ける。


「でもな、私はまだ後悔してねェ。こういう道具を腰に差した時から、私の歩む道に一切の迷いはない。その悪名に怯える者たちを救うために、国憑きの首を必ず獲ると誓ったからだ」


「だが君も、殺さずに救える剣を探しているのだろう?」


 蜜が声色を穏やかなものに戻して言った。


「手前ェは知ってるってェのかよ」


「いいや。だから私も未だ腰に差している。その答えが見つかる時は、刀が要らなくなった時だ。君も同じなのではないか?」


 ダリアは何を答えることなく、しばらく遠くを見つめていた。

 何かを思い出したのか、その思い出に浸っているのか、肩で呼吸を繰り返しながら、時折瞬きを早めては薄く唇を噛んでいる。


 国憑きの首を獲るためという大義で今も刀を握っているのと同じように、刀を握るに至ったのにも大きな理由があるのだろうと、リュリュはダリアを慮った。

 いくら考えたところでわかることでもないのだが、聞いてしまうには気が咎めるという思いが湧くくらいには、きっと深い何かがあったのだと思う。


「私はまだ、この土地に来て日が浅い。リュリュやソワイエとそう変わりないくらいだ。土地勘も人望も、あんたの方がずっと達者だろう。なら、私より早く見つけることも出来るだろうな」


 ダリアは寂しさを引き摺ったままの横顔で蜜に言った。


「どうかな。私も人探しは本分ではないからな」


「知るかよ。出来ねェってんなら、それまでの話だろう」


 舌打ちをひとつ、ダリアは二人に背を向けた。

 別れの挨拶に声をかけるべきか否か、リュリュは少し考えた。だが、何と声を掛ければいいのか分からない。今の自分には、掛けていい言葉などないのかもしれないとさえ思った。


 するとしばらく離れた先でダリアが立ち止まり、肩だけを少し振り向かせて、


「リュリュ、国憑きの首を獲ったらライアを連れて顔を出す。それまでに店、元に戻しておけよ」


 とだけ言って、リュリュはただ一言だけ「待ってるよ」と返したが、ダリアは何も反応することなく朽ちた街路へと歩いていく。

 その姿が街の煤けた灰色に滲んで溶けていくまで、リュリュはじっと見つめ続けていた。


 蜜はしばらく静かに見守っていたが、やがてリュリュに歩み寄って怪我の程度を心配した。


「大丈夫ですよ。少し口の中が切れただけですから」


 リュリュは心配させまいと笑ってみせたが、傷が歯に当たって痛み、逆に顔を歪ませてしまう。


「無理をするな。あの勢いで蹴られて無事なものか。ダリアも加減を知らないな」


 蜜は腰を屈めると、懐から取り出した紗綾形やさがた柄の手拭いをリュリュの口元に当てた。


「すいません蜜さん。僕らいつも、面倒ばかりで……」


「私とて厄介事は御免蒙ごめんこうむりたいさ。だが面倒だと切り捨てるには、君たち姉弟は私にとってあまりにもしょうに当たるのだ。無論、ダリアもな」


「僕は、本当に情けないです」


 降り注ぐ優しさが返って疵に滲みて、感情はまた目頭に込み上がる。鼻の奥が針で突かれたようにツンと痛んで、それを痛がってしまうことにさえも情けなくなった。

 蜜は立ち上がってゆるく腕を組み、それから弟を思い遣る兄のような優しさでふっ、と微笑んだ。


「ダリアはきっと、君が自分のようになってしまう気がして怖くなったのだろうな」


「僕が、ダリアのようにですか?」


 なれるわけがないと思いながら言ったものの、返ってくる蜜の視線に冗談はなかった。


「さっき言っていただろう、生むことが君の仕事であると。言うなれば彼女は、そういった人間たちの姿や暮らしを護るために、ずっと独りで戦い続けてきた人間なのさ。そのために払った代償は想像を絶するものに違いない。だからこそ、敢えて君を拒むような真似をしたんだよ」


「……蜜さんも、そうなんですか?」


 不安になって訊き返すと、蜜は小さくかぶりを振る。


「私の場合は彼女とはまた違う。違うのだが、その思いにはいくらか察しがつく。これは刀を差す者の性なのかもしれないな」


 言って、蜜は重ねて優しく微笑んだ。

 返す言葉が見つからず黙っていると、蜜はふうっとため息をついてリュリュの肩に手を掛ける。


「人は誰しも過ちを犯してしまうものだ。ともすればそれが生きるということなのかもしれない。けれどリュリュ、君は正しい心を持っている。ならば君の過ちは、君の正しさで補えばいいんじゃないか? それは決して簡単なことではないが、誰かの傷を癒すことが出来るのは、自分の傷を識る者だけだ。私はそう考えるし、ダリアもきっとそう思っているはずさ」


 リュリュは堪えきれない涙をこぼしながら、繰り返し頷くことしか出来なかった。

 いつか自分も、誰かの傷を癒す助けになれる時が来るのだろうか。ソワイエや牡丹の顔が頭に浮かんで、それから恋しさのような感情がぐっ、と喉まで込み上がった。


 普段表立って見せることはないが、きっと蜜やレディーバードやダリアにも、心のどこかに抱えているものがあるはずだ。

 そういう大切な誰かの、何かになれたら嬉しいと心底思う。傷つけることで何かを護るのではなく、生むことで何かを護る。と言っても、その答えは未だ不明瞭で、分からないことの方が蓋然がいぜん的に多い。

 思えば料理を始めたきっかけも、同じような思いだった。


「立てるか? 立てるなら、先ずは店の瓦礫を片付けよう」


 蜜に腕を支えてもらいながら、リュリュは立ち上がる。久しぶりに立ったせいで少し立ち眩みがしたが、心は幾分軽くなっていた。


「でも蜜さん、彼を追わないとダリアが……」


「ああ、きっと今日……いや、明日一日くらいは大丈夫だろう」


「どうしてですか?」


「あくまで私の勘だがね。だが得てして義侠というのはそういうものさ」


「そういうもの、なんでしょうか……」


「心配は不要だ。それより今は、アナグマキッチンの方が大事だろう。私もリュリュの食事にありつけなくなるのは困るからね」


 蜜はほがらかに言って、リュリュの背中を軽く叩いた。

 気を入れ直す、というのは言葉ほど簡単ではないが、杖とも柱とも頼む存在がいてくれることは大きい。


「本当に、何から何までありがとうございます」


 感謝と自責の念が入り交じって、リュリュは深く頭を下げた。

 蜜は歩きながら、


「気にするな。ソワイエが目を覚ましたら、何もなかったと言ってやろう」


 と言って、リュリュの腕を引く。

 促されるような形でアナグマキッチンへと戻る途中、横目で見えたソワイエの幸せそうな寝顔に、リュリュは自分の護るべきものが何かを改めて思い直していた。

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